見知らぬ人でなく
この物語は創作であり、実在の人物・団体・出来事等とは一切関係ありません。
和歌山県の中部にある小さな漁村、阿尾と言う村がわたしの生まれ育ったところだ。今では過疎が進み人の姿もあまり見かける事もなく、偶に見かけるのは老人ばかりだが、わたしが産まれた頃は漁業も盛んで多くの若者がこの村を支えていた。ここ二十年ですっかり規模が小さくなった秋の村祭りは歴史が古く、三百年も前から行われており、県の指定無形民俗文化財にも登録されている。そこに祀られている神様は古から人に崇められ、人を見守っていたのだろう。
わたしは現在大阪市西区にある市立中央図書館の近くに住んでおり、生まれ故郷の村に来るのは墓参りの為だけになっている。わたしが生まれ育った家は今誰も住む人もなく、親戚に管理を任せている。都合がつけば取り壊そうと思っているのだが、やはり幼い頃の思い出のある家を壊すとなると中々踏ん切りがつかず、何かに理由をつけ先延ばしていた。
あの事故があってからもう七年になる。七年、言葉にすると短いが、その間に経験した様々な事を思い出すと、この苦しみは永遠に続くのではないかと思えた。心の整理は未だに付かずにいる。それでも時間が費やしたことにより疵は少しずつ癒えはじめていた。
わたしは月命日には必ず墓参りをしている。今日はその月命日だ。右手にバケツ、左手に故人が好きだった薔薇の花、棘の少ない品種の薔薇であるサマースノーを持ち、歩き慣れた路を歩く。わたしが育った漁村は猫の額ほどの平地に家々がひしめき合うように建てられ、墓を建てる余地などない。墓地は山の中腹にあり、故人が村を見守るようにとそこに建てられたのだろう。実際、村全体を見下ろすことができる。ただ、そこに至る路は冗談でも良いと云えず、登山道と言って過言はない。脚の悪い老いた人にはかなりの苦労を強いる為、何度か路の整備の話があがったものの、予算としいう世知辛い理由で断念している。
大きな木の根元にある墓がわたしの行くべき処であり、わたしの父母、妻が眠る地である。わたしが彼らの処に辿り着いた時、空は蒼かった。村を見下ろすと遠くに海が見えた。空よりも濃紺の絨毯が広がり、空と海の境界は霞んでいる。その両脇を山々が翠の輪郭を際立たせていた。まるで観光地に並んでいる絵葉書の一枚にある風景のようだ。
わたしは風景画を少しばかり堪能してから花立から花を取り出すと、汚れた花立の水を追い出すように新しい水を入れていった。それを数回繰り返した後、真新しい薔薇の花を立てた。少しでも花が見栄えするようにと、何度か花の位置の修正をした。納得する位置に花が収まり、それから棹石に水を掛け布巾で拭いた。少しばかり汚れが落ちたことに満足すると、香炉に線香を立て、ここに眠る人達に話しかけた。
「わたしは元気です」と。
多く話す言葉を持たずただ祈るように手を合わせる。その時、背後に気配を感じたと思った瞬間、背中から自分の意識が引き抜かれる感覚を覚えた。奇妙な言い様だが、肉体から精神が抜けていく感覚が手に取るように理解できたのだ。それから意識はすっと落ちていき、為すすべなく意識は途絶えるのだ思った……
突然、視界が開けた。車のハンドルを握っている。フロントガラスに雨が打ち、ワイパーが一定のリズムを刻んでいる。すぐに、この道が走り慣れた国道42号線の由良トンネルを抜けた処だと認識した。いきなり始まった映画のように現状がうまく把握できず混乱していても、車の運転は手が覚えているようでそのままスムーズに運転ができた。しかし、
「どうしたの?」
と助手席から妻が声を掛けてくる。それはとても自然に……
わたしがゆっくり、その存在を確かめるように助手席へ顔を向けると、
「前を見てよ。危ないわ」
と指先を進行方向に向けて、子供を諭すように言う。
バックミラー越しに確認すると、後ろの席には両親もいる。「ここは、どこだ?」わたしの疑問に答えてくれる人はいない。
「何をそんなに驚いているの?」
わたしは車を路肩に寄せ、ゆっくりと停車した。
「ここは?」
妻の肩に手を置き、揺するように問いかけた。手には妻が生きていると言う実感が生々しく伝わり、それだけなく、その声は生前の記憶を呼び起こし、妻と同じ声だとわたしに訴える。
「どうしたの? 気分でも悪いの? 運転代わるわよ」
「いや、違う」
わたしは額に手を当てながら、
「違うんだ。違うんだ……」
そう繰り返しながら段々と声が小さくなっていく。「そう違うんだ」妻も両親もこの世にはいない。なのに、ここにこうして生きている。ここは奇跡の世界なのか?
