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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

マナ

作者: まりも丼

この作品は現代を舞台にした小説ではありません。

現実の時間的には80年以上前のアメリカが舞台です。

しかし、現実の世界とは違い時代背景なども異なる別の世界線と思ってくださると助かります。

そのため、その時代には使われないであろう言葉遣いや、背景描写などの相違があってもそれはそれ、現実とは別と考えてくださいませ。

あくまで都合の良い流れの世界線、などと考えていただいた上でお読みいただくと幸いです。

よろしくお願いします。



 これは僕が見た不思議を超越した少女に関する手記だ。

 

 世界は二度の大きな戦争を経験し、数年が経過していた。

 戦後の爪痕はどの国でも深く、僕の住む米国でも福祉施設や教育機関がその存在を危ぶまれるほど政治と経済が逼迫していた。

 だが人々は二度の大戦を教育の足りなさから招いた愚行であるとして、いかに自分の子供や孫に良い教育を施すかを競い、有能な家庭教師を求める、教育革命と呼ばれる状況になっていた。

 そんな中、僕は一家庭教師として、斡旋を受けた家庭からまた解雇を言い渡されたところだった…。

 

 

「お前、またクビになったんだって?」

 家庭教師に関する斡旋業をしている友人レイトンに飲みに誘われて、僕は半ばヤケ酒のような状態で飲んでいた。

「しょうがないだろ。 あのガキ、自分で転んだのを僕のせいにして、結局全部僕が悪いで追い出されたんだ。 訳がわからないよ」

 酒を口にしながら、僕は愚痴る。

「ははははは、もう今年で五件目だぜ?」

 そう、僕は家庭教師をしてはいるが、ただの家庭教師という訳ではない。

「お前の持ってくる生徒がひどいだけだ。 問題児しかいないよ。 いや…」

 そこまで言って僕は考える。

「違うな…、子供の悪意は周囲の悪意による影響だ。 結局はお前の作戦通りになった訳か…」

 僕の言葉を聞いて、レイトンが含み笑いをする。

 彼の狙いは問題児、と言うより問題親を抱える子供をターゲットにしている。

 そう言った家庭は金持ちが多いものの、子供が学校に馴染めず、親が金に任せて家庭教師を雇うケースが多い。

 現状の世情であれば、学校のレベルも低いから尚更だ。

 レントンはそう言った親の元に現れ、その斡旋料をいただいた上で、僕達のようなフリーの教師を送る。

 そして、子供が問題を起こすことを見越した上で、問題が起きればすぐに教師を戻し、

 同じような状況で次々と教師を回すのだ。

 もちろん契約により、斡旋料は返すこともない。

 親もプライドだけは高く、いちいち金を返せとは言わないそうだ。

 そんな狙いは割とうまくいっているようで、彼は羽振りよく仕事を回しているようだ。

「ははは、だがアレン、心配するな次の仕事はもう用意してあるんだ」

 僕は嫌気が刺すような顔をしながらも、レントンに次の仕事の内容を促した。

「この子だ」

 レントンは言いながら写真を差し出す。

 今までに無い行動のため、僕は意表をつかれた。

「写真? 珍しいね…」

 僕は言いながら写真を受け取り、それを見る。

「へ?」

 僕は息を呑んだ。

 そこには美しいという言葉だけでは言い表せない、神秘的、神々しいみたいな、そんな言葉がいくらあっても足りない少女の姿があった。

「えっと…、これはとても問題児のようには見えないが…」

 僕がそこまで言うと、レントンが止める。

「ところがどっこい、この子は既に五人以上の教師が二日も持たず辞めてるんだぜ?」

 僕は素直に驚いた。

「しかも、その原因ってのがな…、わからないんだよ」

 レントンは少し声を顰めるようにして続ける。

「わからない? どう言うことなんだ?」

 僕は酒を飲む手を止めてレントンの表情を伺った。

「辞めたやつらはな、宇宙を見たとか…、自分の未来の死に方を見たとか、いきなりどっか別の場所にいたとか、とにかく常軌を逸したことばかり言うんだ」

 確かに訳がわからない。

 幻覚か?

 住んでいるところに蜃気楼のようなものを見せる環境があるのか?

 まさか、この子にそう言う力があると言うことなのか?

 そうすると少し恐怖感もあるが…。

「まぁ無理して受けることもない、ただ、受けてくれりゃ…」

 その後は無言で紙を渡してくる。

 それは小切手だった。

 見たことも無いような額面。

 それほどの相手と言う事がわかる。

 だが…。

「わかった、受けるよ」

「おぉ、やってくれるか!」

 レントンは素直に笑みを浮かべ、酒をあおった。

 僕も同じように酒を飲み干して続ける。

「だけどね、レントン、この金は僕がやり遂げることが出来れば受け取ろう」

 僕はそう言って、小切手をレントンに戻した。

 彼はすこし驚いたようだが、僕はこの少女という存在に興味が湧いたのだ。

「いつからやる?」

「明日にでも…」

 僕はそう言ってから、詳しい地図などを受け取り、その日は店を出た。

 

 

 片田舎なんて言葉はどこにでも当てはまりそうなものだ。

 だがココは田舎とか辺境とかじゃ済まされない印象がある。

 昨日はロスの酒場で景気良く飲んでいたが、仕事とは言えここは流石に密境、密郷と言ったところか…。

 途中で道は途切れていたし、僕は仕方なく車を止めて地図を確認しながら森を進む。

 鬱蒼とした森の中を進むが、歩くための道の処理だけしてあると言った印象だ。

 ただ虫だけはどうにもならない。

 僕はこれからの事を考えると、少し不安になりながらとにかく進んだ。

 やがて森が開けて、先に豪邸が見えてくる。

 なにが悲しくてこんなところに家を建てたのだろうか…。

 僕は不思議に思いながら家に近づいて行くと、見計らったかの様に背丈のやたら高い男性が姿を現した。

「お待ちしておりましたアレン・ベンクマン博士。 レントン・スタンツ様からお話は伺っております。 私、当シャンドア家の執事をしておりますベルト・スペングラーと申します。 よろしくお願いいたします」

 丁寧な口調で深々と頭を下げる男性に、僕は思わず萎縮してしまう。

「ど、どうも、博士なんて大層なものではありません。 えっと、このお宅の娘のマナさんの家庭教師として来ましたアレン・ベンクマンです」

 一応自分でも自己紹介をする。

「これはご丁寧に、ありがとうございますアレン様。 ではこちらへ…」

 ベルト氏の案内で、僕は屋敷に足を踏み入れると…。

「え…」

 僕は突然体が落下した。

 先に屋敷に入って行ったはずのベルト氏は、宙空に浮いているように見える。

 僕は何もない暗闇の中に、何も掴むところがない奈落の穴へと落とされた。

「う、うあ!?」

 僕は思わず悲鳴を上げたくなるが…。

「お気を確かに…」

 物凄い身体の落下感が、ベルト氏にその身を支えられて回復する。

「な、なん…」

 僕は言葉でない。

 腰が抜けてヘナヘナとその場にへたり込んでしまった。

「あぁ、本日はBパターンなのですね」

 Bパターン?

 なんのことかわからず、ベルト氏は僕の身体を抱えて運んでくれる。

 正直物凄く情けない格好だ。

 なんでこんなことになったのか訳がわからないが、レントンが言っていたすぐに派遣員が辞めてしまうことと関係があるのだろうか?

 そのまま僕は、応接室と書かれた部屋に通された。

 そこには、いかにも屋敷の主人と、その奥様と思われる方々がいた。

「ようこそいらっしゃいましたアレン・ベンクマン博士。 おやベルト、今日はBだったか?」

 全ての事情がわかっているかのように、主人と思われる男性が話す。

「はい、つい先日お辞めになったドルソン・ペック様や、その前の方も連続でBでしたので、今回はCあたりかと思ったのですが、どうやら違うようでしたね」

 Bとか、Cとか、いい加減よくわからないことを話すのを止めてほしいと思ったが、僕は混乱して中々口が開けない。

「大丈夫なの? この方、もうダメなのではなくて?」

 奥様と思しき女性が、僕を蔑んだ目で睨んでくる。

 いや、どうしろと言うのかと反論したくもなるが、僕はなんとか冷静になろうと心を落ち着かせる。

「え、えっと…」

 僕はベルト氏に手伝ってもらって席に着く。

 そこでなんとか口を開き、説明を求めようとしたところで…。

「あぁ、良いんですよ博士。 落ち着くまでどうか、そのままお聞きください」

 主人は穏やかに言いながら葉巻に火をつけた。

「あなた!」

「おっと…」

 奥様がそう叫ぶと同時に、葉巻が吹き飛ぶ…。

 僕はまた驚いてしまうが、先ほどの衝撃に比べればもう大したことではない。

「あぁ、すまない…。 つい癖でね…」

 言いながら主人も葉巻のケースを机に戻し、深呼吸している。

「えっと、ベンクマン博士。 私、この屋敷の主人グレン・ビンツ・シャンドアと申します。 家内はアナ、アナ・ズール・シャンドア。 この度は遠路はるばるお越しいただきありがとうございます」

 丁寧な自己紹介ではあるが、それ以上に主人のグレン氏のやつれた顔が気になってしまう。

「えっと、レントン・スタンツの紹介で来ましたアレン・ベンクマンです。 よろしくお願いします。 その…」

 僕は早速聞きたかった。

 先ほどのこと、娘さんのこと、そしてそれと辞めて行った先達のことなどを…。

「はい、わかっておりますよ。 えっと、まずはですね、Bと言うのは、この屋敷に起こっている異変現象のことでありまして、所々部屋を移動しますと、突然歩いていた所の床や空間が消失して落下することを言っております」

 主人は軽くそう言った。

 さしも普通にあることと言うような感じだ。

「私、アレ嫌いなのよね…。 本当いい加減にしてほしいわ…」

 奥様は本当に嫌気が差しているような表情で言う。

「え、えっと、日常茶飯事のように起きていることなのですか?」

 僕は素直に聞く。

「あー、いえいえ、そんなに頻繁に起こることではないんですよ。 お客様が来るとよくある、と言うところですかねぇ…。 それで驚いて大抵のお客様は逃げ帰ってしまうんですが、腰を抜かすとか、動けなくなってしまう方の方が多いですかね…」

 はぁ、と僕はため息をつくしかない。

「それで、その、Bとかってのは…?」

「えぇ、屋敷に起こる異変現象のパターンのことですね。 Aは屋敷から追い出されます。 文字通り、放り出されるんです。 一度そうなると、そのお客様はもう入ることは出来ません」

 それを聞いて安心してしまう僕がいる。

 そして主人はそのまま話を続ける。

「Bは先ほども言いましたが落下です。 どこまでも落ちて、誰かに助けてもらわないと落ち続けるようですね」

 と言うことは、ベルト氏に助けてもらえなければ、僕はそのままずっと落ち続けていたと言うことか…?

 僕は背筋がゾッとして脂汗が出るのを感じる。

「そして…」

 主人はわざと勿体ぶるようにして続ける。

「Cは…」

 僕は固唾を飲んで言葉を待つ。

「わからないのです…」

 僕は思わずずっこけそうになる。

「アレン様、パターンCはお客様によって違うのです。 分類上AかBでないお客様はCとさせていただいておりまして…」

 ベルト氏が申し訳なさそうに説明してくれるが、正直意味がわからないので僕もなんとも言えない。

「そうですねぇ、宇宙空間に放り出された。 老年期の自分を見た。 金銀財宝に埋もれる自分を見た。 とか、いろいろありましたね」

 なんかもう主人はアトラクションを楽しむような口ぶりだ。

 奥様の方は、そんな旦那様に対しても嫌気が差しているようだ。

「そ、それで、なぜこのようなことに?」

 問題はそこなのだ。

 先達が辞めたり、逃げたりってのはもう考えなくてもわかる。

「娘の、そう、娘が生まれてからなのです」

 娘、マナさんのことか…。

「娘のマナが生まれて、少しした頃からでしょうか、屋敷で不可解なことが起こり始めました。 先ほどのような奈落に落ちる者、屋敷から放り出される者、それはそれは様々な事が起きました。 生憎と言うか、私と妻、そして何故かこのベルトには何も起きていないのです」

 主人はなぜか悔しそうな表情を浮かべる。

 もしかして、自分も何か不思議な体験をして見たいとか、そう言う口なんだろうか?

「まだ話は終わりではありません。 誰しも自分の娘の顔を見たいではありませんか」

 そうは言っても僕はまだ娘どころか子供もいないし、お付き合いをしていた彼女とは疎遠になっている。

 そんな僕の心境など気にもせずに主人は続ける。

「マナに近づくと皆狂ってしまうのです。 特に男性の場合は、私を含めほとんど、ベルト以外はほとんどです」

 僕は何か聞き間違えたのか、主人が何か言葉を間違えたのか、とにかく僕は素直に驚いてしまう。

「え、えっと、それでは今までやってきた家庭教師の人たちは、娘さんとは面会もしていないんですか?」

 僕は率直に質問する。

「そうなんですよ。 皆さん最初の時点で逃げるように去っていきました。 いや、一人だけ娘と面会だけはしましたね」

「その方はどうなったのですか?」

 僕は身を乗り出して聞く。

「それは私の方から…」

 主人に代わるようにベルト氏が話を続ける。

「ビル・タリー氏をご存じでしょうか?」

「タリー?」

 ビル・タリーと言えば、レントンが抱えるフリーの教師の一人だ。

 僕は彼の弱々しい体躯に違わぬ、気弱そうな顔を思い出す。

 僕は頷き、知っていると意思表示をした。

「ビル氏はなんとかお嬢様に近づこうとしましたが、お部屋に入ってしばらくすると突然白目を剥いて倒れたのです」

 なんとなく情景が浮かぶ気もする。

「私はすぐにビル氏を介抱しつつお部屋を離れました。 なんとか一命は取り留めましたが、その後は病院に向かわれたそうで、こちらには戻ることはありませんでした」

 思った以上のとんでもない案件で、僕に務まるのかわからなくなってくる。

 そもそも家庭教師を頼まれて、生徒に近づくことも出来ないのではどうしようもない。

 レントンが表示した、普通では考えられないような多額の依頼料の意味がわかった気がする。

 あれはここに来て、逃げ帰るだけでも良いと言うことなのだろう。

 人を寄越したと言う事実、そしてそれに口止め料も入っていると僕は察する。

 だが、僕にもプライドはある。

 ここで逃げることは僕にはできない。

「いかがなさいますか? ここまで来ていただいて感謝はしておりますが、お嬢様と面会をしていただけるかはアレン様の意思を尊重させていただきます」

 ベルト氏はかしこまったような顔で言う。

 主人の方は苦笑いで僕の反応を待ち、奥様の方はまるで関心が無さそうにそっぽを向いて煙草をふかしている。

 これではまるで、死地へ向かう兵士に対する選択肢のようだ。

 だが僕は迷わず言った。

「マナさんに会わせてください」

 

 

