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灰色の希望  作者: Syun
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一 高校生の本分

 面接試験で常識外れのことを言おうが真実と異なることを言おうが、高校生にはなれる。俺より問題のある受験生が多かったのか、あるいは面接の担当者が自己認識ができていると判定してくれたのか。ともかく、天都賀あまつが直人なおとは無事に入学式に参加することができた。

 在校生からの歓迎の言葉を聞きながら、新入生らしく三年間の展望を考えてみた。代表の先輩の声は生気にあふれていて、きっと青春をまっすぐ突っ走っているのだろうなと思わせられたからだ。

 考え初めて、ふと疑問に思う。高校生であるということの意義はなんだろう。目的はなんだろう。

 たとえば、部活。高校と言えば、野球もサッカーもラグビーもテレビ中継されるほどの熱を持っている。成功の代名詞とも言っていい。それに加えて、今後の人生へ続く道を作る手段の一つという側面もある。そこまで考えるのはさすがに打算的に過ぎるが、いろいろな面で中学と違うのはたしかだろう。

 あるいは、恋。多くの高校生がそれを求めているし、命を捧げているとも思えるような生き方をしている。それもまた、卒業後の進路も含めて、今後の人生の大半を決める要因の一つかもしれない。

 なんにせよ、夢というか、願いだ。必要なのは。平々凡々で機械的な高校生活を送ろうと思って入学式を迎える人間はいない。明るく幸福な生活を望むのが普通だ。

 さりとて、甲子園や国立競技場や花園を目指すほどの熱意もない。高校デビューで人当たりを良くしようと努力する気もない。思えば、中学三年間でも何を残したわけでもない。別に願いなんてなくたってどうにかなってしまうのだから仕方がない。そもそも高校を選んだ基準さえ、打算がほとんどだったのだから。

 そんな心持ちで生きていたら、無味乾燥のまま二ヶ月弱が過ぎてしまった。とは言っても、何もせずに過ぎたわけでもない。何もせずに過ごすことくらい、人生において不可能なことはない。

 この一ヶ月と半月ほど、ともかくは勉学に力を入れてみた。よくよく考えてみると、部活や恋で失敗――もちろん、警察沙汰になるような失敗は別だが――しても高校生は続けられる。対して、勉学で失敗すれば高校生活が三年で終わらない可能性がある。そういう、原理的というのか、それとも身も蓋もないと言えばいいのかわからない考え方をすれば、高校生であることの意義というかバロメータは『成績』なのではないかと思えるから不思議だ。

 そのはずなのに、勉学に力を入れている人間は皆無と言っていい。いや、別に授業がまともに進んでいないわけでもないし、学校で机に向かうだけが勉強のやり方ではない。自学自習も立派な勉強だ。もうすぐ行われる中間試験で裁定も下されるだろう。ただ、勉強にせよスポーツにせよ、努力する人間というものは、実力を試される機会を前にしても不平を漏らすまい。

 ところで、国家的に成績不振がわめき立てられる今日日、学校の方はどう考えているのだろうか。ちょっとでも簡単な試験にして実績を上げさせるだろうか。それとも、連綿と続く伝統通りのレベルで作成されるのだろうか。

 などと作る側のことを考え、考えても仕方ないと思い直す。高校。進学校。受験直後。すべて未知の要素だ。

 と、周囲から聞こえる悲鳴でそんなことを考えていたら、読書がまったく進んでいなかった。

 顔を上げて、息を吐く。時計を見ようと思って瞬きをすると、胸元で拳を握って気合を入れている女子が目の前にいた。

 近い。全く気づかなかった。

 彼女は突然、ぶんぶんと首を振った。おそらく肩胛骨の辺りまであるのだろうポニーテールが、でんでん太鼓のように揺れる。

「あ、あの。天都賀さん」

 そこまで気合を入れた割には、どこかおどおどしている。メガネのレンズの向こうの目も潤んでいる。というか、泣きそうになっている。

 俺はそんなに怖い人に見えるのか。そうか。たしかに、中学生でも通じるかもしれないくらい身長が低い彼女なら、平均身長の俺が前に立てば、上から威圧する形にはなるだろう。今は座ってるんだが。

 ……で、誰だっただろうか。

 襟章を見れば一年だとはわかる。入学式からこちら、良きにせよ悪しきにせよ噂が立つようなことをやってしまった覚えはない。なら、たぶんクラスメート。顔に見覚えはないので、中学からの知り合いでもない。それについては確たる自信はないが。

 ……で、結局のところ誰だ。さっぱりわからない。

「なにか用か?」

 自己紹介を求めるのは失礼だと思って別のことを聞いたら、不躾になってしまった。いや、これこそ威圧か。

 案の定、彼女は視線をさまよわせて半歩ほど身を引いてしまう。俺だって、同じことをされたら物怖じするだろう。

「す、すみません」

「悪い。考えごとしてた」

 とりあえず、話を聞く意志があることを示すために新書を閉じた。ここで名前でも呼べば緊張緩和の一環になるのだろうが、まさか当てずっぽうで言うわけにもいかない。視線だけで先を促す。

「あの、えっと」

 失敗。先は促せなかった。

 当然か。人間は第一印象がほぼすべて。怖い人に見えれば、しばらくは怖い人だろう。

 まあ、天都賀直人の印象はともかく、目の前の少女はわざわざ声をかけてきたのだから、きっと最後までやり遂げるだろう。俺の外面の評価が良くないことくらい、最初のあの気合の入れようからわかる。

 その推測通り、少女は再び拳を握りしめ、叫んだ。教室中の雑音が一斉に消えるほどの大きさで。

「勉強を教えてください!」

 うん。

 うん?

 勉強を? 教えてください?

「どうして俺なんだ?」

 答えの代わりに疑問を返すと、相手は口を開いて固まった。

 そしてやはりというか、涙目になる。しまった。また威圧するような言い方を。

「あっ、あの、すみません。迷惑でしたよね」

「違う。拒否したわけじゃない。そう、単純な疑問だ。他意はない」

 どうも押しに弱そうなので、無理矢理押し切った。なんでそう簡単に引くのだろう。俺は、そこまで相手を威圧するような顔をしているのか。

 なんとなく空気が悪いと思って周囲を伺うと、視線が集中していた。

 いじめている訳ではないとは、誰にも思われていないらしい。誰だって、知らない相手――クラスメートをそう言うのは自分でもどうかと思うが――からこんなことを言われたら疑問に思うだろうに。勉強会をするなら、友達とが普通じゃないのか。

 溜息をついて顔を上げると、笑った顔と目が合った。

「天都賀さんは、勉強ができそうだと思ったので」

 なるほど、そう見えるのか。その推察が正しいかどうかはまだわからないが。

 だが一つ懸念がある。それは、

木倉きくらさん、いいかな? 座りたいんだけど……」

「あっ、ごめんなさい!」

 その懸念を言おうとしたのに、第三者に遮られた。前の席の……アソウだったか、アサイだったか。

 話しかけられた方は机の脇に避けたので、視線で追う。

 なるほど。木倉さんね。

 ついでに、木倉が動いたことで時計が見えた。どうも彼女は、俺に話しかけるよう奮起するために昼休みのほとんどを使い果たしたらしい。

「続きは放課後でもいいか、木倉さん。そろそろ五時限目が始まる」

「はい。ではまた放課後に」

 木倉が頭を下げた瞬間に、予鈴が鳴った。予想通り、彼女はクラス内の自席へと戻っていく。

 ともかく、この昼休みには学ぶことがあった。天都賀直人はクラスメートの名前をまったく知らないということと、別に名前を知らなくてもコミュニケーションはとれるということだ。

