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灰色の希望  作者: Syun
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三 テキサスのトルネードはブラジルの蝶が起こした

 長所の表裏や虚実が問題になるのは、それが実際の所、他人から決められるものだからだろう。初対面で自己アピールをしたところで相手は頭から信じないだろうし、聞く前から多少の分析はしている。そういう意味では、第一印象の多くは言葉を交わさずに決まると言える。

 そもそも、一目見ただけでどういう人間かわかるのなら聞く必要さえない。だから面接でも定型文として聞かれるし、履歴書にもその項目があるのだろう。そうなると、面接とは狸の化かし合いなのかもしれないと思えてくる。やってられない。

 同じように人から決められるものと言えば、『役割』がある。否定的に言えば『レッテル』だろうか。野瀬と木倉が俺に求めた『探偵役』の役という字も、配役ではなく役割のことだろう。つまり、探偵役は探偵の役割を与えられた人間のことであって、探偵そのものではない。そもそも、文学における探偵と現実の探偵の仕事は表裏と呼べるほどかすりもしないようであるが。

 だから。

「天都賀ッ!」

 どちらの意味でも探偵でない天都賀直人には、野瀬広美に胸ぐらを掴まれている理由などわかるはずもないのだ。

 時は、土日が開けて月曜日の昼休み。何かあったとすれば野球部絡みでしかないのだろうが、何もやっていないのに心当たりなどあるわけもない。あるいは、何もしていないことが問題なのだろうか。

 ともかく、ここは教室。クラスメートすべての目がある。好評が覆りやすく悪評が覆りがたいことを考えると、俺の人物評価はもうどうにもならないだろう。つまり、クラスのことは俺の中で完全に対岸からの火矢になってしまった。それで気楽かと問われたら、頭を抱えると答えるだろうが。

「……何があった」

「何があったって、あんたねぇ!」

「ひーちゃん!」

 そばにいた木倉の静止も、怒り心頭の野瀬には通じないようだった。胸ぐらを掴む手の力はまったく緩まない。

 無言で立ち上がらされた。むしろ、立ち上がらなければ椅子と机ごと引きずり倒されそうだった。

 そのまま廊下に連れ出され、半強制的に歩かされる。胸元を掴まれたまま階段を下りるのは、正直言って絶叫マシンより恐ろしかった。後からついてきた木倉も同じ気分だっただろう。

 引きずられるようにして連れてこられたのは、昇降口の前。今まで気にしたことはないが、生徒会用の連絡掲示板があった。

 掲示板に貼られた通知は十数行にわたり長々と書かれていたものの、

『硬式野球部を、廃部を視野に入れた無期限の活動休止とする』

 という非常に簡潔な一言でまとめられそうだった。

 なるほど。これが野瀬の怒りの原因か。俺がこれに絡んでいると。

「あのな。俺がこの高校の活動に対して口出しできるような権力を持ってるとでも思ってるのか? 過大評価がどうこう以前にまったく嬉しくないぞ」

「それでもっ! あのことを!」

「いきなりただの一生徒が現れてあんな推理を披露して、信用されるとでも思ってるのか? そもそも、俺はおまえの努力や意志を無視する気はない。確かに今の野球部じゃおまえの夢を叶えることは不可能だろうが、こんな手法で解決するのなら誰も苦労はしてない。むしろ全員不幸になってるだろうが」

「でもっ! でもっ!」

 胸を掴まれていた手は離れた。と思ったら、拳で思い切り胸を叩かれ、むせてしまう。

 通り過ぎる生徒から、一様に何事かという顔を向けられてしまった。確かに、一瞬だけ見れば痴話喧嘩に見えるかもしれない。

「な、なんでもいいからひとまず落ち着け。無期限の活動休止なら、明日にでも活動再開できるかもしれないだろ」

「でも……。でもさ」

 野瀬は、制服の袖で目をこすっている。とりあえず、怒りの感情は別の感情に変わったらしい。喜楽の方に変わってくれれば苦労しないのだが、さすがにそうはいかない。

「……ごめん。疑って」

「仕方ないだろ。俺は最有力容疑者なんだし」

 少なくとも、その言葉が野瀬の気を軽くすることはないだろう。当面の問題を解決するには、この結果に至る道を作った誰かを見つけるしかない。この通告が生徒会からのものだということを考えれば、自然、犯人は生徒に限られる。

 部長氏はこんな結果を望んでいなかった。顛末を知ったにしろ知らなかったにしろ、野球部員であるはずがない。俺でもない。野瀬でもない。木倉なら自己申告しているはず。だとすれば。

「ひーちゃん。わたし、誰だかわかったかも」

 答えは、一つしかない。


 今日は月曜日。土日はおそらく委員会活動がないから、通告が張り出されたのは金曜の放課後か今日の朝……などと推理するまでもなく金曜日の日時が記載されていたし、A4用紙の端に金曜日の日付の掲示物許可印があった。俺が推理を展開したのは木曜の放課後。ことが部活動という学校行事のことである以上、学校側にも話が通っているはずだ。そこを経由して出されたのなら、職員会議のタイミングとしては木曜の夜か金曜の朝しかない。

 どちらにせよ、あの後すぐに生徒会に報告が行き、生徒会から学校側に通達があり、金曜日に職員会議から差し戻された上で書類が作成されたと考えなければ時間的都合が合わない。

 今回の通達が野球部全体の問題として糾弾されているのなら、部長氏の行為ではなく野球部の現状のみが伝わっていると考えるのが当然だろう。あの時点で客観的な事情と事実を把握しているのは、俺、木倉、先輩、野瀬、部長氏の五人。昼に除外した面子以外には、一人だけ。

「芹先輩!」

 放課後になるやいなや、野瀬は大講義室に駆け込んだ。なぜ俺がそれを知れたのかといえば、木倉に引っ張られてきたからだ。案外、俺の一日には法則性があるのかもしれない。

 対する芹先輩は、分厚い文庫本に目を落としていた。カバーが掛かっているので書名まではわからない。

 しかし、こういうことが起こるのは予測していただろうとは言え……あまりにも動じなさすぎる。

「どういうことですか! 説明してください!」

「どういうことも、そういうことよ」

 実に明瞭簡潔。先輩の言うとおり、そういうこと以上のことはない。そもそも聞き方が間違っているのだから、それ以外の答えは出ない。

 聞くとすれば、あらすじではなく作者の名前の方だろう。

「先輩は、どの段階まで絡んでいるんですか?」

 俺が口を開くと、野瀬と木倉は驚いたような顔、芹先輩は微笑を浮かべて俺の方を見た。

 間を置かず、先輩の手元で本がたたまれる。この質問は正解だったようだな。

「どの段階というのは?」

「生徒会に報告しただけなのか、それとも通告の内容にまで噛んでいるのかということですよ。俺は、調停委員会がどの程度の裁量を持っているのか知りませんからね」

 天都賀直人には生徒会を動かす力はないが、調停委員会の委員長であるらしい芹紀弥梨にその力がないとは思わない。「生徒間の問題を裁定し断罪する」という言葉通りなら、その職務においては生徒会より高い位置にあるはずだ。その通告が生徒会名義で出されているのだから、生徒会と調停委員会が同じ会議の卓を囲んだと考えなければならないだろう。

「どう思う?」

「……目の前の相手が答えてくれることをわざわざ憶測して語るのは、時間と労力の無駄だと思いませんか」

「そうね」

 別に俺は狸と狐の化かし合いをしたいわけじゃない。普通、答える気がないことを質問にはしない。先輩ならきっと、答えたくないことには答えないはずだ。

「私一人にはそんな裁量はないわ。提案権を持つだけ」

 生徒会に、生徒の問題を裁定する権利があるわけではないだろう。生徒会もその権利を持つなら、調停委員会という二重行政じみた委員会は必要ない。だとすれば、その提案権というのは絶対的な権利になるはずだ。理由はわからないが、調停委員会には先輩と木倉以外の委員はいないようだし、木倉の性格を考えると先輩が調停委員会そのものと言ってもいい。