 屋敷の二階に上がり、奥へと向かっていく。

 広い屋敷が、僕の緊張感をさらに助長するような気になる。

「だれ?」

 はっと、僕は女の子の声が聞こえた気がして周囲を見回した。

 しかし姿は見えない。

「あ、あの、ベルトさん?」

 僕が尋ねるとベルト氏がすっと振り向く。

「いかがなさいましたか?」

「今、女の子の声が聞こえた気がするんですが、マナさん以外にもこちらにはお嬢様がいらっしゃるんですか?」

 僕のその言葉に、ベルト氏は少し驚いた様子だが、すぐに冷静さを取り戻す。

「いえ、このお屋敷にはマナお嬢様以外おらっしゃいませんよ」

 何か含みのある言い方だが、これ以上詮索も出来なさそうだ。

 僕は気を取り直し、ベルト氏の後に続く。

 屋敷二階の奥の奥、そこにマナさんの部屋があった。

「こちらでございます」

 ピンク色の扉、いかにも女の子が好きそうな色合いの塗装がされたドアだ。

 ベルト氏は音も立てず、ゆっくりとドアを開く。

「失礼します」

 僕は一言そう言って、部屋に入ろうとすると…。

「アレン様、本当に宜しいのですね?」

 意味深長に言うベルト氏の言葉に、僕は深く頷いた。

 そして僕は部屋に足を踏み入れる。

 正直、また奈落にでも落ちるのではないかと覚悟していた。

 だが、特に妙なこともなく、僕は普通に部屋に入った。

「るるー、るるー」

 可愛い女の子の声が聞こえる。

 僕はそれが先ほど聞こえてきた声と同じであることにすぐに気づいた。

「やぁ、君がマナさんだね?」

 僕は窓の外を眺めながら、小さく歌う少女に話しかけた。

 今まで、女の子に話しかけるためにここまで緊張するのは初めてだ。

「るるるー」

 だがマナさんはこちらを振り向きもしない。

 聞こえているのかもわからないが、僕は近づくことにした。

 そうだ、僕はあくまで家庭教師なのだ。

 生徒を理解しなくてはならない。

「マナさん?」

 僕はとうとうマナさんの目の前までやってくる。

 すると…。

「うわ!?」

 僕は思わず声を上げてしまった。

 そこにいた少女は、瞳が赤く光り、口の中の歯はまるで獣のように尖っていた。

「おっと、これはいけませんね」

 ベルト氏がそんな事を呟いた瞬間には、僕の首元に少女の牙が食い込んでいた。

「え? え…?」

 脳天に響く苛烈な痛み、部屋を染め上げる真っ赤な血飛沫が僕の首が噴き出してくる。

 少女はそれでもなお、僕の首に牙を突き立てたまま離さない。

「あ…、ああ…」

 僕は自分の死と向き合う感覚に、声も出ず、何も考えられず、しかしある一つの行動に身体はなんとか動き出していた。

「ほぅ、これは…」

 ベルト氏の感心するような声が聞こえる。

 今の僕にはもうそれしか出来なかったらだが、あまりに強烈な衝撃に僕はすぐに気を失ってしまった。

 マナさんの身体を、優しく、抱きしめたまま…。

 

 

「はっ!?」

 気づけば僕は屋敷の客間のベッドで寝かされていたようだ。

 すぐに首元を確認すると、そこには噛み跡も傷もなく、当然のように痛みも無かった。

 だが、記憶の中には鮮烈な痛みや、首から血が噴き出す感覚がハッキリと残っている。

 今すぐにでも、此処から逃げ出したい衝動に駆られるも、僕はなんとか冷静になろうと思考を巡らす。

「これは幻覚か、妄想か?」

 様々な憶測を巡らせていく。

 だが答えが出るはずも無く、僕はひたすら考えを紙に書き出していく。

「アレン様?」

 ベルト氏が僕の手を止めて、気を取り直してくれる。

「あ、すいません。 どうも、思考がパンクしそうになると、思った全ての言葉を書き記すクセがあるもので…」

 気づけば手持ちの紙を使い尽くす寸前だった。

 また買い足さなければと思いつつ、身支度を整える。

 そんな様子に…。

「アレン様、お気分はよろしいのですか?」

 ベルト氏が心配そうに尋ねてくる。

「えぇ、大丈夫ですよ」

 僕はケロッとして答える。

 実際既に恐怖感は無い。

 手持ちの紙にあらゆる思案を書き殴ることで、僕はストレスや、あらゆる感情をリセットする事ができるらしい。

 いつからかわからないが、両親が他界し、施設に預けられ、イジメを受けたり、レントンとの関係に悩んだり、とうとうとなった時に、これを思いついた、と言うよりしていたのだ。

「あの、またマナさんと会うことはできますか?」

 僕はベルト氏に尋ねる。

「もちろんでございます。 アレン様がよろしければですが…」

 言いにくそうにベルト氏は答えるが、僕の心は決まっていた。

 僕はそれから幾度か、懲りずにマナさんの元へ行って会話が出来るか試してみる。

「ぐ、ううう…」

 またもマナさん瞳は赤く煌々と光り、こちらを警戒するように睨んでくる。

 何度やっても、とても会話出来そうに無い。

 そこで僕は何か別の要因があるのでは無いかと一度退散を決めた。

「ベルトさん、申し訳無いのですが、紙を買い足したいので一度帰らせてもらって宜しいでしょうか?」

 僕がそう言うと、ベルト氏は快く了承してくれた。

 また必ず訪れると約束すると、僕は一度屋敷を離れることにした。

 紙を買い足すのは本当だが、いくつか会いたい人物がいるからだ。

 僕はその足で大量の紙を買い込むと、そのまま目的地に向かった。

 

 

「か、帰ってください…」

 ビル・タリーは僕を門より先にも入れたく無い、そんな雰囲気を遠慮なく出しながら叫ぶように言った。

「ビル、お前仕事もせんと金は大丈夫なのか?」

 レントンがそう言うと、ビルは恐る恐る戸を開く。

 念のためレントンが道案内がてら付いてきてくれることになり、僕は大いに助かった。

 すぐに戸の開いた隙間に足を突っ込んで閉められないようにしてしまう。

「うわぁぁ!」

 ビルは驚いて大声を上げてしまう。

「おいおい、別に取って食おうってんじゃ無いんだぜ?」

 無理矢理に、身体を押し込むようにレントンはビルの部屋に入っていく。

 その強引さは僕には真似出来そうにない。

「な、なんだって言うんですか? ししし、シャンドア家にはもう行きませんよ!!」

 それを聞いて、ビルが恐怖している理由がわかった。

「いや、そんな事はもう言わないさ。 ただ協力して欲しいだけなんだ」

 レントンが説得するように言う。

「協力? な、何をですか?」

 そこまで聞いて、僕が前に出る。

「ビル、君があのマナさんの目の前に立った唯一の教師なんだ。 マナさんに近づいた時に、君は何を見た?」

 僕の質問に、ビルは心底思い出したく無さそうに身をかがめて机の下に逃げ込んだ。

 それはあまりにも物凄い光景であり、人間が見せる最大級の恐慌状態にも見えた。

「ビル!? 教えてくれ、次にやる簡単な仕事の報酬を倍にしてやってもいいんだぞ?」

 どうやらレントンは今日ここに訪れるために、ビルに新しい仕事の斡旋と、その報酬の前払いをするつもりでいたらしい。

 ビルに会いたい事を告げると、そのついでという事もあり、レントンは喜んで協力してくれた、

「そ、そんな事言われても…」

 ビルはガタガタと身体を震わせながら、決して机下から出る気は無いようだ。

「ビル、辛いのはわかる。 僕も彼女に接触したから少しはわかるつもりだ。 ただ君が何を見たのか教えて欲しいんだ」

 そこまで言って、ビルの身体から多少震えが収まるのがわかった。

「こ、ここ、この世の終わりを見たんだ。 大きなバッタが空からやってきた…。 大きなバッタは沢山の小さなバッタを、それこそ人間よりも大きいやつだが、そんなやつらが建物も車も人間も、どんなもんでも食い尽くしていくんだ…。 少しは抵抗してるやつらもいたかもしれない。 けど、ダメなんだ。 何をしても食われちまうんだ。 うあああああああああ!!!」

 頭を抱えながら叫ぶビル。

「レントン、医者だ」

「あ、あぁ…」

 レントンが医者を呼びに行っている間に、僕はビルの肩を掴んで聞く。

「ビル、彼女は、マナさんはその時に何か言っていなかったか?」

 僕の質問に、ビルはなんとか勇気を振り絞るように言葉を綴った。

「彼女は、泣いていたように見えた…」

 

 

 僕とレントンはビルを医者に預けると、その足で続け様、マナさんの家庭教師を受けた人達に会いに行った。

 ベルト氏の協力で、パターンがCだった者に特に注目していった。

 宇宙を見た者、未来の自分が見えた者、ビルのようにマナさんの目の前にまで行った者はいないため、それ以上の具体的な内容は特に無かった。

 僕はレントンといつもの酒場に行くと、その日の事を話し合う。

 「何かわかることはあったのか?」

 レントンは強い酒を飲み、タバコをガバっと豪快に吸う。

 僕はそのレントンの質問には答えず、ただひたすら今日見てきたことを記帳したノートを読み込んでいた。

 何かの法則か?

 それとも…。

 そこで僕は大事な事を思い出す。

「レントン、頼んでいた物を用意してくれたか?」

 僕は事前に言っていた物の有無を聞いた。

「あぁ、本当はダメなんだぜ?」

 そんな事を言いながら、僕に幾つかの書類を渡してくれる。

 これは全て、担当教師の履歴や経歴書だ。

 今回、マナさんの担当になった教師のデータが記されている。

 その情報は多岐に渡り、教師になる前の情報や、思想、本人すら気づいていないような情報などまで掲載されている。

 これはレントンが用心深い性格であり、教師を雇う際には必ず調査している物でもある。

 僕はその一つ一つを念入りに読み込んでいく。

 そこで…。

「そういや、ビルは昔大きな虫に襲われた事があるとか言ってたな。 それにお前も孤児院時代にでかい狼に襲われたとか言ってなかったか?」

 それを聞いて、僕はハッとなった。

 ビルの書類には虫が嫌い、特に高く飛ぶ物などと詳細に書かれている。

 そして僕の書類には、目が赤く光る大きな狼に襲われたというような事が書いてある。

 宇宙を見た者は子供の頃の夢が宇宙飛行士だったとか、未来の自分を見た者は、子供の頃死に別れた父親が自分にそっくりだったとか、そんな事が細かく記されている。

「そうか、なんとなくわかってきたぞ…」

 僕のその言葉を聞いて、レントンは満足そうにしている。

「役に立てたか?」

 僕はレントンの言葉に大きく頷く。

「ありがとう。 君がいなければ謎の一部が解けそうに無かったよ」

 僕は礼を言って、翌朝すぐにシャンドア家に戻った。

 ベルト氏はわかっていたかのように、屋敷の門の前で待っていた。

「おかえりなさいませ、アレン様」

「あぁ、ただいま戻りました。 マナさんを伺っても宜しいでしょうか?」

「もちろんでございます。 お嬢様は何か察したのか、今日は早くに起きてお待ちしているようです」

 僕は意気揚々と門をくぐり、玄関へと入る。

 そこでは、今回は何も起きなかった。

 ベルト氏は何か驚いた顔を見せ、そして同時に微笑んでくれる。

 僕は急がず、ゆっくりと階段を登り、マナさんの部屋でノックをした。

「マナさん、入りますね…」

 相変わらず返事は無い。

 そしてこれまた相変わらず窓辺で歌を口ずさむマナさんの姿をとらえる。

「こんにちは…」

 僕はゆっくりとマナさんの正面に立った。

 そこにいたのは、年相応とは思えないほどの美しさ、だが年相応にも見えるあどけなさ、そして輝くほど綺麗なブロンドの髪と、パープルの美しい瞳を持つ美少女がそこにいた。

 

 

「おお、私の見立ての通りだ。 ベンクマン博士ならやってくれると思ってましたよ」

 調子の良いことを言いながら、グレン氏はタバコを燻らせる。

 以前と違ってタバコが吹き飛ぶことも無いようだ。

 ベルト氏によれば、タバコが吹き飛ぶようになったのは、まだ幼いマナさんの目の前でタバコを吸おうとしたかららしい。

 そして今日は奥様の姿が見えない。

 どこかに出掛けるのはしょっちゅうだそうだが、朝早くから出掛けるのは珍しいそうだ。

 僕はマナさんとの、これからの教育方針を話し合い、それを両親に報告しようと思っていたのだが、この際グレン氏にのみ話を通しておけば良いだろうと判断する。

 あまり人の家庭に対して文句は言わない方だし、言ったら言ったで碌なことにならない事は経験上よく知っている。

 第一、マナさんのような特殊なケースの子供は初めてだ。

 あまり本人以外の要因で失敗するような、波風を立てたくは無い。

 とりあえず、教育方針に関しては語学を中心に始め、次第に色々な事を教えていくことでグレン氏は特に文句は無さそうだ。

 だが懸念点はある。

 マナさん本人のことでは無い。

 あの奥様の方だ。

 何を考えているかわからない。

 自分から言わなくても、波風を立てるような事をしなくても、あのようなタイプは自分から平気で問題を起こしかねない。

 少し警戒をしつつ、あらゆる状況に対して対応できるように、レントンにも相談をする必要がありそうだ。

 そうして僕は、グレン氏に必要な情報を共有した後、その日は屋敷を後にした。

 住み込みで出来れば一番良いのだろうが、やはりあの奥様がそれを許さないそうだ。

 僕はベルト氏の計らいで、近場のモーテルの一室を貸切にしてもらうことで合意した。

 手狭だが特に問題は無い。

 落ち着いた後、僕は軽い食事をしながら教育方針の確認をしていると…。

「いいから準備をしなさい!」

 聞き覚えのある声が外からする。

 小さなモーテルだし、外からの音など筒抜けだ。

 僕はカーテンを少しだけ捲って外を確認すると、そこには…。

「いや、奥さん。 そうそう準備しろっていきなり言われてもねぇ…」

 そこにいたのは、奥様ことアナ・ズール・シャンドアだ。

 そして…。

「あれは…、ペックか?」

 同僚のドルソン・ペックがそこにいた。

「そもそも、あんたがあのバケモノを手懐けられれば問題無かった話でしょう?」

「バケモノって、おいおい、どこで誰が聞いてるのかわからんのですぜ? まぁいいや、とにかくもう二週間待ってください。 俺が準備する間に、あんたは愛想笑いの練習でもするんですな」

「失礼ね! いいから早くしてよね!」

 それだけ言うと、奥様は自分の車に乗って、おそらく屋敷へと戻っていった。

 ドルソンはブツブツと文句を言いながら、辺りを見渡している。

 公衆電話でも探しているのだろうか?

「クソ、辺鄙なところだぜ…。 金儲けの話でも無ければ来たくもねぇ…」

 そんな事を言いながら、何処かと去ってしまった。

 僕は問い詰めるか迷ったが、一度レントンと連絡を取ることにするのだった。

 

 

「はい、良いですね…。 もうこの辺の範囲は完璧ですね」

 僕は教本と、マナさんの解答を確認しながら褒める。

 と言うより、もう語学で教えることは無くなってきていた。

 マナさんは教えた事をまるでスポンジが水を吸うが如く容易く覚えていった。

 現状、教育革命とも呼ばれているこの時代では、とにかく学びがモノを言う。

 年齢別に幼位学、低位学、中位学、高位学と上がっていく。

 僕の担当位学は主に幼位学と低位学だが、マナさんに必要な教本は既に高位学へ到ろうとしていた。

 他の教科に関しても同様で、彼女はどんどんと色々な事を覚え、次々と課題をクリアしていく。

 レントンに高位の教材を頼もうかと考えていたその時、マナさんが口を開いた。

「先生、私、そろそろ自分のこの力?について向き合いたいのです。 先生にご協力していただいてよろしいでしょうか?」

 無垢な瞳でマナさんはそう言う。

「力、つまりあなたの身の回りや、先達の教師、ベルト氏以外の執事さん等に起こった事象ですね?」

 マナさんは頷く。

「そうですねぇ…。 ハッキリ言うと、これ以上あなたに教えるお勉強が僕の範囲を越えそうなんですよ。 これ以上先を教えるかどうかを考えていましたが、現状、先に進むより、あなた自身のことを考える時間も必要そうですね」

 僕はちょうど良いとも思い、マナさんの謎の力について考えることにした。

 とはいえ、超常的な力に関する知識など僕には皆無だ。

 誰か専門家がいないか、レントンに相談することにする。

 僕はその日は早めに教示を切り上げ、マナさんには自習と力に関して把握出来ている事を書き出すよう指示しておいた。

 

 

