【16】 母、夫へ伝える
屋敷の者は誰もが寝静まり、森閑としている。
その静寂の中で、私は扉を二度叩く。
「……入れ」
中から低く、不愛想な声が返ってきたので、
「失礼します」
返答し、中に入る。
書斎机、壁には本がぎっしり詰まった本棚、椅子……と最低限の家具が置かれている書斎室。
書斎机に置かれた燭台が一つと、窓から照らされる月明かりだけが、この部屋を灯している。
「……用は何だ」
部屋の主は顔も上げず、書類を見たままだ。時折、羽ペンを走らす音だけが聞こえる。
その冷たい声、態度を見ればわかる……。
ものすごく不機嫌なのだ。こういった時、どうすればいいのかは決まっている。
特に決めたわけでもない。話し合ったこともない。互いに暮らしているうちにできた暗黙の了解。
この事は二人だけの秘密。誰も知らない二人の約束。
「貴方はお金目当てで、結婚したのですものね」
返事は無く、無言だが、書類を操る手が止まっている。心の中で、私の言葉を反すうし、頭と気持ちを整えようとしているのが、ありありと見える。
「……そうだ」
いくばくかの時間、沈黙していたが返答があった。だが彼はまだ顔を上げず、こちらを見ない。
燭台で灯されている角度が悪いのか、表情までは見えない。
「貴方は私のことなどどうでもよくて、父の財産が手に入ればよかった」
さきほどと同じように間をおいてから、
「その通りだ」
と主は答えた。しかし、さきほどと違うのは、ついに書類を完全に置き、顔も上げ、私をまっすぐ見据えている。時折、月明かりに照らされた長い金色の髪が、まるで輝いているようかのように私の眼に映る。
声色はまだ硬いが、不機嫌そうな角は取れている。
無表情なまま、綺麗な顔立ちで、部屋の主は吸い込まれるほどの青い瞳で私を見つめ続けている。
「だから私は条件を付けた。学園を卒業する2年後まで、気持ちが変わらず、他の令嬢になびかなければ結婚してもいい、と……」
「………………」
「『蒼き太陽』と呼ばれたトリスタン王子と、貴方は御令嬢の人気を二分する存在だったものね? 『氷の貴公子』様」
「……私は国のために金が欲しかった。君のお父上は、娘に貴族の……侯爵家の妻という地位を欲した。お互いの利益のため、私は約束を守った」
「だから私たちは――政略結婚だった」
今まで無表情だった部屋の主……旦那様が初めて表情を崩した。口元をかすかに緩め、愛おしいものを見つめるかのように私を視る。
「たとえ生まれ変わっても、また私と結婚してくれるのだろう?」
「ええ……貴方がまた財産目当てならね」
私たちは音を立てず、静かに笑いあう。
「すまない、リズ。家に仕事を持ち込むつもりはなかったのだが、今日は不快なことが、立て続けにあってね……」
捨てられそうになっている子犬のように、落ち込む旦那様の姿は庇護欲を掻き立てられる。
私は何も言わず微笑む。
(大丈夫。あなたはそう言うけれど、仕事のことで、ご機嫌ナナメなことはけっこうあるのよ? 知らぬわ本人ばかりなり……ね)
「こんな時間に、君が訪ねてきてくれるなんて珍しいね。どうしたんだい?」
「実は――」
王子との婚約、それらに付随する取り決め、お父様への報告、そして領地に戻ることなどを含めすべてを説明した。
顔の前で手を組んだまま黙って聞いていた旦那様は、すべてを聞き終わったあと、笑顔で明るくこう言った。
「よし、王家を滅ぼそう」
半分は予想通りで、残りの半分は予想を上回る過激っぷりだった。
(だから嫌だったのよね……。どんな方向にしろ、絶対過剰に反応すると思ったから)
「だ、旦那様……さすがに冗談でもそのような……」
「冗談……? ふふふ、何を言っているんだい、エリザベス」
目が部屋の明かりに慣れてきて、旦那様の顔が見えるようになってきた。
(あ、これは不味い。目が座っている)
「だいたい今日だってね、あのバカは私に政務をすべて投げてどこかへ行ったんだ。そうしたら次に、ネチネチとしつこいグロウスター公のお出ましだ。いつものようにやることなすことにケチをつけ、言いたい事を言って去っていったよ。そして帰ってきたら今度は君からのそれだ。冗談でこんな事を言っていられるわけがないっ!なぁに、お義父上と協力すれば造作もないことさ。ははは……、はっはっはっは」
旦那様は堰を切ったかのように一気にまくしたてる。
(どおりで機嫌が良くなかったはずだ……)
グロウスター公爵は旦那様の政敵で、何かにつけては横槍を入れたり、チクチクと槍の穂先で突くように嫌味を言ってきたりする。旦那様にとって、もっとも煙たい存在で、因縁の相手だろう。
そしてオブライエン商会にとっても無縁な存在ではない。何せ商売敵のライネス商会は、グロウスター公が旗振り役となって、貴族派を束ねて設立したのだから……。
(その様から、槍をまともに握ったこともないのに、槍の名手なんて呼ばれているのよね……)
「…………」
ここまで激昂しているときは何を言っても耳を貸さない。気が済むまで黙って話を聞こう。
「君は私に神の元へ行けと言うのか? フィリシアにも会えず、君とも会えない……これでは生きている意味などまるで無い。……生きる屍だよ」
どこか寂しそうな、それとも何かを悔いているのか……何とも言えない綯い交ざった眼差しでしばらくの間、黙っていたが、ため息を一つ吐くと、
「なぜ……なぜ今なんだ?」
言いたい事を言って頭が冷えたからなのか、やっと私の話を聞く気になったらしい。
「王子との婚約がなくとも、領地に戻るつもりだったの。このまま王都に居続けたら、フィリシアに影響が出るわ。フィリシアを、好奇の眼差しに晒すわけにはいきません」
「婚約のせいではないのか? やはり王家を……」
「違うわ、テオドール。どの道、貴族の誘いをこのまま断り続けていても、噂は広まるばかりで、収まらないわ。もう広まりきってるかもしれないわね……」
「……やめていった使用人達には口止め料を渡したが、こうなるならもっと確実な手を使うべきだった」
物騒なことを言ってはいるが、さすがの旦那様でも直接消すようなことはないはず。
かつての「氷の貴公子」も今や「冷血宰相」、「氷の宰相」などと揶揄されているが、仄暗い真似はしない。
目的のために手段は選ばないが、昔から人の足を引っ張ったり、蹴落としたりするような真似はしない人だ。
いつも一緒に(中身の)チェックをしている知人に今回の話を見せたら、
あまりにいつも雰囲気が違うせいか「ゴーストライターが書いてんの?」と言われたので、「そんな金かコネがあったらとっくに(物語が)完成してる」と答えておきました。
そんなんだったら週2~3日とは言わないけど、確実に週1で更新してますよ。