 完全な客観は存在しない。あの通告には大なり小なり、善意か悪意か、先輩の意図が絡んでいる。

「あの通告は、好意的に解釈して構わないんですか……いや」

 聞き方が違うな、これも。

「解釈と行動さえも判断材料になると考えて構わないんですね?」

「それが答えになるのなら、天都賀君の解釈も答えになるはずよ」

 確かにそうだ。

 しかし、それは答えたとは言わない。

「それを答えにしていいんですか? shouldとmustには大きな違いがありますが」

「ええ。けれど天都賀君は、その質問に意味がないことも理解できるはずよ」

 そうして俺と先輩が腹の探り合いをしていると、木倉と野瀬が小声でやりとりしているのが聞こえた。

「ね、ねえ、みー。天都賀と先輩、何話してんの?」

「さ、さあ?」

 おい。

「……野瀬」

「ひゃい!」

 振り向くと、野瀬が変な声を上げた。

 やる気を無くしそうだ。なぜ俺だけがこんなにも必死になっているんだ。

 そう思ってしまうと頭も冷えてしまう。話が中断したせいもある。ともかく、こんがらがっていた考えがわずかにほどけた。

「すみませんでした、先輩。考えれば、説明を要求する先は生徒会ですね」

「どうかしらね。通達は生徒会からとは言え、説明できるのは方向性を決定した私になるのかもしれないわ」

 やっぱり、調停委員会にはそのくらいの力があるんだな。もちろん、先輩の手腕もあるのだろうが。

 ともかく、先輩の言うとおり。詳細の説明を求めても意味はない。必要なのは、先の行動だ。

 潰れなければならないのなら、既に野球部は潰れている。

 潰れるべきか、潰れても構わないという意図であると仮定しなければ行動する意味はないし、そう決めつけて行動するくらいでなければならない。今の野球部には、そういう積極性やハングリー精神や危機感が欠けているのだから。

「ところで、野瀬」

「え?」

 特に脈絡無く話を振ると、野瀬は驚いた顔をした。本当は一番前に立っているはずなのに、完全に脇役になってるぞおまえ。

「今回のことは確かに先輩が一因ではあるだろうが、先輩自身には責められる謂れが一切無いってことをわかってるか?」

 もちろん、私怨を始点として権力を用いて部活動を廃止に追いやるのは不可能ではないだろう。暴論も論理、屁理屈も理屈。逆に、論理的に隙があっても反論を許さないこともいくらでもある。「何を言うかではなく、誰が言うか」と言った人がいた。たしか、イチローだったか。

 なににせよ、今回のことには道理が通っている。野球部の在り方が不健全なのはたしかだが、問答無用で切り捨てようとしているわけでもない。いい着地点だと言えるのではないか。

「う。まあ、部長がやったことは悪いことだし」

「いや、それはそうなんだがな……」

 どうにもポイントがずれている。そこを抜き出すのも、それはそれで正しいのかもしれないが。

「だから、野球部の体質が」

「あー、ごめん。いいかな」

 話を遮られた。振り向くと、ドアから生徒が半身を出している。

 会話が途切れたのを見て、彼は大講義室の中へ入ってきた。

「何かしら、加藤君」

「いや、野球部員が生徒会室にさ」

 加藤先輩――襟章からすると芹先輩と同じ二年だろう――は、困ったような顔をしている。

 そうか。野瀬は事情を知ってるからこっちに来ただけで、普通なら俺が言ったとおり生徒会室に行くな。その上で対処できないような事態になっているから、芹先輩の所に使者が来たと。

 芹先輩は無言で立ち上がって、出口へと向かう。ぼけっとしていた野瀬も慌ててその後を追い、加藤先輩は俺を不思議そうに見た後、大講義室を後にした。

「天都賀さん、行きましょう」

「え?」

 手を掴まれた。そのまま、来た時と逆の方角へと引っ張られる。具体的には、生徒会室の方向に。

 振り払うことはできるが、そんなことをしたところで事態が俺の思い通りに動くとは思えない。もう一度掴まれて終わりだろう。

「……俺は部外者なんだが」

 唯一できた呟きも、木倉の耳には届かないらしい。

 主体性ってなんだっただろうな、天都賀直人君?


 うちの高校の生徒会室はそれほど広くない。生徒手帳の学内見取り図からの推測だが、通常教室の半分の面積があるかないかくらいだろう。それでも、会長以下数名が集まって仕事をする分にはなんら問題はないように見える。

 しかし現在、その部屋は一杯になっている。俺。先輩。木倉。生徒会役員が五名。それに野瀬も含めた野球部員が一〇人ほど。俺は別段人見知りをする質でも精神的な圧迫を感じる質でもないはずだが、物理的な圧迫感というのは無視できない。さすがに酸素濃度の問題になるはずはなく、あくまで対人距離の問題になるのだろうが。

 ……ん? それは精神的な圧迫になるのか?

 俺がそんなどうでもいいことを考えている間に、芹先輩は事情を説明し終えていた。

「何だその事情は」

 電話のスピーカーを通した声しか聞いていないが、彼は部長ではないようだ。普通こういうとき、部長が矢面に立つものだろうに。

 いや、矢面は防御側か。非難を受けるという意味ではそうなんだが。

「あんたにとやかく言われる筋合いはない」

 野球部代表の言葉に合いの手が飛ぶ。衆議院予算委員会の中継なんかで見た光景だな、こういうの。平たく言えば、しょうもない。この集団の中ではそう思っているのはおそらく、俺と先輩くらいだろう。

 ある意味で数の暴力のこの中、生徒会役員が芹先輩に対して助け船を出す様子はない。やりすぎたと思っているのか、それとも気圧されているだけなのか、関わり合いたくないのか。いまいち推し量りにくい。当の芹先輩はと言えば、初めから生徒会には期待していなかったのだろう。冷めた目で野球部員たちを見ている。

 いや、見てはいない。呆れてすらいない。もしかすると、隣で気丈にしている木倉をどう退室させようか考えているのかもしれない。

 なぜ俺がここまで状況を冷静に分析できるのかと言えば、一人だけ扉のそばに立っているからだ。野球の守備位置に例えるなら、俺は二塁かその向こうのセンターの位置。おかげで誰もかもを見ることができ、一塁側の野球部と三塁側の芹先輩がこちらにまったく目を向けないのも、位置的にも意味的にもホームの生徒会役員がそれなりの頻度で俺を見ているのも、それ以上の頻度で芹先輩の隣に座る木倉が俺を見ているのもわかる。

 だからと言って、何かリアクションを起こす気はない。たとえ野球部がもう処置不能だと理解できても、溜息を吐きはしない。注目をこっちに向けたくはない。

 自浄作用や客観視が無くなった組織はどうなるのだろうか。勝手に自壊するのならいいが、この野球部はうちの高校がある限り存続し続けるのではないだろうか。それも、形を変えずに。

 今なら、潰れるべきだと言った先輩の言葉に同意してしまえそうだ。

 溜息を吐きたい。国会中継が茶と煎餅の用意される時間に流されているのが皮肉に思えてくる。あの人たちも目の前の人間たちのようにプライドをかけているのだろうか。

 ……かかっているのはプライドか? 面子とか立場か? 俺にはわからないし、推測もできないし、推測する気もない。

 まあいいか。帰ろう。芹先輩の言ったとおり、これは俺の領域じゃない。

 そう思って扉に手をかけると、

「あっ」

 という声がした。

 振り返ると、木倉と目が合った。ついでに、その目線を追った部屋の中の全員とも。

 すがる顔が二つ。驚いたような顔が五つ。イラついた顔が一〇個ほど。「逃げ損ねたわね」という意味だろう苦笑いが一つ。

 ここで無視して帰ったところで部外者の俺にはまったく関係がないのだが、さすがに身動きが取れなくなる。やってくれたな木倉。

 仕方なく、頭を掻きながら元の位置に戻った。

 不毛すぎて嫌になる。何をやってるんだ俺は。

「野球部の件だけれど」

 通る声で、集団の意識が俺から外れた。それも芹先輩のちょっとした気遣いだったのだろう。

「やはり、今のままでは通告を引き上げることはできないわ」

「はあ?」

 威圧するような野球部員の態度にも、芹先輩は一歩も引く様子はない。

「問題を問題として認識していない。改善案もない。妥協案もない。論理的反駁もない。今の状態が問題だと言っているのに何も変わる気はないのなら、こちらも何を変えるわけにもいかないでしょう」

 まあ、事実だな。これがただの遊びの結果で起きたことなら問題ないんだろうが、先輩はちゃんと下世話な話まで含めて説明責任を果たした。これで理解できないならそれで野球部の伝統は終了だ。理解する気はなさそうだが。

「貴方たちのやっていることはね、『自分たちはやりたいようにやっているのだから口出しをするな』ということよ。それはおかしいでしょう」

 ざわ、と野球部に動揺が奔る。おそらく単純な否定をしたいのだろうが、先輩が言いたいのはそういう意味じゃない。「自分たちが好き勝手しているのに相手のそれは許さないのはおかしい」という指摘だ。もっとも、生徒会と調停委員会側は勝手をしているわけではない。問題を認識して解決策を出せば、あの通告も引っ込めるだろう。

