二 消えるボール
人付き合いには、メインとサブがある。いや、メインとそれ以外があると言った方が正しい。身も蓋もないが、どう考えてもそういうものだ。
具体的に言えば、木倉は野瀬を初めとするグループとの付き合いがメインであって、俺はその他になる。むしろ、三日ほど勉強をしただけで、顔見知りのクラスメートに近いはずだ。
そう。たったの三日。テスト週間に入ってからは一日に二言三言会話する機会があるくらいで、木倉と俺は一緒に勉強をすることはなかった。その主原因は、木倉と野瀬でもフォローしきれない俺に対する風評被害。副因はその尾ひれであり、これ以上ない冤罪だった。人の悪評は、虚実共に覆りにくい。覆そうとすれば、さらなる悪評を生み出す。そう考えると、野瀬はこれ以上なく素直な人間だったということになるのだろうが、その推測はそれほど間違っていまい。
そんなわけで、次の一週間は平穏だった。対岸では火種が燻っていたのだろうが、渡る橋がないことを知っていれば気にする方が馬鹿らしいと割り切ることもできる。その辺りの考え方は、育った環境からなのか妹と共通しているようだった。
さらに週が明ければ、誰も俺のことを気にしている余裕はない。時はテスト本番。期間は四日間。それもついさっき、滞りなく終わった。特に手応えらしい手応えもなかったのは、模擬でやった去年のテストとそれほど難度が変わらなかったからかもしれない。逆に言えば、模擬で取れた分の点数は取れているのだろう。
「天都賀さん」
帰り支度をしていると、木倉に声をかけられた。
「なんだ?」
「今日でテストも終わりなので、委員会の先輩が打ち上げのようなことをしようと言ってくれていたんですが……」
委員会。木倉がそういうものに所属していたとは、考えもしなかった。
木倉は俺に向けて、「どうでしょう?」という視線を送ってくる。しかし、二つ返事で受けるわけにもいかない。
「それ、俺が参加していいのか?」
「はい、是非。あ、委員会の先輩というのは、テスト問題を貸して下さった方です」
ふむ。ということは、既に話が通っているということだろうか。
部外者が一人いるのはどうかと思うが、その先輩には一度会って直接礼を言いたかった。渡りに船かもしれない。
「じゃあ、謹んで参加させてもらうことにする」
そう答えると、木倉は笑顔になった。
よくよく思えば俺は、木倉に提案されたことに対して一々場違いな気がしてしまっている。別に人嫌いというわけではないのだから、卑屈になりすぎる癖は矯正した方がいいかもしれない。
「では、行きましょう」
先導する木倉の後に続き、廊下を歩く。さすがに倍とは行かないまでも歩幅が違うので、歩く速度はかなりゆっくりになる。
ところで、木倉はいったいなんの委員なんだろうか。図書委員辺りが似合いそうだが、俺たちの足の向きは図書室とは正反対。今日の当番でない可能性もあるが、それにしては上級生の教室にも、昇降口にも足は向いていない。となれば、行き先は木倉しか知らない。
どこに行くのか聞いたところで現地集合になるわけでもないので、別の話題を振った。
「テストの出来はどうだった?」
「はい。おかげさまでばっちりです。手応えは、ですけど」
木倉は、各試験が終わった後に友人と答え合わせをしていた。そこでいろいろと齟齬があったのだろう。
「多数が正しいとは限らない」
「……と言えるほど自信がないんですよ」
先週、授業を受けながらなんとなく考えた。
受験という関門を突破してきている以上、ある程度俺たちのボトムは決まっている。市内公立の最難関であるため、そのボトムは高い位置にはあるはず。勉強に対して忌避反応を示していた野瀬も入学試験を突破してきているのだから、当然、基準点の上にいる。だとするなら、スタートダッシュを決めたとして、たった二ヶ月でその差は変わらないだろう。となると、今回の中間テストだけが地面の決まった絶対評価なのかもしれない。九月の期末テストからついに、上下が開いた相対的な評価が始まるのだ。
……とかなんとか。それがなんだと言われればそれまでの与太話。
ともかく、裁定を下すのは俺でも木倉でもない。
「来週に期待だな」
「はい」
よく、「結果は蓋を開けるまでわからない」と言う。言い得て妙だ。どこが妙かと言えば、「わからない」というところだろう。その言葉を作った先人は、「決まらない」とは言わなかった。別の先人たちは決まらないようなことを言ったそうだが、まあ、「理解が及ばない」というニュアンスでは意味は共通している。
どう足掻こうが、解答を操作することはもうできない。できなくはないが、それをすれば高校生活が終わるから問題外だ。なら、結果はもう決まっている。俺にはわからないだけで、当面の目的地が決まっているように。
渡り廊下を通って、3号館へ。何かに使った記憶のある大講義室の前で木倉は足を止めた。
軽くノック。「どうぞ」というくぐもった声が聞こえた後で、木倉はドアを開いた。
中には女子生徒がいた。教室の二倍ほどの広さの空間に、たった一人だけ。
優しさの奥に冷たさを秘めたような目。引き結ばれていた唇は、木倉を見留めるとふっと和らぐ。長く伸ばされて首の後ろの辺りで一つにまとめられた、まさに絹のような黒髪。すらっとした手足。
美人だな、というありふれた感想しか思い浮かばなかったし、それで十分な気がした。
「こんにちは、先輩」
木倉は、彼女のことをそう呼んだ。
思えば、木倉の言う先輩が男なのか女なのかについて考えようともしなかった。聡明だという木倉の評からすると、目の前の相手がそうなのだろう。
「こんにちは、美空。そちらは?」
「どうも。一年A組、天都賀直人です」
軽く頭を下げてから、それとなく部屋の中を見回す。
結構ゆっくり来たはずなのだが、他の委員の姿は見当たらない。委員会自体が休みなのだろうか。
動かしていた視線を戻すと、先輩は唇に指を当てて考え込む様子を見せていた。そんな仕草にさえ、不思議と違和感を抱かない。
「天都賀直人? ああ、あなたが」
何が得心いったのかはわからないが、先輩は立ち上がって、入り口に突っ立ったままの俺のそばまで歩いてきた。近づくと、女子にしては高めの身長でさらに美人に見える。
「私は芹紀弥梨。二年D組よ。よろしく」
差し出された手を握り返す。柔らかいと言うより、しなやかという表現が適切な指だった。
ただ、単純に美人と言うには所作が少し中性的に思える。正しく評するなら、「格好いい」というところだろうか。
「……私も未熟ね。あなたの存在にも気づくべきだったのに」
「え?」
「なんでもないわ」
先輩はそう誤魔化して、微笑を浮かべた。ただ、その目がどこか笑っていないような気がする。
木倉が裏表のない笑顔だとするなら、芹先輩は裏と深度がありそうだ。少なくとも今は、その裏が悪いものではないように思える。
回れ右をした先輩は、元いた席へと戻っていく。
「手数をかけて悪かったわね、天都賀君。今日から委員会活動が再開されるから、どこかに行くわけにはいかなかったの」
「構いませんよ。どうせ、帰ったってやることはありませんし」
「そう言ってくれると助かるわ。どうぞ座って」
先輩が座るのを見て、その近くの座席を引いて腰を下ろす。さて、これから何を始めるのか。
いや、まずはこっちの用事を終わらせておこう。
「芹先輩。テスト問題、ありがとうございました。おかげで助かりました」
「気にしなくていいわ。どうせ来年まで開きもしない代物だったし、あなた達の役に立ったのならその甲斐もあったというものよ」
女性の先輩をこう評するのもなんだが、男らしすぎる。
実際、芹先輩の言うことも事実なのだろう。木倉に聡明だと言われるくらいだ。定期的に見直しをしなければならないほどの成績ではあるまい。
「ところで、ここは」
なんの委員会なんですか?
そう聞こうとしたのだが、声にかぶせられるように勢いよくドアが開かれる。他の委員かと思ったが、そこに立っていたのはジャージ姿の野瀬だった。
「天都賀っ!」
俺?