「えーと、超能力だってか?」

 いつものバーで、僕はレントンと合流した。

 今日はビルを含めた何人かの教員を問題児の元へと派遣し、その後は事務的な事をしていたそうだ。

 僕はマナさんとの間に起こった超常現象について改めて考えつつ、これからのことをレントンに相談していた。

「あぁ、流石に専門外すぎてね。 とは言え、自分のことに前向きになった彼女の力になりたくてね」

 僕の言葉に、レントンは酒をちびちびと口にしながら何かを考えている。

「専門家…、俺はオカルト否定派だぜ? そんなやついると思うか?」

 怪訝な顔をしながらレントンは言う。

「そうだよなぁ、難しいよな…」

 僕は流石に難しそうだと感じながら、ついでで買ってきたオカルト書籍に目を通す。

 胡散臭さばかりが目立つ情報誌だ。

 未確認飛行物体、未確認生物、似非超能力者、好きな者同士ならあれやこれやと盛り上がりそうなものだが、本物を見た後だと書いてある記事の陳腐さが目立って見える。

「こう言うのに相談してもダメそうだな…」

 なんとか自力で模索するしかないかと思ったその時…。

「あー、わかったわかった」

 レントンが観念したかのように、連絡先などを記載してある手帳を取り出した。

「レントン、心当たりがあるのかい?」

 ペラペラと手帳を見渡して探しているレントンが、目的の連絡先を見つけたのか、深いため息をついた。

 あまり気が乗らなそうだ。

「本当なら、あのシャンドア家だって金払いが良いだけの一家庭に過ぎなかったんだがなぁ…」

 諦めをつけたように、レントンが続ける。

「いいかアレン。 俺はコイツを紹介するのは凄い気が引ける。 なんせコイツは専門家であると同時にその道のマニアだ。 その上、コイツはオレ達とは知り合いであり…」

 そこでレントンが口を紡ぐ。

 どうやらすごく言いづらいようだ。

「なんだ、教えてくれよ?」

 僕は我慢出来ず聞いた。

「ソイツは…、お前に気がある…」

 

 

 翌日、僕はレントンと共にニューヨークにある奇妙な施設に来ていた。

 超異人類研究所、看板にはそう書かれている。

 そこで僕とレントンを迎えてくれたのは…。

「やぁレントン、アレン、久しぶりだね」

 細身で赤毛をポニーテールにまとめ、丸眼鏡が良く似合う女性、そして幼い頃からオカルト雑誌をよく見ていた女の子。

 そんな記憶が蘇ってくる。

 彼女の名前はマリア・バレット。

 僕やレントンもいた養護施設で、共に育った経歴を持っている。

 幼い頃からオカルト雑誌や哲学書、超能力を扱う書籍を読み込んでは、そういったジャンルについて興味のある人たちに啓蒙活動を行なっていた。

 そんな彼女とは子供の頃は接点があまり無かったような気はするが、彼女が絡むとやたらとレントンが間に入っていた気がする。

 そんな彼女が、今や子供の頃の夢を叶えたのかどうかわからないような不思議な職場で働いている。

 僕は心の中でモヤモヤした気分になりながら、周囲を見渡した。

 見た目は普通の事務所のようにも見える。

 いくつかの部屋があり、その中で何組かの人々が一般的な超能力のテストをしているようだ。

 皆真面目であり、笑顔で事に当たっているような人達は見えない。

「みんな真剣だね」

 僕は率直な感想を答える。

「まぁね、ただ真面目にやって成果が出るかと言うとそうでもない。 ここでやってる事はあくまで世間一般向けのことだからね」

 何やら意味深な事を言うマリアに、僕は持ってきた書類を渡す。

 マナさんに関する資料や、状況、各教師が体験した事象のまとめなどだ。

「これが例の?」

 キリッと真面目な顔つきになったマリアが、レントンに聞く。

「そうだ。 アレンが必死でまとめたものだ。 ちゃんと精査してくれなきゃ怒るぜ?」

 レントンがそう言いながら、マリアに睨みをきかす。

 この二人は何かあったのだろうかと思いながら、僕は続けた。

「マナさんの、家庭教師としての役目は実際もう終わっているんだ。 彼女は記憶に関しても天才的で、教えた教科はあっという間に全て覚えてしまった。 けど、その特異な能力に関しては未知数すぎてね。 マリアに力になってもらえると助かるよ」

 ぼくはお世辞を含めてそう言う。

「ふむ…。 深層心理を掘り起こして、対象の視覚、聴覚、それどころかあらゆる感覚に作用を及ぼしている…。 これは…」

 僕の言葉は多分に耳に入っていないだろう。

 彼女は書類を見て、既に自分の世界に入っているようだ。

 だが…。

「アレン、ちょっとこっちに来て?」

 マリアは突然、思い立ったかのように書類をまとめると、僕の腕を引っ張っていく。

「おいおい、俺を置いてくのかぁ?」

 レントンが不貞腐れるように言うものの…。

「レントン、あなたも来て?」

 マリアの真剣そうな顔に、僕たちは少し緊張してきた。

 応接室から出て、そそくさとマリアについて歩いていく。

 マリアの部屋と看板が提げられた部屋に、僕らは押し込まれるように入れられた。

 マリアは部屋に鍵をかけ、僕とレントンを備え付けられた椅子に座らせる。

「マリア、突然どうしたんだ?」

 レントンは疑問を素直に聞いた。

「これは本物よね?」

 書類を指差しながら、マリアは聞いてくる。

「あぁ、全て本当のことだよ」

 僕は即答する。

「今日は教授がいなくて良かったわ…」

 マリアは小声でそう言う。

「教授?」

「えぇ、超異能学、超異人類学の研究者にして、この研究所を建てた、私の先生でもある人なんだけど…」

 マリアは言いにくそうにしながらも続ける。

「ちょっと最近は問題があって、そうね、超能力者の軍事利用と言えばわかるかしら?」

 僕はそれを聞いて驚愕する。

「軍事利!? むごっっ!」

 言いかけて僕は口を塞がれた。

「ダメダメ、声が大きいわ。 色々あってこの部屋は防音を強くしてるけど、どこで誰が聞いてるかわからないもの…」

 僕はそれを聞いて少し落ち着く。

「そんで、そのソレと先生とやらがどう関係するんだ?」

 疑問を口にしてくれたのはレントンだった。

 それを聞き、書類に目を通しながらマリアが続ける。

「私の先生こと、アカイル・ヴィーゴ・ハードメイヤー教授。 最初の頃は純粋に超常現象や、異能とも呼ばれる超常的能力、超能力への研究を主にする穏やかな人だったわ」

 そこまで言って、マリアは書類を置き手を組む。

「でもここ最近、先生の研究は今までとは人が変わったように過激化していってるの」

「過激化? 例えば?」

 僕は小声で聞く。

「超能力や超能力者の軍事利用、それは主に戦闘に特化した力を求めるものよ。 もうまるでコミックスのような話だわ。 普通の人が手から火を出したり、浮遊したり、会話するように他人の思考を読んだりなんて、出来る訳がないのよ」

「おいおい、それをお前が言うのかよ」

 レントンは茶化すように言う。

「真面目な話、超能力なんてものは夢や理想の体現よ? 私はその道の分野が好きでこの仕事をしているわ。 人の可能性や、平和利用が出来たらと思ってる。 ただ、そもそも人類が今の姿を保ったまま進化するなんて無理な話と言われている…」

 人類の進化と超能力者の関係性は僕にはわからないが、熱くなると止まらなくなるのは昔と変わらないなと思ってしまう。

「話がそれてないか? 大丈夫か?」

 レントンの質問に、マリアはゆっくりと首を横に振る。

「それてないわ。 もしこの女の子のことが知れれば、あのアカイル教授はそれを行おうとするわ」

 マリアの言葉に、僕は何を言いたいのかわかってしまった。

「まさか…」

「そう、人体実験よ…」

 僕は驚愕しっぱなしで、何がどうしてこんな話になっているのかわからなくなる。

「いやいや、そんな馬鹿な? なんかのコミックで出てくる悪の科学者でも無いのに、そんなこと出来るのか?」

 レントンも小声だが、驚きは隠せず言った。

「既に何人かが先生の実験に使われたって話もあるそうなの…。 とにかく、この子の事はこれ以上ここでは話せないわ。 外に出ましょう」

 マリアはまたそそくさと荷物をまとめると、僕とレントンを連れて部屋を出る。

 すると…。

「バレット先生? どこかにお出かけですか?」

 部屋を出ると、気弱そうな青年が声をかけてくる。

「えぇ、少し仕事で出かけます。 ヴィーゴ教授が戻るようでしたら、いい加減こっちの仕事も手伝うようにツッコミを入れておいてくれるかしら?」

 マリアは青年が何か話そうとするのを遮るように言うと、すぐに足早に施設を出た。「いいのかい? アイツ、マリアに好意を持ってそうな目をしてたぜ?」

 レントンがそう言うと、マリアは心底嫌そうな顔をして言う。

「冗談はやめて? グルーバーソンはただの同僚で、それ以上になる事なんてぜぇぇぇったい無いわ。 そもそも問題の教授の腰巾着なんてぜぇぇぇったいゴメンよ!」

 あまりの勢いにレントンすら引いてしまう。

「お、おぉすまねぇ」

 レントンが平謝りすると、マリアはスタスタと急足で自分の車らしきところまでやってくる。

 小さな車にぎゅうぎゅう詰めにされた僕らは、施設から遠く離れたアパートへとやってきた。

「ここは?」

 僕が聞くと、マリアは鍵を出して振り回す。

「私の城よ!」

 

 

 それから僕たちはマナさんの能力に関する方針を打ち合わせして、その日は解散になった。

 アカイル教授には絶対極秘で進めないとならないため、マリアへの連絡はかなり慎重に行わなくてはならない。

 また、レントンの協力で超能力開発と銘打った、マナさんの替え玉となる生徒を用意してくれるとのことだ。

 その子の情報を使う事で、アカイル教授を欺くらしい。

「なんか大変な事になっちゃったなぁ…」

 僕はモーテルのベッドで横になりながら、これからの事を考える。

 すると…。

「まだなの!?」

「もう少し待ってくれよ。 先方にも都合があるんだからさ」

 痴話喧嘩とは少し違う、何か言い合いが聞こえてくる。

 そしてそれは聞き覚えのある声だ。

「とにかく、あの子の力が本当かどうかだけ証明できる何かをくれ」

 やはりペックとシャンドア婦人だ。

「わかったわ。 直接あの子を連れて行けばわかることよ」

 そこで僕は外に出て、二人の前に姿を現した。

「ペック、何の話をしてるんだ」

 僕の姿に、二人は明らかに動揺を示す。

「な、アレン!?」

「ふん、とにかく日時の連絡だけは頼んだわよ!」

 それだけ言ってシャンドア婦人は逃げるように去っていく。

「アレン、これは誤解だ」

 ペックは動揺を隠さず言う。

「一体何の話だったんだ? マナさんに関係ある事なんだろう?」

 僕は単刀直入に聞く。

 レントンにもペックの事は伝えてあるが、こうも連日怪しい動きを見せられると我慢は出来ない。

「ちっ、仕方ない。 あぁそうだよ。 あの奥方さんは娘をダシにして金儲けがしたいんだとさ。 それであの子が他人と会話出来るようになった段階から、その計画を何故か俺に回してくるようになったんだよ」

 僕は驚きと言うより、呆れて物も言えない。

「はは、まさかお前があの子の門を開けるとは思わなかったぜ。 俺なんて家にも入れなかったしな…」

 そこで僕は疑問を感じる。

 ペックはパターンAでは無く、Bではなかったか。

 深層分析では、Aの追い出しはマナさんが拒絶を示した人物だ。

 Bの場合は試す意味合いで、驚かすようなもののようだ。

 Cは深層心理の中で、本人が一番怖いもの、願望などが映像化される。

「とにかく、ペック、レントンのところへ来てもらうぞ。 そこで詳しく話してもらう」

 僕はペックの手を引き、レントンに連絡を取るべく公衆電話を探す。

 だが、ペックは僕の手を振り解くと言い放った。

「いやだね。 俺はこの儲け話をフイにするつもりはない」

 僕は呆れながら言う。

「あんな小さな子を金儲けの道具にしようってのか? 最低だぞ!」

 だがそう言っても、ペックは首を横に振る。

「だからなんだ。 俺たちの商売だって似たようなものじゃないか。 アイツは問題児ばかり扱って、その親から金をふんだくってるんだぞ。 しかもこれはあの娘の母親の頼みだ。 お前にどうこう言われる筋合いは無いね」

 ペックは口も減らず、僕はいい加減怒りが湧いてくる。

「あの母親が問題なのはわかってるさ。 だからこそだ。 僕はマナさんの家庭教師として彼女を守る義務がある」

 僕は言いながら、見つけた公衆電話に近づこうとすると…。

「ええい、お前に俺の気持ちがわかるものか! エリートだった俺様が、家庭教師などと言う仕事に甘んじているのも全ては金のためよ!」

 ペックの叫びと共に、強い衝撃が僕の頭にくわえられる。

「あえっ?」

 僕は目の前が真っ暗になっていくのを感じた…。

 

 

 ここは…、どこだ?

 後頭部の痛みで僕は目を覚ました。

 暗く、ひどい匂いで、ぶるるると何かの音がする。

 その音の主は馬だとすぐに理解できた。

 ここは馬小屋か…。

 どうしてこんなところで寝ていたのか、僕はよく思い出そうとするが、頭が回らず中々状況を飲み込めない。

 誰かと会っていた気がするが、よく見れば手足も縛られている。

 そこでようやく…。

 ペック!

 ようやく思い出したその名前に、僕は憤りを感じる。

 身動きが取れず、ジタバタとしながら僕はなんとか手足の拘束を取ろうともがく。

 口も塞がれているため、助けを呼ぶことも出来なさそうだが、そこへ…。

「なんだぁ?」

「音がしたのよぉ あなた、確認してちょうだい」

 どうやら、馬小屋の主らしい老夫婦が様子を見に来たようだ。

「んー!!」

「うわぁ!?」

 僕は渾身の力を込めてうめき声を発した。

 二人を驚かせてしまったようだが、お爺さんの方が僕を見つけてくれる。

「あんたぁ、どうしたねぇ!」

 訛りの強い英語で話しながら、お爺さんは僕の拘束を解いてくれた。

「ありがとうございます。 頭を殴られて、ここに閉じ込められていたみたいで…」

「そりゃ大変じゃったのぅ…。 怪我は大丈夫かあ?」

 そう聞いて、僕は後頭部をさする。

「大きなこぶが出来てるだけです。 多分大丈夫。 あぁすいません、僕急いで行かなくては!」

 僕は老夫婦に礼を言い、急いで外に出る。

 モーテルの近くにある農場だと言うことが判り、僕は急いで公衆電話に走った。

「アレン? お前今までどこにいたんだ?」

 レントンの声はかなり大きく、事態が急変している事を示していた。

「ペックに頭を殴られて、馬小屋に閉じ込められてたみたいなんだ。 今の日付を教えてくれ…」

「なんだって? ペック? とにかくコッチにこれるか?」

「あぁ、すぐに行くよ。 アイツ、シャンドアの奥さんと組んで、マナさんを金儲けに利用するつもりだ」

 僕はそう言うと、レントンは疲れた声で言葉を発した。

「アレン、ペックは死んだぞ…」

 

 

 僕はいつものバーでレントンと合流した。

 連絡を受けてか、マリアも同席している。

 念の為医者に後頭部を見てもらい、怪我の治療を済ます。

 そして、その足でベルト氏に連絡をすると、今のところマナさんやシャンドア家の方では変化はないと言われた。

 どうやら僕は、馬小屋で二日間ほど気絶していたらしい。

 一体、その間に何があったというのか。

「大丈夫か、アレン。 丸一日以上連絡が無いから心配してたんだぞ」

「そうよ、何があったの?」

 僕はあの日のこと、ペック、そしてシャンドア婦人の事を二人に話した。

「それで、ペックに何があったんだ?」

 僕は気になる事を聞く。

「あぁ、恐らくアレンがペックに閉じ込められた後、その晩だろうな。 ペックが俺に金を無心に来たんだ。 すごい剣幕でな」

「金? 借金でもあったのか?」

 それを聞いてレントンは首を横にふる。

「何か大きな事業に投資したいとかなんとか…。 倍にして返すからとか言ってたな」

 大きな事業…。

 マナさんに関する事だろうとは思うが、それでレントンに無心に来るのもアレは相当メンタルが図太いなと僕は思う。

「それで、結局金は貸したのか?」

 それを聞いてレントンはまた首を横にふった。

「誰が貸すかよ、そんな胡散臭い話。 まぁ、それでアイツは闇金にでも手を出そうとして、ザクッとやられたんだろうなってのが警察とも話した顛末さ」

 レントンの言葉には呆れも入っていた。

 しかし、そうなるとシャンドア婦人はこれからどうするつもりだろうか?