 いち早く復帰したのは野瀬だった。ぐっと顔を上げて、先輩をまっすぐに見る。

「違います。あたしたちは」

「マネージャーは黙ってろ」

 しかし、野瀬の言葉は冷淡な声に遮られる。

 その「黙ってろ」は、「任せておけ」という責任的な意味ではないんだろうな。マネージャーだって部の一員だろうに。

 野瀬は部長と同じくらい野球部に対して真摯だと思うのだが、この人たちから見ると邪魔者に見えるのだろう。笑えない話だ。

「そもそも、なんでこんなことになってるんだ」

「誰かがチクったんだろ」

「マネージャーじゃないのか?」

 雲行きが怪しい。外へ向かっていた悪感情が、なぜか内側へと向かっている。

「あ、あたしは」

 野瀬も一〇〇%間違いではないだけに否定しきれないらしいが、そこは否定しておけよ。スケープゴートや避雷針を作り出すのが一番楽で簡単な解決方法なのは事実なのかもしれないが、それが野瀬になるのはおかしいだろう。

 しかしこれ、どう収拾をつけるんだ。先輩は論理、野球部は暴論と感情。基本的に両者は相容れない。ごめんで済めば警察はいらないとは言うが、話し合いで片がつけば戦争は起こらないのだろう。先輩が部活と会社の関係性について言及していたが、ここに世界情勢の縮図があるわけだ。笑えない。

 笑い飛ばせたら楽なのだろうが、さっぱり笑えない。本当に何もかも笑えない。発端が笑える話でもないのだから喜劇にならないのは当たり前だが、わかり合う気がないということがこんなにもめんどくさいことだとは。頭が痛い。いらない頭痛だとわかっているからこそ、余計に。

「……はあ」

 世の中にはいくつか至言がある。

 正論は耳に痛い、とか。

 正論は人を怒らせる、とか。

 さすがに、逆もまた真なりとはいかない。それでも、耳に痛かったり怒りを呼び起こされたりする原因のいくらかは正論であるのは間違いない。ただ、人間は耳が痛い時や怒っている時には理由を考えられなさそうだが。

 さて。このままでは永遠に解決の目は見えない。いや、当面の活動停止という答えは出ているが、睨み合いのままで帰れない。

「芹先輩。問題はなんでしたっけ」

 突然口を開いた俺に部屋中の目が向く。ただ一人、俺が呼びかけた先輩を除いて。

「そうね。言うなれば部費の私的流用かしら」

「私的流用? なに言ってんだ」

「誰だか知りませんけど少し黙っててくれませんかね?」

「はあ? おまえが黙ってろよ」

 俺は、あまり怒らない。目の前の誰かのように理由を考えなければそれでいいのだろうが、理由を考えるのならば、人とまともに接しないからだ。まともに接しないのなら人との摩擦は少なくなり、発生するエネルギーも少ない。

 なら。ある程度深く人と接すれば発生するエネルギー量は増え、それが変換され、結果的に俺は腹を立てるかもしれない。

「ものの数分も黙ってられないのか? 人が妥協点探そうとしてやってんだ。歩み寄りも見せようとしない奴は口閉じて大人しくしてろ。こっちは完全に部外者なんだからさっさと帰りたいんだよ」

 そう言い捨てると、芹先輩を含む全員がぽかんとした表情でこっちを見てきた。それは、誰だかわからない一年が暴言を吐けばそんな表情にもなるだろう。ついでに、冷水をぶっかけることにも成功したらしい。生徒会室の中が静かになった。

 よくよく考えると、先輩も歩み寄りを見せていなかったかもしれない。相手がそうしなかったせいで足場がわからなかったのもあるのだろうが。

「ともかく、問題は正当な活動に対して正当な予算が充てられているわけではないということですよね」

「え、ええ。天都賀君の解釈で間違いはないわ」

「なら、解決策を一つ提示できます」

 予算を減らせばいい。企業だって、実績を出せない部署は縮小されるものだろう。

 ……なんて、そんなありきたりな妥協案を出す気はない。そんな提案では、なにが解決するわけでもない。俺は別に、野球部の味方ではないのだから

「予算を減らして、不足分を野球部員が補填するというのはどうでしょう?」

 逆だ。足りないものを補う。

 もっと言えば、負担を強いる。

 先輩は予算の話をしたが、根本的な問題はそこじゃない。やる気のない人間が主流派になっていることだ。

 この妥協案が通れば、負担を許諾しても野球をやりたい人間が残る。最終的には野球ができる人数まで残らないかもしれないが、その辺りは野瀬や部長氏になんとかしてもらうしかない。

「ふ、ふざけるなよ。なんで俺たちがそんな……」

「なら辞めればどうです? そこまでして野球をやりたくもないんでしょう?」

 そう言った時の俺の顔は、どんなだっただろうか。少なくとも、名案であり、いい妥協案だとは思っていたが。

「現状が問題だと思っていないのは自分たちだけですよ。いえ、貴方たちの中にも憂えている人間はいるはずだ。目的意識すらない、ただの物好きの集まりでしかないと」

 少なくとも一人、俺は知っている。憂えて、行動を起こし、実を結ばなかった人を。彼はここにはいないようだが。

「年にたった二回のことに人生を捧げる気がないのなら、高野連に所属する野球部である意義はないと思いますけどね。失礼でしょう、他の学校の野球部員に」

 あれだけ殺伐としていた生徒会室の中は、耳が痛くなるほど静かになった。……おお、正論以外でも耳が痛くなるものがあった。

 もっとも、野球部員たちは静かだからというだけで耳が痛いわけではないだろう。それで耳が痛くないのであれば――それをしていない俺が言うのも何だが――野球に情熱を捧げる資格が無い。

「こういう解法はどうでしょうか、芹先輩」

「そうね。悪くないと思うわ」

「だ、誰も納得は……」

 往生際の悪い野球部員に、芹先輩は冷ややかな目を向けた。

「あなたが納得する必要はないわ。むしろ妥協案を出してくれた彼に感謝しなさい。そして彼の言うとおり、飲めないのならあなたが部から去りなさい。それも嫌なら代替案くらい出したらどうなの? 子供ではあるまいし」

「ぐっ……」

 これでトドメ。後はなにを言っても相手にされないことくらい、誰にでもわかる。

「会長。もういいでしょうか?」

「え? ああ。ありがとう芹さん」

 完全に存在感がなかったが、彼が生徒会長なのか。まあ、どうせすぐに忘れるだろう。

 芹先輩が立ち上がり、木倉もその後に続く。俺は木倉の後に続いて生徒会室を出、恨みがましい視線を遮るために扉を閉めた。

 ……やりすぎただろうか? どうか、金属バットを凶器とする復讐殺人が起きませんように。

 しばらく歩くと、後ろから足音が聞こえた。野瀬かと思って振り返ると、そこにいたのは生徒会の面子の中の一人だった。男の加藤某先輩ではなく、女生徒。襟章からすれば彼女もまた二年。

 彼女はちらりと俺を見て、芹先輩に向き直った。

「紀弥梨ちゃん、いい仲間を見つけたね。これで調停委員会も正式に再出発かな?」

「いいえ、彼は委員ではないわ」

「へ? じゃあなんなの?」

 なんなのとは失礼な。俺はただの凡庸な一般人だ。

 と、わけのわからない憤りを覚えたが、

「そうね……。阿修羅かしら」

 先輩がそれ以上にとんでもないことを言ったので、なにも言うことができなかった。


 阿修羅ってなんだ。

 確かに、いきなりキレたように見えただろうし、その辺りは阿修羅っぽかったかもしれない。けど、俺は阿修羅ほど殺伐とした世界に生きているわけじゃないぞ、別に。

 とかなんとか鬱々とした心で言葉の解釈を考えていたら、近くの席に座っていた芹先輩がくすりと笑った。木倉は途中で野瀬の所に引き返してしまったため、不在。大講義室で二人きりだ。

「難しい顔ね。野球部のことに関してなにか不満でもあった?」

「いえ。先輩がさっき言った俺の評について考えていただけです」

「ああ、そのこと」

 先輩は、得心したように頷いた。先輩にとって、さっきの発言はそれほど重要ではないのか。それはそれでショックではある。その場の冗談でない限り、特別な評ではないということになるのだから。

「人は、両目で見えるものすら見ようとはしないでしょう?」

 それは一般的なことを言っているのだろうか?