そう口にする間もなく、野瀬は足早に近づいてきた。そのまま、腕を掴まれる。
なんだ。俺は責められることは何も、
「力を貸して」
「何?」
もう一回言ってくれ。
……などと言える状況ではなさそうだし、必要もない。
力を貸して、って。なんのだよ。
「ひーちゃん?」
「あ、みー」
声をかけられて初めて気づいたかのように、野瀬は木倉の方を見た。変な話だ。最初から俺が目当てだったのか。
部屋の中は、微妙な空気に包まれる。機先を制されたというか、勢いを失った野瀬が視線をさまよわせている。
その空気を取り払うように、かつん、と机を指で叩く音が響いた。
「落ち着きなさい、野瀬さん」
「あ、芹先輩。ごめんなさい」
野瀬は、先輩に向かって丁寧に頭を下げた。木倉を通してか、二人は知り合いだったらしい。
「なにがあったの?」
辛そうにそう聞いたのは、木倉。理由もわからない段階から感情移入を始めている。さすが友達思いだと感嘆させられる。もちろん、悪い意味でなく。
野瀬は、木倉の方を見、先輩の方を見、俺を見、最後にはうつむき、
「ボールが消えた」
そう、言った。
芹先輩や木倉が委員として活動を再開しているのと同様、テストが終了すればその日から部活動も再開される。野球部もその例に漏れない。漏れるわけがないが。
野球部の用具は、バックネットの脇にある専用の倉庫の中にある。それほど重くはないが、練習準備も合わせて運搬は部員の仕事になっている。それでも、自主的に手伝うことはできる。体育倉庫の前で待っていたところ、中から困惑したような声が聞こえた。驚いて飛び込むと、部員たちが空のボールケースを見せ合っていた。
なにが起こったのか尋ねると、そこにあるはずの硬式球が一球も無く、倉庫の中のどこにも無いという。つまり、すべてのボールが倉庫の中から消失したのだ。跡形も無く。
それが、口を差し挟まずにいた俺たちの前で野瀬が話したすべてだった。
まあ、一球や二球無くなったところで野瀬がこうはならないとは思っていたが、全部とは。
「酔狂な人間がいたもんだな」
話を一通り聞き終えた俺の感想は、それだった。他に言うこともない。「てっきり魔球の話かと思ったけど見当外れだったよ」とでも言えば場が和んだだろうか。
その感想が投げやりに聞こえたらしく、野瀬は怒り出す。
「酔狂で片付けられないわよ! 練習ができないじゃない!」
「お、落ち着いて、ひーちゃん」
木倉が野瀬をなだめているが……どんな理由があれど、ボールを盗むのが酔狂以外のなんだと言うんだ。
「酔狂という表現はどうかと思うけれど、天都賀君の言っていることはもっともだと思うわ。ものを盗むことそれ自体が犯罪行為ではあるけれどね」
至極冷静に、先輩はそう言った。野瀬を落ち着かせるのと一緒に、俺もやんわりとたしなめられたのだろうか。
「ところで、野瀬さん。どうして天都賀君の所に?」
冷静だと思ったら、俺も疑問に思っていたところを放り込んだ。行動の読めない人だ。
野瀬は一度先輩に視線を向けてから、俺に視線を移した。
「みーから聞いたんです。天都賀は、そういうのが得意だって」
「……。なんだよ、そういうのって」
答えがわかりきっていても、聞かずにいられない。
何を聞かせたんだ、と視線リレーの最後である木倉を見ると、まっすぐ見返された。
「推理です」
やっぱりか。土曜日の電話からして、そう思われているのではないかと感じていたが。
「それは」
おまえたちの思い違いだ、と言おうとして、できなかった。押し込めた空気の中で目が六つもこっちを見ていれば、金縛りにも似た気分になる。広かったはずの部屋の壁に手や背中が届きそうな気さえしてくる。
「天都賀さん」
「天都賀」
断れる状況ではない。天都賀直人という人間は、存外小市民だったらしい。押しに弱すぎる。今はただ、自己が欠如しているわけではないと信じ願うのみだ。
まあいい。考えるだけならできる。答えが見つかろうと、見つかるまいとに関わらず。
……それに、盗難は刑事事件だ。下手に騒ぎ立ててしまうと、「活動できない」のではなく「してはいけない」状況になりかねない。それは、野瀬の努力を無にする結果に繋がってしまう。そいつを「ざまあみろ」と笑ったり、「いやー残念だね」と肩を叩けたりするほど俺は人間が終わっていないつもりだ。
「わかったよ。考えてみる。ただし、あんまり期待はするな。責任持てないからな」
「うん!」
これ以上ないほど嬉しそうに笑って、野瀬は頷いた。だから、期待するなって。
そういえば、木倉が言っていたな。野瀬が助けを求めてきても俺は助けることになるとか。まさしくその通りになったわけだ。
ともかく、まずは実態の把握か。
「そのボールケースは、どのくらいの容量があるんだ? 具体的には、ボールの個数と保管方法だが」
「一ケースで三ダース入って、それが三ケース。全部で一〇八球。用具倉庫の隅にまとめて置いてあるよ」
多いだろうとは思っていたが、想像をはるかに超えて多い。しかも、偶然か必然か、人の煩悩の数だ。なるほど、人の煩悩は九ダースか。
……そんなことを考えている場合ではない。千本ノックには九〇〇球足りないなどというのも、本当にどうでもいい。
「最後の活動は先週の日曜日だな。その時には一〇八球たしかにあったのか?」
「うん。毎回数えるから間違いないよ。足りなかったら草の根分けて探すからね」
ほぼ野球部のものとは言え、本来は学校の備品だ。紛失は困る。そりゃ草の根分けても探さざるを得ない。
野球ボールを単純に立方体状に積み上げた場合の一辺の個数は、x^3=108で大体x=5。球のサイズは、手で掴めるから十センチもないか。一辺四十センチ程度なら、一度で運び出せないこともない……か? うちの高校、カバンは自由だしな。重量も、そこまで極端にはならないだろうし。
いや、どうだろう。重量は問題かもしれない。
「一〇八球だと、どのくらいの重さになる? 一人で持てるものか?」
「持ったこと無いからわかんないけど。えーと、一球が一四五グラムぐらいだから……。えー、あー、うん。い、いちまんよんせんごひゃくグラムくらい?」
「……一五キロちょっとだな。運動部員なら一人でも持てるか」
一四五〇〇が棒読み過ぎて、野瀬がボール一球の重量を把握していたということへの感心が吹っ飛んでしまった。ともかく、一五キロなら俺でも持てるだろうし、半分ずつ運べば八キロもない。複数犯なら言わずもがなだ。
「うう。あ、ああそうだ。現場検証とかしなくていいの? ほら、いくなら早く行かないと」
何かのドラマの影響からか、野瀬は急かすようにそう口にした。さっきのことを誤魔化そうともしたのだろうが、それに言及する気は元々ない。
たしかに、現場検証は必要だ。だが。
「殺気立ってるところにふらふら現れて、『どうも謎解きに来ました』なんて言ったら俺は明日から学校中の晒し者だ。勘弁してくれ」
「あ、そっか」
どうせ行く羽目になるなら、もう少し考えを整理してからにしたい。
探偵小説なら一に現場でいいのかもしれないが、現実の人間というのは感情に従順だ。本物でも偽物でも、「なんだあれ」から「ふざけてんのかいいかげんにしろ」となり、翌日にはその話が全方向に誇張された上で無差別に拡散されることは想像に難くない。俺が探偵役に担ぎ出されるほどの知名度や信頼を持っていれば別かもしれないが、幸か不幸かそんなものはない。というか、悪評が立っていなかったか?
まあいい。
「わかるところから詰めていくか。まず、犯人、あるいは犯人グループの目的は、野球部の活動妨害」
「え? ボールが欲しかっただけじゃないの?」
俺の断定に、野瀬が異議を唱える。たしかにその可能性もあるだろう。ただ、今回はその可能性は否定するべきだと思う。
「一〇八球もか? 野瀬は、欲しい服があったとして一〇八着もいるか?」
「ひゃ、ひゃく? い、いらない……」
服は例としてあまり適さなかったかもしれないが、問題は数量だ。
一球や二球盗んだところで、数える段階にならなければわからない。いや、数える段階になっても紛失を疑われるだけで発覚しないかもしれない。単にボールが欲しいだけならその結果に持って行った方が都合がいい。
だが、ボールの盗難による妨害となれば一ケースや二ケース無くなっていたところで練習自体は行われるだろう。一球残っていただけでも紅白戦になるかもしれない。故に、すべて盗み出す必要がある。逆説的な推測だが、これで間違いないだろう。そこまでして野球部の活動を妨害するとは、ある意味見上げた根性だが。
「でも、一〇八球も盗んでも処分には困りますよね。ゴミに出すわけにもいきませんし」
「いや、ボール自体は残してるんじゃないか?」
「え? なんで?」
「どうしてですか?」
野瀬も木倉も首をかしげているが、わからないのか?