 ペックのことは結局何も分からずじまいだが、今の僕は警戒しておくことしかできない。

「そうだ。 明日は流石にマナさんのところに行かなくてはならない。 マリア、教材の準備は出来てるかい?」

 僕の質問にマリアはカバンから書類を出す。

「基本的な超常能力調査用の教材、あとは超異能人類学の歴史や、その変遷をまとめた書類を用意したわ」

 僕はそれを見て自分でも予習する必要があるとして、その日は解散となった。

 だが、この教材たちがこの後繋がる世界の変化のキッカケになるとは僕は思いもよらなかった。

 

 

「すごいですね…」

 ちょっとした、お馴染みの超能力検査と言うやつだ。

 念動、透視と言った、超能力の話題ではよくありそうな資料と、それを伸ばすと言った教材のほとんどをマナさんはこなして行った。

 そしてそれは本物であり、僕は驚くしかなかった。

 マリアが隠しておきたいという理由もわからなくも無い。

 僕もオカルトに興味が無い訳では無いが、これほどのことが目の前で起こるとなると、もうそれは認めざるを得ない事象だった。

 それだけでは無い。

 手の平の上で火を起こす。

 親指と人差し指の間で目に見える放電を行う。

 何も握っていないはずの拳から水を出す。

 動かしてもいない両掌の上で風が起きる。

 そんな、ファンタジーコミックに出てきそう事までやってのけた。

「どう?」

 マナさんは嬉しそうに笑顔を僕に見せてくれる。

 そして不思議な事を言う。

「また見られてる。 どこにいてもダメってわかってるけど、あっちに干渉するにはまだ私の力では足りないかな…」

 一体なんのことか僕にはわからない。

「あっちって言うのはどういうことなのかな?」

「うん、常に私たちを見てる人がいるの。 それもいっぱいの人、今も私たちを見てる。 途中でやめる人もいるし、私たちを気に入ったのか何回も何回も視線が通り過ぎて行く人もいる。 ずるいのよ、ちゃんと私達を見なくちゃいけない人達もいるのに、流し見しちゃう人だっているんだから」

 マナさんは天井を見上げながらそう言った。

 やはり僕にはわからないが、マナさんの言葉には嘘や虚言の類とは思えない。

 見ている人たち、と言うのが何の事かはわからないが、僕はとにかく残された資料に何かないか確認する。

 すると…。

「先生? その青い本、見せて?」

 マナさんが興味を示したのは、超能力や異能、人類の解明されていない力などを研究していたらしい著者、ロザリア・メルニッツ氏によるものだ。

 僕もパラパラと読んだが、僕に理解できるものではなかった。

 なんでも人間の創造性、そして想像による創造によって、あらゆる思考を具現化出来る時代が来るとかなんとか。

 心に火を思えば、それを自由自在に操り、具現化出来る。

 そんな夢のような事ができれば苦労は無い。

 マナさんのような奇跡の少女は一人いれば十分だと僕は思う。

「どうぞ、難しいかもしれないよ?」

 僕はマナさんに本を渡す。

「大丈夫、今なら何でもわかる気がするの」

 マナさんのその言葉に、僕は正直恐怖すら感じた。

 だが何に役に立つかはわからないが、マナさんなら理解出来るかもしれない。

 好奇心、と言うのが僕にもあるのだろう。

 そこで僕は彼女の読書を邪魔しないように、今日は退散することにした。

「ではマナさん。 今日は僕は帰りますけど、明日また来ますね」

 僕はそう伝えるが、マナさんにはどうやらもう本に夢中なようだった。

 

 

 その後、僕はいつものバーでマリアと合流する。

 教えた事、それが全て理解に値し、それら以上の成果を示したことを報告した。

 その上で、僕はマリアにメルニッツ氏の本を一冊頼んでいた。

「マリア、あの本持ってきてくれたかい?」

「メルニッツさんの本ならあるけど、どうかしたの?」

 僕はメルニッツ氏の本を開きながら、マナさんがこの本に興味を示した事を伝える。

「マリア、良かったらこの本のこと教えてくれないか? この著者は一体何を言いたかったんだとか…」

 僕の言葉にマリアは笑顔で頷く。

「そうね、あなたも興味を持ってくれるなら嬉しいけど…」

 マリアは含みを持たせたような言い方で話し始めた。

 

 超異人類学。

 そう銘打たれたその書籍。

 教育革命と呼ばれる今の時代が始まる少し前、大きな二度の大戦の最中に書かれたものだそうだ。

 なんでも、混迷を極める大きな戦の戦局の中、一部の人類の中にはより効率的な戦争を求めた。

 その結果、新しい兵器を開発、製造するのではなく、人類そのものに変革をもたらそうとした。

 コミックではよくありそうな話しだと僕は思った。

 ただメルニッツ氏の著書にあるそれは、もっと強烈で突拍子の無いもののように思える。

 宇宙が始まり、地球が生まれ、人類が生まれ、蔓延り、そして幾多の戦争と平和が繰り返される歴史。

 その中で、他の生物とは一線を画す、人類は意識と言う力を持ったことによって繁栄を築いた。

 意識と言う力は、想像をして、そして創造をして、さらにはそれを伝達することによって、より人類に繁栄をもたらす科学の発展をしてきた。

 だがさまざまな文献にある宗教的な観念や、科学とは一線を画す魔法や超能力と言った力は、物語の中に語られるだけの存在となっていた。

 ある作家がこう言ったと言う。

「人類が想像出来るものは、人類は必ず創造出来る」

 それこそ夢物語のような話しであるが、メルニッツ氏はそこで止まらなかったようだ。

 意識の中で火を想像する。

 それを手の中で創造する。

 それをどのように使うかは、その者次第であると言う。

 その方法を、人類はあえて封じた過去があり、それは隠された数式と言う形で残されているとも言う。

 ただ残念ながら、今の人類ではその数式を解く力は持っていないとも…。

 だが近い未来、その数式を解く者が現れる。

 その時、人類に大きな変革がもたらされ、新たな人類への進化へと導かれるだろう。

 だが人類の歴史は戦争と和平の繰り返しでもある、変革は必ず軋轢を産み、変化の波に乗れなかった人類は、愚かにも新人類へと牙を剥くだろう。

 

 

「何かわかった?」

 マリアは覗き込むようにして僕の顔色を伺ってくる。

「僕には正直ついていけない話だよ」

 と、そう思っていた。

 しかし…。

「と、前までの僕なら言っていたな。 この本、ページ数の並びが変だ」

 マリアの解説を聞きながら、僕は一部おかしい点に気づいていた。

 ページ数の表記がバラバラである。

 そこでページをやぶり、ページ数の順番通りに紙を並べ直す。

 それをさらに、横へと綺麗に並べるようにする。

 すると文字列や、内容の参考のために描かれた絵や写真のせいで、妙な絵柄のような物が浮かび上がってくる。

 本をやぶりはしたが、マリアは逆に嬉しそうにしている。

「アレン、よく気づいたわね。 それがメルニッツの秘文字絵柄と呼ばれるものらしいの…。 残念ながらそれを解明出来る人はいないわ。 アカイル教授でさえわからないと言うのよ」

「これによって、何かわかることでもあるのかな?」

 考えても僕にはわからない。

「それを解こうと必死になって頑張っているのだけど、もう何年もわからないままなのよね」

 マリアが残念そうに答える。

 メルニッツ氏自体はもう亡くなっているそうで、本人に聞くことも出来ない。

 だが、それが重要そうなことはわかる。

 そして僕は急な閃きを感じてハッとなった。

「親な予感がする…」

 突然、僕は何か胸騒ぎを感じはじめた。

 そこで…。

「マリア、もう夜は遅いけど、今からマナさんに会いに行かないか?」

 それを聞いてマリアは大きく頷いた。

 

 

 僕達は急いでシャンドア家までやってきた。

 夕方頃に出てきて、バーで少し過ごしていたので、今はもう月の光だけが淡く光る深夜とも言える時間だ。

 事前にシャンドア家に連絡を取ると、都合良くベルト氏が応じてくれる。

 ベルト氏の了承を得て、シャンドア家の屋敷に到着すると…。

「アレン様…。 私の方からも連絡をしようと思っていたところでした」

 ベルト氏が神妙な顔をして迎えてくれる。

 彼がそんなを顔をしている理由はなんとなく察する事が出来る。

「な、なんか、すごい寒気がするわ」

 マリアがそう言うのもわかる。

 僕の場合は重さだ。

 物凄い重みが僕の肩にかかってくる。

「あぁ、僕は物凄い重圧が来ている。 ゆ、ゆっくり二階に行く。 ベルトさん、よろしいですね?」

 僕の言葉にベルト氏は頷く。

「お気をつけください。 お嬢様の部屋からの様子が変わられてから旦那様は気絶して目覚めず、奥様は未だ外出から戻りませぬ」

 奥様がいないと言うのは安心もするが、不安な要因でもある。

 この状況でも、やはりベルト氏には影響が無いのだろうか?

 気になる事が多いが、今はとにかくマナさんだ。

 僕はマナさんの部屋の前まで来て、息を整えてからノックする。

「マナさん?」

 僕が呼びかけると…。

「あ、あれ…」

 マリアは素っ頓狂な声を出す。

 僕も急に頭が冴えたような気持ちになり、肩にかかっていた重圧が嘘のように無くなった。

 そして…。

「先生? どうしたの? どうぞ?」

 あどけない声が聞こえて、僕は少し安心してする。

「あぁ、入るよ…」

 僕はゆっくりと戸を開ける。

「ヒゥ…」

 またもやマリアがすごい声を上げる。

 それも仕方がない。

 僕は今、自分でも何を見ているのかわからない。

 少女がいつも歌を唄っている椅子に立ち上がり、天井にびっしりと何かを書き込んでいる。

 椅子はただそこにあるのではなく、少女が天井に手が届くように浮いているのだ。

 それだけではない。

 部屋の壁中に数列が書き込まれ、ベッド以外の床には見覚えのある絵柄のような図形が描き込まれている。

「これは…、メルニッツ秘文字絵柄…?」

 そう。

 先程見た書籍に隠されていた謎の文字や図形だ。

 マリアはすぐにわかったらしく、周囲を見渡しながら、自分のメモと照合を始めている。

「教えてもらったお陰で色々な事がわかったんだよ? ありがとう先生」

 マナさんは可愛い笑顔で言うが、その瞳は妖しい光を灯し、不気味な雰囲気を醸し出している。

「信じられない…。 この数式に間違いはなさそうだけど…。 答えは…なんなの?」

 マナさんは未だに天井へとペンを走らせている。

 止めたくても止められない。

 そんな圧を感じる。

 やがて…。

「出来た…」

 マナさんはそう言って、椅子と共に床へと降りてきた。

「か、完成したのかい?」

 僕は思わず聞いてしまった。

「うん。 これで人はさらなる進化を遂げられるのよ」

 マナさんは嬉しそうに言うが、そんな簡単に済むようなことではない。

「マナさん、とにかく今は休むんだ。 明日、僕と話をしよう…いいね?」

 マナさんはそれを聞いてキョトンとしながら頷いた。

 そこへ…。

「アレン様、レントン様から連絡でございます」

 僕はそれを聞いてマリアと共に部屋を出た。

「レントン? どうした?」

 僕は電話に出てレントンに尋ねる。

「あぁ、アレン、そこにいたか、いいか、今日はコチラに戻るな。 どうやらペックを殺した奴に俺たちも狙われているらしいんだ」

 僕は驚きつつ、レントンの安否を尋ねる。

「俺は大丈夫だ。 とにかく戻るな、モーテルも帰ったら場所を変えるんだ。 いいな?」

 レントンはそれだけ言うと電話を切ってしまった。

「なんだったんだ…」

 とにかく僕はモーテルに戻ることにして、マリアを連れてシャンドア家を後にした。

 

 

 それから僕はレントンの言う通り、すぐにモーテルから出て少し離れた別の宿場に身を移した。

「これからどうするの?」

 心配そうにマリアが聞く。

「そうだな…。 とにかく警戒しないといけないけど、マナさんが最優先だ。 あの数列がなんだったのかわかるか?」

 僕の質問にマリアは手帳を取り出す。

「うわ!」

 僕は素直に驚いた。

 手帳にはマナさんの書いていた数式や数列、そして完成したらしいメルニッツ秘文字が書き込まれていた。

「うわってなにようわって…。 これは人類史を非常に危険な方向で進化させる偉業のものよ? これをどうするかだわ」

 僕には言っている事がよくわからない。

「マリア、簡単に説明してくれないか?」

 とにかく僕はこの件に関してもっと学ばなければならない。

「えぇ、じゃあ前回の続きからってところね…」

 マリアは前と同様に僕へ解説してくれる。

 

 ロザリア・メルニッツの著書にあった、人類の進化と、その封印された可能性に関して、メルニッツは一つの鍵を用意していた。

 何せ人類全てがあらゆる可能性を解放し、その力で猛威を奮えば、地球はあっという間に滅びてしまうと言うことだ。

 そのため封印されたその力を正しい方向に使えないと判断した場合は、それを制さなければならない。

 メルニッツは結局人の可能性を見たいという好奇心と言う名の本心と、その結果による残劇の可能性と言う建前を恐れてメルニッツツ秘文字として鍵を封印したのだ。

「メルニッツ氏自身は、何かの能力を持っていたりはしたのかい?」

 僕はそこで思った疑問を聞く。

 著書を残すだけなら、それらしいことや、己の思いを書き残すことで出来る。

 しかし、その著書自体にギミックを施し、剰えそれが著書にある人類の可能性自体を呼び起こす鍵になるなど普通は思わないし、メルニッツ氏自身はどうして自分でそれをしなかったかだ。

「いえ、彼女が超異者だったと言う記録は無いわ。 あくまで記録が無いだけだけども…」

 マリアの言葉で、メルニッツ自身が能力者であったかどうかの可能性はわからなくなる。

 そこで、次は実際どうしたら人の可能性の鍵を開く事ができるかだ…。

 メルニッツ秘文字に記された数列、解読されたその数字の羅列は、どうやら十六進法に書き直せるようだ。

 零から十までの数字、そしてアルファベットのAからFまでで現すその数列は、組み合わせによってあらゆる文字や数字に変換出来ると言う。

 僕には珍紛漢紛な話しではあるが、まだ世の中にはそんなに出回っていない電子計算機では普通に使われる物らしい。

 メルニッツ秘文字によって並べられた数列が何を意味するのか、それはこれから調べないとならない。

 僕はとりあえず、その日はマリアと共にモーテルに宿泊し、翌早朝にマリアが先にモーテルを後にした。

 研究所に戻り、メルニッツ秘文字の数列が何を表しているか調べると言う。

 僕はしばらくモーテルに留まってから、シャンドア家へと向かった。

 

 

「関係者以外立ち入り禁止です」

 僕がシャンドア家について言われた言葉は信じられない言葉だった。

 沢山のマスコミがシャンドア家を取り囲み、どうやら奥様が取材を受けているようだ。

 物凄いシタリ顔で周囲からの注目を浴び、意気揚々と何かを語っている。

 マナさんを商材にしようと言う野望を、どうやらペック無しで実行に移したのだろう。

「ほら! 早く出てきなさい!」

 奥さんがすごい剣幕で家中にいるであろうマナさんを呼びつけている。

 このままではまずいと、僕は飛び出して行こうとするがマスコミが邪魔で前に出れない。

「お母様、だめだよ。 先生に許してもらわないと、この力は見せちゃダメだと思うの」

「何を言ってるの! 私は母親よ! 私の言うことを聞きなさい!」

 マナさんが嫌がっている声が聞こえてくる。

 記者達はそんなやりとりさえ記事にしそうに録音機を向けたり、射影機を向けたりしている。

「この!」

 奥さんが手を振り上げる。

 マナさんを殴りつける気なのだろう。

 僕は居てもたってもいられず…。

「やめろ!」

 僕は叫んだ。

 僕の周囲にいたマスコミ達は、何事かと驚いて僕から離れる。

 僕はそれをチャンスとばかりに、一気にマナさんのところへと駆け寄った。

「先生!」

 マナさんが僕に抱きついてくる。

 僕はマナさんを抱き寄せて、頭を撫でてあげた。

「よく頑張ったね。 君の力はまだ未知数だ。 それをこんな大勢の前で披露するなんて間違っている」

 僕は奥さんにそう言いながら、ベルトさんの姿を探した。

 彼ならきっと理解してくれるはずだが、なぜかこんな時に限って彼の姿は見当たらない。

 昨晩まではいたはずだが…。

「ええい、不審者よ! 記者の皆様! この男は娘を誑かして誘拐するつもりなのよ! 今すぐ警察を呼んで!」

 無茶苦茶なことを言う奥さんだが、記者達のざわつきは止まらない。

「そうだな…。 白昼堂々誘拐犯の大捕物。 そっちのみだしの方が面白そうだ。 おい、警察を呼べ…」

 どうやらこの記者達は全員揃って碌でなしのようだ。

 下卑た笑みが僕とマナさんに向けられる。

「僕はこの子の家庭教師だ。 誘拐だなんてするはずがない!」

 僕がそう言っても、記者達の動きは変わりそうに無い。

「いい気味よ。 ぱっぱと逮捕されて、マナの超能力ショーを再開よ!」

 まだ滅茶苦茶な事を言っている。

 そこへ…。

「おいおい記者さん達よ、そんなショーより、有閑マダムを夢見るマダム、殺し屋を雇って教師を殺害。 そんな見出しはいかがかな?」

 そんな声が聞こえた次の瞬間、記者達の間に一人の男が投げ出された。

「この男ドラン・クラッチはつい数日前一人の男を殺害した。 ドルソン・ペック…。 その名前に聞き覚えのある奴はここにもいるだろう? こいつはその後、その娘をニュースに大々的に売り出すために邪魔な奴らを消そうとして俺のところにもコイツを寄越した。 返り討ちにしてやったがな…」