 どうなんだ、それは。どっちも。


「そもそも俺は人にものを教えたことがないから、そういうのが上手いかわからない」

 放課後の教室。机越しに木倉と向き合いながら、俺は言った。

 自分にはなにができて、なにができないのか。教師役の技量は、勉強する上で重要なことだろう。

「なんというか……。そういうことをしてもおかしくない環境ではないのかもしれないけど、必要とされなかったから」

「はい?」

「いや、こっちの話」

 たとえ俺自身がそれなりでも、相手が優秀なら教える必要はないというだけのことだ。同学年ではないから劣等感がないことが、いいのか悪いのかわからないけれど。

「そうですか」

 納得していないだろうに、木倉は頷いた。

 しかし、彼女は教科書とノートを取り出すと、首をかしげる。

「でも、どうして教室なんですか? 図書館の方が勉強に向いてますよね」

 その疑問はもっともだ。図書館と勉強はイコールで繋げられる。しかし。

「家庭教師が付いている光景を想像できるか?」

「はい」

「それをそのまま図書館に持って行ったらどうなる?」

「あ、なるほど」

 答えは、『迷惑』。

 たしかに図書館は静謐で勉強がはかどるだろうが、図書館が静謐なのはそうであることを義務づけられているからだ。決して、勉強をはかどらせるためではない。もう少し時期が遅くて梅雨になっていれば、迷うことなく図書館に向かっていただろうが。

「わからないところがあったら聞くという手法で問題ないよな?」

「はい」

 手法を確認し合ったところで、手持ちぶさたになったので昼の新書を取り出す。パラパラとめくって栞を探すが、見つからない。そういえば、挟んだ覚えがない。

 しかも、斜め読みしていたおかげでどこまで真面目に読んだのかわからない。理解しきれていない専門用語が多すぎたのもあるだろう。かといって、最初から読み直すのも億劫だ。

 こうなれば、触りすら忘れた頃に頭から読むしか無い。溜息を吐いて、本を閉じた。

 気がつけば、教室に人の姿はない。視線を感じる度に見返してやっていたおかげだろうか。

 茜色に染まる部屋でふたりきり。野球部かサッカー部のかけ声が届く中、教科書をめくる音が聞こえる。

 その音を発している木倉を横目に見ていると、ずり落ちるメガネを何度も直していた。サイズが合ってないのか。

 細いフレームに収まったレンズはよく磨かれていて、木倉の顔の輪郭がよくわかる。せめてフレームレスなら気になりにくいんだろうが……。ふむ。

「その伊達メガネ、邪魔じゃないか?」

「……そうですね。少しだけ」

「だったら外せばいいじゃないか。なにか事情があってかけ続けたいなら、なにも言わないけど」

 誰かの形見だとか、約束だとか。そんなものがあるなら、無理に外せとは言えない。

 しかし、そんな精神的な理由ではなかったらしい。

「いえ。えーっと、頭が良さそうに見えませんか?」

「どうだろうな。どちらかと言えば、気が弱そうに見える」

 そういえば少し前のニュースで、人当たりを柔らかくするために伊達メガネをかける就活生がいると言っていた。その類ということか。ならそのポニーテールも活動的に見せるための飾りか、と言おうとしてやめておいた。

「そうですか……。残念です」

 まあ、気が弱いのは木倉の本来の性格なのかもしれない。実際、俺が言ったとおりにメガネを外してポケットにしまっている。

 木倉はしばらく裸眼で勉強を続け、

「どうして度が入ってないってわかったんですか?」

 いまさら驚いたように、顔を上げた。

 ああ、そこ、ツッコむのか。

「小学生の理科の問題だ。レンズを通して見た像はどうなる?」

 俺の出した問題に、木倉は教科書を置いて首をかしげ、戻し、手を打った。マンガなら、「そうだ!」とでもセリフが入りそうだ。

「大きくなります」

「そうだな」

 そこは、「屈折する」と答えて欲しかったところだが……。屈折するのは光だから、完璧な答えでもないのか。

「レンズを通した世界は歪む。それがメガネの役割だが、その結果は両側に働くってことだ」

「ええと、両側に……」

 木倉は、俯いて考え込み始めた。そのまま、無意識にかうんうんと唸り始める。

 物事は、自分で考えなければ意味がない。

 とまでは言わないし、説明が足りないかもしれないとは思った。

「つまりだな。顔の輪郭がずれるんだよ、レンズの中と外で。度の入ってないガラスの窓から見た景色は歪まないだろ」

 最初からそういえば良かったか。

「なるほど」

 木倉は、納得した顔で頷いてくれた。

 こういう話を聞いた時、人間は三種類の反応をする。説明をしっかり聞いてくれるか、要点だけ要求するか、理解できなくて怒り出すかだ。どうやら木倉は、ちゃんと聞くタイプらしい。もちろん、聞かずに怒り出すタイプも居ないではないが。

「勉強って、やっぱり大事ですね」

「ああ、うん」

 こんな些細なことでそう思えるとは。純真か、あるいは天然なのか。

 知らなければ指摘できずに木倉の集中を途切れさせずに済んだとも言えるのだが、彼女にはそういう考えは無いらしい。

 ……ところで、始まってこの方、テスト範囲のことでなにも質問をされていない。果たして俺は必要なのだろうか?


 いろいろ考えている間にも時間は流れる。体感による伸び縮みはあるとしても、止まれと言われて止まりはしない。

 結局、完全下校のチャイムが鳴るまで会話はなかった。仕方なく新書を読み直していたが、お互いにかなり集中していたと思う。

 二人で自転車を押しながら歩き、校門をくぐったところで、木倉が頭を下げた。

「今日はお世話になりました」

「いや」

 なにもしてない、と素直に続ければ良かっただろうか。そう思ったが、なにもしないということもそれなりに重要なのだと気づいた。邪魔をしないということなのだから。そう考えると、友達と勉強をしないというのもそれはそれで正しい選択なのかもしれない。

「明日からもお願いします」

「ああ」

 なんとなく、間違った答えを返してしまった気がした。が、たった二週間だ。特になにをやるわけでもない。

 いや。なにをやるわけでもないのは問題がある。

「なあ。知り合いの先輩はいるか?」

「はい。いますよ」

「そうか。だったらその先輩に、去年の中間テストの問題を持っていないか聞いてくれ。あるなら、早いうちに持って来てくれるようにも」

 今日はなにもなかったが、そもそも木倉が「なにがわからないのかわからない」最悪の状態である可能性もある。理解度や応用力を知るのは重要だ。先生が違うとか、進行具合が違うとか、そういう差異は些細な問題だろう。