先輩に目を向けてみると、彼女も不思議そうな表情をしていた。
「捨てるのは、困るというより面倒すぎるだろう。単純にボールを使用不可能にしたいだけなら釘でも打ち込めばいいじゃないか。すぐそこにホームセンターもある」
「ああ。その発想はなかったわね」
先輩が驚いたように言った。
先輩がそう言うのなら、犯人にもその発想はなかっただろうか。
「なら、刃物で傷を付けるとか」
「そちらの方が簡単ね」
先輩は、納得したようにくすりと笑う。
思えば、野球の硬球は言葉の持つイメージよりもかなり硬い。釘を打ち込む方が簡単だろうが、お墨付きを貰ったということにしておこう。
「そっか。盗む必要はないんだ」
「そう考えると、手法にも謎がある」
「盗んだことですか?」
木倉が首をかしげた。
「たぶん、木倉の考えていることとは少し違う。盗まなければならなかったのか、それとも盗むしかなかったのか、だ」
「それ、なんか違いあるの?」
野瀬も、わけがわからないという表情をする。
そういうリアクションでそう言われると俺も大した違いがないような気がしてくるが、違うんだ、一応。
「たとえば、なんらかの理由でボールが必要だった場合。この場合は盗むしかなくなる。あるいは、ボールを傷つけることに抵抗を覚えたとした場合。この場合は盗まざるをえなくなる」
「えーと? どういうこと?」
わかりにくかったか。たしかに、俺も何言ってるんだかわからなくなってきた。
つまり。なんというか。どう言うか。
「物理的な理由と心理的な問題ね。どちらも、結果だけ見れば同じになる。『なぜ盗んだのか?』と言葉を組み立てるより、『盗むという選択をしたのはなぜか?』と言った方がわかりやすいのではないかしら」
「補足ありがとうございます」
思わず礼を言ってしまった。先輩がいると助かる。俺がもう少し噛み砕いて説明すればいいのだろうが、噛み砕くところを間違えそうな気しかしなかった。
ともかく、話を続けよう。
「ただ、さっきも言ったが、一〇八球も盗んで何に使うんだという話だ。積極的選択ではなく、選択肢を消していった上での結果だろうな」
「盗むしかなかったということですね」
木倉が頷いた。
理由はともかく、盗むこと自体が目的ではなく、ボールが目的でもないということだ。どちらも手段に過ぎない。
「少なくとも、犯人は部活が休みになるのを知っている。いや、期待していると言った方がいいか。野瀬、この学校に軟式野球部かソフトボール部はあるか?」
「ないわ」
「ありませんでした」
野瀬に聞いたはずが、先輩と木倉からそれぞれ否定の答えが返ってきた。
先輩はわかるとして、木倉はどうしてそれを知っているのだろう? まあ、今は関係ないか。
「となると、場所を奪うために行動したわけではない」
「場所?」
「硬式野球とそれ以外の部が同時に活動できる分のダイヤモンドは、この高校にないだろ」
ああ、と野瀬は納得したような表情をした。うちの高校、テニスコートは硬式と軟式でそれぞれあるが、野球のグラウンドは一つしかない。サイズの関係から言っても二つ作るわけにはいかないだろうが。
そもそも、硬式野球部が使うはずだった場所を使用するのは怪しすぎるか。自分が犯人だと言っているようなものだからな。
「現時点で推測される動機は、野球部の活動休止。その手段としてボールを使用不能にしようとしたが、盗むことしかできなかったというところか。バットを盗んだりするよりはずっと現実的……かどうかはわからないが」
「バットは一人一人持ってるから、盗むのは難しいと思う」
「そうなのか。じゃあ無理だな」
なら、盗めるものがボールしかなかっただけか。
だが、なんだろう。何かが足りないような、多すぎるような。
「うん、そこまではわかった。でもさ。活動休止を狙うなら、それこそ怪文書みたいなのを送りつければいいんじゃないの? 部活をすると部員に危害を加えるぞー、みたいな」
「そうね」
野瀬の言葉に先輩も同意した。
そうだな。たしかに、それが一番手っ取り早い。
でも、だ。その結果はどうなるだろう。
「それこそ大事になるだろ。下手したら学校まで巻き込んで警察沙汰、ニュース一報だ。ネットの書き込み一つでそうなる時代だしな。……その方向から考えると、ボールを傷つけなかったのも、後で大量発注がかかればそこから露見するような事態を恐れたのかもしれないのか」
とは言え、それもそれで何か違和感がある。
「中途半端ね。やるなら徹底的にとは言わないけれど、不合理すぎるわ」
先輩の言うとおりだ。やっていることは攻撃的なのに、そこかしこに打算的というか、無難というか、ちぐはぐな面が見える。
ちぐはく? いや違う。
そうか。加害者だけでなく、被害者が何かを得ることもあるのか。あるいは、それを偽装したのかもしれない。
「野瀬。今日休んだ部員はいるか?」
「どうだろ。点呼取る前にバラバラになっちゃったから」
「つまり、わからないと」
「うん」
まあ、よく考えれば聞く意味はなかったな。犯人は現場に戻るというわけではないが、わざわざ怪しまれる行為はするまい。
「顧問は誰だ?」
「村木先生」
村木先生ね。理科の教師だからか、理性的で温厚な人だ。だが、誰にでも怒りのポイントはある。
「バットを持つと豹変するとか、暴力的な面はないか?」
「いや、それはないなあ」
「そうね。今、特にうるさいものね」
たしかに。
ただそれはそれでストレスが溜まりそうなものだが、それで村木先生がボールを盗みだして部活を休みにする意味はないだろう。そもそも、テストの採点で部活には出られないだろうし。
となると、だ。これを野瀬の前で言っていいのだろうか。
「野瀬さん。まさか怪盗の仕業だと思っているわけではないでしょう、あなたも」
「ええっ? いやー、怪盗なんていないですよ。そりゃ」
「だそうよ、天都賀君」
先輩は、感情のない目で俺を見てくる。
木倉は、この人を聡明だと評していた。けれど俺は今、この人が冷徹なんじゃないかと思ってしまっている。
でも、そうだな。どうせわかることだ。先輩の遠回しな非難の通り、口や茶を濁しても仕方がない。
「犯人は十中八九、野球部員だろうな」
そう言った瞬間、野瀬はぽかんとした顔をした。
みんなでしばらく無言になったが、先輩が口を開く。
「根拠を聞いていいかしら?」
「ボールを傷つけることに抵抗を覚えるのかもしれないと言いましたよね。打算か、そうでないなら野球嫌いじゃないんだと思います。加えて、野球部が休みになって被害を被るのは野球部員だけですが、逆に得をするのも野球部員しかいないでしょう」
「得をするのもうちの部員だけって……」
野瀬がそう言うのもわかる。誰だって身内を疑いたくはない。
それでも、野球場はサッカー場の代わりにならない。
「野球をするにはピッチャーマウンドが必要だろ。だから野球のグラウンドは平面じゃない。野球のグラウンドは、それに類する競技にしか使えないんじゃないのか? それにうちの高校って、内野だけ土の質が違ったような気がするが」
「え?」
「あ」
そう言うと、野瀬と木倉が目を見開いた。
そういえば、うちの市のドームはフリーマーケットや消防の出初め式にも使われたりするが、野球は基本的に隣の野球場で行われるな。フィールドっていうのは、案外融通の利かないものなのかもしれない。
そんなことを考えていたら、先輩がもう一つ追加してくれた。
「さっきは指摘しなかったけれど、ソフトボールにマウンドはないわ。そういう意味ではソフトボールにも使えないわね。授業でやる場合には、その辺りは目をつぶられるようだけど」
そうだったのか。
ともかく、場所取りが目的ではないようだ。だとすると何が目的なのだろう。
単に休みたいだけか。いや、それはない。そんなことのために、こんな回りくどくて犯罪性のある行為をする必要はない。
やはり、練習の妨害になるのだろうか。
……ん?
練習の妨害?
妨害できるのか? ボールが無くてもできることはあるのに? うちの学校には、トレーニングルームだってあるのに?
