束 探偵役の心得
「たしか、芹さんだったっけ。それと」
「彼は善意の第三者です」
目の前の彼に先輩が説明したために、また新しい肩書きが増えた。俺が被害者だと言っていたから、それに配慮したのかもしれない。しかしその肩書きは、今まで先輩が口にした中で最も適切ではないだろう。
善意でも悪意でもない。興味でもない。あるとするならば、義務感。俺が始めて、仮説を作り、それを元に一つの部をぶち壊し、クラスメートを傷つけた。その上で、幕を引く役と彼女の持つ希望さえも打ち砕く役を誰かに投げるのは、無責任極まる。だから今から俺が話す内容は、立会人となってくれている芹先輩も知らない。
「分からないフリをする必要はありませんよ、渡辺先輩。俺が誰かくらい気づいてるはずだ」
断定したものの、俺は渡辺先輩に目を向けることができなかった。信じたくないというのが半分。もう半分は、勘違いしていたままのほうが良かったという女々しい未練。
「……野瀬さんの電話で話した子だね」
やはりという得心と、やはりかという諦観。もしかすると、この矛盾した感覚こそ探偵役の抱えるものなのかもしれない。
まあ、今はそれはいい。
「わかっているなら余計な手間は省きましょう。一〇八球のボールはどうしたんですか? 早く返却しなければ刑事事件にせざるを得ませんよ」
脅しにも聞こえる芹先輩の言葉にも、渡辺先輩の笑顔は崩れない。野球部部長であり、ボール消失事件の犯人である彼の顔は。
やはり、読み違えていたのか。これで確信できた。
彼の行動の中でひとつだけ、はっきりと腑に落ちないものがあった。生徒会室に現れなかったことだ。その時は、己の行動を恥じていたのだろうと思っていた。しかし、守ろうとした野球部が無くなるかどうかの瀬戸際で、傍観者の位置にいられるものだろうか?
疑問を解消する方法は簡単で、密室を開けばよかった。今度はただの手続きなので、調停委員会の名前で鍵を一本借り受けるだけでいい。結果、ボールは消失したままだったことがわかった。
そこでふと思った。土曜日曜と、野球部はどうしていたのだろうか?
野瀬に聞いてみると、クラブハウスも倉庫も開けずに自主練習をしていたような状態だったらしい。通告が出されたのは金曜日で、土日は当然ながら活動してはいけなかったはずだ。つまりその時点で、野瀬を含めた野球部員に通告が周知されていなかったわけで、野瀬が俺に怒った時点でもそうだったのだろう。だとすれば、野球部は空中分解しているに等しい。
つまりこの人は、部長としての責任を果たしていないし、そもそも声を上げることをしていない。ボールを盗み去っただけで、その意図もこちらで推測したものでしかなかった。さらに言えば、その意図は明らかに間違っていた。今思えば、笑われたのもそういう理由だったのだろう。そもそも、部活が明確に中止になったわけでもないのに電話に出た時点で違和感を持っても良かった。
野瀬が意図的に誤情報を伝えたのでなければ、心証が間違っていただけ。ありふれた話だ。野瀬を責める謂われはないし、そのつもりもない。
問題は、相手が一八〇度違う性格の持ち主かもしれないということだ。そうなれば、考え方を変えなければならない。話し合いの手法も。
「……質問に対する回答がまだですが」
「どう、と言われてもね」
正直、面と向き合う覚悟がなかったのでちらりと表情をうかがったのだが、まだ笑顔が張り付いていた。
それを剥がすことができるかどうかはともかく、ここから先は俺が話さなければいけないらしい。
「渡辺先輩」
彼は以前、「いい推理だ」と言った。なら今度は正しい推理を聞かせようじゃないか。
「あなたが弁明の席にいたなら、話は昨日の段階で終わっていたでしょう。けれど、あなたはあの場にいなかった。なら、野球部を再生するために行動したのではないのかもしれない。そう思った時、色々なものが逆転しました。あなたの人物像も含めて。それでもすべてが繋がったんですよ」
部長氏は何も答えない。暖簾を腕で押しているだけなのかもしれないが、それでも続ける。
「俺がややこしく考えただけで、本来はもっと単純な話だったんですね。ボールがなくなっていた。さて犯人は誰か? ……いえ、こう言い換えましょうか。犯人でないのは誰か?」
一瞬、芹先輩が驚いた顔をした。当然かもしれない。俺達は、犯人探ししかしていなかったのだから。
アリバイ作りは何のために行われるのか。動機はなぜ隠されるのか。それは偏に、容疑者から外れるためだ。疑われなければ犯人にされることはない。
「ボールを一〇八球も盗み出すなんて面倒なこと、普通は野球部への恨みだと考えるでしょう。確かに、連日最も長くグラウンドにいるあなたは最有力容疑者だ。しかし、真面目に部活動を行うあなたが犯人であるとは誰も考えない。管理責任くらいは問われるかもしれませんが、むしろ最大の被害者だと誰もが考えるでしょうね」
あの部の状況下で部長氏が好かれていたかどうかはともかく、スケープゴートに仕立てられることはないだろう。実際、あの生徒会室の中でも名前は挙がっていなかった。
「評価を利用したのか、目的のために作り上げたのか。そこまではわかりませんが、どちらにせよ“野球部を壊す”というあなたの本当の目的は達成されたわけですね。おめでとうございます」
語るべきことは語った。皮肉も交えた。これで反応がなければそれでもいい。どうしようもない澱が俺の中に残るだけだ。
犯人の独白なんて期待していない。そんなものは物語の中だけで、現実は徹頭徹尾黙秘か罪状否認をするだけだろう。今となってのそれはもう、誠実さの表れではなく悪あがきにしか見えない。俺はもう、この人に希望を持っていないのだから。