「大丈夫だと思います。頼んでみますね」

 そうか。

 なら、その先輩に勉強を教えて貰った方がいい気もするのだが……。俺にもメリットがある。ここは少しばかり打算的でもいいだろう。

 私鉄の踏切を通り過ぎ、小さな商店街を抜け、さらにJRの踏切を越えて国道に出た。

「木倉さん、家は?」

「ショッピングセンターの向こうです」

「そうか、わざわざ悪かったな。俺はこっちだから」

 ここからだと、木倉の家は北で、俺の家は南。ショッピングセンターは高校の東に位置する。私鉄の踏切を越えたあたりからそちらに向かう道はいくつもあるので、遠回りさせた形になる。

「また明日」

「はい。また明日」

 自転車に乗り、ペダルを踏み込む。しばらく行って振り返ると、木倉がまだこっちを見ていた。

 止まって、片手を上げる。こちらから見えるのだから、向こうからも見えたのだろう。木倉も頭を下げてから自転車に乗って、背を向けるのが見えた。

 前に向き直って、改めてペダルを踏み込む。流れていく風景を見ず、帰宅までの三十分ほどの間に今日のことを考える。

 因果は流転する。木倉――そういえばまだ下の名前をまだ知らない――との放課後は何をもたらすのか。

 いいところで、テスト結果の向上くらいだろうな。


 /


 翌日、木倉はテスト問題を持ってきた。昼休み、教室に戻ってきた時に持っていたバインダーと同じものだ。リフィル式のクリアファイルだったので、一通り眺めた後で一枚適当に外させてもらう。

 藁半紙に印刷された問題を一読すると、授業をきちんと聞いていれば解けるものばかりだった。当たり前だが。

 しかし、

「……不公平だな」

「なにがですか?」

 俺の呟きに、木倉が反応した。顔をつきあわせているのだから聞こえないはずがない。

 特に聞かせる気はなかったのだが、不満の実態を口にする。

「いや。問題を作る側は参考文献を見て、解く側は記憶と技術だけを頼りにというのは不公平だと、なんとなく」

 それは、言っても仕方のないことだ。作る側は正確性を求められ、解く側は記憶力と技量を見られるのだから。

 ただ、そこからさらに考えていくと、教師が教科書と同義に見えてきたりもするのだが……。

「そう聞くと、たしかに不公平ですね」

 そんな下向きの思考は、木倉の一言で断ち切られた。同意してもらえるのは結構だが、納得してもらう必要はこれっぽっちもない。

「まあ、それはそれ、これはこれだ」

 そう言って話を打ち切る。そんなことを議論してもテストの実施方法が変わるわけではないし、正しい問題と正しい答えがなければ実力を測ることはできない。

 ノートを開き、問題を一問ずつ解いていく。問題用紙に書き込みはなく、形式上は本番と変わらない。

 それにしても綺麗すぎる。人が使った痕跡が、折り目しかないなんて。

「先輩には弟か妹がいるのか?」

「いないと聞いています。一人っ子だと」

「そうか。なら、頭がいいんだろうな」

「はい。なんと言えばいいのか……とても聡明な人です」

 聡明か。考えてその単語が出てきたのなら、事実なのだろう。さぞかし要領もいいんだろうな。やっぱり俺じゃなくてその先輩に教えてもらえば良かったんじゃないのか。いや、別学年同士が一緒に勉強するのも効率が悪いか。

 そんなことを考えていたら、木倉が感動したような目でこっちを見ていた。

 なんだ? と視線で問うと、木倉は嬉しそうに微笑む。

「また当たりましたね」

 当たった?

「なにがだ?」

「先輩が優秀だということです。昨日も、わたしのメガネのことを言い当てました」

 ああ、それか。

「まるで、シャーロック・ホームズみたいです」

「そこまでじゃない。たまたまだ」

「でも、聞かせて欲しいです。昨日みたいに」

 木倉の先輩が優秀だと思ったのは、本当になんとなくだ。それを言語化するのは少し難しい気もする。手を握って経歴を当てるのとは、少しばかり向きが異なる。

「そうだな。まず、先輩はテスト用紙を保管していた。これは、見せる相手がいるか、あるいはそういう性分かだ。弟か妹がいればそういう習慣になりやすいが、先輩にはいない。しかしもしかすると、単に物を捨てられない性格なだけかもしれない」

 答えを保留して、テスト用紙の入ったリフィルを持ち上げる。

「ただ、このテスト用紙は一分のズレなく真っ二つに折られている。本人はおそらく几帳面か、あるいは神経質だ。そんな人間が、悪い意味で物を捨てられない性格だというのは疑わしくなる。加えて一晩で用意できたことから、常日頃からこのバインダーの中に整理されているんだろうってことも推測できる。本棚に収められてるのか押し入れに押し込んであるのか。そこまではさすがに知りようがないがな」

 知りようがないとは言ったが、十中八九本棚に収められているだろう。インデックスを見る限り一年分まとめられているようだが、それでバインダー一冊なら大して場所も取らない。

 木倉は、俺の説明を聞いて適宜相づちを打ってくれている。たぶん、理解もできているだろう。

「残る判断点は、問題用紙が綺麗だってことだ。メモ書きすらない。数学は計算用紙が別に渡されるから、書き込みが無くてもおかしくはない。しかし、理科系科目ですらそれがないのは少し不自然だ。もちろん、理数系をまとめて捨てているという予測もできなくはないが、さすがにそれは暴論に過ぎる。仮定される人物像とも合わない。なら、暗記が苦でなく、頭の中で理論を組み立てられて計算までできる人間だろうと思った」

 そこまで行くと少しばかり超人かもしれないが、問題が複雑でなければ、物理もまだ公式に当てはめるだけでなんとかなる。

「最後に。勉強をやりたくないとかどうでもいいと思っている人間は、テスト用紙を保管しないし、もっと雑に扱う。これで推論は相互補完される」

 推測終了。さすがに初めからここまで深くは考えていなかったが。

「お見事です」

 木倉に、ぱちぱちと拍手をされる。普通なら馬鹿にされたように感じるのだろうが、不思議とそんな気はしなかった。

「だから、たまたまだ。たしかに、人間の性格は多くの場所に現れるんだろうが」

 持ち上げたままだったリフィルを、改めて見る。

 折り目正しく。綺麗に。行儀良く。リフィルとその中の紙は、そう語っているような気がするが、幻聴だ。そしてその幻聴は、俺の主観と同義。

「この折り方や保管方法だけを悪意を持って見ると、冷徹で、機械的で、人間味のない人間だと推測することもできる。途中計算も、俺はやろうと思わないだけで机にだって書けるしな。第一俺は、これから見えたのがその先輩の全容や本質であるとは思わない」

 人間はもっと複雑で、理解しにくい。木倉の先輩も、彼女に見せていない顔がいくらでもあるだろう。テスト問題を貸したのだって、純粋な厚意なのか打算的な意図だったのか、俺にはわかりようもない。自分が少しばかり打算的に過ぎたから、特に。