トレーニングルームの使用に許可が必要かは知らない。けれど、素振りだってダッシュだってできる。いやそもそも、硬式球にこだわる必要だって無いんじゃないのか。体育倉庫には、授業で使う軟式球があったはず。直径だとか重量だとか感触だとかが違っても、代用品にならないわけではないだろうに。
ボールの有無にかかわらず、練習はできる。なのに行われていない。この結果は自然なものなのだろうか。
物事には、原因があって結果がある。原因であるボールの消失には人為があるが、果たして結果の方に作為はないのだろうか。
「野瀬。今日、部活は休みになったんだな?」
「うん。ボールがないと練習ができないからって」
やはりそうか。誰かが今回の結論へ導いた可能性が……。無いわけではない、が。
どうだろう。もしかすると、誰も導く必要はなかったのかもしれないんじゃないか? 不自然に見えても作為の絡んでいないことなんて、きっとよくあることだろうし。
考え込んでいると、木倉が思いついたように口を開いた。
「あの。誰か野球部を辞めさせられた方が怒ってこんなことをしてしまった、という可能性はないんでしょうか?」
「腹いせというわけね。どうなのかしら、野瀬さん」
木倉と先輩に見られた野瀬は、首を横に振った。
「今年に入って辞めた人はいないかな。入部試験みたいなのもないし、みーの言うような人はいないと思う」
「そっか」
それは野瀬が知らないだけじゃないか、とは言わない。
そんな人間がいようがいまいが、犯人としては弱い。
「天都賀君はどう思う?」
「推測は変わりません。犯人は現役の野球部員だと思いますよ」
「根拠があるようね」
根拠と言えるほどのことはない。ただ、否定材料はある。
「そういう人間ならボールを盗むという手段は取らないだろうというのもありますけど、そもそも野球部員でなければ工作はできないですからね」
「工作ですか?」
木倉の言葉で、大きく息を吐く。
誰がというのも問題だが、こちらも問題だ。そしてその二つの問題は、照応してもいる。
つまり。
「日曜日にボールの所在が確認されて倉庫が閉じられてから今日扉が開かれるまでは、当然だが倉庫は密室だっただろ。なら、日曜の段階で何かを仕掛けられるのは野球部員だけだ」
密室という言葉に、木倉も野瀬も、先輩ですら目を輝かせたような気がした。木倉や野瀬は俺のことをミステリーオタクか何かと勘違いしているようだが、俺はそんなことで目を輝かせたりはしない。
人間はどうやったって、壁や閉まったドアから外に出ることはできない。鍵を開け、扉を開き、ボールを盗み、扉を閉じ、鍵をかける。それ以外の手順なんて存在しない。
「普通に考えれば、鍵はマスターキーか予備の物と、普段使われている物の二本だろう。なんにせよ、生徒が触れるのは一本だけ。野瀬、鍵の開閉担当は決まってるのか?」
「決まってないかな。一番早く着替え終えた部員が鍵を取りに行くことになってる。鍵を閉めるのは、まあ、その時々ってとこ」
「それは少し合理性に欠ける気もするわね」
誰だって面倒くさいことはしたくないからこそ、そういうルールなのだろう。要は、閉めることに関しては調整が利くが、開けることに関しては運が絡むってことか。ともかく、そこで何かを打つのは難しい。
体育倉庫と野球部の備品倉庫は別だが、俺の記憶が正しければ構造は同じで鉄の二枚扉に高窓が一つだったはず。
「倉庫の扉はたしかスライド式だったが、鍵は南京錠か?」
「南京錠ってなに?」
「……。こう、U字の金具がついてて、引っかけてはめるような。説明するの難しいな」
「それはよくわかんないけど、家の鍵みたいなやつだよ」
ピンシリンダー錠か。やはりピッキングが常套か。
しかし果たして、ピッキングまでする必要があるだろうか。目的が犯罪なのに手段は正当というのも不自然かもしれないが……いや、どういう手段でも犯罪は犯罪だな。正当な手段なんて無い。
「錠前自体の取り替えは無理だな。工作は鍵側に限定される」
これで推理が面倒になった。いや、単純な手段が取れるからと言って、それが選択されるとは限らないのだが。
むしろ、単純で露見しやすいからこそ選択肢から外されることもあり得る。
「ともかく、プラン1はピッキングだ。可能性は低いが」
「低いの? なんかありそうだけど」
「まあ、あるかもな。面倒そうだと思っただけで」
「うーん。たしかに現実的じゃない。……かなあ?」
野瀬はまだ否定しきれないようだ。
ピッキングねえ。上手い人間は一秒かからないと言うし、実際は面倒ではないのかもしれない。
いや、そりゃまあどんなことだって、その道のプロからすれば朝飯前なのかもしれないが、野瀬がその道のプロというわけでもあるまい。
「割に合わないから、というのは理由に……ならないな」
そもそも、ボールを盗み出すのだって割に合わない。もちろん、すべてを合理的に考え、合理的に行う必要もないが。
「何を合理的と考えるのかは個人によるわ。なるとも言えないし、ならないとも言えないわね」
「えー、うー、ついていけない」
俺と芹先輩のやりとりに、野瀬が目を回しながら唸る。
そういえば、まどかともこんな話をしたな。
「野瀬、ウィンドウショッピングとかするか?」
「うん? するけど」
「そうか。俺はやらない。意味がわからないからな。同じように、『なんであいつはあんな無駄なことしてるんだろう?』と思うことはおまえにもあるだろ。でも、そいつにとっては何かしら理由があるからやってることであって、意味がないことじゃないんだよ」
「あー、あるね。なるほど。そういうことか」
野瀬はそこで納得したが、今度は木倉が首をかしげた。
「……ウィンドウショッピングって、意味ないんですかね?」
「そうね。冷静に考えてみると、なんの目的があるわけでもないし、散歩のように手段が目的になるわけでもないし、なにかを得たわけでもないし、結局なにかを買ったところで予定外の出費にしかならないわけだし、実際の意味はないのかもしれないわね。そこから流行が生まれてくるというのも、それはそれで皮肉な話だけれど」
先輩は、自らもそうである女性の趣味の一つを完膚無きまでに否定し、その上で綺麗なオチを付けた。なんとなく、拍手を送りたくなってしまう。
まあ、流行って雰囲気みたいなものだからな。実体がないという意味では正しい論理かもしれない。だとすれば、ウィンドウショッピングも永久的な流行ということか。
……思考が盛大にズレた。
「話を戻しましょうか」
「あ、すみません」
先輩の指摘に、話をズラした木倉が頭を下げた。
先輩はそれを見て、空気を変えるように一度息を吐く。
「ピッキングに関しては、天都賀君と同じで私も懐疑的ね。専門の道具が必要で、それなりに修練も必要でしょうし。そこまで長期的な用意が必要で、かつ確実性のないプランをとるとも思えないわね。もちろん、今回の犯人が『たまたま技能として持っていた』可能性もあるけれど」
先輩の言っていることは理解できる。そんな奴がいたとして、どんな高校生だ。
もっとも、いないわけでもないだろうが。
「一応聞くが、野瀬。家が錠前屋……開かなくなった鍵を開けたりする仕事をやってる部員なんているか?」
「え? うーん、どうだろ。わかんない」
普通はそうだろうな。他人の家庭の事情まで把握してはいない。クラスメートの名前すら覚えていない俺が言うのもなんだが。
他の手段としては、何があるだろう。シリンダーキーに依存しない方法では、窓を使うとか。
「窓の鍵に磁石を貼り付けて反発力で……無理か。外から窓は閉められないし、中から扉の鍵が開けられないと外に出ることもできない」
最後の辺りは無意識に口に出していたのだが、なにごとも言ってみるものである。
「開けられるよ?」
野瀬から、そんな言葉が返ってきた。
いや。は?
「ほら、家のドアだって内側から開けられるじゃん」
「……サムターンがあるのか?」
意外だ。
体育倉庫に閉じ込められるというシチュエーションは、都市伝説だったのか。もちろん、それを防ぐための措置なのだろうが。
「さむたーん?」
「内側から鍵を閉めるためのツマミのことよ」
「あー、あれ。あれ、サムターンって言うんですね」
「わたしもずっと知りませんでしたけど、最近ニュース番組で『サムターン回し』って言ってるのを聞いて、そんな名前なんだって知りました」
俺も似たような物だ。人の名前は論外だが、別に知らなくても生きていけることは多いんだな。むしろ、正式名称が通じない場合の方が多いんじゃないか。ピンシリンダーとか。
「なら、何かトリックを使って鍵を閉めることも可能かもしれない」
「サムターン回しも専用の道具が必要なのではないのかしら?」
「いえ、そういう専門的なことではなくて、糸とか紐を使った簡単なトリックですよ」
その辺りは実際やってみなければわからないが、できないということはないだろう。誰にだって思いつくことでもある。
「あとは、ありきたりなところで鍵のすり替えか。しかしやはり、誰が開閉するのかわからないシステム的にそれは難しい……」
ん?
「天都賀さん?」
難しい?