母親が心配そうに、
「疲れているのよ、運転を代わってもらいなさい」
と声を掛けてくる。
「そうして貰え」
父親の声も聞こえる。
「この雨の中、ずっと運転していたし、疲れたのよ。運転を代わりましょう」
わたしの腕を掴みながら、妻が言う。
「何かも昔のままだ……」わたしはここがどこであれ、両親と妻が生きてさえいれば、それで良いと強く願った。その時、わたしの中であの事故のことがフラッシュバックし、生々しく記憶が蘇る。間違いなく、今は事故直前だ。このまま運転を続ければ、居眠り運転した車が反対車線に飛び出し、わたしが運転する車と衝突する。もしかしたら、事故は防げるのかも知れない。そう思うと気が焦るように、
「少し休めば、問題ないよ。ちょっとここで休憩しよう」
「……分かったわ。お義父さん、お義母さん、ここで休憩しますね」
「解った」
それからわたしは腕時計を見た。午後10時40分、まさに事故1分前だった。これで事故は回避できる。わたしは心臓の音が高鳴り、あまりの緊張に卒倒するのではないかと思いながら、事故が発生した時間を通り過ぎることを願った。何度も息が詰り、呼吸困難を起こしそうだった。
「これで妻も両親も救われる。あの喪失感を覚えながら暮らす日々から解放される。時間よ、早く過ぎろ」それだけを念じながら目を閉じ、恐る恐る目を開けた。
午後10時41分、事故発生の時間。秒針がやけにゆっくりと進んでいく。こんなに長い一秒は経験した事がない。それでも2秒、3秒と秒針は進んでいく。鼓動より遅い針に苛立ちを感じながらも、このまま何もなく終わってくれと願う。そして秒針は遂に一回りし、午後10時42分そして43分となった。
わたしは思わず涙が零れそうになった。
その瞬間、目の前に車のライトが目に入った。物凄い音が耳に入ったかと思うと全身をつんざく衝撃に意識を奪われた。
音も色も奪われた闇がずっと続いていた。その闇の中を、意識が長時間さまよっていたように思う。朝靄が太陽の陽を浴びて少しずつ晴れていくように、わたしは意識を取り戻していった。不思議な事に、目を覚ますとわたしは灰色の空間の中で宙に浮いていた。
遠くに小さな祠が見える。幼い頃、村祭りで大漁祈願を捧げられた神様の居る祠だ。その前に妻と両親が居る。わたしはそこに行こうとするが身体が動く事ができず、声も届かない。ただ彼らを眺めることしかできなかった。わたしはもがいた。もがいて、もがいて、もがき続けた。どれ位もがき続けたかは、判らなくなった時、妻の声が聞こえた。
「ありがとう」
その一言で、もがき続けていた全身の力が抜けた。それから間もなく、妻も両親も消えた。
神は残酷だ。どうして、救えるかも知れないと希望を持たせたのだ。また妻や両親を失う悲しみを味合わせるのだ。
「どうしてだ」
わたしの問いに応える者はいない。どこまでも先の見えない空間にわたしの声が響くだけだった。
その時、誰かの声が直接頭に響いた。
「神と言われる上界の御人は人間一人ひとりの顔など知る事はありません。あなたの魂は時間の狭間に落ちたのです。そこで見た出来事は過去の出来事であり、あなたの記憶とは違っていますが、それも過去の出来事なのです。未来が無限の選択肢があるのと同様に、過去も無限の選択肢があるのです」
わたしは不思議なことにこの声をすんなりと受け入れることができたが、この声が意味することが直に理解できなかった。ただ思考が無秩序に飛び交い混乱していた。しかし時間が経つにつれ冷静さを取り戻すと、その声が発した言葉の意味を咀嚼し始め、身体に中に呑み込んだと同時に理解した。
「過去は未来同様、無限に存在する?」
それは妻や両親が事故で亡くなる事のない過去があるということではないか!! そう思うとその砂上の楼閣のような事柄にさえ手を伸ばしたくなる。どんな事をしてでも、わたしはその過去を手に入れたいと思ったのだ。しかし、声は淡々と言葉を紡ぐ。