 そもそも、俺はその先輩の顔すら知らない。こんな些細なことからすべてを知ることができると思うのも、知ろうと思うのも、どちらも傲慢だろう。ふざけている。

「天都賀さんの言うとおりだと思います。でも」

 否定の接続詞を聞いて、俺は木倉の顔を見る。

 木倉は、笑顔を浮かべていた。

「天都賀さんは、先輩のことを正しく知らなければいけないと思っていますよね。それは素晴らしいことだと思います」

 いいことではなく、素晴らしいことときたか。それは、少しばかり拡大解釈が過ぎる。部分から全体を推測することなんて、悪癖でしかないのに。

 ただ、そう見えるのならそれは、木倉の心が澄んでいるからだろう。

 長所は短所に、短所は長所になる。なら、見方によっては欠点も美点に見えるかもしれない。人の評価は、主観の産物なのだから。

「人間、正しい評価は得られにくいからな。少しくらい配慮はするさ」

 今朝、登校してきた木倉はメガネをかけていなかった。それを彼女の友人達は、俺が破壊したからだと推測したらしい。そんな話を、こっちにまで聞こえるようにしていた。ということはつまり、天都賀直人はそうしかねない人間に見えてるってことなんだろう。どう思われようと構わないという気はないが、わざわざ歩いていって弁明する気にもならなかった。

 もっとも。それ以上に、自分のことすらわからないのが人間。俺にそういう側面がないとは言い切れない。

「正しい評価は得られにくい……。そうかもしれません。でも」

 再びの否定の接続詞に、また、木倉の顔を見た。

 木倉は、当然のように笑顔だった。けれど今回は、どこか慈愛のような色が見えた気がした。

「見ている人は、ちゃんと見ていると思います。天都賀さんがそうであるように」

「……そうかもしれないな」

 そうだといいな、と答えることはできなかった。憚られたのではなく、木倉が言うと、なぜかそう思えてしまったからだ。


 目的であるはずの勉強をまったくしていないのは気のせいだろうか。いや、まったくしていないわけではないんだが。

 ただ、教室を出たところでそれに思い当たるというのは重要な問題だろう。

「明日からはどうするんだ?」

 本日は金曜。明日からは土日だ。テスト勉強をするなら休日登校することになる。月曜日からテスト期間にも入り、木倉の友人が部活や委員会に所属していても、強制休暇で足並みが揃うだろう。俺に役割が与えられるとしても、自然と明後日までになる。

 木倉は少しだけ俯いて、考え込む仕草を見せた。

「そうですね。わざわざ休日をわたしのために使って貰うわけにもいきませんけど……」

 いやそもそも、休日を使う必要がイマイチわからない。貰うはずの質問は勉強とは関係のないものばかりだし、木倉自身の学力も特に問題ないように見えた。

「なにか失敗できない理由でもあるのか?」

 相変わらず俺は、木倉のことを何も知らない。今日わかったことと言えば、下の名前が「美空みそら」だということだけだ。それも聞いたわけではなく、ノートの表紙に書いてあったのが見えたに過ぎない。

「いえ、その……携帯をですね」

 テスト。携帯。その二つのキーワードがあれば、どういう事情かは察せる。

「大体わかった。ありがちだな」

「ええ、まあ」

 テストの点が良ければ、携帯の所持を許可する。今時小学生でも携帯を持っているというのに、ある意味古風な家だ。いや、携帯の料金というのも案外馬鹿にならないようではある。特に、交友関係が広い場合は。

 けれど、これで腑に落ちた点もある。勉強の質問をしたいのなら、メールアドレスの交換くらいしておいた方が効率がいい。しかし、持っていなければ交換はできない。パソコンでもメールはできるが、携帯と違ってリアルタイムでのやりとりには向かない。

 木倉にとって、あの小さな情報機器は憧れなのだろう。目を輝かせて笑う。

「でも、頑張れば天都賀さんともメールができます」

「無理だ」

 瞬時に否定。一蹴というのは、今の俺の言葉のようなのを言うのだろう。実際、木倉は笑顔のまま固まっている。瞳孔が開いているような気さえする。

「え、あの、その、すみません。出しゃばって」

 どうも木倉は、俺がメールのやりとりを拒絶したと思ったらしい。そんな気はなかったが、俺が一般的な人間だと思っていればそう感じるかもしれない。

「違う。俺も携帯を持ってないんだよ」

「え? そ、そうなんですか。びっくりしました。珍しいですね」

 慌てて取り繕う木倉に、なんだか呆れてしまう。自分もその珍しい人間の一人だろうに。

 そもそも、異端なのが自分一人だと思うのは大きな間違いだ。携帯を持っていないくらいで異端扱いされる謂われはないが。

「特に必要だと思わないからな」

「でも、あれば便利ですよね?」

「かもしれないけど、無くて困ったことはない。なら、これからも思わないだろ」

 交友関係の広い木倉ならそう思うのかもしれないが、俺は別に友人が多いわけではない。必要なら家の電話にかかってくるはずだが、そんなことも特にない。

 つまり、多い少ないではなく、いないのか。

「それに、携帯を持っているやつは常時誰かと繋がっていると錯覚している気がする。それ以上に、縛られているように見えることもあるな」

「そういえば、メールが返ってこないとかで口喧嘩になりかけているのを見たことがあります。いいことだけではないのかもしれませんね」

 現代の携帯は既に情報端末と言っていいが、その本質はコミュニケーションツールだ。なら、その役目を果たせなければ苛つきもするだろう。人間は、物事が期待や想像通りに行くものだと思っているからな。

 便利になることが、何もかもいいことではない。特に今はそういう時代だと思うのだが、そう思うのは俺だけなんだろうか。とは言え、メールが返ってこないだけで喧嘩腰になるのはさすがに気が短すぎるだろう。まあ、息をするように携帯を触っているように見えるし、呼吸が止まるのと同じなのかもしれない。どうでもいいが。

「携帯の話はもういい。明日の話を先にしよう。永遠に予定が立てられない」

 こういうときに携帯があれば便利なのだろうか。いや、それは問題を先送りにしているだけだ。

「どうせ土日はやることがないし、休日登校くらい構わない。月曜からはテスト週間で部活はなしだから、友人がこぞって勉強会に誘ってくるだろうしな。そうなれば俺はお役ご免だ」