 いや、言葉以外の意味はないか。

「けれど天都賀君は、目で見えないものを見ることができるし、見ようとしているわ。物事の真実や、人の本質を」

「俺はそんな……」

 そうだろうか。否定できるのか?

 芹先輩の言うことは正しい。俺にそれが見えているのかは別として、見ようとしているのは確かだ。そうでなければ不健全だとも思っている。同情はできなくても、理解しようと努力することはできるのだから。

「それで、阿修羅ですか」

「ええ」

 阿修羅は三面六臂。つまり顔が三つあり、当然目は六つあるから、それだけ物事は広く多く見える。表情がどうとか戦いの神がとか、そういうのは関係ない……んだよな?

 それと、八面六臂に五面ほど足りないが『働き者』という意味があったような気がする。三人分も働いた気はしないが。

「千里眼なら広目天だけれど、天都賀君のしているのはそこまで特殊なことではないから当てはまらないでしょう。それに、歩きにくい生き方を修羅の道とも言うし」

「言いますけど……」

 皮肉か、それは。

 だとすればすごい言い回しの皮肉だ。嵌りすぎていて口を閉ざすしかない。むしろ俺は、性格によるもの以前に人間関係の構築面で修羅の道を歩きそうだが。

「人を正しく見るというのは理想よ。それでも、あなたにはそれを成し遂げられる目があるでしょうね。けれど、どんなに力があっても、あるいは千里眼であったとしても本質を見ることのできない人間がいることは知っている?」

 先輩は、さっきまでとは違う真剣な目で俺を見てきた。

 絶対に本質を知ることのできない人間。例えば、

「家族ですか? 近しい人間にはバイアスがかかりますし」

「いいえ。確かにバイアスがかかるけれど、恣意的に見ているのは赤の他人も同じよ。家族を好む人もいれば、恨む人もいるのだから」

 先輩は、否定しながら鞄の中から鏡をとりだして、こっちに鏡面を向ける。そこに映るのは当然、俺の顔。

「答えは、あなた。つまり自分自身。本当の自分は写真にも鏡にも映らないし、見ることはできない。いえ、客観でしか見ることができないというのが正しいのかしら」

 概念的なことではなく、物理的な意味でのことだったのか。

 いや、人間は『見る』ことによって多くの情報を手に入れているのだから、先輩の言っていることは概念的にも正しい。『見えない』自分の情報を得ることは不可能だ。鏡に映ったのは鏡像の自分で、左右が逆。写真に写った自分は虚像であり、過去の自分。どちらも、自分自身とは少しずれている。

 そういえば、自分の声も骨伝導で聞こえる分が多いから実際の声とは違って聞こえるらしい。録音した声に違和感があるのはそのせいだとか。変な話だな。自分で把握できる自分の情報が一々遅れていたり狂っていたりして、事実と異なるというのは。

「前に言ったわね。あなたは探偵役には向いていないって」

「はい」

 それについては今でも否定しない。

 しかし先輩は、以前とは違う『理由』を口にした。

「他人の秘密を暴くことも断罪することも、それなりの覚悟と痛みを伴うものよ。他人の悪意に真正面から向き合うのだから当たり前ね。そういう人間に必要なのは、それを叩き伏せる冷徹な心か、気にも留めない愚鈍さではないかしら。そういう人間にあるのは、システムや仕事としての義務か、単なる知的好奇心よ。天都賀君にはそのどちらもないでしょう」

 それは、違う言葉で語っただけで同じことだったのかもしれない。つまり、俺は人間的に探偵役にふさわしくないと。

 先輩は、秘密を暴くことと断罪することを同列に語った。なら、

「先輩。調停委員会に人がいないのは、もしかして……」

 言いかけて、その先を口にしていいものか悩む。

 悩んだが、たとえそれが事実であったとしても、先輩の人間性を否定するものではないと思い直す。

「先輩が辞めさせたからですか」

「ええ」

 先輩は、まったく悪びれることなく肯定した。

 理由を考えれば悪びれる必要はない。

「司法組織には馴れ合いも温情もいらない。あってはいけないもの」

 先輩はそれ以上理由を言わないが、本当にそれだけだろうか。俺が推測したのは、それだけではなかったのだが。

 先輩は、俺を「冷徹でも愚鈍でもない」と言った。かつていた調停委員もそうだったのではないだろうか。馴れ合いの理由が人を裁くことに耐えられなかったからだとしたら、先輩が彼らを去らせたのは先輩の良心ではないのか。人は、近しい他人を疑い続けることに耐えられる生き物ではないだろうから。

 納得したにせよ納得していないにせよ、人を去らせるというのは並大抵のことではないはずだ。一人でそれをやり遂げたのなら、

「先輩が辞めさせたのなら、先輩も阿修羅なんじゃ」

「いいえ。私は閻魔女王よ」

 くすり、と先輩は笑った。

 沙汰を下すが金に屈しない辺りが大王とは違う。そんな冗談だったのだろうか。

 ともかく、俺にはそこまでのメンタリティはない。金に屈するかどうかはともかくとして。

「残念だと思っているのならそれは勘違いよ、天都賀君。あなたの性格はとても好ましい。いい人間だと思うわ。女の子の言う意味ではなくね」

 先輩はそれを言う時、意地悪そうに笑った。そういえば、木倉をそう言ってからかったんだった。これもまた因果応報か。

 とは言え、からかいはからかい。それほど本気ではなかったのだろう先輩は、表情を柔らかいものに変えた。

「少なくともあなたは、人の罪を暴くことと正面から向き合った。人の悪意と正面から渡り合って見せた。いえ、人は正しく見られないと思っているのだから、過去にも同じようなことがあったのかしら」

 同じようなことがあったかと聞かれれば、なんとも言い難いと答えるしかない。少なくとも解決は見なかったから、現状は未だに続いているのかもしれない。今の俺には把握できていないだけで。

「ええ、まあ。悪意と言うよりは、無意識だったんだと思いますけど」

「なら、今回とそう変わらないわね。無自覚だからこそ論理的な反駁も正当化もできない悪意。大抵がそうだけれど、あなたはその時もデウスエクスマキナのような役割だったのかしら」

 デウスエクスマキナ。物語に強引に終止符を打つ存在。

 確かに、俺は野瀬や木倉に担ぎ出されて――今日の木倉については、引きずり出されたと言うのが適切かもしれないが――結果的に今回の二件の事例の幕引き役を都合良く務めている。その呼称は、中らずと雖も遠からずかもしれない。

 物事は、何をどう見るかで変わる。俺は被害者でもなく加害者でもなく、風呂敷をたたむ役回りだった。野瀬にも木倉にも先輩にもその気がなくとも、女子の言う『いい人』の一角だったわけだ。

 そういえば、まどかの懊悩も『いい人』扱いされたことだった。だとするなら今回の俺は、『さすがは兄妹』としか言いようのない結果になったわけだが……。これも因果のなせる業なのだろうか。

