上村蒼 1
高校に入って二度目の夏が終わった。
白がすっかり消えたあの川には、草の緑と土の茶と、誰かが燃えた痕が残っている。
さっきの女の人が、花想病にかかるんじゃないか。不意に、そんな風に思った。最初に会ったときに怒鳴ってきたような勢いはもう無かった。何があったのか、想像ができないわけじゃないけど。
次の日、女の人は、いなくなっていた。当たり前のことかもしれないけど。また、いつも通りの日々が始まる。
「こんにちは、君もこの川の花が好きなの?」
いつだったか、鉢植えを持った女の人に話しかけられた。
「好きってわけじゃないよ。ただ、眺めてるだけ」
「そっか、あたしは好きだよ。だから、今日は散歩しに来たんだ」
その人は、そう言って嬉しそうに笑った。散歩でこんなところに来るのはやめた方がいいよ。この人に言っても、もう手遅れだ。
「へぇ。ねぇ、大切な人って、いる?」
「へへへ、いるよ。どうしたの?そういうのが気になる年頃?」
その人の笑った顔は、花想病の人とは思えないようなものだった。本当に違うのかもしれない、そう思ったくらいだ。
「いや、その人に不満とかあるのかなって思って」
「うーん…どうだろうね。それにしても、初対面なのに、君はなかなか大胆なことを言うね」
その人の仕草ひとつひとつに、幸せなのが見て取れた。幸せなはずなのに、この人は花を持っている。
「何かあったら、ちゃんと言った方がいいよ」
「アドバイス?ありがとね、帰ったらちょっと話してみようかな。君もがんばれ」
この人なら、まだ助かるのかもしれない。そう思えた。
「生意気言ってごめんね」
「お、素直なのはいいことだよ。敬語だったら、もっといいね。あ、そうだ。ねぇ、君はこの花に詳しい?」
白い花。ずっと見てきた花。だけど、俺はこの花を好きになれそうにない。
「ごめん、よく知らない」
よく知ってるよ。これは人殺しの花だ。自分と道連れに何人もの命を奪ってきた花だ。あふれ出そうな言葉を飲み込んだ。
「そっか、じゃあもうちょっと散歩するついでに花屋さんにでも寄って、聞いてみようかな」
この人にとっての花は大切な存在だ。俺にとってどんな存在だとしても、この人のために、けなせない。
「気をつけてね」
「ありがとね、君も元気でね」
このあとしばらくして、この人が死んだというニュースを見た。今でもあの時の笑顔を思い出して、たまに胸が苦しくなる。
「おはよー、蒼」
敦が話しかけてきた。
「おはよ」
あいさつを返して、席に着く。ホームルームが始まる五分前なのに、人がまだまばらだ。
「そーいや、六組の前原…だっけ?転校するらしいぞ」
「時期外れだな。転校するならもっと早いほうがいいのに」
また一人減った。ただ、これといって特別な感情が沸くわけでもない。
「今年の夏はこの町では四人だったっけか?四人くらいなら交通事故と変わらないくらいなんだけどなぁ」
敦は不思議そうに呟いた。
「何にも分かんねーから、みんな怖がってるんだろ」
そう言って少し、昔を思い出した。
「蒼、お前って、今日補習じゃねーの?」
放課後、玄関の方へ向かっていたら、敦に呼び止められた。
「サボり。つーか、いつものことじゃん」
「そっか。まぁ、俺もだけどさ。これからマンガ買いに行くけど、一緒に行くか?」
敦はのんきに笑いながら言った。
「遠慮しとく。もう少し待ってる価値があるかもしれないし」
「お前も物好きだな。あんまり花ばっか見てると一之瀬みたいになるぞ」
敦の言葉がいろんな記憶を呼び起こす。
「ハハ…ま、そういうことだから、じゃあな」
そう言って、急いでその場を立ち去った。自分では大丈夫なはずなのに、固く握り締めた拳が、なかなか緩まなかった。だから、今でもたまに思う。あの時したこととか、今してることって、本当に正しいのか、って。
『君は、俺と同じ境遇なんだね。だとしたら、君は、強いね』
いつかの男の人のセリフが蘇る。本当に、そうだろうか。ああやって、大切な人のために命を投げることができるなら、どんなに強いだろう。逃げてるだけだ。昔から、何も変わっていないじゃないか。
「…こんにちは。久しぶりだね」
声がした方を振り返ると、見覚えのある姿があった。
「サンプルに採るような花なんて、もう残ってませんよ」
「花想病はサンプルなんか採って分かる病気じゃ無かったよ。そんなことに、今頃になって気付いたんだ」
長谷川さんはそう言って、焼け跡に目を遣った。
「大切な人のために死ぬ、大切な人のために生きる。どちらが正しいのか、そんなことさえ、まだ分からない」
「俺は、死にたかったです…あのとき、死んでしまいたかったです」
フラッシュバックが頭の中で続く。罪悪感が体中を支配する。
「あそこで死んだ青年。僕の生徒だったんだ。花想病で大切な人を失った」
長谷川さんはゆっくりと呟いた。忘れないように、確認するみたいに。
「…知ってます。何度か、話しました」
昔の自分のような、追い詰められた姿が蘇ってくる。
「彼が死ぬ前、その時、君はここにいたのかな?」
「…そうですね。最期にその人と話したのは俺だと思います」
「…彼、なんて言ってた?」
目を閉じると、声まで鮮明に思い出した。
「『君は、俺と同じ境遇なんだね。だとしたら、君は、強いね』」
頭の中で彼が喋るのと同時に、自分の口も動いていた。
「強い、か。君は、どう思う?」
「自分が強いなんて、思ったこともない。その人の方が、よっぽど強いです」
「…僕も、大切な人を失ったんだ。花想病、だったよ」
長谷川さんは、少ししてから呟いた。
「僕は、間違った知識を偉そうに生徒に伝えた。第一人者なんて言われて、きっとすべてを知った気でいたんだね」
「ずいぶん、変わりましたね」
「僕もいつまでもガキじゃないよ。地位や名誉なんかより、ずっと大切なものがある。愛すべき、ものがある」
しばらくの沈黙が訪れた。
「今さら言えることなんて、すべて詭弁ですよ。大切な人さえ、救って遣れない愚か者ですから」
「その理論は、まだ絶対じゃないよ。でも、よく分かった。君の理論は、僕のものよりいつも、ずっと正しかった」
「褒められたいなんて、思ってませんよ。認められたいとも、思ってません。俺がただ、そう感じただけですし」
繰り返されるフラッシュバックで、時間感覚が薄れていく。
「僕は、君に憎まれているんじゃないかとずっと思っていた。いや、今でも思っている」
「…そんな理不尽なことしませんよ。救って遣れなかったのは、俺であって、長谷川さんじゃない」
そう言って自分の無力さを呪うように、拳を握り締めた。
「それに、今の長谷川さんなら、俺がどう思っていたか、よく分かるはずですし」
「…ハハ、相変わらず、残酷なことを言うんだね」
長谷川さんは力なく笑いながら言った。
「僕は、生きるとするよ。前向きに、考えてみたいんだ。救って遣れなかった人のために、誰かを救えるように、さ」
長谷川さんは、そう言って振り返った。
「君が死ぬことを選んだとしても、僕は止めないよ。君が、彼を止めなかったように。正しいことなんて、この世には無いんだからね。でも、最後に一つだけ言わせてほしい。君は、僕らの中で最も愛されていた。最初で最後の、希望だったよ」
「…らしくないセリフですね」
記憶の中で、あのできごとが鮮明に蘇る。