 おかしい。どうして俺は言い訳をしているのだろう? そう思いながらも、口からつらつらと言葉が出てくる。

「それに、そのテスト問題はかなり有用そうだ。見せてもらえると非常に助かる」

 言い切って、息を吐く。本当に、俺は何に言い訳してるんだ。木倉も、呆けたような顔になってるし。

「……木倉さん。なにか言ってくれないか」

「はっ、はい。では、よろしくお願いします」

「じゃあ、明日九時に教室で」

「はい」

 そう言って、今日もまた国道で別れた。

 問題を先送りにしないつもりが、結局、考えるのが遅かったってことか。


 /


 学校が休みなのに普通に起きるというのは、これ以上なく変な感じがする。おかげで眠い。規則正しい生活は大事だし、社会人になれば当たり前のことのはずなのだが。

 あくびをしながらリビングに入ると、妹のまどかが驚いた顔をしていた。

「おはようございます兄さん。どうして制服を着ているんですか?」

「学校に行くからだ」

「でも、今日は土曜日ですよ。部活、入ってませんでしたよね?」

「用事があるんだよ」

 そう言うと、まどかは少しだけ眼を細めた。怒っているらしい。たしかに、言葉が足らなすぎたか。

「来週からテストなんだ。それで、勉強」

「テスト勉強ですか。だからこの二日、帰りが遅かったんですね」

「ああ」

 朝食は用意されていない。食パンくらいはあるかと思ったのだが、それもない。昼食とまとめて途中で買っていくしかない。

 ドアの脇に置いておいた鞄を拾い上げ、玄関へ向かう。すると、まどかもついてきた。

 靴を履いていると、嬉しそうな笑い声が耳に届く。

「でも、よかったです。兄さんにもちゃんと友人ができたみたいで」

「失礼だな」

 その辺りは昨日自覚させられたばかりなので、詳しく突っ込めない。どうやら、俺よりもまどかの方が俺のことを把握していたらしい。

「すみません。でも、安心したのは本当です」

 そうか。それは本当に申し訳ない。二つの意味で。

「ぬか喜びさせて悪いな。友人じゃない。それなら学校でやる必要がないだろ」

「友人でなければ、先生ですか?」

 靴も履いた。鞄も持った。自転車の鍵も持った。

 あとは、まどかの疑問に答えるだけか。

「そんなわけあるか。クラスの女子だよ」

「え?」

「女子」

 振り返って単語だけを繰り返すと、まどかは目を見開いて固まっていた。

 友人の有無を心配する相手が休日に異性と一緒だということを聞いた時の気持ちは、まあ、わからないでもない。でもやっぱり失礼なやつだ。いや、俺だってそう言っている自分が現実的に見られないので、まどかを責められないのかもしれない。

「え、えええええええ!?」

 返答に対する叫びを背に、家を出た。

 朝っぱらから元気だな、うちの妹様は。


 勉強といえばやはり図書館なのだろうが、うちの市の市立図書館は『市街』から少し離れたところにある。行政区分で言うと『開発地域』のような意味になるらしいが、道路標識などの示す地理的な面での『市街』は『市役所のある位置』らしい。

 そう考えると行政機能が集中していそうな気もするのだが、市の名だけを冠しているうちの高校は、なぜかそこから一〇キロ弱ほど離れたところに存在する。隣の市は名を冠している高校が私立だったりするし、特例はどこにでもあるのかもしれない。木倉の家と図書館とは高校を挟んで真逆になるので、女の子が自転車で行き来するには少しばかり遠い。電車で来いというのも、少しばかり自己中心的過ぎるだろう。かといって、丁度いい地点に公共施設はないと来ている。なら、場所は必然的にうちの高校になる。

 途中のコンビニで買ったサンドイッチをつまみ、眠気覚ましを兼ねたブラックコーヒーを口に流し込んでいると、木倉が来た。時刻は八時五〇分。一〇分前行動とは実に彼女らしい。

「おはようございます。早いですね、天都賀さん」

「おはよう。時間の感覚がわからなくていつも通りに出ただけだ」

 おかげで三〇分ほど手持ちぶさただった。と言っても、自己責任以外のなにものでもない。

 木倉はいつものように前の席の前後を返し、椅子に座った。

「それでは、早いですけど始めましょうか」

「ああ」

 昨日と同じように、テスト問題をばらして机の上に並べる。そこからつまみ食いするように一枚取って、用意してきたルーズリーフを広げる。

 時間配分は考えずに解いていく。見直しも無しだ。リスニングのある英会話を除いて、計八教科。昨日は真面目にやらなかったので、やるのは全部。

 一枚三十分と見積もっても四時間あれば解ける計算になる。答え合わせや見直しを含めると五時間くらいだろうか。もう少しかかるかもしれない。本試験は六〇分。二ヶ月の成果がそれで試されるのか。いったい何時間分だ。

 ……そんな余計なことを考えながら、頭とペンを走らせる。BGMはやはり、開けた窓から入ってくるサッカー部か野球部の掛け声。そこに時折、私鉄や車の音が混じる。

 昨日や一昨日の放課後にも思ったのだが、人というのは存在するだけで音を発するらしい。あるいは、発せられているエネルギーが他人に向かった結果、音として変換されていると言った方がいいのだろうか。その表現なら、エネルギーをテスト問題にのみ向けている俺たちが音を発していないという状況に合致する……と、これも余計なことだ。頭を振って、テスト問題に集中し直す。

 手っ取り早く問題数の少ない理数系から解いたはずが、終わって時計をみると二時間半ほど経過していた。まだ問題を解いている木倉を邪魔しないように、静かに伸びをする。

 そのタイミングで教室のドアが開いた。入ってきたジャージの女子と目が合う。

 その顔が一瞬、イヤなものでも見たかのように歪められた。しかし、一瞬だけ。すぐに満面の笑顔に変わる。

「よっ。みー」

「あ、ひーちゃん」

 顔を上げた木倉が振り返った。

 ……俺の気遣いはなんだったんだろう。

「まさか、休日もいるとは思わなかったよ」

 ひーちゃんと呼ばれた女子は、木倉に近づき、ちろりと俺の方を見た。その目がなんだか悪意を含んでいるように見えたのは気のせいではないはずだ。

 目を合わせ続ける必要もないので、ルーズリーフに目を落とす。それでも話は聞こえてくる。

「気合は十分って感じ?」

「うん。人生かかってるからね」

 ……人生。それは言い過ぎだろう。

 と思ったが、よく考えると最近物騒だ。携帯の有無で木倉の人生が左右されることもあるかもしれない。そういう意図で言ったのではないのだろうが。

「それで、天都賀?」

「うん」

 まるで、人を何か使い勝手のいいもののように言ってくれるな。もちろん木倉にそんな気が無いのだとしても、相手の物言いがあればそう聞こえてしまう。

 しかし、俺は思ったより有名人なのか。それとも、この二日で名前が知れたのだろうか。

 どっちでもいい。相手にされる様子もする気もないので、テスト用紙の内側に挟んであった解答用紙で答え合わせをする。ケアレスミスはないものの、解釈を間違っている問題が幾つかあった。その問題だけを抜き出して、書き写しておく。

「天都賀。聞いてんの?」

 突然話しかけられて、俺は顔を上げた。ひーちゃんが長袖のジャージに包まれた腕を組んでこっちを睨んでいる。トントン、とつま先を鳴らす音も聞こえる。機嫌が悪いのは一目瞭然だ。