いや。
馬鹿か俺は。
鍵の開閉に作為を持ち込むことができないなんて、そんなわけないだろう。
「天都賀?」
努力する必要もない。単純な、順序の問題だ。
野瀬の言った野球部のシステムならむしろ、確実に鍵の開閉を自分で行うことができる。定まっていないということは、操作することもできるということなのだから。
ふざけた自己肯定の一種だが、「ルールは破るためにある」とよく言う。罰があるから破るという言葉が使われるのであって、それがないのなら逆手に取ることはそう難しくない。
破る。
逆手に取る。
逆。
「そうか。逆なのか」
たった一つの言葉が天啓となって、糸が一本の道に繋がった。
犯人像。人間性。周辺環境。動機。手段。結果。原因から結果までが一本の道筋だというのなら、結果から原因までも一本の道筋だ。
いや、違う。一本ではない。複数の原因の糸が束ねられて、結果という紐になる。なら、結果を正しく見て、そこから要因をたどることもできるのだ。
「なにが逆なのかしら」
「なにと問われると、『いろいろと』と返すしかありません」
もしかすると、たった一つの言葉で紐づけられるかもしれない。ただ、まとめてしまうと少しばかり言葉足らずになりそうだ。
「ともかく今問題にしていたのは、推理小説で言うところのハウダニットとフーダニット。つまり、『どうやって』と『誰が』だ。まずは、『どうやって』。即ち密室の謎について」
もったいぶった言い方になってしまったが、別にそんなつもりはない。単純に、話がどんどん曖昧になっていくのが嫌だっただけだ。
「初めに言っておくと、この辺りは確証が一切ない。できただろうというだけで、実際犯人がどの手段を採択したかは彼しか知らない。だから発想を裏返して、犯人の側からどんな手段が使えたかを考えるしかない」
答えが示されないことは不満だろうと思ったものの、誰もそのことについて非難はしてこなかった。
ともかく、納得されていようがいまいが続けるしかない。
「最初に、前提状況。テスト期間中の放課後、特別教室棟の1号館と4号館は機能上無人になる。5号館と2号館からはその二棟が壁になって、都合良く用具倉庫は見えない。この辺りは確実とは言えないところだが、授業直後の帰宅組をやり過ごせば人の目がまったくと言っていいほど無くなるのは確かだろう。加えて、体育の授業は軟式野球。野球部の倉庫はテストが終わるまで開かれることはない。気にしなければならないのは施錠確認くらいだ。ボールの運搬に関しては、一度に全部運べるが目立ちすぎる。可能なら分割して運びたい。いくらカバンが自由だからって、極度に大きなものを持っていれば怪しいし目に付くからな。それでも、五〇球くらいなら少し大きいカバンで収まるだろう。置いていた教科書を持ち帰るためだとか言えば怪しまれないだろうし」
矛盾や無理があるなら突っ込んで欲しいと思ったが、特におかしなことはないらしい。さらに続ける。
「ついでに、ボールケースが残っていた理由。これは二つ考えられる。一つ。そんな目立つものを運搬するのは憚られた。二つ。ボールを分割して運ぶ必要があったため、ボールケース自体を使う必要が特になかった。まあ、両方だろう。この辺りは別にどうでもいいから、放っておいてプランの提案に移ろう」
まず、人差し指を立てる。
「プラン1。示したとおりピッキング。ありきたりすぎて珍しくもないが、逆に言えば誰でも思いつく手法でもある。開けることができるのなら閉めることもできるはずだ。もちろん簡単にできるとも言えないから、そこは別の手段で済ませてもいい。ともかくこれで密室の完成。ボールはいつ運んでも構わない」
以前、ヘアピンを使って開けようとして失敗したために錠前屋を呼ぶことになったという話をニュース番組の特集で見た。実際には、試すことさえできない手段かもしれない。
気を取り直して、人差し指と合わせて中指を立てる。
「プラン2。扉を施錠せずに鍵を返し、すぐに戻って倉庫の中から鍵を閉める。ボールを運搬できるようにし、施錠確認をやり過ごし、鍵を開けて外に出る。日曜の夜と月曜の放課後でボールを運び出して、鍵を閉める。手法はまあ、スライド扉の隙間から紐を通すとか、ともかくサムターンを回すようなトリックを使えばいいだろう。これで密室の完成。その後の施錠確認もクリアーできるな」
「鍵も特別な道具も使わないという方法もあるわけですね」
「うん。その方法はちょっと面白い」
「そうね。まさか、鍵の閉まった倉庫の中に人が潜んでいるなんて誰も思わないでしょう。仮に閉じ込められても、中から開けられるものね」
ここまでは、普通に考えてもありえる話だろう。
問題はここからだ。納得とはいかなくとも肯定させられるだろうか。
とは言え、その辺りは話してみればわかることだし、話してみなければわからない。大人しく、薬指を含めた指三本を立てる。
「プラン3。鍵のすり替え」
「え? それは難しいんじゃないですか?」
「ていうか、無理じゃないの?」
やはり物言いが入るか。
だが、プランとして挙げる以上、できる。
「そうでもないさ。今までのプランでもそうだが、鍵を返す時は一番最後まで残って自分から申し出ればいいだけのことで、開ける時は」
「その開ける時が問題なんじゃん。誰が取りに行くのかは完全に運で」
「着替える前に取りに行けばいいだけの話だろ」
言葉を遮られたので、遮り返す。
野瀬は、開けた口をそのままにして固まった。
「一番最初に着替えた人間が取りに行くってことは、逆に言えば誰かが着替え終えるまで誰も鍵を取りに来ないってことだ。取りに行くってことは、鍵は職員室にでもあるんだろ? クラブハウスが学校の端にあることを考慮に入れなくても、着替えてから職員室に向かうよりはずっと早い」
そう言いきると、三人は驚いたような顔をした。
ルールや伝統は、特に理由もなく遵守されるべきで、常にそうであると思ってしまう。事実、俺も野瀬に聞かされた段階ではそれを疑わず、無意識に受け入れてしまった。
「おもしろいわ。ルール、いえ、慣習と呼ぶべきかしら。それを逆手に取るわけね」
「ええ。そう考えれば、鍵を手元に置けるよう操作するのはそう難しいことじゃありません。むしろ簡単とも言える。問題は同じことを考える人間が他にいないかどうかですが……そう考える人間がいれば、今までに同じことがあったでしょう」
実は、今言ったことは重要なポイントでもある。しかし誰も気づいていないようなので、なにも言わず後回しにする。
三本の指に合わせ、小指を立てる。
「最後、プラン4。というよりもこれはプラン2からの派生で、前提条件のひっくり返しだ。荒唐無稽ながら、現実的にはありえる回答。一番楽な手法と言ってもいいかもしれない」
「荒唐無稽で?」
「それでいて現実的にあり得るというのは、どういうことでしょう?」
「そんな方法があってそれで密室が解けるというのなら、是が非でも聞いてみたいわね」
誰も気づかない。もちろん、それでこそ盲点足りえる。
そう。心理的盲点。思い込みが積み重なった結果起こる、偶然のような結果。
「倉庫を閉めずに鍵を返し、すぐに戻って倉庫の中から鍵を閉める。ボールを運搬できるようにし、施錠確認をやり過ごし、鍵を開けて外に出る。翌日に残りを運んで終了」
プラン2を焼き直すように言って、言葉を締めた。
しばらく、部屋の中は無言になる。俺がまだ何か言うと思っていたからだろう。
「え? そのあと、どうするんですか?」
「どうもしない。そのまま帰る」
俺が言い放った言葉を三人がそれぞれ咀嚼しようとし、
「待って、天都賀君。どうもしないというのは、まさか」
最も理解が早かったらしい先輩が戦慄したような表情をするのが、少し意外だと思った。
「簡単な話ですよ。鍵をかける必要なんて無かったんです。この二週間ずっと、野球部備品倉庫の扉は開きっぱなしでもよかったんですから」
誰も、なにも言わない。時が止まるというのはこういうことだろう。
しかし、それはこの部屋の中だけ。さっきまで聞こえていなかったソフトテニスコートからの声が聞こえてくるのがその証拠。
止まった時を動かしたのは、野瀬だった。