「レントン!」

 レントンが殺し屋をやっつけて、ここまで連れてきたのだろう。

「嘘よ! そんなの出鱈目だわ! 証拠があるって言うの?」

 奥様は必死になって叫ぶが…。

「あぁ証拠はあるとも。 俺の顔の広さを舐めんなよ? こいつとあんたとの通話記録、さらに金の流れ、全部抑え済みだ。 すでに警察も呼んであるんだぜ!」

 レントンの言う通り、すぐに何台かの車がシャンドア家にやってきた。

 警察官と思しき制服を着た男達が現れ、記者達を退け始める。

 そこからはあっという間だった。

 証拠の材料と共にアナ・ズール・シャンドアは逮捕され、同時にドラン・クラッチと呼ばれた男も拘束されて連れてかれていく。

 そこから、落ち着くまでにさらに数時間を要した。

 僕はマナさんを保護することを伝え、警官にベルト氏への伝言を頼んでモーテルへと戻った。

 

 

「マナさん、ちょっとここで待っててね」

 モーテルの狭い部屋でマナさんを待たせ、僕は電話機へと向かった。

 古めかしい、使い込まれた電話機の受話器を取り僕はマリアへ電話をかける。

「どなた?」

 昼前のため施設にいるだろうと電話をかけたが、出たのは聞き覚えのある男性の声だった。

「家庭教師をしているアレンと申します。 マリアさんはいらっしゃいますでしょうか?」

 僕は一応丁寧に事を伝えるが、僕の名前を出した瞬間、露骨にため息をするのが聞こえる。

「マリアさん? あなた彼女のなんなんですか? 今は忙しいみたいで誰も取り次ぎませえんよ」

 妙に高いテンションで、彼は捲し立てるように話してくる。

 そこへ…。

「グルーバーソン? 誰と話してるの?」

 マリアの声が聞こえて、グルーバーソンと呼ばれた男が明らかにしどろもどろになっているのが聞こえてくる。

「アレンですって? 彼から連絡があったらすぐに伝えるように言ったでしょう! 貸しなさい!」

 マリアはすごい剣幕でグルーバーソンを叱りつけているのが聞こえてくる。

 ちょっと彼が気の毒にも感じてしまう。

 受話器を奪われ、ガチャガチャとした音が伝わってくるが、それもすぐに収まった。

「アレン? 大丈夫?  何かあった?」

 いつものマリアの落ち着いた声が伝わってくる。

 女性は強くて怖い…。

 最近の経験からか、そんなふうに思ってしまう。

「あぁ、実は…」

 僕は今朝あったこと、マナさんを預かっている事を伝えた。

 マリアもデータの解析が終わったとのことなので、すぐにこっちに向かうと言う。

 そして僕は軽食を買い込み、モーテルに戻った。

 

 

 マナさんの口に合うかは賭けだったが、彼女はなんでも食べてくれた。

 しばらくするとマリアがやってくる。

「お待たせ」

 マリアが部屋に入ってくると、マナさんは少し警戒するような顔をした。

「彼女は大丈夫だよ。 僕の協力者だ」

「そうよぉ、お姉さんに甘えてもいいのよ」

 マリアは軽口を叩くが、マナさんの警戒心は解けそうにない。

 何か別の意味合いがあるかもしれないが、僕にはわからない事だった。

 とにかく僕はマリアに解析結果を尋ねる。

「これは…」

 僕が見たそれは…。

「そう、音階ね」

 十六進法で書かれた数列は音階を記していたようだ。

 マナさんはメルニッツ氏の著書からそれを読み解き、部屋に書き記していたのだろう。

「わたし、それ歌えるよ?」

 マナさんが解析した音階を見てそう言う。

「是非、聞いてみたいわね」

 マリアはそう言うが、僕は複雑な気持ちもある。

 一体何が起こるのか、不安な気持ちも強いのだ。

 しかし、試してみたい気持ちも強く、僕はマナさんに歌ってくれるよう頼んだ。

 僕が頼むと、マナさんは嬉しそうに頷いてくれる。

 マリアは若干面白くなさそうな顔をしているが、それは気にしないようにした。

 そして、マナさんは歌い始める。

「らー…」

 それは静かな出だしだった。

 マナさんの澄んだ歌声が、モーテルの狭い部屋を満たしていく。

「え…」

 次の瞬間、僕は宇宙空間に投げ出された。

 重力を感じなくなり、浮遊感に包まれる。

 しかし、呼吸はできるし、以前シャンドア家の屋敷で体験したような落下感はない。

 ただ三百六十度、体の自制が利かない。

 あちこちの星々が僕に迫り、通り過ぎていき、僕は太陽のような大きな星に入り込んでいく。

 そこで起きる巨大な爆発に身を任せ、僕は何かが解放された気分になっていく。

 目の前で起こる爆発が落ち着いてくると、今度は青い星が見えてくる。

 これは、僕達が住んでいる星、地球だ。

 僕は吸い込まれるようにして地球に落下していく。

 僕らが今いるモーテルに向かって、ただひたすらに落下し、気づけば元の位置に戻っていた。

 目の前には歌い終わったマナさんと、僕と同じく放心状態のマリアがいた。

「大丈夫?」

 そう言われて僕はハッとする。

 心配そうに、マナさんが僕の顔を覗き込んでいた。

「あぁ、大丈夫だよ…」

 実際は全然平気ではなかった。

 僕の身に何か起きたのだろうか?

 物凄いイメージの錯綜で、僕の胸は張り裂けそうになるくらいドキドキしていた。

「あ、アレン…。 私…」

 マリアが声を震わせながら言う。

「どうしたんだ?」

「私、ちょっと事務所に戻るわ…」

 言いながら、そそくさとマリアはモーテルを去っていった。

 僕が何か聞く暇もない、すぐの事だった。

「先生、先生は何か変化はない?」

 マナさんの質問に、僕はどう答えたらいいかわからなかった。

「うん、変化…、ううん…。 まだよくわからないな…」

 実際、何かが出来るようになったという感覚は無い。

 とにかく僕は意識を切り替えて、マナさんの勉強のことや、この後の事を考えることにしたのであった。

 

 

 数日後、僕はレントンとバーで会っていた。

「アレン、お前、何か雰囲気変わったか?」

 変化と言う言葉が気にならなくなった頃、レントンにそんな事を聞かれた。

「んー、そうかい? そんな事ないと思うんだけどな…」

 僕は自分が何か変わったという意識は無かった。

 しかし、最近は夜遅くまで行っていたストレス発散や、脳内の整理の為の書き出しをしなくても寝付けるようになっていた。

 長い付き合いのレントンは、そんな僕の変化を客観的に見ることが出来るようだ。

「何が変わったように見える?」

 僕は単刀直入にレントンに聞いた。

「そうだな、以前までのお前なら、どこか一歩引いたような性格だった。 だが今はどうだ…。 今のお前は何か以前までにはなかった、妙な気配を感じるぜ」

 言っている事が漠然としていて、僕にはよくわからなかった。

 レントンは続ける。

「そうだなぁ…。 ちょっと前までのお前なら、腕っぷしでは負ける気がしなかっただろうが、今のお前とはどうなるかわからねぇや」

 力こぶを見せながら言うレントン。

 太く、逞しい男の腕だ。

 僕のひ弱な腕で勝てる気がしない。

「何を言ってるんだよ。 レントンに勝てる訳ないじゃないか」

 僕は正直にそう言う。

 ハッキリ言って、レントンは喧嘩と言うか、こと殴り合いともなると非常に強い。

 先日は殺し屋を返り討ちにしていたくらいだ。

 度胸も肝っ玉も座っている。

「そうは言うけどなぁ。 今のお前から感じる何か…。 俺は全くお前に勝てる気がしないぜ?」

 レントンは真面目に言う。

 レントンこそそう言うが、僕にはやはりそんな実感は無かった。

 だが、その日の帰りにそれは起きた。

 レントンと別れ、マナさんを待たしているモーテルへの帰り道…。

「おぅ、ねぇちゃん俺たちと飲まねぇか?」

「やめてください…」

 一人の女性が何人かの男に絡まれている。

 治安の悪い街中ではよくある光景だ。

 レントンであれば容赦なく拳を奮うところだろうが、僕にはそんな力は無い。

 だが放っておくことも出来ない。

 意を決して僕は集団に向かっていく。

「君たち、やめなさい」

 僕は女性と男達の間に入って、キッと男の一人を睨みつけた。

「なんだ、おま…、……」

 僕が睨みつけた男の暴力的な表情が一瞬で変わる。

「はい、すみませんでした…」

「おい、ガリー、どうしたんだよおめぇ…。 ふざけてんのか?」

 ガリーと呼ばれたその男の急変を心配したのか、明らかに男達に動揺が広がる。

「すみませんでした。 コイツらも悪気があるわけでは無いんです。 後でちゃんと言い聞かせておきますので…。 君たち、ほら、いくぞ!」

 ガリーと呼ばれた男は他の男達を引き連れて、そそくさとその場から去っていった。

「あ、ありがとうございます…」

 女性がお礼を言ってくる。

 僕も正直何事かよくわからず、呆けてしまったので去っていく男達がむしろ心配になってしまった。

「いえ、君もこんな夜遅くに外に出ていないで、気をつけなさいね」

 僕は女性の目を見て言う。

 すると…。

「あぁ!? なんだテメェ! 何様のつもりだよ! ふざけんじゃねぇ!」

 女性はいきなり物凄い剣幕で怒りだし、僕の頬を一発張り手して去っていった。

「え、えぇ……」

 僕はこれまた呆けてしまう。

 何が起こったのかよくわからない。

「どうしたアレン? ナンパしてフラれたのか? ハハハハハ…」

 レントンが茶化してくるが、僕に取っては笑い事ではない。

「チンピラから女の子を助けたら、チンピラに謝罪されて女の子が突然怒りだして僕を張り手して行ったよ…」

 僕はあるがままに言う。

「はぁ、何だそれ」

 レントンも訳がわからないと言いながら笑う。

 だが、奇妙な出来事はこれだけではなかった。

「お客さん、この辺物騒だからよ。 もうちょっと早く戻ってきた方がいいぜ?」

 モーテルの管理人のジム氏が、挨拶がてら注意してくれる。

 体格の良い、さっぱりとした性格で宿泊客に対しては優し異ことで有名だ。

「そうですね。 仕事の報告がてら飲んでたもんで…。 いけないな…、小さな女の子を一人で待たせてしまった」

 僕は反省しながら自室へ向かおうとすると、一人の男がジム氏の前に現れた。

「金だ。 金をよこしな…」

 男は静かにそう言う。

 銃を所持しており、ジム氏の目につくように銃口を向けている。

 ジム氏は僕に場を離れるように顎で指示してくれる。

 その動きが気になったのか、男はそれをわかっているようにこちらを向いた。

「オ、オメェ、逃げんじゃねぇぞ…。 オメェも金…」

 言いかけたその時、僕は男と目があった。

「君、バカな事はやめるんだ!」

 僕は男に向かってそう言う。

 僕の方こそバカな気がするが、バカなような事は続け様起こった。

 僕がそう言った瞬間、男の焦ったような、脅すために作っていた怖い顔が、無表情になったのだ。

 そして…。

「はい…。 やめます。 この通りです…」

 男はそう言いながら、銃をカウンターに置いた。

「は?」

 ジム氏が呆気に取られたように言いながら、急いで銃を取り上げた。

 僕も訳がわからず、反省するかのように跪く男の腕を一応縛っておく。

 ジム氏はすぐに警察を呼び、ほどなくして男は連行されていった。

 聞き込みの最中、僕は誰とも目を合わせず済ませる事に従事した。

 どうやら目があった相手に、何かしらの作用が起きている気がしたのだ。

 原因をそれとなく察した後は、何かの手品でもしたのかとジム氏に聞かれたが、僕はわからないと言うしかなかった。

 時間はかかってしまったが、ジム氏はモーテルでの滞在費をサービスしてくれると言う。

 

 

 かなりの時間が経過し、そろそろ日付も変わってしまいそうな夜。

「マナさん、ただいま戻りました。 遅くなって悪かったね」

 部屋に戻ると、マナさんは何やら本を読んでいた。

 夜も耽り、子供は寝かせる時間だと思いながらも、目の前にいる少女の只者では無い雰囲気に、子供扱いしていいのかわからなくなる。

 そこで、僕は彼女に直接聞いてみる事にした。

「マナさん、少し聞きたい事があるのだけどいいかな?」

 僕はマナさんの対面に椅子を用意し、彼女に視線の位置を合わせつつ、彼女の手を見る。

「いいよ? 先生ももしかして変わった?」

 変わった…、と言う単語が何を意味しているのか、今の僕にはわかる気がする。

「どうやらそうみたいなんだ。 マナさんはわかるかい?」

 子供と視線を合わせるのは、僕の教育者としてのやり方ではあるが、どうにも目を合わせづらい。

 マナさんに妙な変化を与えるわけにはいかないと思っていると、彼女は僕の顔を両手で触れた。

 その柔らかい感触に、僕は不覚にもドキドキしてしまう。

「私は大丈夫。 先生、目を見て?」

 マナさんは真っ直ぐ僕を見てそう言った。

「あ、あぁ…」

 僕は恐る恐るマナさんの眼を見る。

 美しい少女の、美しいパープルの瞳がそこにある。

 僕はなるべく無心でありたいと思うが、マナさんに張り手でもされたらどうしようと心臓の鼓動が止まらない。

 しかし…。

「ね、大丈夫でしょう?」

 マナさんは可愛い笑顔で、無邪気にそう言った。

 僕は少し安堵しながら、不思議にも思う。

「えっと、何か変化とか、心にモヤモヤするような事はないかい?」

 僕はあえて聞いてみる。

「大丈夫だよ。 先生は変われたんだね。 どんなことが起きたの?」

 僕は変われたのか…。

 マナさんのその言葉を聞いて、あの歌を聞くことによって、もしかしたら確実に変われる、つまり不思議な事が出来るようになるとは限らないと言うことかと改めて思う。。

「えっと…」

 僕は昨晩から起こった出来事を、とにかくわかりやすくマナさんに説明した。

 普段であれば、そんなことは妄想や虚言の類でしか無いだろう。

 しかし、実際に目の前で起こったことは忘れられることではない。

 僕の説明を聞いたマナさんは、嬉しそうにしながら口を開く。

「えっと、それは人の意識や思考を反転しているのかな?」

「!」

 僕はマナさんのその言葉に衝撃を受けた。

 思い直してみれば、ナンパな男はすぐにへり下り立ち去った。

 ナンパされていた気弱そうな女性は、突然僕の頬を張り手して口が悪くなった。

 さらに銃を持った強盗が、自ら突然謝罪してその場で捕まった。

 よくよく考えてみたら、あのレントンが僕を強そうと言ったのもその一環だろうか?