 いや、まどかは被害者だったな、一応。

「『誰もが確信犯である』なんて言うと誰も賛同しないでしょうけど、そういう側面は少なからずあるのではないかしら。誰もが自分の倫理で動いているのだから」

 それは、先輩もだろうか。

 そうだろうな。ルールだって倫理の一つだ。守らない人間がいるのだから、共通普遍の聖域ではない。

 ところで、適正の話で気になることがある。もう一人の委員についてだ。

「俺のことより、先輩。これまでの話だと、木倉は調停委員に相応しくないんじゃないですか? あいつに人を裁くことができるとは思いませんけど」

「そうね」

 芹先輩は特に否定する気もないようだった。

 しかし、それは矛盾だ。適正のない人間をすべて辞めさせたのに、新しく適正のない人間を招き入れるというのは理屈に合わない。

 それとも、俺が知らないだけで木倉には何かしらの素質があるのだろうか。

「天都賀君はあの子をどう思う?」

「どうって」

 いきなり答えにくいことを聞くな。

「異性としてのことを聞いているわけではないわ。ただ、どういう人間に見えるかということ。調停委員としてふさわしいと思うかどうか」

「それはわかってますよ。ただ、木倉のいないところで木倉のことを悪く言うのはどうかと思っただけです」

 そう断ると、先輩は微笑を浮かべた。けれど、それ以上なにも言わないということは、気にするなとか早く答えを言えということなのだろう。

「そうですね。純朴とか、純真とか。あまり向いていると思えません」

 特に何も考えずに口にしたのだが、その評は木倉に合っている気がする。

 木倉の中に悪意を見たことがないのだ、俺は。まどかが言葉の端々に滲ませ、野瀬には数度ほどまっすぐに向けられ、芹先輩にすら見え隠れするそれを。

「なるほど。あなたにはそう見えるのね」

「意味深長なことを言いますね。先輩にはどう見えるんです?」

「私もあなたと大して差異はないわ。純朴という表現は好みだと思ったけれどね」

 先輩はそう言って、愉快そうに笑った。決して馬鹿にされているわけではないとわかっているのだが、なんとなく気になる。

 先輩は笑いを引っ込め、まっすぐ俺の目を見た。

「天都賀君は、この高校にどれだけの団体があるか知っている?」

「……いえ」

 知らないものを知っているとは言えない。当てずっぽうで当てることにも意味はないだろう。話の腰を折りかねない。

「部活と同好会と非公認の同好会、それに委員会を加えて四十三団体あるわ。あの子はその四十三の団体のどれに所属するべきか悩んでいたのよ」

「はあ」

 優柔不断だと言えばいいのだろうか。いや、考えるまでもなく先輩の意図はそこにはないはずだ。入る部活動を選ぶことは、いたって普通のことなのだから。

 その推測は先輩の言葉で肯定される。

「四十三枚のチラシを持ってね。これが、私が知っていてあなたが知らない美空の行動の一つよ」

 ん? 四十三枚? チラシ?

「入学式から一週間、昇降口で配っていたでしょう」

「ああ、そんなこともありましたね」

 そういえば一枚も受け取らなかったな、俺。あの頃から部活に入る気は無かったのか。

 いや。今の問題は木倉のことで、さらに言えば四十三枚ってところじゃないのか。

「全部集めたんですか。計画的と言えばいいのか律儀と言えばいいのか」

「天都賀君はそう思うの?」

 わかってる。言ってから気づいた。

 木倉に積極性がない訳じゃないだろうが、これは積極性の問題じゃない。

「押しつけられたものを全部受け取っていたら、結果的に四十三枚になった」

「正解」

 正解はいいが、まだ問題がある。押し付けた方はともかくとして、押し付けられた木倉自身にも、大きな問題が。

 人には向きや不向きがある。野瀬がしているようなサポーターとしての参加でもいいとは言え、すべての部活に適正のある人間はそういないはずだ。誰だって初心者と言っても、初心者になろうとする気が起こるかどうかの問題もある。

 優柔不断なわけでもない。あえて言うならば八方美人。それも、裏表のない、純粋な善意からの。

「部活の勧誘なんて、数を打って当てようとしているものよ。けれどあの子は、そのすべてに応えようとしていたわけね」

 木倉が人を嫌わないという俺の感想は、どうやら当たっていたらしい。同時に、まどかの言葉も理解できた。木倉の生き方は、面倒くさいし疲れるし無理があるだろう。

 もしもあいつに冗談で告白する奴がいたら、二つ返事で受け入れるのだろうか……? って、俺は何の心配をしてるんだ。

 そういえば、まどかは木倉のような人間を悪し様に評価していた。

「木倉は女子に嫌われるタイプなんでしょうか? 妹がそんなことを言ってましたけど」

「慧眼な妹さんね。けれどそこは、すべての人間と言っておいた方がいいかもしれないわ」

 すべての人間?

「言い過ぎじゃないですか? 先輩も野瀬も木倉を嫌ってはいないでしょう」

「それは、ここがクローズドサークルだからよ」

 先輩、差し挟むようにミステリー用語を使うな。ここは別に絶海の孤島ではないのだが……。

 いや、登場人物が決まっていて、ここでしか通じない常識やルールがあるという意味では、学校というのは『閉じられた場所』であると言っていいのかもしれない。

「ごめんなさい。クローズドサークルは意味的に適切ではないわね」

「いえ、わかります。要は、ここだけで一つのコミュニティってことですよね。むしろ、世界というか」

 塾に行っていたとしても、バイトをしていたとしても、基本的にそれらが高校の人間関係と直接つながることはない。独立した一つの社会なのだ、高校というのは。

「美空は確かにいい子よ。善人と言ってもいいでしょうね。ところで天都賀君は、蝙蝠の話を知っている?」

「蝙蝠ですか? いえ」

「あるとき、獣と鳥の間で争いが起こりました。蝙蝠は、まず鳥が優勢になると『翼があるから』と鳥に味方し、次に獣が優勢になると『毛皮と牙があるから』と獣に味方しましたというお話。本来はそういう話ではないようだけれど」

 ああ、それなら聞いたことがある。最終的に争いが終わると、裏切り者の蝙蝠は両方から目の仇にされて洞窟に追いやられたっていう。

「同じように、ある種の善人は誰かの味方にはなれないから、誰からも敵に見えたりはしないかしらね」

 敵の味方は敵。むしろ、味方にならないから敵と変わらないということか。それもまた、一種のダブルスタンダードなのかもしれない。見ようによっては、二重スパイだ。

「世界が小さければ、美空の人となりは見ればわかるし話せばわかるでしょう。けれど、世界が大きくなければ二次情報や三次情報は増えていく。悪意をこめた尾ひれを付けて」

 言っていることはわかる。まあ、世界が小さくても人となりは知ってもらえないし、虚構の二次情報ばかりだということもあるが。……誰の話だろうな。

 いや。残念ながら、『人の印象』は虚実であっても虚構ではないのか。

 先輩は、そこで一度息を吐きだした。

「というのはきっと、ネガティブな考え方しかできない私の思い込みなのでしょうね。あの子は、私よりずっと上手く人間関係を築いているもの」

 木倉美空を個人として認識して日が浅い俺には、彼女の交友関係も人となりや人当たりについてどうこう言えないが、先輩が言うのならそうなのだろう。それこそ『印象』でいいのなら、先輩と同意見だ。

 しかし、木倉と関わることによって俺が実害を負っていないかといえば、そうでもないかもしれない。『友達の友達に当たる人物は自分の友達か?』という問題は、必ずしもイエスではないのだし。

「ただ、そのいつかが来た時に私がそばにいられたのなら、何か出来るかもしれないと思っただけよ。それに、人を否定でしか見られない私をあの子が補ってくれるかもしれないし」

 先輩の笑い顔は力のないものだったが、その辺りにこの人の本質が現れているような気がした。同感だ。人は、そんなに便利にできていない。


 木倉に電話で言われて以来、なぜかミステリードラマを見ることに抵抗のようなものがある。もっと言えば例の一件があってからなので、現実との乖離を感じてしまっているのかもしれない。あるいは、ドラマと比べた俺の推理の拙さも無意識に感じているのか。どちらなのかについては考える気もしないが、習慣になっているものを今更変えることもできないようだ。

 そんな複雑な葛藤を頭の隅に追いやりながらテレビを眺めていると、固定電話が鳴った。運の悪いことにリビングには俺しかいない。

 基本的に、天都賀直人宛にかかってくる電話はない。最近そこに木倉が加わったものの、取り次ぎの度合いを考えれば九割を超えるので基本的に電話には出ないようにしている。

 のだが、電話を取る人間が俺しかいないのなら取らざるを得ない。その木倉かもしれないし。

「はい、天都賀です」

『いきなりごめん』

 こちらが名乗ると、女子の声で謝罪の言葉が飛んできた。

 それこそいきなりだ。脈絡もなく謝られたところで、誰なのかわからない。相手を確認してからの謝罪ということは、目的の相手は天都賀直人だったのだろうが、謝られるような心当たりは無い。