きっと、この推理は正しい。野瀬の前ではなかった確信が、今はある。
「……そういう見立てもあるのね」
芹先輩の声は、どこか乾いていた。彼女も、今度の俺の推理こそが真実だと思ったらしい。
ともかく、ここから先は天都賀直人にできることはない。
「それで、どうなの。今の話は」
「さて、ね」
「そう。なら、そのままでいいわ」
芹先輩は、冷たい目で言い捨てる。
「あなたが嘘を吐き続けたとしても、真実を知っている人間がいる。もちろん、その嘘はいつか壊れるわ。その時までしっかりと、頼れる部長であり続けることね」
これが、芹先輩の本質か。言っていることはただの事実なのに、呪詛のように聞こえる。
先輩は踵を返して、俺に目配せをした。これで終わりらしい。
確かに、すべてを白日の下にさらすことが最適な罰ではない。だとしても先輩は、苛烈だな。
「それと。ボールは返しておきなさい。でないと、言い訳の効かない窃盗事件になってしまうから」
最後に先輩は、脅迫じみた台詞を残した。
一人になっても、不思議と心は凪いでいた。もちろん、プラスでもプラマイゼロでもない。ただ、思ったより落ち込みはしなかった。沈んだなりに安定しているとでも言えばいいのか。責任を果たしたことがいくらか回復材になったのかもしれない。
ペダルをこいで風を切る気にならなかったので、自転車を押して歩く。歩いているといろいろなことが思い浮かぶかと思ったが、その逆で何もかもが抜けていった。今までのことも、これからのことも、今この瞬間のことでさえ。
「天都賀さん」
だからだろうか。木倉の声が、これ以上なくはっきりと聞こえたのは。
振り向いて目に入った木倉は、うつむいていた。自転車のハンドルを握る手にも、力が入っているように見えない。
しばらく道ばたで立ち尽くしていると、木倉はゆっくりと口を開いた。
「ごめんなさい。わたしのせいで、おかしな事になってしまって」
わたしのせいという言葉が何のことなのか、さっぱりわからない。
「どういうことだ?」
「わたしがひーちゃんに話したり、打ち上げに参加してほしいなんて言わなければ、天都賀さんはこんな思いはしなくてよかったはずです」
「考えすぎだ」
たしかに、木倉が果たした役割は大きいのかもしれない。それでも、組み合わさった要素の中でそれだけを抜き出すのは恣意的すぎるし、責任を感じる必要なんてこっれぽっちもない。
そう、これもちょっとしたバタフライ・エフェクトの一つでしかないのだろう。結果がたまたま大げさだっただけだ。
「生きてたら、七面倒くさい事なんていくらでもあるさ」
「そうじゃありません」
木倉は、ゆっくりと首を振った。
「先輩が言っていました。人を正しく見るというのは、その人の悪い面まで見ることだと。ですから、天都賀さんは知らなくてもよかったはずのことをたくさん見てしまったんじゃないかって」
「ああ、精神的な話か。いやそもそもそういうものだろ、人って。多かれ少なかれ、人に見せるべきじゃないものを抱えてる。ふとしたときに見せたり見せられたりはあるさ」
それは、まどかだけじゃなくて俺もそうだろうし、野瀬や芹先輩だってそうだった。部長氏の中にもあったし、あの日生徒会室に集まっていた面々の中にもあったはずだ。
青春は輝かしい色をしているのかもしれない。けれど、人生はきっと鈍い色をしている。青春は人生の一部で、切り離すことはできない。だから、輝きの底には鉛が沈んでいる。きっと、誰もが心のどこかでわかっているはずだ。
「……でも、そういう人間だけじゃないのも確かだろうけどな」
うつむいた顔がどんな色をしているのかはわからない。それでも、その内側にはどす黒い色なんてこれっぽっちも渦巻いてはいないのだろうと思えてならない。
あるいは、いつか俺も木倉の中の真実を見る日が来るのだろうか。どす黒く渦巻いた、人間なら誰でも持っているはずの悪意の塊を見ることになるのだろうか。同じように、木倉も俺の中の真実を見る日が来るのだろうか。俺自身さえ気づかない、本当の何かに。黒か白かすら知れない俺の中の、あるかどうかもわからない希望のようなものに。
だとしても。
「木倉」
「はい」
上げられた顔は、泣き出しそうだった。その顔に言葉をかける。
「また明日」
木倉は、驚いた顔をした。
笑顔でも作れたら、笑い返してももらえたかもしれない。しかし、そんな作り物は結局嘘でしかない。嘘はいつか暴かれ、先輩が言ったように真実さえも嘘に見せてしまう。
だから俺は、そんな言葉しかかけられない。拒絶の言葉ではなく、普段通りの、嘘の無い、とても近い未来への言葉だけしか。
再会を約束するその言葉は、木倉に正しく伝わっただろうか。その答えは、彼女自身の笑顔にこそあるのかもしれない。
「はい、天都賀さん。また明日」
小さく振られた手に、手を挙げて返す。自転車に乗って走っていく木倉の背を見送って、俺も歩みを再開する。
先輩が言っていた。人を正しく見ることは、悪意までをも見てしまうということだと。ならそれは俺自身の問題で、人と接する限りつきまとう命題だ。木倉が気に病む必要はないし、気に病んで何が変わるわけでもない。だからこそ、何よりも俺が普通でいる必要がある。今この瞬間に俺たちの歩く道は違っても、明日や明後日は足並みをそろえているかもしれない。その時には、木倉が笑っていられた方がいいに決まっている。そのために、たとえそれが灰色であっても希望を見つけられたなら。それはきっと救いのある話だろう。