 何が原因か、僕は相手の目を見て声をかけた。

 目を見る?

 声をかけるだけ?

 いや、ジム氏と会話はしたが、目を合わせてはいない。

 聞き取りの警察官ともだ。

 目を合わせるだけか、その上で声をかけるか…。

 いずれにしろ、自分の力を試さなければならない。

「先生、力は制御できるようになるよ」

 マナさんの言葉は、まるで僕の思考を読んでいるかのようだ。

「本当かい? でなければ、僕は大変なことをしてしまうかもしれない…」

「私が教えてあげる」

 マナさんは優しく、戸惑う僕の頭を抱きながらそう言った。

「ははは…、どっちが教育者かわからないな…」

 僕はそう言いながら、マナさんに甘えてしまうことに、何も躊躇を感じなくなっていた。

 

 

 仕事のためとはいえ、私は事務所に戻ってからも心臓の鼓動が激しいことに焦りさえ感じていた。

 私、マリア・バレットは今年二十七になるが、恋仲と呼べる異性もおらず、数年ぶりにアレンと再会した事で気を焦らせていたのかもしれない。

 彼との再会がまさか自分の仕事に関する事だと思わず、レントンから連絡があった時はアレンも絡んでいるとは思わなかった。

 だがどうだろう。

 あの少女、マナ。

 聞けば八歳で、あの雰囲気と本物の風格とも呼べる超異者である。

 完成されたメルニッツ秘文字から紡がれる歌声を聴いて、私はその場から逃げるように立ち去ってしまった。

 自分に起こった変化はすぐに気付いた。

 手のひらの中に感じる冷たさ。

 事務所の自室を開ける鍵が凍りついていたことで、自分の変化はすぐにわかった。

 すぐに制御することを考え、意識、思考、実践をしていく。

 握った物質に対し、力加減や、自分の意識によって凍結するかどうかを調整する。

 割と操作や制御はすぐに出来た。

 だが、自分に起こった変化より、もっと重要なことが起ころうとしていた。

「マリア先生…」

 グルーバーソンが戸をノックしながら、私を呼びかけてくる。

 日頃から散々言ってあるため、いきなり戸を開けるなんてことは無い。

「はい…、どうぞー」

 私は自らの能力実験に使った水や、凍結具合を試すための果物などを片付けながら、書類を読んでいたふりをする。

「あぁ、マリア先生。 アカイル教授が帰っておりまして、マリア先生をお呼びです。 その、ゼドモア君について…」

 しどろもどろに言いながら、まだ何か言いたそうにこちらを見ている。

「わかりました。 少ししたら伺います。 あなたも早く戻りなさい」

 きつめに言う事で彼を遠ざけてはいるが、彼は結局何も言うことなく部屋を出ていった。

 言うことを聞かなければ怒らせるだけだとわかっているのだろう。

 ちなみにゼドモア君とは、レントンが用意してくれたアカイル教授をごまかす為の超能力実験を希望する生徒だ。

 ゴルバック・ゼドモア君。

 黒人の少年で、とても礼儀正しく、レントンの持つ生徒の中ではかなり優秀なのだという。

 黒人に対して厳しく接する世間ではあるが、ゼドモア君はその中でもめげず、とても協力的で良い子である。

 私はそのまま書類をまとめ、果物などを片付けてから教授の元へと向かった。

「失礼します…」

 重々しく感じる教授の私室の戸を開ける。

「え?」

 教授の部屋へ入り、私は驚いてしまった。

 変わらず背の低い、丸いメガネと白衣、ハゲ上がった頭も電灯の光をよく反射している。

 しかし、驚いたのはそんな教授の両隣にいる男性達だ。

 一人は長い白髪をオールバックに纏め、信じられないほど痩身で、全身枯れ果てているかのようにカサカサの肌をしている。

 まるで、栄養素も肉も全て乾いて削げたかのようだ。

 手には大きな水筒を持っており、どうやら水を持っているようだ。

 もう一人は逆に、筋骨隆々と言う言葉が当てはまる。

 角刈りの頭、ぎょろっとした目、何より目立つのは全身大火傷を負ったような爛れた肌である。

「ごほほほほ…、久しぶりだねマリア」

 しわがれた声で私を睨むように見てくる。

 昔から変わった笑い方をする先生だけど、昔のような優しい雰囲気はいつやら消えてしまった。

「教授、ゼドモア君に何か変なところでもありました?」

 私はすぐに要件を尋ねる。

 すぐにでもこの場から立ち去りたいからだ。

「マリア、私に嘘をついているね?」

 その言葉を聞いても、私は心を動かさない。

 動揺すれば相手の思う壺である。

「なんのことでしょうか? 教授に嘘をつくメリットが私にはありませんが?」

 強気に攻めることが重要。

 先生は昔から人の一歩先を行く術の達人だ。

「ゴルバック・ゼドモア君。 彼を調べさせてもらったけどね、特に超異的な能力も無い平凡なものだった。 だが、君は随分彼に執心しているそうではないかね。 彼に何を見出した?」

 彼が超能力やオカルトに興味がある、と言う事は知っている。

 レントンもそういう子を派遣してくれた。

 だが、彼に実際そういった才能は無い。

 あくまでアカイル教授を誤魔化すためのものでしかない。

「彼に才能があるかどうかはこれからです。 まだ試験段階ですから…。 私は忙しいのでこれで失礼してよろしいですか?」

 さも当然のようにそう言う。

 そう言うしかない。

 彼に才能があるかなどはわからないし、実は本当にあるかもしれない。

 その可能性が捨てきれない以上、教授とて何もいえないはずだ。

 だが…。

「無いね。 私にはわかる。 無い。 だが君はどうだ、マリア。 何か隠してる目だ。 私にはわかる、そう言ったぞ? 何を隠してる」

 迫るように語気を荒げる教授。

「何も隠していません。 これ以上話を続けても時間を無駄にするだけです。 失礼します…」

 私は逃げるようにして部屋から出ようとするが…。

「失礼します…」

 私の目の前に信じられない人物が姿を現した。

「ごほほほほ…。 言っただろう? マリア」

 教授が下卑た笑みを浮かべながらこちらに歩いてくる。

「お嬢様の覚醒がこんなに早くなるとは思いませんでしたからね…。 アカイル教授に報告をするのが少し遅れました。 手間取らせましたね…」

 言いながら近づいてくる男性。

「ベルト・スペングラー…さん…」

 シャンドア家の執事にして、マナさん付きの世話役。

「マリア・バレット様、お嬢様の歌をもうお聞きになられたようですね? どうですか、新しい人類の可能性は?」

 最悪だった。

 私の周囲にはベルトの他に教授、そして怪しげな二人の男…。

 絶対絶命というやつか…。

 私の力でなんとか逃げられるものだろうか?

「ごほほほ…。 ザリク、タルウィ…。 マリアを捕らえなさい。 人体実験の材料にする」

 それを聞いて私はもう我慢をする必要は無くなった。

「好き勝手言って…。 どうなっても知らないわ!」

 私はザリクと呼ばれた男の方へと自分から向かっていく。

「むっ!?」

 突然のことに少し隙を見せたザリクの持つ水筒を奪う。

 中に水が入っているかどうかは運だったが、どうやら運は私の味方をしたようだ。

 水筒の中の水を宙空にばら撒き、それを掌で弾くように男達に浴びせかける。

 それも水を瞬間的に凍結させた上でだ。

「何!?」

 教授は降り注ぐ氷に驚愕し、その隙に私は部屋を飛び出した。

「素晴らしい! マリア! ぜひタルウィの子を孕め! 待つんだ! マリア!!」

 教授が信じられないことを叫んでいる。

「そんなことする訳ないでしょ!」

 私は叫びながら施設の出口を目指す。

「マリア! どうしたんだい!?」

 グルーバーソンが私の前に現れる。

「グルーバーソン! どいて、私はここから逃げるの!」

 私は言いながらグルーバーソンを押し退ける。

 すぐ後ろから角刈りの男、タルウィが迫ってくる。

「なんだ君は!」

 グルーバーソンがタルウィの邪魔をするように立ちはだかった次の瞬間。

「があああああああ!!!」

「邪魔をするな…」

 グルーバーソンが顔面を握られ、次の瞬間、その全身が燃え上がる。

「ひどい…」

 私はその光景を見るも、だが立ち止まらず逃げた。

 どうしようもない罪悪感に襲われながら、私は施設の外に出て、自分の車に飛び乗った。

 タルウィとザリクが私の方に迫ってくるのが見える。

 一瞬早く車の発進に成功し、私はその場を離れた。

「ごめんなさい…。 ごめんなさい…」

 私は涙を流しながら謝ることしかできなかった。

 グルーバーソンのことは、正直鬱陶しさを感じていた。

 ハッキリと物を言わず、余計なことばかりしてくる青年だった。

 だが失ったものは戻らない。

 私はハンドルが凍るのも意識せず、とにかくその場を離れるためにかっ飛ばした。

 

 

 マナさんとの学びは充実したものだった。

 たった一日でここまで上達できるものだろうかと思うほど、僕は意識の反転をコントロールできるようになっていた。

 主にレントンが用意してくれた、遡行の悪い少年たちの意識改革とか言う名目で、親御さんの同意のもとに、集まってもらった生徒達を対象に僕の能力の実験をしていく。

 不真面目であればあるほど、反転した時の対象の性格の変わりようが激しかった。

 勉強嫌いが勉強の虫に、不良を絵に描いたような少年がクソがつくほどの真面目さに、正直恐怖さえ覚えるものだ。

 僕はその中で行き過ぎないようなコントロールを目指し、反転の必要が無さそうな生徒には影響させないような努力をする。

 最初こそ難しいものだったが、次第に慣れていくと制御ができるようになっていった。

 マナさんの歌を聞いてから、思考の柔軟ささえ変化したような気もする。

 考え方、記憶力、計算力、創造性、そのどれもが一段階から二段階上がったような感覚を僕は感じていた。

 その日の夜、僕はレントンから親御さん達から大変感謝されていたことを聞いて安心していた。

 マナさんも変わらず、難しそうな本を読みながら食事を取っている。

 明日もまだこの状況は続くのだろうかという心配もあるが、シャンドア家とも、ベルト氏とも連絡が取れず、マリアとも連絡が取れない状況ではどうしようもない。

「マナさん、心配事はないかい?」

 僕はマナさんに、一応この先のことを聞こうとしたが…。

「心配事…。 先生、先生のこと悲しませてしまうかも…」

 僕はマナさんのその言葉に驚くしかない。

「どうしてだい? マナさんが僕を悲しませる?」

 僕は聞くしかない。

「うん。 思ったより早そうなの…。 先生とお別れ…」

 マナさんが悲しそうに言う。

「理由を聞かせてもらっても?」

 僕は体制をマナさんの目線に合わせ、肩を優しく掴んで聞いた。

「先生、先生は何があってもマリア先生を守ってあげてね?」

 そう言った次の瞬間、モーテルの外側から大きな音と振動が響き渡った。

「なんだ!?」

 ジムが大騒ぎしているのが聞こえる。

「マナさん、部屋にいるんだ。 いいね?」

 僕の言葉にマナさんは頷く。

 この時、この行動が招く結果を後に僕は後悔することになるが、この時はそれどころではなかった。

 

 外に出て周囲を確認する。

 どうやらモーテルの壁に車が突っ込んだようだ。

 しかもそれは…。

「マリア!?」

 マリアは壁に追突した拍子に頭を打ったらしく、額から血を流して項垂れていた。

「おいおい、大丈夫か?」

 ジムが心配そうに近づいてくる。

「急いできゅ…」

 僕は医者を呼んでもらおうとするが、マリアの手が僕の腕を掴む。

「アレン…。 逃げて…」

 マリアはそう言いながら、車から立ちあがろうとする。

「無理するな、一体どうしたって言うんだ」

 僕は事情を聞こうとするが、それどころではないと言う様子でマリアは訴える。

「教授がマナさんを狙ってる。 追手は撒いたと思ったけど、あれらはもう人ではないみたい…」

 言っている意味がわからないと思いながらも、マリアの尋常では無い様子に僕はジムにマリアを任せ、胸騒ぎがして部屋に戻った。

 そこには…。

「おやおや、アレン様。 お嬢様を預かっていていただきありがとうございました。 これよりはこのスペングラーめがお嬢様をお預かりいたしますゆえ、ご安心ください」

 気絶しているらしいマナさんを抱えたベルト氏がいた。

「ベルトさん、どう言うことなんだ!」

 僕はとにかく事情を知りたくて、ベルト氏に聞く。

「どうもこうもありませんよ。 私はお嬢様の覚醒を、そしてメルニッツ秘文字の解明を待っていたのです。 全てはこの先訪れるであろう混沌のために…」

 やはり意味がわからない。

 僕はとにかくベルト氏の目を見る。

 マナさんの影響下にあっても、その影響を受けなかったベルト氏のことだ。

 僕程度の力が通用するとは思えないが、それでも僕は力を使った。

「おや、あなたの力は相手の精神に作用するようですね。 厄介なものですが今は構っている暇はありません。 それでは失礼いたします」

 ベルト氏はそれだけ言うと、マナさんと共に闇に消えた。

「おい、まっ…。 ちくしょう…。 マナさん…」

 どうしようもない状況、手立ても何も思い浮かばない。

 僕はとにかく外に出て、マリアの元へと急いだ。

 

 

 それから数日が経過した。

 マリアを病院へと搬送した後は、とにかくレントンと合流してこれからを話しあうことにした。

「それで、お前はどうしたいんだ?」

 レントンは僕が悩んでいる時、とりあえずそれを聞いてくる。

 明確な方向性を定めなければならないのは、どんな状況でも同じである。

 気がついたマリアから聞いた話では、シャンドア家の執事であるベルトとアカイルがつながっていた事。

 そしてアカイルは、マナさんを使って何かをしようとしていることだ。

 僕の力はベルトには通用しなかった。

 さらにアカイルの手下にはタルウィとザリクと呼ばれる超異者がいるという。

 こちらの手札は意識反転能力を持った僕と、腕っ節には自信のある喧嘩自慢のレントンだけだ。

「どうしたものか…」

 正直どうしようもないってのが答えではある。

 相手は化け物三人、その上さらに化け物じみているベルト。

 僕はお手上げ状態だった。

 だが…。

「諦めるわけにはいかないわ!」

 いつの間にか現れたのは、頭に包帯を巻いたまま病院から抜け出してきたマリアだ。

「おい、大丈夫なのかお前」

 レントンが当たり前のことを聞く。

「平気よ。 私は凍結使いになったの、興奮してもすぐに冷静さを取り戻せるわ」

 かなり不安なことを言うが、その強気が今はとても頼もしく思える。

「それで、今はどういう状況なのか把握できてるかしら?」

 さも当然かのように、レントンに聞くマリア。

「はいはい、しょうがない奴らだわ。 俺がいないと何もできないよな」

 呆れつつ言いながら、レントンは自分のバッグを取り出す。

「俺の情報網を甘く見るなよ?」

 レントンの出した書類を僕は受け取ろうとするが、レントンがそれを止める。

「レントン?」

 僕は聞くが、レントンは真剣な眼差しで僕を見てくる。

「アレン、さっきも聞いたな? お前はどうしたいんだ?」

 先ほどの再質問だ。

 だから僕は意を結したように言った。

「マナさんを助ける。 彼女の力を悪用させてはいけない」

 それを聞いて、レントンはやはり呆れたように続けた。

「無理はするなよ?」

「あぁ…」

 それだけを確認し、僕は書類を受け取った。

 