 いや。俺に意味のある電話をかけてくる相手を考えれば、絞り込むのは無理じゃない。そこに口調も合わせれば、苦もなく相手は割り出せる。

 ……苦も無く相手を割り出せる交友関係しか無いということには、この際目をつむろう。

「野瀬か?」

『あ、そういえば家電いえでんだっけ、これ。名前出ないんだ。うん、野瀬。みーから番号聞いてさ』

 木倉、個人情報を勝手に……。まあ、実害はないだろうから構いはしないが。

 というか、携帯であっても登録されてない相手の名前は出ないだろ、たしか。

「大変だったな、今日は。いや、今日も、か」

『あはは。だから天都賀の方が大変じゃん。あたしはほら、あたふたしてただけだし。今日も、前もさ』

 俺の方が大変か。それはどうだろう。

「俺が関わったことで事態を悪化させたという意味でなら、大変だっただろうな」

 ミステリーだと、往々にしてそういうことが多い。無知で無遠慮な第三者が事態に一枚かみ、あっさりと殺されたりする。少なくとも、買う必要のない恨みは買っているだろう。

『いやいやいやいや、それはないって。天都賀は正しいことをしたじゃん。ただ、さ』

 野瀬は、言葉を切った。

 向かい合っていれば言えないこともある。ネットが無法地帯になるのは相手の顔が見えないかららしい。

 けれど、顔が見えないのは電話も一緒だ。だからこそ伝わらないこともあるのだとは思うが、野瀬はその先を口にした。

『これで良かったのかなって』

「……それは」

 俺が正しいことをしてないっていう意味じゃないのか。

 実際、あれが正しかったのかは俺にもわからない。少なくとも、納得していない人間がいるのは確かなのだから。

 ただそれが野瀬もだというのなら、俺は「正しくない」と言わなければならないのかもしれない。

『ごめん、愚痴になって。あはは、おかしいな。お礼を言うつもりだったのに』

「いいさ。おまえが納得してないのに俺が納得する方がおかしな話だ」

『そういうもんかなあ?』

 そういうもんだろう。たしかに、勝手に納得しても構わない。事態は収拾されたのだから、ただの自己満足でもないだろう。

 むしろ、あれこれを面倒だと感じるなら強引にでも納得しておくべきだ。俺は、事態に介入して問題を解消したとも要らない首を突っ込んで責任を発生させたともどちらとでも言えるのだから。

『ま、あたしは納得してるよ。でも、あの人たちが楽しそうだったっていうのも事実だからさ』

 それは納得じゃない。妥協だ。

 とは言えなかった。むしろ、頭をハンマーで殴られたような感覚というのを味わわせてもらった。

 高野連に所属している野球部なのだから、甲子園を目指すために努力するのが当然だ。俺はそう考えた。つまり、趣味ではなく実益が伴った活動でなければならないと。

 だが、本当にそうだろうか。いや、考えるまでもない。非常に簡単な設問とその答えで否定できる。

 つまり、「野球をやる人間は全員プロ野球選手を目指さなければならないのか?」という設問と、「いいえ」という答えだ。プロフェッショナルを目指すことなく趣味や遊びで何かをやることが悪いことのはずはない。

『ん。ほんとごめん、変なことばっか言って。芹先輩にも言われたのにね、文句があるならなにか案を出せって』

「いや……」

『だからさ。ほんとにありがとね、天都賀』

 ありがとねという言葉が、これ以上ない皮肉に聞こえた。野瀬にその気はなくとも。

 その後は大したやりとりもせず話は終わった、はずだ。

 実を言うと、何を喋ったか覚えていない。代わりに思い出すのは、芹先輩の言った「人生はフェアではない」という言葉。先輩はミステリーの必須事項として語ったが、文字通りすべてのことがフェアではなかった。

 ミステリーには、“信頼できない語り手”という概念がある。事実を隠して物語を語る主人公のことで、ジャンルや要素の一つになっているが、事実すべてに則して語っていないのは誰でも同じだ。語り手も探偵でも犯人でさえも、すべてを見たわけではない。野瀬が語っていた野球部は野瀬の主観だし、木倉が野瀬を気づかっていたのは木倉の人間性だし、芹先輩が野球部を断罪したのは芹先輩のルールに反したから。そこには全体主義も客観性も公平性もない。人は平気で嘘を吐くし、虚偽の記憶を真実だと思い込むことさえできる。俺も主観のバイアスをかけて世界を見、趣味で野球をやっていた先輩たちを部から去るべきだと判断した。ほら、信頼できる語り手なんて一人もいない。

 そもそも、信頼できない語り手が成り立つのは読者が無意識に語り手を信頼しているからだ。そうでなければミステリーというジャンル自体が宙に浮いてしまうのだが、俺は周囲から与えられた情報がすべてであり、正しいのだと思い込んでいた。

 間違えたのかもしれない。そう思うと、視点がブレてくる。

「まさか、兄さんに女性を選り好みできる甲斐性があるとは思いませんでしたね」

「……するか、そんなこと」

 いつからいたのかわからないまどかの相手をすることすら億劫だ。

 まどかは放り出したままだった子機を元に戻し、木倉との電話の後のように隣に座った。

「深刻そうな顔ですねえ。どうせまたどうでもいいことで悩んでるんでしょう」

「……。どうなんだろうな」

 絶対的にどうでもいいのかもしれない。世の中何が起こるのかわからないことを考えると、俺か先輩か野瀬辺りが謂れのない暴力を受けるかもしれない。だが、そうなってしまえばもう内輪で済ませられる話ではなくなるだけのことだ。

「というか、『また』の『前』は何を指してるんだ?」

「私のこととか」

 自分のことがどうでもいいことだと言うか。

「そんなわけあるか」

 それがどうでもいいなら、大抵のことはどうでもよくなる。一番身近な人間がどうでもいいなら、何がどうでもよくないんだ。

「へえ。兄さん、私のこと好きなんですか?」

 だからどうしてそういう話になる。

「兄妹だろう」

 血は水よりも濃い。恐ろしいことに、最近の社会を見ると死語になってしまいそうな気もするが、少なくとも俺の中では死んでいない。

「つまり、兄弟愛ですね。兄さんは私のことが好きと」

「もういい。それで」

 曲解と言えばいいのか、都合のいい解釈と言えばいいのか。ともかく、この世は黒か白かだけではない。

 ただ、嫌いでも無関心でもないというのなら、それは好きということになるのかもしれない。

「そうだな。おまえのことは好きだろうと思う」

「でも他人ですよ。兄さんが私のことを理解しているなんて、そんなオカルトがあるわけありません。気持ち悪い」

「……だから、持ち上げておいて突き落とすのを止めろ」

 まどかが俺のことをどう思っているのか、大体わかった。

 それよりも、割り切り方がドライすぎるだろう。事実ではあるとしても、本当に将来が心配になってくる。天使の顔をした悪魔にでもなりそうだ。あるいは、すでにそうなのか。

 まどかは、指を立ててくるりと回した。

「ともかくですね。愛を与えたからといって、返ってくるかどうかはわからないわけです。ほら」

 回した指は、テレビの画面に向く。

「正しいことをやってる人だって、好かれてるわけじゃないですし」

 画面の中では、主人公の刑事が被害者遺族に胸ぐらを掴まれていた。

「だったら、自分の理念に従った方がきっと無理はないですよ。その上でまあ、社会正義とか多数決とかで肯定されたらラッキー、みたいな」

 たしかに、人の一生は往々にしてそんなものだろう。人に合わせるということが自分を捨てるのと同義かというと、そうでもない。人と合わない俺には、そう思えてならない。だからこそ、同時に思うのだ。正しいものは、必ずしも多数ではないと。

 しかし。それは、多数が正しい事もあるということではないのか。

「なあ、まどか。今、幸せか?」

 かつての自分は、余計なことをしたのか。そういえば俺はそれを聞いていなかった。

 まどかは不思議そうな顔をして、やはり年不相応の皮肉めいた笑みを浮かべる。

「まあ、幸せだと思いますよ。頼られるのはいいですけど、使い潰されるのはやっぱり業腹ですから」

 そうか。なら少しだけ安心した。


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 もしも、状況が違ったらどうだろうか。

 たとえば、練習がきつくて負傷者が大量に出たとか。そういう状態なら、俺は真面目にやっている人間を否定する側に回ったかもしれない。

 あるいは、高校生の本分の話に置き換えることもできるかもしれない。

 学校は勉強するところであると同時に、集団活動の場でもある。故に、コミュニケーション能力も意欲もなくその中にいるだけの天都賀直人という生徒は、高校生として相応しくない。そんな裁定が下されたとする。俺にとっては暴論だが、一本筋の通った論理でもある。「そういう生徒がいてもいい」と答えを返すのなら、野球部のことについても「そういう部員がいてもいい」という答えになる。実際、そういう答えになるはずだ。

 野球を楽しみたいという意志も尊重されるべきだったのだろう。甲子園を目指したい部員。部活を楽しみたい部員。部費を出す学校側。そう上手く三方一両損にはならない。あの話にだって、大岡忠相自身には一切得がない。「誰かが損をしなければならないのなら位階の高い人間がするべきだ」というのがノブレス・オブリージュの発想の原点なのかもしれないが、正しい人間が割を食うしかないのだとすれば、どうやっても立ち行かない。

 俺は、探偵のように事件を締めることもできないし、時代劇のように上手い裁きを下すこともできない。それでも答えを探すことはできるかもしれない。ただ、それには視点が固まりすぎていることにも気付かされた。