「開いてたって。嘘でしょ?」
「それが、可能性としてはあり得たんだよ。三人の反応がそれを裏付けてる」
「わたしたちの反応ですか?」
「今、俺たちは何かが起こったことを知ってから考えてるだろ。その思考を先週の月曜日に戻してみればいい」
木倉と野瀬は言われたとおりにしてみたようだが、やはり難しいようでもあった。
「戻すっていうのがそもそもおかしいな。自分が用務員だとしてだ」
演技かアニメででも見せられたらいいのだが、そんなことができるはずもない。ここは、相手の想像力に期待するしかない。
「日曜日の……夜七時くらいにしておくか。施錠確認をする。ここまでは行動で、この先は思考だ」
そこで言葉を切る。
「あー鍵は閉めたなー。明日からはテスト週間だなー。部活も休止になるなー。当然、野球部もだなー。倉庫の鍵を確認した備品倉庫の中には、授業で使われるようなものは入っていないなー。誰も開けることはないなー」
少しわざとらしいが、まあこんな感じに考えるだろう、普通は。
「翌日。つまり月曜日だが、わざわざ確認する必要はあるだろうか?」
質問の意図を察した先輩が、反射的に口を開く。
「しないかもしれないわね。けれど、職業倫理と責任に殉じる方もいるかもしれないわ」
「ですね。ただ、別にそれでも良かったんじゃないでしょうか」
「どういうことですか?」
木倉は、怪訝そうな顔をする。気持ちはわかる。俺だって、誰かに聞かされていればありえないと思っただろう。
「日曜日の夜に鍵がかかっていたって証言は用務員から取れるだろう。なら、そのあとに鍵は開けられた。普通はピッキングが疑われるだろうから、身も蓋もない話だが、犯人は誰とでも考えられる。『どこかの誰かが硬式球を盗み出せるかというくだらない賭けでもしていたんじゃないか?』、なんて結論になるかもしれない。それ以前に、荒れているわけでもなければボールケースも残っているんだから、一見しただけで何かが盗まれたとは思わない。精々、用事のあった誰かが開けて、鍵を閉め忘れたと思って終わりってこともある」
犯人がそれを想定していたかどうかはわからないが、話が落ち着くところというのはあるだろう。人がする話が下世話なら、尾ひれのついた下世話な話に落ち着くのだろうし。
「つまりあれだ。家人の誰もいなくなったはずの家は密室だという思い込みだな。実際は玄関や窓の鍵をかけ忘れているかもしれないし、既に誰かが忍び込んでいるかもしれない。とは言え、どこかの愉快犯がやったというのも否定はできない。ミステリーとしては面白くないというふざけた理由で現実は否定できないからな」
無駄話が綺麗な区切りになったことで、木倉と野瀬は沈んだ表情になった。それでも、先輩だけは俺の方を見たままだ。
『ええ。現実は現実。けれど、あなたには別の回答があるのでしょう?』
先輩は口を開かず、視線だけでそう語った。内容は完全に俺の妄想だが。
「話が逸れたな」
咳払いと共にそう言って、木倉と野瀬の視線を引き上げた。
さて、そろそろ本題に入るか。
「ところで、犯罪には二種類あると俺は思う。露見して欲しくないものと、露見しなければならないもの。今回は後者なんだが、それはいいか?」
「露見しなければならないって……」
犯罪は隠すべきもの。木倉が言い淀むとおり、普通はそうだろう。だからこそ手が尽くされるし、現実でも創作でもそう簡単に犯人はわからない。
ただ、それだけがすべてじゃない。
「部活の休止には、ボールが見つからないという結果が必要だっただろ。つまり、露見しなければならなかったわけだ。そもそも、隠しきれるものでもない。今日が来れば必ず露見する」
そういえば、『完全犯罪は完全なる犯罪ではなく、犯罪が行われたという形跡すら残さないもののことだ』みたいなことを何かで言っていたな。媒体は覚えていないが。
「時期はテスト期間だ。そんな時に生徒を動揺させるニュースがあれば、学校側はひとまず情報の公開を保留するだろう。なら、露見するのが今日でも先週の月曜日でも大した違いはない。二週間という時間はボールを用意するのに十分かもしれないが、予算や流通の問題で叶わないかもしれない」
「は、はい。確かにそれはそうですけど」
「うん、わかる。わかるけどさ。でも。実際そうなんだけど」
あっけにとられる木倉と野瀬とは違い、先輩だけがどこか期待したような顔をしていた。
「そろそろ、なにが逆かの話に移ってくれるようね」
「はい。と言っても、至極単純なことですが」
一々、前置きが大仰だろうか。まあいい。酔っているわけでもない。詰めだ。
「取り違えていたのは『結果』です。この辺りに思考の出発点としての間違いがありました」
「結果? 結果って、ボールを盗んだことでしょ?」
野瀬が首をかしげるが、そんな馬鹿な。
「違うだろ。結果というか、推測した『目的』はなんだった?」
「野球部の活動妨害ですね」
「そうだ。活動妨害という結果に対して、今回犯人が起こしたことは面倒で、それでいて最適なものではなかったというのは共通の感想だったよな」
「いや、勝手に共通にされても……」
野瀬が渋るが……本気か。
「おまえ、自分の口で怪文書を送りつければいいって言ったんだぞ」
「あ、そうだっけ」
……本気か。
まあいい。
「結果だけを取るならもっと楽な手法はあったというのは事実だ。たとえば、ボールに釘を打ち込むという話をしたが、咄嗟の思いつきも案外笑えないものだな。釘を打ち込む先を変えれば、もっと楽に事は済む」
「打ち込む先を変える? どこに打ち込むんですか?」
木倉の言葉に息を吐く。至極単純だからと言って、人がそれに気づくとは限らない。むしろ、単純だから意識から外れてしまうこともある。
さて、木倉の質問に答えようか。といっても、本当にこれ以上なく簡単で、言われてしまえば「なんだそれは」とさえ思ってしまうような所だが。
「鍵穴だよ。釘一本で済む。釘じゃなくて接着剤なんかでも用は足りる。こっちの方がずっとコストもリスクも低く済む」
「……ああ」
言った瞬間に納得したような声を出したのは、やはりというかなんというか、先輩だった。
「脅迫文では悪戯として処理されるかもしれないけれど、物理的に倉庫が開かなければ絶対に活動できないものね」
「もちろん、物損を嫌うのなら別ですが。ただ、犯罪とひとくくりにすれば同じなだけで、窃盗なら盗品を返せばある程度穏便に済むのは確かです。ここまで面倒で大がかりなことを思いつく人間がそういう単純なことに思い至らないのも、それはそれで良くあることのようには思いますけどね」
その辺りはそれこそ個人の感性やひらめきなので、なんとも言えないのが歯がゆくもある。
「ともかく、そんな風にいろいろ手段がある中で、倉庫の中からボールだけを消去するという手段が選択されたのはなぜか? 答えは簡単。その手段が適切だったからだ」
「適切?」
言葉の選択に疑問を抱いたらしく、先輩はその言葉だけを抜き出した。
しかし、適切という言葉こそが適切なのだ。
「だってそうでしょう。そもそも、野球部全体の活動妨害をするまでもなく、休みたいだけならサボるか適当に理由をでっち上げればいいだけです。ボールを盗み出すなんて面倒なことをする必要はない。だとするなら、その手法を積極的に選択したと考えるべきじゃないですか?」
「でも、最初の推測では消極的選択だと。いえ、それよりも、練習の妨害が目的で、実際にそうなっているからって」
そうだ。一見そう見える。しかしそれは、結果的にそうなっているからこそそう思い込んでしまっているだけとも言える。
犯人がそれで納得しているのかどうかは別問題だ。
「その出発点から間違ってるとしたら? そもそも俺たちは、『犯人が望んだとおりの結果になり、それを受け入れている』と思ってた。でも、実はそうじゃなかったとしたらどうだ?」
「練習を妨害する意図はなかったということですか?」
