桜八枚、愛おしい左手。
「葉月…?」
夏祭りの夜に切なく響いた、梓先輩の甘い声が、
今でも鮮明に、耳元に残っている。
強く響いて離れない。
───10月。
「誕生日なんだよね。」
「え…?」
「再来週の金曜日。」
「…。」
梓先輩が私たち一年生の教室に、そして私の席に、机に半分腰掛けている。
クラス中の、いや廊下中からの視線が痛い。
突き抜けそうだ。
構わず先輩は続けるの。
「誕生日のお祝いしてよ。だめかな…?」
「…。」
"だめ"、なんて言葉は存在しえない。
だってそうでしょ…?
だって私は…
私は梓先輩のことを…
「…っ。」
自分のスカートの裾を見つめながら、静かにこくりと頷いた。
先輩はまるでこどものように微笑ったの。
まるでママに大好きなお菓子を買ってもらえる小さな男の子みたいに、とてもとても無邪気な笑顔。
「楽しみにしてるね。栞ちゃん♪」
ぽんぽんっ、と優しく前髪に触れて先輩は教室を後にした。
結依が駆け寄ってくる。
想像通り、想定内ど真ん中だ。
「栞~!なになになに~今の!」
「結依~!分かんないよ~!どうしよう…ねぇ結依、私どうしたらいいのかなぁ…っ。」
私は結依に泣きついた。
少しでも気を抜いたら何だかもう、涙が溢れ出してしまいそう。
────
「葉月…?」
先輩の切なく愛おしい声が、静かにそっと響く。
私は思わず先輩とつないだ右手を放してしまった。
きっと、最初で最後。
一生で一度のことだったのに、たった一瞬で終わりを告げた。
葉月さんがそっと近寄ってくる。
儚くて、今にも消えてしまいそう。
思わず手を伸ばして抱きしめてしまわないと、そんな衝動にかられる。
そう感じさせる人。
「…大丈夫?葉月?」
「…その子は梓のお友だち?」
やばい。
私のことだ。
どうしよう…!
先輩の恋愛の邪魔をしたくない。
そうだ、春山くんの友だちだって言おう。
そもそも今日は春山くんと一緒にお祭りを回ってたんだもの。
「あの…っ、私は春山くんと同じクラスの…」
……っ!
「あ、梓先輩…っ?」
さっき放したはずの右手が熱い。
先輩の左手とぴったり重なって、熱いよ。
「梓先輩…あの、えっと…」
先輩は優しく微笑んでみせた。
私にではなく、葉月さんに向かって。
「彼女だよ。今一番大切な人なんだ。」
「…そう。そっか。」
そうつぶやくと、葉月さんはお祭りを後にした。
先輩は、梓先輩はそんな葉月さんの後ろ姿を見つめていた。
いつまでもいつまでも、ずーっと。
だから私もとなりでいつまでも見つめていた。
葉月さんを見つめる愛おしい梓先輩の横顔を。
つないだ手に時々力が込められていたこと、今でもこの右手に残っている。
どくどくと、脈を打つ。
────
「やっぱりどう考えてもデートの誘いだよね?それ以外考えられないもん!」
屋上へ向かう階段に結依と2人逃げてきた。
もちろんあんなことがあった後で、私に教室での居場所はない。
「なんで私にデートの誘い…?意味が分からないよ!」
私は頭を抱えた。
「でも彼女だって言われたんでしょ?今一番大切な人なんだ、ってさ?」
「あれはただの、ただの葉月さんへの強がりだよ。ぜんぶ、ぜんぶ、先輩のすべては葉月さんのために存在してるんだよ。きっと。」
結依は抱えこむ私の腕を優しく下ろしながら問いかけた。
「先輩が言ったの?梓先輩が葉月さんしか見えないって言ったの?すべては葉月さんのために存在してるんだって…そう言ったの?」
言ってない。
だけど分かるの。
葉月さんのあの儚い雰囲気と、そんな葉月さんを見つめる梓先輩の表情、声、すべてが物語る。
「言わなくたって分かるんだもん…」
───
しばらくの間葉月さんの後ろ姿を見つめていた先輩は、そっと私に微笑んだ。
「どうする?もう少し回る?」
どくどく、どく…
私も静かに微笑んでみせた。
「少し歩きたいです。お祭りじゃなくてどこか…」
「いいよ。俺もそう思ってた。」
そう言うと私たちはお祭りを後にした。
"彼女だよ。今一番大切な人なんだ。"
さっきの言葉の意味は聞けなかった。
というよりも聞かなかった。
聞かない言葉の代わりに長い長~い間、二人の左手と右手は強く愛しく重なっていたんだ。