「おはよう、天都賀君。どうしたの?」

 そういう話をするのなら、この人しかいないだろうと思った。

「おはようございます、芹先輩。少し話に付き合ってもらえませんか」


「どうぞ」

 先輩が差し出してくれたコーヒー缶を受け取る。財布から代金を取り出そうとすると、それを制された。

「労働の対価としては割に合わないでしょうけど、昨日のアドバイザーとしての料金だと思っておいて」

「はあ。では、遠慮無く」

 プルタブを起こして口を付けると、苦みが喉を落ちていく。

 始業までに終わるかわからない。さっさと話を始めよう。

「先輩は、今回のことが上手く片付いたと思いますか?」

 そんな話だとは思わなかったのか、先輩は一瞬だけキョトンとした表情になった。

「ええ。野球部は正しい状態に戻ったと思うわ。けれど、天都賀君はそう思っていなかったのね」

 思っていなかったと言えば嘘になるだろう。少なくとも俺は、昨日先輩と話していた時には先輩と同じように「野球部のツケの精算が終わった」と思っていた。いや、野瀬から電話をもらうまでは疑うことなくそう思っていた。

「時間をおいて俯瞰で見られるようになったからですかね。どうにも原因に対して結果が大きすぎたような、そんな気がしてきたんです」

「バタフライ・エフェクトね。別に珍しいことではないわ」

 バタフライ・エフェクト……たしか、小さな原因が大きな結果を起こすという意味だったか。

「風が吹けば桶屋が儲かったり、ブラジルの蝶がテキサスでトルネードを起こしたり、結果というのは必ず大きくなるものよ。善意ではそうならないのに、不思議よね」

 先輩はそう言って、笑った。どう考えてもいい意味の笑いではないだろう。

「本当は不思議でもなんでもないのよね。善意はお金にならないし、必ずしもいい物であるとは限らないのだから」

「そうでしょうか」

 善意が金にならないというのはそうかもしれないが、いい物ではないというのはどうなのだろう。

「ええ。たとえば、ゴミ拾いなんてそうよ。すごくいいことのように言われているし、ボランティアの初歩でもあるけど、あれってゴミを捨てる人間がいるから成り立つのよね。つまり、不法投棄という犯罪があって成り立っているということ。そう考えれば証拠隠滅じゃないかしら」

 証拠隠滅か。確かに、投げ捨てた缶やペットボトルから指紋は採れるだろうし、飲み口から口唇紋もDNAも採取できるだろう。データベースにでも登録しておけば、何かの拍子に犯人が特定されることもあるかもしれない。

「もちろん、街が荒れていることがさらに犯罪を助長するというのもわからないのではないのだけど。でも、どう足掻いても対処療法よね。根治はできないし、抑止になっているわけでもない。なのに、善行なのよね」

 先輩は、深い溜息を吐きだした。

「ねえ、天都賀君。詐欺師の最大の負の効用はなんだと思う?」

「負の効用ですか?」

 犯罪だから、という答えでは不適切だろう。なぜ犯罪なのかという問いでもない。嘘なんて、誰でも吐くものなのだから。

「だまし取った金が全額戻るわけではない、とか」

「それも確かに大きな負の効用ね。でも、こうは思わないかしら。『誰もが嘘つきに見えるようになってしまう』とか、『嘘を吐いてお金をだまし取る人間がいると世間に認知させてしまう』とか」

「『人を見たら泥棒と思え』ってヤツですか」

 それは確かに、大きな負の側面かもしれない。疑心暗鬼を生ずと言う。周囲のすべての人間が敵に見えたら、生きにくいことこの上ないだろう。

 それが誰もがお互いに持つ共通認識となったら、社会は成り立たない。

「何よりも……真実さえも嘘に見えてしまうわ」

 考え込んでいて、先輩の声を聞き逃しそうになった。それでなくても、消え入りそうな声だった。

 先輩は、何を経験してきているのだろうか。今の俺にはわからない。

「だから、私は報いは受けるべきだと思うし、無自覚だからという理由で罷免されるのはおかしいと思うわ。むしろ、悪や独善に無自覚無思考であることこそが重大な罪なのではないかしら」

 そう言う私も独善的なのでしょうけど、と先輩は呟いた。

 ジレンマだ。正しいことが正しくないという矛盾。俺にはそれを解消することはできそうにない。

「でも、それでもなにかをしようとするのなら、発言を撤回するわ天都賀君」

 ふわり。

 そう表現するべき笑顔で、先輩はこれ以上なく優しく言った。

「すべての人を正しく見ようとするあなたこそ、探偵にふさわしいのでしょうね」


 登下校の両方で同じ場所に立ち尽くすのも不思議な気分だと思った。

 この学校に裏門はない。ということは、正門で待ち続ければそのうち目的の相手は通る。もちろん、俺より先に敷地を出たかもしれないが、その辺りは俺が折れるのが筋だろう。ダメなら明日の朝にまた待てばいいだけのことだ。

 しばらく待つか明日になる覚悟ではいたのだが、目的の相手はすぐにやってきた。向こうも俺を見留めて立ち止まる。

「……おまえ」

 あの日、生徒会室で先頭に立っていた三年の先輩。当然ながら、彼は俺を無視して歩き去ろうとする。

「待って下さい」

 それでも、呼び止めると止まってくれるあたりは律儀と言うべきだろう。

「……なんの用だ」

「少し時間をもらえませんか」

 そう言って、答えを聞くこともなく歩き出す。行き先は駐輪場だ。

 うちの学校は、ほぼ一〇〇%の生徒が部活動に所属しているらしい。どこかの専門学校の就職率のような延べ計算でなければ、直帰する生徒をやり過ごせば駐輪場に寄り付く生徒はいない。例えいたとしても、隠れる必要はないだろうが。

「もう一度聞くが、なんの用だ」

「そう身構えないで下さい。アフターケアというか……ただの罪滅ぼしです」

 ここで剣呑な雰囲気になるのは得策ではない。いきなり掴みかかられはしないだろうが、それでは誰も得をしない。

「まず、謝ります。すみませんでした」

 許されなくても、頭を下げておく。相手が溜飲を下げるかどうかは別として、俺にも非があるのは確かなのだから。

「先輩たちが害悪だと思ったから排除するような解決法を提案しましたけど、どうにも主観的すぎました。部費を自己負担してまで野球部に所属したくないからと言って、野球が嫌いだということにはならない。野瀬に言われて気付きました」

「ああ」

 どうにも、先輩は話を聞いてくれているのかわからない。しかし、去らないのなら話を続けていいのだろう。

「一番じゃなきゃダメなのかとか言った政治家がいましたね。さすがにプレイヤーや監督でない身であれこれ言う気はありませんけど、一番である必要はないと思います。問題は、一番になろうとする気があるかどうかでしょう。芹先輩の言うとおり、資金を出して貰って活動している身ではそれが許されない。それくらいは先輩にもわかりますよね」

「知るかよ。ガッコーの活動だろ」

「先輩。今、不景気なんですよ。リストラ対象ってのはまずリストがあって、それから理由を後付けするものらしいですよ」

「それがなんだってんだ」

 ……論理が通じない相手にはどうすればいいのか、芹先輩から聞いておくべきだった。

 いや、芹先輩も論理で押す人だから野球部と折り合いがつかなかったのか。

「じゃあ先輩。俺、今から遊びに行きたいんでカネ下さい」

「あ? いきなり何言い出すんだ、おまえ」

「いいじゃないですかー。先輩でしょー」

「無表情で棒読むな」

 無表情か。そりゃ、本気じゃないしな。

「と、俺のことはともかくそういうことです。俺が野球部で、先輩が学校側。そういう立場だと軍資金を出したくないでしょう」

「なるほど。まあ、そうだな」

「つまり今回の件においては、活動のために費用が発生するのが問題だった。というわけで、本題です」

 そう前置いて、内ポケットからメモを取り出す。

 さすがにこのデータは暗記できなかった。

「重量一四一.七~一四八.八グラム、円周二二.九~二三.五センチ。直径は八センチ弱になりますね」

「……なにがだ?」

「硬式球のサイズです。先輩が蔑ろにした野瀬は、ちゃんとそこまで調べてましたよ」

 とは言え、道具のことなんて知らなくてもスポーツはできる。その辺りは既製品だし、俺も昼休みに調べるまで知ろうともしなかった。

 ついでに、硬式球は練習球一ダースで五千円程度。試合球は一ダースで一万円程度らしい。どういう球を使っているのかは知らないが、野球部部長が出した被害総額は適当に見積もっても五万から十万くらいになるようだ。