「少し違う。『練習ができない』状態じゃなくて、『これでも練習はできる』っていう状況を作り出すことが目的だったんじゃないかってことだ。確かにノックだとか遠投だとか投げ込みだとかは重要だと思うが、それだけが練習じゃないし、別に硬式球にこだわらなくとも、授業用の軟式球を借りたって練習はできるだろ。自主練習する時にはボールもないし仲間もいない。だったら練習ができないって結論にはならないんじゃないのか?」
そこまで長距離を走り続けるスポーツではない野球の練習に、走り込みが必要かどうかわからない。だとしても、走塁や守備のための短距離ダッシュは練習として必要だろう。素振りだってできる。そういう練習にボールはいらない。
「そうね。天都賀君の言うとおりだと思うわ。ボールが無くても練習はできる。いえ、ボールが無いくらいで練習を休むのはおかしい」
「大義名分を与えることが目的だった。いえ、それこそ犯行動機を作ると言った方がいいのかもしれません。……なあ、野瀬。ずっと気になってるんだが、野球部員はボールを探してるのか?」
そう聞いた時の自分の顔は、鏡で見たくない。
木倉のように同情してはいない。そのくせやりきれないこの感情は、俺にどんな顔をさせているのだろう。苦虫を噛み潰したような表情だろうか。それとも、やりきれないと思っているのは幻想で、完全なる無表情なのだろうか。
野瀬は、明示した質問にも俺の内面の疑問にも答えてくれなかった。それこそが、いろいろなことに対する答えになるのかもしれない。
「おまえ、野球部に関して何度もおかしなことを言ってたのを覚えてるか?」
「……おかしなことって、そんなこと言ったっけ」
「ああ。その時々では気にかかった程度だったが」
「んー。ごめん。わかんないや」
わからなくても仕方ないとは思う。言った本人にとっては違和感なんて無いことの方が多いのだから。
同じく話を聞いていた木倉も思い至らないらしい。同じような話を聞き続けていたとすれば、慣れてしまっておかしいと思えないのかもしれない。ともかく、そこを突くのも俺の役目らしい。
「まずは、先々週の土曜日の昼。『部長はいつも最後まで残って練習してる』って言っただろ」
「うん、そうだよ。言ったかどうか覚えてないけど」
ああそう。でも、言質は取った。確認にもなった。
しかし、わざわざそこだけ切り取ってさえ誰も違和感を持たないのが逆におかしい。つまり、常態化しているということだ。
「最初に来て練習してるってのならおかしくはないが、最後まで残ってるってのはおかしいだろ。他のやつらはなんで帰ってるんだ。そもそも、完全下校を超過して居残り練習くらいしたくなるのが普通じゃないのか?」
「あ」
そう呟いたのは、木倉だけだった。
先輩はこの高校で既に一年過ごしている。そういう空気は感じ取っていたのかもしれない。
「さっきも、出欠を取る前に解散になったって言ったよな。普通なら、根拠が無くても休んだ奴を犯人だと考えるだろうし、全員でボールを探そうとするはずだ」
一〇八球もボールが消える事件があったのに、人間の方も自然に消えてしまうのはどう考えてもおかしい。しかも野瀬が入ってきたのは、俺たちが大講義室についてすぐ。つまり、部活が始まって間もないか、始まってすらいない時間だ。そんなタイミングで誰かが抜けられるのはおかしいと、その時に気づいても良さそうなものだった。
「そう考えると、本当になにもかも逆に見えてしまう。『普通の』野球部員はボールを盗んでまでどうこうする気は起こさないだろうし、そんな必要もないからな」
「なるほど、それが『逆』なのね。野球部は、不真面目な人間が今回のようなことを起こす必要はない環境にある」
「ええ。だから、犯人には期待があったんだと考える方が無理がないんじゃないでしょうか。『ボールはないけど練習しよう』とか、『練習を邪魔しやがってふざけるな』とか、そんな声が出てきてくれないかって期待が。当然と言っていいのかはわかりませんけど、裏切られた結果になったわけですが」
半ば投げやりにそう言うと、俺を見ていた木倉が思いだしたように言った。
「そういえば天都賀さん、野球部の練習を見た時にはなにも思っていなさそうでした」
あの直前にそういう話をしていたからだろう。それを木倉が感じ取れないはずもないか。
「今なら、野球部の練習を見て無意識に感じたことに説明がつけられる。あの時、ボールとユニフォーム、それにグラウンドの色でハイコントラストだなって思ったんだ。それってユニフォームが大して汚れてないってことで、練習開始時ならともかく、野瀬が言ったおやつの時間にはおかしいだろ」
野瀬と話していた間、ノックも行われていた。普通ならダイビングキャッチを試みなければ捕れないボールも飛んでくるだろう。泥だらけになることが勲章などと言うつもりはないが、食らいつく意地があれば地面を転がってユニフォームは汚れる。まさか、うちの野球部員が打球のコースを完璧に予測できて、転ぶことすらないバランス感覚を持つ超人だらけなはずもあるまい。
これは完全に憶測だが。あの三人のマネージャーも、似たようなものなのではないだろうか。だから野球部員ではなく、異端である野瀬の行動に目が向いていたのではないのか。
「体質。いえ、もう慣習かしら。朱に交われば赤くなるとはよく言ったものね」
先輩の呟きは、的を射ている気がした。民主主義の基本は多数決。集団は多数の意志によって方向性が決まる。
「あとは、フーダニット。『そんなことをしたのは誰なのか』かしら」
「それもわかってるんでしょ、天都賀」
野瀬の方がわかるんじゃないか。そう言いたかった。
でも、それを押しつけるのはきっと悪手だろう。人でなしと言っていいかもしれない。
「本音を言えば、それにも確証はないな。可能性の高い人間はいるが」
可能性の、限りなく高い人間は。
なら……直接当たって、砕けてみるか。
「野瀬、部員それぞれの連絡先はさすがに把握してるよな?」
「うん。でも、みんなにはあたしから説明して集まってもらった方がいいんじゃ」
「いや、なんでだ。そんなことする必要はないだろ」
説明したところでなにも変わらない。むしろ、反感を買って終わりだろう。誰も幸せにはならないどころか、救われる必要のない人間が笑うだけだ。
そうだな。だからこそ、『彼』にだって理解者の一人くらいはいていいはずだ。俺も木倉も先輩も野瀬や『彼』を笑わないだろうが、嘲笑う人間はいくらでもいるのだから。それも、最も必要なはずの仲間にだ。そんな皮肉は許されるべきじゃない。
俺は、野瀬の携帯から『彼』に電話をかけてもらい、代わってもらう。
言うべきことは決まっている。それで通じるし、通じなかったならそれでいい。真面目で勤勉な人が、最後まで真面目で勤勉だっただけの話なのだから。
深呼吸し、口を開く。言葉は、思ったより自然に出てきた。
「犯人は貴方ですね、渡辺部長」
電話をかけた相手は、一通り俺の推測を聞いた後、笑ってこう言った。
『よくそこまで考えたね。いい推理だよ。野瀬さんには悪いことをしてしまったかな。部の内情を詳らかにしたわけだからね』
声は、どこか乾燥していた。誰かをかばっているとも思えない。それでも、発覚することまでは想定していなかったようだが。
そして、その相手が自分を助けようとするなどとも思っていなかったのだろう。こちらが呟いた一言には笑われてしまった。
手段はわからないが、犯人については正しかった。犯人が正しかったのなら、推理も正しかったことになる。とは言え、さすがにまぐれ当たりと言ってもいい確率だったような気もするが。
通話が終わるまでの間、野瀬はずっと俯いていた。表情は窺えないが、良いはずはない。
「野瀬さん。大丈夫?」
「……キツいです」
それは、絞り出すような声だった。実際、頭の中が整理できていない中で絞り出したのかもしれない。
悪意と善意が錯綜しすぎだ、今回起こったことは。責任の所在をどこに求めればいいのか、誰にもわからないし決められないだろう。
あるいは、事件を解いてしまった俺にもあるのかもしれない。
きっと『彼』は、明日にでもボールを一〇八球すべて返していただろう。そうなると、事件は有耶無耶のままに終わったのだろうし。
「……ひーちゃん」
「ん。でも、大丈夫。あたしより天都賀の方がキツそうだしさ」
俺が?