 ちなみに俺は、彼女の名前も知らない。だからと言って、ひーちゃんと呼ぶのは自殺行為だろう。

「すまん。話の邪魔かと思ってた」

「ふーん。空気は読めるんだ」

 褒め言葉で馬鹿にするのはどうかと思うが、それ以上にその物言いは矛盾している。話を聞いて欲しいのか、黙っていて欲しいのか、どっちなんだ。

 まあ……腕を組んで睨み付けているということは、前者なんだろう。そう考えて、俺は仕方なくシャーペンを置いた。

「それで、なんの話だったんだ?」

 機嫌が悪そうなところを見ると、大方、悪い話だろう。昨日の流れからすると、

「みーを苛めるなって言ったの。あんたがメガネ壊したんでしょ」

 だろうと思った。

 ただ、俺が否定しても聞き入れはしない。人間はそういうものだ。ここは搦め手を使おう。

「木倉。コンタクトレンズは使ってるか?」

「いいえ。使ってませんよ?」

 木倉を見ると、「ご存知ですよね?」とばかりに首をかしげられた。いや、聞いてないぞ。そうだろうとは思っていただけで。

「そういうことだ」

 首を動かしてひーちゃんの方を見ると、ジト目で見返された。その顔は、家を出る前にも見たような気がする。なんだろう。そういう日なのか、今日は。

「……どういうことよ」

 ひーちゃんは、超不機嫌になったらしい。ここで流血沙汰が起こっても長袖長ズボンの彼女は返り血を浴びなくて済むだろうな、なんて想像をしてしまう。

 どうにもこうにも、説明しなければならないらしい。できれば自分で察して欲しかった。その方が納得しやすい気がしたのに。搦め手は、完全なる失敗に終わった。

「メガネはなんのためにかける?」

「馬鹿にしてんの?」

「してない」

「どうだか……視力矯正でしょ」

 ひーちゃんは、苛ついた顔で腕組みをし続けて、それでも答えて下さった。ありがたいことで。

「正解。で、その役目はコンタクトレンズも果たすが、メガネをかけていない木倉はそれも使っていない。ということは?」

 ひーちゃんは、目を閉じてしばらく考える様子を見せた。

 時間にして一分ほどの後、驚いたように目を見開いた。

「別に目が悪いわけじゃない?」

 そういうことだ。

 よかった。自分で気づいてくれた。

「だから俺は、サイズの合わない伊達メガネならいらないんじゃないかって言っただけだ。それを非というのなら、苛めたことになるのかもしれないけどな」

 どうなんだろう。木倉の主義を否定したことになるのだから、やっぱり苛めたのだろうか? ひーちゃんも、困ったように考え込んでいる。

 考え込んで。ということは真剣に考えてくれて、違うという結論に達してくれたらしい。浮かんだのは、苦笑いだった。

「でも、よく伊達メガネなんて発想が出てきたね」

「ショッピングセンターの中に雑貨屋が」

「ど、どうして買ったところまでわかるんですかっ!?」

 びっくりした。いきなり叫ぶなよ木倉。

 木倉は真っ赤になっているが、説明責任を求められたとして、答える。

「今のは自爆だぞ、木倉。ショッピングセンターの中に雑貨屋があったし、すぐそこの一〇〇均でも売ってる。それに流行ってるだろ、ブルーライトカットのメガネ。あれならどこでも売ってる。そこの電器屋とか、ホームセンターにもあったはずだ」

「ん? なんで眼鏡屋が選択肢にないの?」

「眼鏡屋で買えばツルは調整してもらえるからな。あそこまでずり落ちることはないだろ。第一、眼鏡屋に行って『伊達メガネください』なんて言ってる木倉は想像できない」

「あはははは! それはあたしもそう思う!」

 半分冗談で言ったのだが、ひーちゃんには大ウケだったらしい。まあ、眼鏡屋でそう頼むのは、牛丼屋で牛丼肉抜きを頼むことに似ている……ような気がする。完璧に的外れだろうが。

「そういうわけだ。俺は何もしてない。何かをしたわけではないという意味でも」

「うん。わかった。疑ってゴメン、天都賀」

「あ、ああ」

 驚いた。謝られたのか、今。

 女心と秋の空とは言うが、人の印象というものはここまで変わるものなのか、お互いに。警戒心が一気に薄れたぞ。

「ところで、マネージャー業はいいのか?」

「あっ、しまったっ! 忘れてた! ごめんみー、あたし行くね!」

 手を合わせてすぐ、風のようにひーちゃんは去っていってしまった。

 相手をする人間がいなくなったので、俺はテスト勉強に戻……ろうとしたが、木倉の視線を感じて、シャーペンを拾い上げられなかった。

 なんだ、と視線で問いかける。

「驚きました。天都賀さん、ひーちゃんと知り合いだったんですか?」

「こう言うとなんだが、名前すら知らない。話したことすらない人間にあそこまで悪態吐けるのはすごいな」

 素直に答えると、木倉はぽかんとした表情になった。

 その表情を見て、言うことではなかったと後悔したが、もう遅い。

「ひょっとして、わたしのことも知りませんでしたか?」

 鋭い。しかし、答える義理はない。答えていい気もしない。

 その内心は、行動に出て、伝わったと思う。俺は目が見られなかったし、木倉から乾いた笑いも聞こえた。

「ひーちゃんのフルネームは、野瀬のせ広美ひろみです。名前も覚えてもらえてないと知ったら、きっとがっかりしますよ」

 個人的には烈火のごとく怒るかと思うのだが、木倉の評も馬鹿にはできない。たしかに、根はいいやつのようだった。それもありえる。

「でも、よくマネージャーだとわかりましたね」

「長袖長ズボンだったからな。まだ暑いとは言えないし、日焼けを気にしているならそれもあり得たけど、汗一つかいてなかった。女子を前に言うのもどうかと思うが、汗の臭いも制汗スプレーの香りもしなかったしな。一年で本格的に参加させてもらえないとしても、テスト前なら少しでも練習量を稼ごうとするだろう。そういう前提で運動部でも運動しない役割を考えたら、それしか思いつかなかった」

 だから、今回は本当に偶然だ。たとえば、陸上部でただの記録係に徹していただけだったかもしれない。それもある意味でマネージャーと呼ぶとしても。それに、マネージャーだから疲れもしないし汗もかかないというわけではないだろう。今思えば、制服を汚してしまって着替えただけとも考えられた。ただ、それなら木倉が理由を聞いていたはずだ。

「野球部のマネージャーです。映画に影響されたって言ってました」

「ああ、あれか」

 ベストセラーになった教養小説だな。たしかアニメにもなったんだったか。

 ただ、流行としては一昔前だ。映画自体はアイドル映画だったはずだし、野瀬がそれを見て、未だに影響を受け続けているとは。人は、やっぱりわからん。

「頑張ってるみたいですよ」

「それはわかる」

 とかく、目的がある人間は強い。目的地とそこに至る道が見えているのもあるのだろうが、障害が目に入らないことが大きいと思う。野瀬がうちの野球部を名だたる常連校を打ち倒して甲子園へと歩を進められるような強豪にできるのかはわからないが、そうなるよう努力はするはずだ。

 木倉もそうだ。動機はさておき、残される結果は木倉にとってマイナスになろうはずがない。よい成績を収めれば次につながるだろうし、新しいコミュニケーションツールを手に入れれば人の輪はさらに広がり、その関係も深くなるだろう。

 では、俺はどうだ?