 と、今はそれはいいか。

「対して、直径七一.五~七二.五ミリ。重量一三四.二~一三七.八グラム。これ、なんだかわかります?」

「さあな」

 ……もう少し、やる気とか考える気を持って欲しい。

 まあいい。さっさと話を済ませてしまえばいい。どうせ自己満足なのだから。

「軟式球ですよ。軟式野球具一式なら学校の備品としてありますし、初期費用も必要ないでしょう。この学校には、同好会や非公式の部もあるそうですね。というわけで」

 胸元に忍ばせておいたもう一枚。同好会設立申請書を取り出し、先輩に押しつけた。

「野球がやりたいのなら、軟式野球同好会を作ればどうでしょう。設立に必要な人数の面は問題なくクリアできるでしょうし」

 申請に必要な人数は五人。野球は九人いないとできないが、十年ほど前に野球をやった時はそのくらいの人数でやっていたような気がする。それも、軟式球で。

 正式にやるなら十八人必要だが、それはまた別の話だろうし。

「……軟式野球」

「ついでに、そんなこと考えてプレイしてる人はいないんでしょうが……硬式球って、デッドボールで骨折することもあるらしいですね。メジャーだと死亡例もあるとか。楽しいことで怪我するのは割に合わないですし、軟式野球って選択肢はありじゃないですかね」

 死亡例があるなんて、調べるまで知らなかった。もちろん物理の公式に当てはめればエネルギーや衝撃を算出できるのだろうが、そのエネルギーや衝撃がどういう影響を及ぼすのかまでは俺には知り得ないだろう。

「遊びでなら野球やりたいって人間は結構いると思いますよ。部活動として部費が割り当てられているのならともかく、授業の延長上での活動程度だって最初から定義しておけば文句を言われる筋合いもないでしょうし」

 まあ、そういう動機で設立に漕ぎ着けられるかまではわからない。ただ、そこまでやる気がないのならもう知ったことではない。

「軟式野球部を作るのか、やる気を見せて硬式野球部に戻るのか、受験勉強に専念するのか。後は好きにしてください」

 先輩は、押しつけた申請書をひとしきり見つめ、折りたたんでポケットに押しこんだ。

 しばらくまた何事かを考える様子を見せ、俺を睨んでくる。

「おまえ、誰の味方なんだよ」

 その疑問はもっともだ。しかし、俺にもよくわからない。ただ、あえて言うなら、

「今回はたぶん、あなたの嫌いな野瀬ですよ。でも先輩は野瀬を甘く見すぎだ。あいつはさっき言ったように曖昧でもボールの諸表を記憶してたし、先輩たちのことをちゃんと考えてた。それぐらいは知っておくべきだ」

「野瀬が……」

 さすがに俺には、野瀬がどこまで深く考えていたかまではわからない。答えを出すほど考えていなかったのか、考えても答えは出なかったのか。第三者から見た結果は、どちらでも同じだ。

「もっとも、俺も先輩に闇討ちでもされたら堪りませんからね。利害は一致してます」

「もう少し遅かったらそうなってたかもな」

「だったらそうしそうな奴にちゃんとフォローしておいてください」

「気が向いたらな」

 なんだかこの人、本気で言ってそうで嫌だな。高度な駆け引きや皮肉が使える人なら、もっと上手く事を運んでそうだし。

「話は以上です。お手間を取らせてすみませんでした」

 誰もが幸福になる選択肢は存在しない。芹先輩やまどかが言うには、この世界はそういう風にできているらしい。

 おそらく、目の前の相手はそんなことを考えたこともないだろう。多くの人がそうだ。自分の余暇や安寧が誰かの労働や努力と引き替えに生まれているなんて、思いもしない。一人の生活がいったいどれだけの人数で成り立っているのか、算出しようともしないだろう。

 幸福は何かと引き替えでしか手に入れられない。時間も金も消費せず、ただ何もせず寝ているだけで手に入るものがないように、ノーリスクハイリターンな取引なんてない。欲求を満たすためのアイテムは、棚から降ってはこないのだから。

 誰かが幸福になれば誰かが割を食うのは当然。でも、逆に言えば誰もがそれほど不幸にならない選択肢なら存在するのではないだろうか。俺はその、『少しは救われる選択肢』を選べただろうか。

 そんなことを考えながら背を向ける。さすがにここで自転車にまたがって帰るほど面の皮が厚くない。

 と、呆れたような溜息と共に声がかかった。

「おい一年。おまえの名前教えろ」

 嫌だ。そう即答しそうになって、やめた。

 思えば、探偵だのデウスエクスマキナだの他人だの部外者だの、探偵役には向いていないだの好ましいだのどうでもいいことをやっているだの、解釈したいように解釈されて言いたい放題言われた。

 俺だって、主観だらけでちょっとくらい皮肉めいた冗談を言っても許されるだろう。……というのは、俺の願望でしかないのかもしれないが。


「お疲れ様、ドウ君」

 しばらく時間をつぶした後、駐輪場から自転車を押して校門に向かうと、芹先輩に呼び止められた。

 俺の名前は天都賀直人だが、その名前に心当たりがないと言えばさっきの冗談が無になる。

「……人が悪くありませんか、先輩」

 どこから聞いていたのかわからないが、少なくとも最後の俺の名乗りは聞いていたらしい。

「非凡な人間が『ジョン・ドウ(何者でもない)』と名乗ることの方が人が悪いとは思わないかしら」

「別に俺は非凡じゃありませんよ」

「そうかしら」

 そうだよ。

 そう言い返すのすら億劫だった。どうにも、誰も彼もが俺を買いすぎているような気がする。俺はただ、天秤の釣り合いを取ろうとして、無い知恵を絞っただけなのに。

「大した皮肉ね。最も何者かであった者が自分は何者でもないと名乗って、何者かでなければならなかった者が揃って何者でもないというのは」

 先輩のその考え方こそが皮肉だ。別に俺は、そういう意図を持ってジョン・ドウを名乗ったわけじゃない。

「……別に俺は、デウスエクスマキナでもなければ探偵でもなかったですからね。どう言った所で名前負けでしょう」

 肩書きを付けるなら『火消し』と言ったところかもしれないが、残り火を見逃してしまう辺り三流以下だろう。め組を蹴り出されてしまう。

「ごめんなさい。あなたは確かにジョン・ドウよね。この事件で純粋な被害者がいるとすればあなただもの」

 この国で言う名無しの権兵衛という意味で使われるジョン・ドウだが、本国では身元不明の男性遺体に付けられたりもするらしい。別に、そういう暗喩を込めた覚えはないのだが。

 ただ、果たして俺は純粋な被害者だろうか。確かに、関わらないでいることはできた。けれどそうやって傍観者になったところで、完全な第三者になれただろうか。

 それは無理だ。世界から隔絶されているなんて幻想で、誰もが世界の一員なのだから。

 この世の中、思い通りに行く事なんてほとんどない。真実は大抵、残酷なものなのだろうし。

 俺はその真実を引き当て、どうにかこうにか取り繕って、それなりにうまく行っただけで……。

 真実?

 真実ってなんだろう。

 本当に引き当てたのだろうか?

 人間の行動は矛盾に満ちているが、それは必ず矛盾していて整合性が取れないということではない。

 無知。傲慢。無思考。そんなものが絡み合ってもつれて出来た一つの事件を、解きほぐすことができたのか?

「……天都賀君?」

 いや、まだだ。真実を隠し、捻じ曲げるものがもう一つある。

 嘘。その中でも、恣意的な虚実の提示。今回の事件に関わった人間は、正直者ばかりだったように見えた。しかし、表面的なものをそのまま信じていいのだろうか?

 人の本質は、他者の評価と一致しない。そんなことはわかりきっているはずだったのに。

 先輩は言った。わずかな手がかりを穴のある絵に仕上げなければならないことの方が多いと。それはきっと全体像を見た場合のたとえで、推理という作業自体は、電気回路の制作に近いのなのかもしれない。つまり、途中の配線を逆にしたところで、電球は光り、モーターは回り、回路は完成する。今回は電球が光った。モーターなら逆に回って気づいたものに気づくことができなかった。

 違和感を元に、回路を繋ぎ変える。それでも真実という名の光が灯り、歯車は滑らかに回る。

「なにか、思いついたのね」

「これで最後です。……多分」

 たった一つ。それを調べれば、絵から穴は消えるはずだ。

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