「過去および未来の事象は無限に分岐しています。しかしそれらの事象は現在という一点に収束されます。過去や未来がどうあれ、現在あなたの奥様も御両親も事故でお亡くなりなっています。その現在の事象は変える事はできません。あなたにとって確定された事象です」
意味がよく解らなかったが、わたしの希望はまたも一瞬で消し去ったことだけは理解できた。なまじ奇跡を見せられ、希望を抱かせておいてから落とされる分、落胆も大きい。思わず、
「貴様は、神は、わたしを痛めつけて喜んでいるのか」
わたしは有らん限りの声を張り上げた。
「いいえ、わたしは神ではありません。それにわたしはあなたの事を感情を持って接していません。わたしは人間と言う意識の集合体が創り出した神とあなた方人間の間を取り持つ者です。そこの祠に祀られているでしょう。本来、私には肉体はありませんので、人間は様々な動物や無生物に私の代理を求めているのです。ここでは魚、垢穢のようです」
わたしは歯を食いしばって怒りを抑えていたが、その声を聞いている内に徐々に力が抜けていった。希望が打ち砕かれたことを自覚すると共に。
「先程申した様に、あなたは時間の狭間に落ちただけです。わたしとしては、あなたをこの狭間に置いておく事も、元の世界に帰す事もできます。あなたは何を望みますか?」
わたしは何も応えなかった。ただ心が透けていくようだった。白く白く、心が消えて行くようだった。どんなに心が透けて消えて行けども、決して消えない点が存在した。点はただ宙に舞うように捉えどころがなく、わたしの中をゆっくりと舞った。やがて、その点は記憶と知識が融合を促し、溶けた金属のよう輝きながら触れる物を全て焼き尽くていく。思い出も、愛情も、理性も全て焼き尽くされた後、最後に残るのは灰となった希望だ。そして知った。ここは地獄だ。無限に存在する過去と言う幻を追う亡者となって永遠に彷徨う、そんな地獄だ。この声の主は地獄の門番なのかも知れない。
心は決まった。
「帰してくれ」
「そうですか、分りました」
声がそう言った途端、小さな女の子と男の子が突然現れた。手に何か持っているようだった。二人がわたしの前まで来ると、手に持っていた物をわたしに手渡した。二人はさっと踵を返すと、走り出しあっという間に姿を消した。
わたしは彼らから手渡されたものを見た。指輪だった。事故の後、どうしても見つけられなかった妻の指輪だった。胸の底から、いや身体の奥底から様々感情が迫り出し溢れ出した。その感情の吐露は大粒の泪と意味不明な叫び声となって現れた。それらがわたしを覆い尽くした時……、
「───
目が覚めた。自分の叫び声でだ。わたしは体を起こし、身の周りを確認した。どうやら見知らぬ部屋に寝かされているようだ。すぐに手を確認した。そこに妻の指輪はなかった。あれは夢だったのかと思う……
「目が覚めましたか」
その声にわたしは聞き覚えがあった。人間と神との仲を取り持つと言った声の主そのものだったからだ。驚きを持って、その声の主を見た。看護師の女性だった。ゆっくりわたしの許に来ると、洗練された笑顔を向け、
「お墓で倒れていた所を発見され、救急病院に搬送されたんですよ」
わたしが狐につままれたような顔をしていたのだろう、
「記憶が混乱しているようですね。まだ横になって。ゆっくりお休みください」
と言ってわたしを寝かしつけると、
「これを」
と言って何か小さな物を握らせた。
わたしはそれを見て驚いた。わたしの手にあるのは、行方知れずになっていた妻の指輪だった。思わず言葉が漏れた。
「おかえり」
了
スタンリー・クレイマー監督「見知らぬ人でなく(Not as a Stranger)」より題を頂きました。
参考資料 Wiki「日高町 (和歌山県)」、「ミンコフスキー空間」