 考えなくてもいいことかもしれない。だが、どうしても考えてしまう。二人が恒星に見えるからだろうか。自分から光を放っているから。

 否定はできる。野瀬は野球部という群を光らせようとしているだけで、木倉も携帯という光を追っているだけだと。ただ、俺はそこまで悪意を持って解釈できない。

 決して、自分から光る必要はない。でも俺は自分から光ろうともしていないし、誰かを光らせようともしていない。それは事実だ。人の評価は相対的だからこそ、誰かを見ると優劣がついてしまう。俺が高校に入ってから見たのはおそらく、始業式で代表を務めたあの先輩だけだ。

「天都賀さん?」

「続き、やるか」

「……はい。そうですね」

 木倉は、何か感じ取っていただろうか。

 感じ取っていただろうな、きっと。ただそれが、俺が四月からずっと先送りにしている問題だとは気づかなかっただろうが。


「みー、天都賀」

「あ、ひーちゃん」

 俺が世界史と日本史の問題を解き終わったところで、野瀬がやってきた。人のことを空気が読めるとか言っていたが、野瀬の方が空気を読み過ぎじゃないのか。

 そう思って教室の時計を見ると、十二時半を少し回っていた。木倉はまだ古典のテストを終えていないし、偶然か。

「ゴハンにしない?」

「あ、もうこんな時間なんだ」

 木倉も納得したようで、ペンを置いた。すぐにノートとテスト用紙を片付け、弁当を取り出す。野瀬も、自分の席にあった鞄から弁当を取ってきていた。

 野瀬は、椅子を用意しながら俺たちの成果物をちらりと見て、

「あたしもテスト勉強しないとなー」

 そう言い、がっくりと項垂れた。どうやら野瀬はこっち方面は不得手らしい。

「わたしたちの気が早すぎるだけだよ」

「でもなー。やっぱり、勉強はできないとダメでしょ。怒られる」

 誰にだ。いや、親や教師にか。

「明後日から部活も休みだろ。直前には土日もある。最悪、赤点を取らなければいいさ」

「いやー、うん、そうだねー」

 ……それすら危ないのか。

「なんかこう、わかんないとズルズルになって後までさー」

「あー、わかる。一度つまずくとね」

 たしかに、よく聞く話だな。何かがわからないと、その教科全体にまで苦手意識が波及するという。だが、

「それは違うんじゃないか?」

 そう言ったら、四つの目がこっちに向いた。

 正確には、そんな気がしただけだ。俯いておにぎりをかじっていたのでよくわからない。

「学校の勉強ってやつは、積み木みたいなもんだろ。土台がしっかりしてることを前提に積み上げられていく。土台がスカスカなら、そのうち崩れるだけだ」

「どゆこと?」

「加減乗除の関係がわかっていなければ式の変形はできない。元素記号や構成式を覚えていなければ化学式は理解できない。漢字が読めなければ現代文も古文も読めない。英単語や熟語を知らなければ英文は読めない。アクセントや発音がわからなければリスニングはできない。理解する時間が違うだけかもしれないのに、時間は誰にも等しく過ぎていく。置き去りにされていくうちにやる気が失われていく」

 最後には、自分が何者なのかわからなくなる。いや、これは俺だけの話か。

 何気なく顔を上げると、口を開けたままの顔が二つ、俺の方を向いていた。

「つまり、今頑張らないと後が全部ダメになるってことだ」

 息を吐いて、おにぎりを口に押し込む。

 陰鬱な気分を他人に押しつけてどうなる。それは、どうやっても俺の問題でしかないのに。というか、どうして勉強の話から人生の話にシフトさせた。

「『彼を知らずして己を知らば一たび勝ち一たび負く、彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず敗る』、だったか。印象的だったから覚えたはずなんだが、これで合ってたかな」

「何それ?」

 気分を変えるために故事成語を持ち出すと、野瀬が首をかしげた。

「孫子兵法ですね。自分のことだけ知っていると勝敗は五分五分で、相手のことも自分のことも知らなければ必ず負け戦になる。『敵を知り己を知れば百戦危うからず』に繋がるんでしたっけ」

 正解だ。やっぱり俺が勉強に付き合う必要はないんじゃないのか、木倉。

「野瀬も受験戦争を抜けてきたのなら、勉強において何が一番まずいかわかるだろ」

「うっ。何がわからないかわからない」

 学校のテストというのは、本来理解度を測るものだろう。つまり、何がわかって何がわかってないかを知るためのもののはず。それが、試験という言葉で逆転している気がする。検定試験とか資格試験とか、そういう言葉の方が世の中にあふれているせいだろうか。