「すごいわね、よくここまで調べたと思うわ…」

 レントンの書類にはアカイルのスケジュールや、シャンドア家の間取り、さらに超異人類研究所の情報などが事細かに記されていた。

 そして何より、マナさんの居場所である。

 マナさんは現在シャンドア家に戻されているようだが、それはアカイルに引き渡すまでの準備期間のようであった。

 アカイルはアカイルで何かを準備しているらしく、その間はベルトがマナさんを見張っていると言うことだろう。

 既にシャンドア家にはアナさんもグレン氏もいないらしく、グレン氏に関しては先日遺体となって発見されたことをレントンが報告してくれた。

 アナさんに関しては留置場のままである。

 つまりシャンドア家にはベルト氏、そしてアカイルの手のものが待機している可能性が高い。

 灼熱を操るタルウィはマリアが、渇きを操るザリクはレントンが呼ぶらしい助っ人が、そしてベルトに対しては僕がなんとかすることになるだろう。

 できればベルトに遭遇せずにマナさんを保護したいが、難しいだろうなぁと思った。

 そして僕たちは、レントンの呼ぶという助っ人がいるという、シャンドア家から少し離れたところの、いつものモーテルにやってきた。

 それらしい人物を探す。

 アジア人だという話だけは聞いているが、人相書きのようなものがないので、詳しいことがわからない。

 だが…。

「もし、そこの御仁。 アレン・ベンクマン殿とマリア・バレット嬢とお見受けする」

 まるで日本の映画に登場するような、侍のような風体の男性がそこにいた。

「えっと、あなたがレントンに呼ばれたという?」

 僕はそう聞くしかなく、侍のような人に尋ねる。

「そうですな。 あぁ、拙者の名はゴウラ・カンダイジと申す。 以後お見知り置きを!」

 カンダイジと名乗った豪快な男性は、そう言って右手を差し出してきた。

 シェイクハンドを求めてくるのも珍しいため、僕は快く受け取る。

 だが…。

「うわわわ…」

 カンダイジ氏は豪快に僕の腕を上下に振る。

「おぅ、これは申し訳ない。 どうにも力加減が難しくてな。 拙者、渡米して以来、用心棒として腕を磨いている所存、そしてどうやら、今回は人類の存亡にも関わるとか?」

 レントンがどんな話をカンダイジ氏にしたのかわからないが、どうやら物凄い壮大な話として伝わっているらしい。

 しかし、ある意味間違ってはいない。

 マナさんの力がこの世の中にどんな影響をもたらすかは、身をもって僕とマリアが体験している。

「そうです。 あまりにも壮大で誇張の激しそうな話かと思いますが、あなたのように強そうな方を雇えると心強い。 よろしくお願いします」

 僕は丁寧にカンダイジ氏に頭を垂れた。

「いやいや、謙遜なされますな。 スタンツ殿にも十分過ぎる謝礼を頂いてますゆえ、拙者の方こそ存分に腕を振るいましょうぞ」

 太い腕、決して偽りなど無さそうな筋肉が、その心強さを物語る。

 そして、僕らはシャンドア家に向かって行った。

 

 シャンドア家の周辺に見張りなどはいないようだ。

 超異人類研究所のアカイルの息の掛かった者がいるかと思ったが、恐らくあの三人だけでもなんとかなると考えているのだろうか?

 とにかく僕は屋敷の見取り図から、正面以外から中に入れそうな位置を探す。

 しかし、結果的にマナさんの部屋へとたどり着くには、外から直接二階に登り窓から入るか、一階から家屋に入れば、どうしても居間、階段を通るため臨戦体制は免れないという結果になる。

 現状シャンドア家の本来の主人とその妻はおらず、遠慮と言う意味では無いに等しい。

 僕達は屋敷の裏に回り、直接二階に登って窓からマナさんを保護する事に決めた。

 だが…。

「いけませんね。 お客様、人の敷地で勝手に裏に回ろうなど、警察を呼ばれても仕方ありませんよ?」

 言葉が聞こえると同時に、屋敷前の空間が歪み、強烈な威圧感を発するベルトが現れる。

「ほぅ、これは面妖な…」

 ゴウラさんが素直に驚く。

「マナさんの力を悪用させはしない。 保護させてもらいます」

 僕はハッキリとそう言う。

「ははははは…。 悪用とは人聞きが悪いですね。 お嬢様の力は、あくまで人類を次のステップに進化させるためのもの。 あなたにそれを止められる権利はありませんね」

 悪びれも無く、上から目線でベルトは答えた。

「彼女の力で人類全てが超異者になれば、能力を悪用する犯罪者が多数現れる。 目覚めないものだっている。 超異者と常人の間に軋轢が生まれ諍いの種にもなるわ」

 息巻くようにマリアが反論する。

 しかし、ベルトの態度は全く変わらない。

「何を今更おっしゃるのです。 今でも権力、金銭、そして暴力による差だけで人の優劣は理不尽に決定付けられているではありませんか。 そもそも人の歴史など諍い、争いはどれだけの時間を要しても変わらない。 先の二つの大戦を見て何も思わなかったのですかな? あれだけの戦を起こして起きながら、人は変わらないのです。 であれば、人類はそれ自体が更なる革新を起こし、一握りの本物が全てを支配できるようにした方が良いのです」

 僕はその言葉に呆気に取られていた。

 確かに納得出来る所もなくはない。

 だが、ベルトの言葉の最後には、一握りの誰かによる独裁のために、他の全てを犠牲にしても構わないという姿勢がそこにある。

 確かに先の大戦の中ではそう言った勢力があり、そのためにたくさんの人たちが犠牲になっただろう。

 また同じ過ちを繰り返してはならない。

 そう言った学びのもと、教育革命が起こった。

 僕のような、荒れた生徒のための家庭教師も、その一環で生まれた仕事だ。

 僕は自分の仕事に誇りを持っている。

 確かに、マナさんの力は素晴らしいものだ。

 使い方さえ誤らなければ、ベルトの言う一握りの何か、と言う存在が生まれるかもしれない。

「だけど、あの教授のやり方は絶対に間違っている。 人を無理やり改造し、超異の力を手に入れても、そこにあるのは異形の怪物だけだ」

 マリアの見たタルウィとザリクと言う男の話を聞けば、あの教授がまともな思考を持っているとは思えない。

 そんな男が、マナさんを真っ当に利用するはずがない。

「そうですね。 あの教授には今回の件について色々協力をしていただけました。 本来はこの時点で邪魔者を消してもらえてるはずだったのですが…」

 ベルトは突然引っかかる事を言う。

 だがその真相は僕にはわからない。

「どう言うことだ…?」

 僕は質問をするが、ベルトはその応答を断るように手のひらをこちらに見せる。

「いえ、もはや何を言っても無駄なのですよ。 さて、こちらの準備も整ったようですし、あなた方には二人の相手をしてもらいましょうかね…」

 ベルトはそう言うと、屋敷の戸を開ける。

「出たか…」

 マリアが苦々しい顔をするのがわかる。

 現れた二人の男は確かに異形の姿をしていた。

 全身焼き爛れたような皮膚の男タルウィ。

 全身渇いて皮と骨だけのような男ザリク。

 だが僕たちは慌てず作戦通りに動くことにする。

 このパターンも想像していなかった訳ではないのだ。

「せめて足止め程度には働いてもらいますよ?」

 ベルトの言葉に対して、聞いてるのか聞いていないのかわからない態度を示すタルウィとザリク。

「マリア、ゴウラさん。 よろしく」

「わかってるわ…」

「うむ…」

 三人とも構える。

 そしてまずはマリアとゴウラさんが走る。

 マリアはタルウィに、ゴウラさんはザリクに、それぞれ向かっていく。

 僕とて何もしていない訳ではない。

 念のため、タルウィとザリクに僕の能力を試したが、効果は無いようだった。

 彼らの精神はおそらく常人の持つ常識とは違うのだろう。

 反転しても同じ、一つの球体のような精神と言えばいいだろうか。

 彼らはアカイル教授の命令が全てなのだ。

 そこに反転の余地はない。

 ならば僕が出来るのは二人の邪魔にならないように屋敷へと走り、ベルトと対峙するのみ。

 マリアとゴウラさんはそれを理解しており、タルウィとザリクの注意を引いてくれる。

 そして僕はマナさんを保護すべく、既にベルトが入っていったシャンドア家へと進入した。

 

 

 アレン殿が屋敷へと進入するのを確認し、拙者は目の前の異形の存在を改めて注視する。

 アレン殿やマリア嬢によれば、アレらは普通の人間ではないそうな。

 拙者も今まで用心棒として、たくさんのモノノフを相手取ったが、バケモノとの対峙は過去に数度ほどしかない。

 一人は丈が十尺にも及ぶ、まるで鉄塊のような剣を片手で振り回すような男。

 もう一人は刀身に炎を巡らせて自在に操る曲芸師のような剣士であったか…。

 あれらはまだ敵対と言う言葉でくくれるような相手ではなかったから助かったようなものだが、今回の相手は明らかに悪意の諸相を見せつけて来ている。

 拙者は拳を構え、水筒を持った痩せ細った男を迎え撃つ。

 まずは見、仮称を痩せ男とする。

 痩せ男は殴ると言うより、掴むことを目的とした行動を取ってくる。

 拙者はそれをいなし、合気で回す。

 背中を見せた痩せ男の背面に拳を叩きこむ。

 これが試合というのであれば、拙者は即座に反則負けであろうが、これは死合である。

 痩せ男は背面に拳を打たれた勢いで派手に吹き飛ぶ。

 頭からゴッと言う音と共に地に打たれ、これは死んだか?と思案したが、それはすぐに杞憂と分かった。

 痩せ男はすぐに立ち上がると、水筒の水を少しあおった。

「ぎひひひひひ…。 面白い、面白くないやつ。 俺の渇きが満たされてしまいそうになったじゃないか…。 お前も渇け…。 渇け!」

 訳のわからない言葉を曰いながら、男は先程よりも格段に早い速度で詰め寄ってくる。

 その動きはあくまで拙者の体を掴むことを目的としており、拙者は受け流して対応していく。

「掴ませろ! 渇きだ! お前の内の水分を寄越せ!」

 語る語る。

 その言葉から痩せ男の攻撃の目的と、その影響力が把握出来る。

 この者の手に触れれば、恐らくはその部分の水分が奪われるのであろうか。

 なれば易々と相手の思惑に乗る必要はない。

 しかし、先ほどは相手の着衣がある背中を叩いたが、顔や相手の素肌を殴ればどうであろうか?

 それでこちらにも影響があるのであれば、迂闊に相手に攻撃をすることができない。

 で、あれば拙者は相手への攻撃手段を模索し、一つの答えに辿り着く。

「ようし、触れてやろうではないか!」

 拙者は痩せ男が腕を伸ばした瞬間、すっと体を動かした。

「あうえお!?」

 痩せ男が素っ頓狂な言葉を発して悶える。

「お主の動きはまるで素人、殺しは出来ても戦への心構えはまるでできていないのだろう」

 拙者がそう言っても、痩せ男は何も応えず悶えている。

 それはそうだ、拙者は痩せ男が腕を伸ばした瞬間、思い切り蹴り上げて腕をへしおったのだから。

「ぎょほおおおおおお!!」

 痩せ男が突然大きな奇声をあげる。

 しかし、それは痛みであげるようなものとは少し違う。

「ぎゅひひい…。 ぎひひひひひ…。 だまんねぇ…。 だまんねぇなああ!」

 折れた腕を振り回しながら、出血も厭わず奇声をあげる。

 その姿に拙者は不気味な気配を感じて、すぐに後ろに飛び退いた。

 それが正解だったと言うのは、拙者の道着の前面の一部についた染みが風化するように散ったからだ。

「ぎゅひひひひ…」

 痩せ男はゆっくりと立ち上がり、折れて飛び出た左腕の骨から出血するそれを右手で掬い、投げつけてきた。

「ぬぅ…。 なんと言う妖術か…」

 拙者はその飛沫に当たらぬように避けながら、別で戦っているマリア嬢の邪魔にならぬように配慮する。

「どうした…。 最初の威勢は無いのか? ぎひひひ、もう打つ手無しか? では俺様の渇きを満たしてくれ…。 お前の血を寄越せ…」

 そう言いながら、己の血を掬いつつ近づいてくる。

 打つ手など…、無い訳が無い。

「よもや超異の時代がこれからやってくるとは思わぬが、いつやの時代も拙者は己の力を信じて生きてきた。 うぬもその力、自らの意志で手に入れたかは存ぜぬが、そのような体になってまで使うその力に誇りはあるのか?」

 拙者は質問をする。

 人外たる力には、その反動が得てしてあるもの。

 そのような力を持った者が生まれてくる可能性があるのならば、これからの時代、この先の子供たちに、その力の責任と代償の重さを教える必要がある。

 それが大人の責任と言うもの。

「うぬ、心して構えい。 うぬのその力、悪用すらば必ずその責がうぬ自身に降り掛かるであろう…」

 拙者は静かに構える。

 拙者の言葉など届いているかどうかは存ぜぬが、痩せ男は構わずこちらに近づいてくる。

「ごちゃごちゃ、うるさいぜぇ…。 死ねぇ!」

 痩せ男は己の血を大量に、ばら撒くように投げてくる。

 避ける隙間など無いような大量の飛沫を前に、拙者は逃げることなど考えない。

 鉄塊大剣の男が言っていた。

「己に降り掛かる火の粉を退けたくば、力を信じて振り払え、力の前にはあらゆる災すら些末の砂よ!」

 拙者は正眼に構えて溜めた力を拳に乗せて撃ち抜いた。

「え…」

 音より先に衝撃が届く。

 痩せ男は己の血飛沫が全て戻され、剰え見えない衝撃に対してその一言だけを残して吹き飛んだ。

「誠、愚かなり…」

 拙者は倒れてピクリとも動かなくなった痩せ男を見遣り、次いでマリア嬢の様子を伺った。

 

 

「全く、下劣な男は大嫌いよ!」

「グヒヒ…、犯してやる。 お前の全身が焼けて爛れて良い香りを発しながら、その顔が絶望に歪んでもなお、俺の摩羅で貫いてやる」

 タルウィはそんなことを言いながら、とにかく私の体を掴もうとしてくる。

 かすった部分の衣服が焦げて消えてしまうほど、タルウィの手に宿った熱が高いという証拠だろう。

 掴まれれば、その部分がグルーバーソンの時と同じように、焼け落ちてしまうかもしれない。

 掴まれれば負け、けど私の条件も似たようなものだ。

 私は掴んだところを凍結させることができる。

 凍結の速度は自分の意思で調整出来るように訓練したし、今では常温のものであれば掴んだ瞬間に完全凍結をすることすら可能にもなった。

 とは言え、相手は躊躇無く人を殺すことが出来る鬼のようなもの。

「どうしたぁ…。 グヒヒ、お前も掴みたいんだろう? 掴みにこいヨォ…」

 タルウィは挑発するように言いながら、こちらに絶え間なく走ってくる。

「あら、女性を誘うには色気が無さすぎるわ!」

 私はそんなことを言いながら、タルウィの攻撃を避けていく。

 正直打つ手が無い訳ではないが、お互いの攻め手が似通っている分私の方が不利だ。

 なにせ相手は身長も七尺を越えそうな大男である。

 その力も尋常ではなく、間違いなくか弱い乙女な私よりも上だろう。

 掴み合いに発展すれば、間違いなく私が一方的に犯されてしまう。

 相手に攻めない理由など無いのだ。

 だが、機会は思わぬところからやってきた。

 空気を切り裂くような大きな音が、すぐ近くから巻き起こった。

 超異者ではないはずのゴウラさんが、何やら物凄い力でザリクを打ちのめしたようだ。

「何!?」

 その状況に、タルウィは動きを止めるほど動揺している。

 私はその隙を見逃すほど甘い女じゃない。

 すぐに走り、そこにたどり着く。

 考えてはいたのだ、それを持ち込めば勝てる可能性は上がるかもしれない。

 しかし、私がそれを持っていれば、警戒されてしまい、うまくはいかないだろう。

 同時に、ゴウラさんはザリクをどんなタイミングで倒してくれるかだ。

 ゴウラさんが戦闘中、私はとにかくタルウィから逃げることを考えていた。

 この広いシャンドア家の庭で、それがうまくいけば勝率は上がると私は考えていた。

 そして、その考えがうまくいった。

 私はザリクの持っていた水筒を掴み、中の水を手に取りながら瞬間凍結させていく。

 そしてそれを氷柱のようにして、タルウィの心臓に突き立てた。

「ゴォ!?」

 タルウィの動きが止まり、その手は氷柱を掴んで溶かしていく。

 だがそれが逆にタルウィが墓穴を掘る結果になるとは思いもしなかっただろう。

 氷柱が溶けて無くなったそこは、ぽかりと穴が空いて多量の出血をもたらした。

「そ、そんな…。 ぐがっがががが…」

 タルウィが悶え苦しむように呻き、暴れながら胸に手を当てる。

 焼灼しようと思っても、傷ついた内臓までは無理だろうと踏んでいた。

「結局のところ、化け物みたいに見えても人間なのね…」

 私はそんなことを考えながら、悶えるタルウィとザリクを見る。

「見事であったマリア嬢」

 ゴウラさんが賞賛の言葉をくれる。

「いえいえ、ゴウラさんこそ、凄すぎます…」

 そう言うことしか出来ない。

 本当にこの人は人間なんだろうかとさえ思う。

 だが、そんな私達の前にそれは現れた。

「ごほほほほほ…。 いやはや、本当にお見事だよ君たち」

「アカイル教授…。 あなたの目論みは絶って見せます。 諦めて、この出来そこないの超異者擬きを連れて帰ってください」

 私はそう言うが、どこぞから現れた教授の気配は、ゴウラさんでも掴めなかったようだ。

「むぅ、あの老人、妖怪か物の怪か?」

 そんなゴウラさんの反応に、教授は笑みを浮かべてザリクとタルウィをそれぞれ片手で拾い上げた。

「こほほほ、我々はまだまだ力不足。 だがいずれ本物になる。 あの娘は世界へ変革をもたらすのだが、それは我の仕事ではない。 あの執事、なかなかの曲者よ」

 教授が何を言っているかわからない。

 だがそれはすぐに気にならなくなることになる。

 少なくとも、私にとっては…。

 大きな音がシャンドア家の屋敷から響き渡り、それがアレン、もしくはベルトによって引き起こされたものだとわかる。

「アレン!?」

「行こう、マリア嬢」

 ゴウラさんの後押しで、私達は屋敷の方へと向かった。

 アカイル教授はタルウィとザリクを抱えたまま、私の方へ笑顔をむけるだけで、それ以上のことをしてくる気配は無かった。

 