思わず笑い飛ばしそうになってしまう。そんなわけがないだろう。俺にダメージはない。
「完全な第三者の俺がどうこう思うとでも?」
「否定するのはいいけど、それならもうちょっと明るい顔をしなよ」
「俺は元からこういう顔だ」
「あはは。そう言われると、何も言えなくなるじゃん」
野瀬の笑いは、俺にさえも重かった。返答を間違えたかもしれない。
それを見て取った先輩の動きは、素早かった。
「野瀬さん。今日はテストの打ち上げをするつもりだったの。貴女も行きましょう」
先輩の言葉に、野瀬も顔を上げる。
「食べて、眠ることよ。そういう時は」
「でも、委員会は……」
野瀬が断ろうとすると、先輩は可笑しそうに笑う。
「どうせ仕事はないでしょうから平気よ」
先輩は、いきなりとんでもないことを言った。大丈夫なのかこの委員会。
「そういうことだから、着替えてきなさい。終わったら校門で待っていて。私は委員会としての体裁を整えておくために生徒会に報告に行くから、天都賀君も一応付き合ってくれるかしら? 美空は野瀬さんと先に待っていて」
「わかりました」
一貫して「慰める」という言葉を使わなかったのは、先輩の気遣いだったのだろう。頑張っている人間に「頑張れ」と言ってはいけないのと同じように、「慰める」という言葉は自分が落ち込んでいるのだと強調させてしまう。
俺を排除したのも、いい判断だと言える。まあ、野瀬の着替えに付き合うわけにもいかないけれど。
「あはは。じゃあ、ありがたく参加させていただきます。よーし、やけ食いだー」
「それでは、天都賀さん、先輩。またあとで」
野瀬はバンザイ、木倉は一礼。それぞれ対照的な動きをして、大講義室を出て行った。
俺は別にこの委員会の人間ではないのだから残される謂れはないのだが、野瀬はその辺りには思い至らないでくれたようだった。まるで俺を隔離するかのような扱いをした理由は、わからないでもない。
「これで、なんの制約もなく話ができるわね」
やっぱり、その辺りが狙いだったのか。
とは言え、制約が付くような話は俺にはないんだけどな。
「犯人が部長だと推測した理由、聞かせて貰ってもいいかしら」
「ピッキングの可能性を除外すれば、鍵の存在が不可欠になります。野瀬が言ったようにいつも最後まで残っているような人なら、誰かが残っていれば一緒に残っていたでしょうからね。最後まで残っていられる人間は部長しかいません。そういう真面目で誠実な人なら、着替える前に鍵を持ってきてもおかしくない。慣習とは矛盾した合理性で行動しても違和感はなかったでしょう」
鍵の管理責任の問題もある。よって、一番可能性が高いのは部長。そうでなければ、日曜に鍵をかけた人間を見ているはずだ。どちらにせよ、彼に聞けば犯人はわかる。
加えて。
「加えて……そんな部の中で真面目な自分を貫けた人なら、これまでの二年間のすべてが無駄になることは耐え難かったでしょうから」
野球は九人でないとできない。どんなに有能で努力家であっても、他の八人に戦意がなければ戦いにはならない。いや、戦意がないということはないのだろうが、野球はビギナーズラックで勝てるスポーツではないだろう。九回の攻守を運だけでどうにかできるはずもない。
「そうね。他にも勤勉な人はいたでしょうけど、確実なのは彼だったでしょうね。犯人をどういう人間だと考えるかで見え方は変わり、真実が見える。勉強になったわ」
「もしかするとを言えば、野瀬が共犯でもおかしくないとは思ってましたけどね」
きっと野瀬は自分と周囲の温度差が違うことくらいわかっていたはずだし、それ以上に部長に対して好意を持っていたはずだ。真摯に自分の話を聞いてくれたと言って喜んでいたのだから。なら、同志と言っても過言ではない存在ではあっただろう。
それが、いわゆる恋愛感情であったのかまではわからないが。
「ともかく、当たりを引いたに過ぎません。その当たりもろくなものじゃなかったようですが」
ただの窃盗犯だった方がまだ救いがあった。いや、ただの窃盗犯であるより救いがなかったと言うべきだ。行為自体は決して褒められたものではないのだから。
どちらにせよ、部長が白を切ればそれまでだった。自白で解決するなど、ミステリーとしては三流以下だろう。白を切るような人物ではなかったからこそ、動機の方をねじ曲げられないかと思い、提案し、笑われたのだろうが。
……ボールを磨くために持ち帰ったというのは、無理があっただろうか?
「人生はフェアではないわ。十戒に二十則だったかしら。ミステリーが描かれる上では必須なのかもしれないけれど、現実はそう優しくはない。わずかな手がかりを穴のある絵に仕上げなければならないことの方が多いでしょう。それでもその絵が贋作ではなく本物だったのだから、天都賀君はよくやったと言っていいでしょうね」
それが心の底からの言葉だったのだということは、なんとなくわかった。
「救いがあるとすれば……それが救いと言っていいのか定かではないけれど、告発が無理だということでしょうね。自白だけだもの」
それは先輩の言うとおり、唯一の救いだっただろう。彼は逃げも隠れもしないだろうと思ってその通りになったものの、俺たちの手に証拠は一切無いのだから。
ただ、物証がないわけではない。犯人の手の届く範囲には一〇八球のボールがある。強引に家に押しかけて家捜しすれば、告発することもできただろう。
「なんとなくですけど、先輩は告発しようとするんじゃないかと思ってました」
俺の推測に、先輩は苦笑を返してきた。
「そうね。これが単なる野球部への嫌がらせであれば告発していたでしょう。けれど、あなたのおかげでもっと根源的な問題がわかった以上、彼を告発することに意味はないわ」
根源的な問題。そうだ。野球部の実態がそれだ。
真面目にやっている人間が割を食う。本来、社会とはそういうものなのかもしれず、事実多くの場所でそうなっているようだが。
「正直者が馬鹿を見るってことですか。たしかに、告発したところで何の意味もありませんね。解決もできない」
「いいえ。もっと下世話なことで問題提起はできるわ」
もっと下世話なこと? 問題提起になる下世話なことって何だ。
「部活動は、課外活動の一環であって遊びではないのよ。だから、タダではないの。遊びだからタダだというわけでもないけれどね」
下世話。タダ。
その言葉から連想されるのは、
「金?」
「ええ。OBからの寄付というのも少なからずあるのでしょうけど、部費の多くは学校の予算から出ているはずよ」
そうか。部費。
その部費が何に充てられているのかはともかく、学校運営の予算の中に計上されているはずだ。つまり、国費からの補助金や入学金や学費から回されていることになる。行政的な意味での言葉を借りるなら、削減対象になるだろう。
「結果を上げていないことは問題にはならないでしょうね。けれど、本分すら果たさずに活動資金を得るのは間違っている。それこそ社会の縮図のようだわ。部活やサークル活動が就職に役立つとは、よく言ったものね」
そう言いながら、先輩は冷笑を浮かべた。どうもこの人は皮肉屋でもあるらしい。まどかと気が合いそうだ。
とは言え、先輩の言うことも一つの真理だろう。
「野瀬さんのことを考えるのならどんな形でも存続させるべきなのでしょうけど、ルールに則れば潰れるべきね、野球部は」
「潰れるべきですか。たしかに、野瀬の前ではこんな話はできませんね」
それはつまり、先輩は俺となら容赦のない話ができるということでもあるのだろう。
故に。
俺も、容赦のない話ができる人間だ。
「それで? 野球部を潰す算段でも立てますか?」
「天都賀君」
「すみません。冗談です」
「そういう問題ではないわ」
確かに、悪質すぎる冗談だった。これでは悪役だ。
「言い過ぎました」
「だから……謝らなくてもいいということよ。あなたが本質的にそういう算段を立てられる人間でないことくらいはわかるもの」
言葉に詰まる。
今日は、他人からおかしな評価をされてばかりだ。
「あなたは、探偵役であることはできる。でも、向いていないわね」
できるとも思わないが、『向いていない』か。妹にすらそんな評価は貰ったことがない。せいぜい『探偵気取り』か『ミステリーかぶれ』くらいだ。
「あなたは謙虚で、自分の成果を手放しで誇るという発想もできない。そういう冷めた振りをして、関心のない振りをして、その実、高い感受性で周りを見ている。あなたは気づいているの? いえ、私が示唆するまでもなく気づいているわね、きっと。人を正しく見るということは、善性だけでなく悪性も見るということ。そして、人は悪であるほど生き易い。自分勝手に生きている人間の方が人生を謳歌していることくらい、あなたなら気付けるはずでしょう」
それは……気付いている。いや、知っている。
真面目で勤勉な人間が割を食いやすいということ。
真面目で勤勉な人間という役割は、与えられることがあること。
では真面目な人間が自分勝手ではないかというと、一概にそうとは言えない。本当に真面目な人間はきっと、その役割を自らに与えるだろう。それもまた自分勝手と言えなくもない。
自分勝手でない人間など、この世にいない。考え方がねじ曲がっているのかもしれないが。
「欺瞞がまかり通ることこそが欺瞞だわ。どうもそれが世界のあり方のようだけれど、そうはいかない。ここまでの事はどうもありがとう、天都賀君。先に校門で待っていて」
先輩は立ち上がり、俺に退室を促した。言葉に従って部屋を出ようとすると、冷えた声が耳に入る。
「ここから先は、私の領域」
「私の領域って……」
振り返って、ぎょっとする。先輩は、笑っていなかった。
そういえば、こっちにも聞きそびれていたことがあった。野瀬の来訪によって、飲まざるを得なかった質問が。
「いまさらですけど、ここはなんの委員会なんですか?」
「え? 美空から聞いていなかったの?」
先輩は、意外だとでも言いたげな顔をした。
少なくとも図書委員会や保健委員会ではないし、体育委員会や生徒会でもないだろう。活動に大講義室という場所を使っている以上、一般的な学校活動に組み込まれた委員会ではないのもわかる。だからこそ、何の委員会なのかわからない。
先輩はそれを誇るように、堂々と名前を言った。
「調停委員会。生徒間の問題を裁定し断罪する、司法組織よ」