 

 外での喧騒が屋敷の中では全く聞こえてこない。

 何か息が詰まる空間に来た気分だ。

 とてもマナさんに学問を教えにきていた時と、同じ屋敷とは思えない。

 ベルトは僕を応接室に案内すると、そこには…。

「マナさん!」

 マナさんがちょこんと可愛く座っていた。

「マナさん、僕と帰ろう!」

 僕はすぐに駆け寄って、マナさんの肩を掴むとそう言った。

「どうしてかな? 私の家はここよ?」

 マナさんはキョトンとしながらそう言う。

「い、いや、そうだけど…。 いや、とにかくここにいると君には危険なんだ」

 説得を試みるしかない。

 彼女は何かをされたのか、いや、何かを強要されているのかわからないが、最初の時のような心の動きのない、無表情で神秘的な様子を保っている。

 明らかに僕が知っている、最後に話した時の彼女とは違う。

「お客様、落ち着いていただけますかな?」

「うぐっ!」

 僕はベルトから首を掴まれ、そのまま持ち上げられると、そのままマナさんの対面にある椅子に座らされた。

 ベルトは僕の首から手を離すと、畏まるようにマナさんの前に傅く。

「こちらは黎明の子、明けの明星、ルキフェル様にあらせられる。 お前のような一人間ごときが本来お目にかかれる方には無いのだぞ? そも…ぐっ!?」

 突然ベルトが吹き飛ばされ、応接室の壁に打ち付けられた。

「騒々しいぞマモン。 少々思い出した。 こちらの方は私に現代の有様と常識を教えてくれたのだ。 これ以上の無礼は許さない」

 マナさんの瞳が両目とも別々の色を発している。

 右目が青、左が赤、目を凝らして見ると、その背中には右側に純白の、左側には漆黒の翼が見えてくる。

「私の部下が失礼した。 数々の無礼を詫びよう…」

 マナさん? いや、ルキフェルと呼ばれたそれは明けの明星と呼ばれたように、神々しく、光輝いて見える気がする。

「失礼いたしました。 しかし、お目覚めしてすぐのあなた様に何かあればと…」

 マモンと呼ばれたベルトは、腹を抑えながらも、変わらずマナさんに跪く。

「私が寝ている間にアカ・マナフが随分と勝手に動いていたようだな? こちらにはウォフ・マナフや対抗者は目覚めておらぬのか?」

 マナさんが僕にはわからない単語をベルトに質問する。

「はい。 ハルファスとマルファスの情報ではまだそのような形跡はないそうです。 二人は現在東洋の島国であなた様を迎える準備を整えており、しばらく後にそちらへと…」

 そこでベルトの言葉を遮り、マナさんは立ち上がった。

「私は…。 早かったようだ。 この世界には彼の方の気配を感じない。 まだ生まれていないのではないか?」

 彼の方とは誰のことなのだろうか?

 僕はもう状況がわからず、訳がわからなくなる。

「おそらく、この世界の人間は遺伝子情報の操作で我々のような神魔の力を封印されております。 あなた様の力でそれを解放するため、我々は動いてまいりました」

 マナさんはそれを聞くと、心底不満そうに頬を膨らませる。

「つまらない…。 最初はあなたかと思っていたのに…」

 マナさんは僕の方を見ながら言う。

「でも違っていた。 けど、あなたは私に教育を施してくれた。 それを感謝しあなたは私に仕えることを許そう」

 マナさんは物凄い上から目線で僕の眼前に足を差し出す。

「何をしている。 お舐めになれ!」

 ベルトがそう言う。

 僕は訳もわからず、ただ立ち上がって言った。

「い、一体君に何が起こったって言うんだ?! マナさん、こんなのやめよう。 ベルトさん、おかしいってわからないのか?」

 僕の言葉に今度は二人ともキョトンとする。

 少しの沈黙。

「マモン。 この世の人間の神魔の封印を解けばいいのだな?」

「はい、そうです。 さすれば彼の方もお目覚めになるかと…」

 まるで僕などいなかったように、二人は話を進めていく。

「ま、マナさん!」

 僕は思わずマナさんの頬をはたいてしまう。

 子供に手を上げるなど、本来はもってのほかだ。

 しかし、彼女の様子は明らかに本来の彼女と違う。

 しかもそのような状態で、彼女は歌おうとしている。

 おそらく世界の全ての人類に影響が出るであろうあの歌を…。

「何をする…。 きさ…」

 ベルトが驚愕して、僕に拳を向けるが…。

「ル、ルキフェル様!?」

 今度は僕もベルトも動きを止めて、マナさんに注目した。

 そこにいるのは涙を流す八歳の少女、そのものとも言えるマナさんの姿だった。

「マナさん!」 

 僕はマナさんを抱き寄せて、頭を撫でる。

「すまない、ごめんなさい。 僕が悪かったよ。 叩くなんて良くないことだ。 いけなかった。 ごめん、ごめんね。 でも、君の歌は危険なんだ。 だから人類はどんなでも今のままのほうが…」

 僕はマナさんをなだめるものの、僕の胸の内にいる少女はまた次第に神々しい雰囲気を纏い始める。

「うん、だめだ…。 やはり全ての愚者達に救済を…。 でないと、神に対して叛逆できない…」

 マナさんが僕の胸元でそんなことを言い出す。

 そして…。

 マナさんは一層神々しく光り輝き出した。

 今回は正真正銘の、本当の光だ。

 次の瞬間、僕は強烈な力で弾き飛ばされ、部屋が、いや、屋敷が吹き飛びそうな衝撃が広がる。

「素晴らしい…」

 ベルトがそう言いながらマナさんに改めて跪く。

「マモン、これが終わったら私はおそらく寝るだろう。 この体では力も大して強くはない。 あとはわかるな?」

「かしこまりました…」

 ベルトがそう言ったのを聞くと、マナさんは天高く、屋敷の天井を、屋根を貫いて飛び出していった。

「マナさん!!」

 僕は屋敷に出来た大きな穴から、彼女を見送ることしか出来なかった…。

 

 

 その日、世界に歌が流れた。

 あらゆる通信施設を乗っ取ったかのようにに、テレビに、ラジオに、それ以外のあらゆる音源も…。

 鳥の囀りが、馬の嘶きが…、獣の遠吠えが…、クジラやイルカの大きく小さな声が…。

「なんだこの歌は!?」

「なになに、何かの新しい宣伝?」

「すごく綺麗…」

「いや、ちょっと怖いよ…」

 最初の反応は戸惑い。

 困惑、嫌悪、羞恥もあった。

 人々は突然聞こえてきたその歌に様々な反応を示していく。

 だが次第に…。

「綺麗だ…、これは…夢…か?」

「星が綺麗だよお母さん…」

「あははははすごいすごい、ぐるぐる回る」

「うわあーーー、やめてくれええええ」

 その反応は次第に狂気に満ちたものに変わっていく。

 恐怖、恍惚、高揚、そして悲嘆。

 様々な反応が世界中で起こる。

 まるで大きな変革を受け入れるかのように、拒否するかのように、世界が変わっていく。

 静かに、何も起きなかったように、そして大きく変わっていった……。

 

 

「そんで、どうなったんよ?」

 レントンはいつも通りの口調で僕に質問してきた。

 彼はいつも通りの反応だが、様子は全然違う。

 なにせ彼も目覚めたのだ。

 人類の変革は目覚めたもの、目覚めなかった者の間に大きな変化をもたらした。

 レントンは人の性格や意識の変容が色で見えるようになったらしい。

 おとなしい人物、安静にしているもの、穏やかなものほど青く、怒っている物、気象の荒い者ほど赤に近くなって行くのだとか。

 本人的にはもっと良い実践的な能力が欲しかったようだが、相手の状態を見ながら話を進めやすくはなったと言っていた。

 人によっては手から火を起こせるもの、電気を発するもの、体の大小を変えられるもの、あらゆる力がこの世に溢れ始めていた。

「ベルトはその場でいなくなった…。 マナさんは行方不明さ…。 方々探しちゃいるけど、とても見つかりそうにない」

 マナさんは見つからない。

 さらに、アカイル教授の超異人類研究所はいつの間にか消失していた。

 マリアもその行方に関しては全く検討もつかないそうだ。

「だがそうだな、女の子を探すためにも、うかうかとしてられないな?」

 レントンは茶化すようにそう言った。

「あぁ、これから忙しくなる。 レントン、お前も手伝ってくれるか?」

 僕の言葉に、レントンは頷きながら僕の肩を叩いた。

「当たり前だろうが、俺がいないとお前、何も出来ないだろう?」

「何を、お前だってそうだろうが…」

 そんなお互いの言葉に僕らは笑い合う。

 

 忙しい…。

 超異人類研究所なんて、正直あり得ない力を研究するために行なっていた組織だった。

 研究者が自己満足に浸るために、超能力やオカルト的な現象を調査したり、それを発表するような場でしかなかった。

 だが今はどうだ。

 今やこの新しく新設された超能力相談所とか言ういかにもなプレハブには、連日人が行列を成して相談に来ている。

 落ち着くにはまだまだ時間がかかるだろう。

 今の我々には時間が必要だ。

 マナ、と言うあの少女が何を考えてこのようなことをしたのかはわからない。

 軽めの調査結果では、ニューヨークの一地域における人口の一割ほどが能力に目覚めているという話も来ている。

 全世界人口の中でも一割ともなれば、それはそれで物凄い数である。

 その数の人間が特殊な力を使うようになり、さらにはその制御を行えずに困惑するケースが多いのが当たり前だ。

 だからこのように相談所を設けて、その内容、制御方法の模索、対応策の考慮を行なっている。

 世界はまだまだ変革していくだろう。

 だから私は裏でアレンやレントンと共に計画を推し進めている。

 超異人類犯罪対策。

 大きな力を使えるようになれば、それを悪用するものは確実に現れるものだ。

 火、電気、風、体質の変化、ありとあらゆる力が犯罪に応用できる。

 しかし、逆を言えば、それらの力は犯罪を抑止することにも使えるのだ。

 乱暴な話だが、現状力には力で立ち向かうしかない。

 銃や刀剣と言った、元々の抑止力では間に合わない。

 そんな時代が既に始まってしまった。

 私はとにかく時間が欲しかった。

「ああああああ!!」

 あまりにも処理する書類が多すぎて、思わず叫んでしまう。

「おいおい、あまり叫ぶなよ? 相談客が怯えちまうだろうが…」

 レントンが茶化すように言う。

「うるさいわね! 私はアレンと恋愛がしたかったの! でもどうして! アレンはどうしていないの!」

 私はハッキリとそう言った。

 その日、相談所の助っ人として来るはずだったアレンは来れず、代わりに来たのはレントンだった。

「しょうがないだろ? アレンは大事な仕事があるんだから…」

 そのレントンの言葉には、彼自身の不満も込められているように聞こえる。

 彼らがただならぬ関係なのは私も知っている。

 思えば施設暮らしの時からそうだったかもしれない。

 それでも…。

「それでも…、それでも私はアレンが好きなの! あんたなんかに渡さないからね!」

 私はハッキリとそう叫んだ。

「おうおう、言ってくれるぜ。 じゃあ、追わなきゃならねぇな」

 レントンは意味深にそう言う。

「追うってどこによ?」

「アレンは多分、当分帰れないぞ。 なにせ、今アイツが向かってるのは日本だからな…」

「はっ?」

 私はそれを聞いて驚愕していた。

 仕事だから、どうせ家庭教師の一環だと思い込んでいた。

 だがどうだろう、日本?

「どうして!?」

「そりゃ仕事だからな、神大寺さんと一緒に日本に行ったよ。 何せ、あそこは魔境らしいからな。 教育機関が必要だ。 それに手を貸してくれる爺さんがいるんだとさ」

 ゴウラさんのことならわかるけど、どうして日本なのか、そんな疑問が晴れる時が来るのだろうか?

 私はとにかく、その日の溜まった仕事をパッパと片付けるために、とにかく奔走するのであった…。

 

 

 戦後から数年、日本と言う国の話は色々と聞いていた。

 東京からかなり離れた地、まだ何もない、更地だらけの地に僕はいた。

 ゴウラさんと知り合ったきっかけもあり、超異者のための教育機関を作ると言うことと、マナさんの家庭教師をしていたと言う理由で僕は日本に呼ばれたのだった。

「ほっほっほ、これはこれは遠路遥々御足労いただきありがたいことじゃ」

「いえ、僕の方こそお呼びいただきありがとうございます。 それで、この広い地域全てに超異者の学校を作るのですか?」

 僕の前に現れたのは、この土地全ての所有者であり、この地に学校を作りたいと仰っているご老人だ。

「うむ。 正確にはこれから先増えるであろう能力者のための街を作るのじゃ」

 なんとも壮大な話かと思ったが、僕はそこでマリアの言葉を思い出す。

 超異者になった者、なれなかった者、必ず軋轢が生まれる。

 両者には争い、諍いが必ず起きる。

 現状を見ても、超異者の数はそうでない人に比べればまだまだ少ない。

 超能力を犯罪に使う者すら出てくるだろう。

 そうなれば、両者の関係はより悪化するだろう。

 そのためにも間違いの無い道を作る機関は確かに必要だ。

「わかりました。 僕の知識が役に立つのであればいくらでも協力させていただきます」

 僕のその言葉に、ご老人は満足そうに頷いた。

 だが、次の瞬間、ピリッとした空気が流れる。

「おや、お前さんも来たのか」

 僕の後ろに何か大きな気配がする。

 振り返ろうと思ったが、その大きな気配は間髪を容れず言葉を発した。

「なぁ米国の兄さん。 振り返らなくてもいい、まぁ怯えんでもいい。 別にあんたを取って食おうってんじゃない。 一つだけ聞きたい」

 そのあまりの圧力に僕は頷くことしか出来ない。

「あんたが見たって言う女の子。 そいつは本当にルキフェルと名乗ったのか?」

「は、はい…」

 僕はそれだけ言う。

「そうか、わかった。 おい、爺さん。 準備はもっと速めた方がいいぞ」

 大きな気配はそれだけを言うと、次の瞬間には消えて無くなっていた。

「ほほほほ、せっかちなものじゃ。 言われんでもわかっとるわい。 これから忙しくなるぞい」

 僕はご老人のその言葉に、強く頷き返すのだった…。

  

最後までお読みいただき、真にありがとうございました。

拙い文章だったと思いますが、楽しんでいただけましたら幸いです。

もし続きをご希望などと言う素晴らしい方がおりましたら、その旨伝えてくれると作者は跳ねて喜ぶと思います。


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