「とりあえずは俺たちがやってることを明後日からやればいいだろ。それで何がわからないのかはわかる。対策の立てようもあるさ」

「はい。がんばります」

 野瀬が、笑顔で言った。

 ……棒読みで言われてもな。たしかに、イヤなことを二度やるのは俺もイヤだが。

「後悔先に立たずだぞ」

「それもわかってるんだけどねー。どうもねー」

 投げやりでも、わかっているというのならわかっているんだろう。それ以上責任は持てない。

「うちの部長みたいに、どっちもできればいいんだろうけど」

「うちの部長って、野球部の部長さん?」

「うん。あたしが見た映画のこと話したら、いろいろと考えてくれたし。いつも最後まで残って練習してるし」

「へー」

 それが成績の判断材料になるのかはわからないが、応用が利かせられるというのは頭がいいと言っていいだろう。

「みーはあんまり運動得意じゃないけど、天都賀も部長みたいなタイプじゃない?」

「……いや、普通だろ」

 俺は帰宅部で帰宅委員会だ。運動だって大して得意じゃなかったから、運動部に入るという選択肢を思い浮かべもしなかったんだ。

「謙遜するねえ」

 どうも、野瀬の中では既に「天都賀直人は万能である」という認識が固まっているらしい。そもそも俺は多分、団体行動に向いていないんだが。

「天都賀さんはいつも読書してますし、どちらかと言えば文学少年ですよね」

「ん? そうなの?」

「まあ、休み時間はいつも本を読んでるな。それで俺のことを勉強ができるって判断したのか?」

 そう言った俺は、怪訝な顔になっていたと思う。そんな俺に木倉は、当たり前のように微笑み返した。

「いいえ。天都賀さん、いつも授業が終わった後にノートを見直してるじゃないですか。わたし、後ろの方の席なのでそれがよく見えるんです」

「へー。みー、よく見てるんだね」

 たしかに、理解できたかざっと見直すようにはしている。それを見られていたことについては、なんと返せばいいのかわからないが。

「それにしても、文学少年か。それもそれでイメージとは違うなあ」

 野瀬はそう言って笑うが、俺にはまったくもって笑えない話だ。

『……人間、イメージ通りに生きなきゃならないわけでもないし、イメージが生き方と一致するわけでもないだろ』

 という返しは、口から出なかった。

 どう否定しようが、俺のキャラに合わないのは事実で。

 どう拒否しようが、他人から見えるキャラを否定するのは不可能。

 外側と内側の不一致は、誰しもが抱える潜在的な問題なのだから。

 とは言え。

「文学少年っていう呼称はどうかと思うな、俺も」

 俺は別に、本の虫ってわけでもないし。活字離れが進む現代、その現代人よりいくらか本を読んでいても読書家とは呼べないだろう。

「では、文学青年ですか?」

「……問題はそこじゃない」

「うん。あたしもそこじゃないと思う」

 いや、そこでもあるのかもしれないが。男子高校生が少年なのか青年なのかと問われれば、どちらでもない印象があるからな。

 ともかく、木倉美空の中では天都賀直人には文学的な要素があるらしい。純粋な表情で首をかしげている。

「ん、やば。あたし行くよ」

 焦ったようにそう言った野瀬の視線を追って時計を見ると、一時になっていた。時間に律儀なやつだ。

「がんばってね、ひーちゃん」

「おう。二人もね」

 にっかりと笑って、野瀬は教室の外に消えていった。

 何に時間を割くのか。何に情熱を傾けるのか。それは人それぞれだ。俺が野瀬を否定する権利も、否定できる理由もない。

 この先、野瀬に立ちはだかる問題があるとすれば……それこそあの身も蓋もない考えだ。高校生を続けられるかどうか。救済措置があっても、世の中には続けられない人が間々いるようだからな。もっとも、人生に何があるわからない以上、天都賀直人がつつがなく高校生を続けられ、終えられると言い切ることもできないが。

 食事も終わって野瀬もいなくなったため、話題は自然とテストの方にシフトする。

「ひーちゃん、勉強もがんばれますよね」

「どうだろうな。一位以外価値がないとは言わないが、全員が一〇〇点でも問題はないだろうに」

「全員が一〇〇点ですか……それはそれで少し問題があるような気もしてくるから不思議です」

 本当だ。なぜだろう。カンニングを疑うからだろうか。

 そういえば、日本史と世界史の答え合わせがまだだった。どうせ一〇〇点ではないだろうが、チェックはやらないと。

 ……ダメだ。思考が投げやりすぎる。あとは英語と国語関連。気合を入れ直していこう。


 十五時頃には、俺は見直しまで含めて一通り終わった。木倉は少し解くのが遅いのか慎重なのか、もう少しかかりそうだ。

 全体的に、昼過ぎに木倉と話した一〇〇点までは無理でも、なんの問題もなく八割はとれそうだ。日々の積み重ねの大切さを思い知らされる。

 木倉の邪魔をしないように、立ち上がってグラウンドの方を見……ようと思い腰を浮かせかけたのだが、方向を考えると廊下に出なければならない。そもそもこの高校の構造だと、今いる2号館からでは1号館に阻まれてグラウンドは見えない。図書館のある5号館からも、4号館に阻まれて――ちょうど、『!!』の形になっているわけだ――野球部の練習風景は見えないだろう。それに思い至って、立ち上がるのをやめた。

 代わりに、目を閉じて耳を凝らす。午前中には聞こえなかったピアノの音の向こうで、金属バットがボールを打つ音が聞こえ、怒号や歓声がそれに追随する。一際高い声が混じっているが、あれが野瀬だろうか。いや、他にもマネージャーはいるだろうし、他の部の女子もいるか。

 野球部の活動。日がな一日、白球を追う。一年は球拾いだろうから、比喩ではなくただの事実。

 大変だ。呆れや嘲笑ではなく、純粋に感嘆する。そこまでして手に入れたいものは、俺にはない。

 三年間の展望が全くない。結果的になかった人間は何人もいるだろうが、見通しも希望もなかった人間はそういないだろう。善悪を考えれば、白ではなく、黒でもなく、何かに染まることのできる透明でもない。こういうのは何色というのだろう。藁半紙のテストだけに立ち向かっているのだから、藁色だろうか。なんだそれは……笑えない。

「天都賀さん?」

 俺は輝きたいのだろうか? だが、もしそうだとしてもどうやって?

 わからない。自分のことのはずだろうに。

「天都賀さんっ!」

 叫び声で現実に引き戻された。至近距離からだったので耳鳴りがする。

「どうかしたか?」

「いえ、わたしはなにも。天都賀さんこそ大丈夫ですか? なんだか、よくないことを考えていたようでしたけど」

 見透かされている。やはり、木倉は鋭い。

 全面的によくないことではない。ただ、だからと言って当然、木倉に話すようなことでもない。

「一〇〇点は無理そうだなと思っただけだ」

 代わりに、他の「よくないこと」を言った。納得はしないだろうが、木倉の性格なら突っ込んで聞くのは無理だろう。

「……ほんとうにそうですか?」

 考えが甘かった。部分から人格を推測するのは間違いだと、自分で言ったのに。

 表情が読めるなら、そんなくだらないことを考えていたのではないことくらいわかるはずだ。

 思わず溜息を吐いてしまう。一度嘘を吐けば、いくらでも嘘を重ねなければならなくなる。これ以上嘘を重ねるのは無理だ。押し切ることはできるだろうが、やる気になれない。

 今考えると、代わりに出た言葉はある意味で真実だった。一〇〇点が無理というのは。

「本当だよ」

「いえ、もっと大切な――――」

 俺の言葉を否定して、木倉は押し黙った。さすがに、そこから先は何を考えていたのかわからなかったのだろう。もちろん、テストのことについて考えていたのも嘘ではない。しかし。

「誰もテストのことだとは言ってないだろ。人生に点数を付けるなら何点か考えてたんだ」

 そんなことを言えば、多くの人は呆れるだろう。人間八〇年の時代に、まだ五分の一しか生きていない子供が何を言っているのかと。実際、俺もそう思う。

 しかし、江戸時代では俺たちの年齢では既に一人前にならなければならなかったし、現代でも社会人になることができる。うちの市には農工商それぞれの高校もあるし、人生を考えるのに早すぎるということはない。人生の選択肢は、増える方よりも減る方がはるかに多いのだろうし。

「天都賀さんは」

 木倉は、そこで言葉を切った。ふるふると首を振り、俺の目をじっと見つめてくる。

「わたしは、天都賀さんの人生に点数を付けられません」

 当たり前だ。付けてもらって困るとは言わなくても、それをそのまま鵜呑みにすることはない。

「でも、わたしは天都賀さんが悪い人だとは思いません。わたしのことも助けてくれていますし、きっと、ひーちゃんが助けを求めても手を差し伸べてくれると思います」

「は?」

 なんだそれは。買いかぶりだ。俺はそこまで善人じゃないし、そんな義理を感じる人間でもない。

 ……いや。本当にそうだろうか?

 俺は、木倉に対して義理を感じた覚えはない。感じる理由もない。その上でのこの現状は、木倉の言の方が正しいのかもしれない。

 まあ、野瀬がなんの助けを求めてくるのかはわからないが、そのときには俺は木倉の言うとおり、助けることになるのだろう。それがどんな理由であっても。

「……木倉の言う通りかもしれないな」

 人は、自分を正しく見てもらうことができない。多くの折衝はそこから起こる。おそらく俺は、それを見て見ぬ振りをすることはできない。

 いつの間にか心は少し楽になっている。俺にもできることが見つかったからだろうか。

「ところで木倉。悪い人ではない人といい人は、イコールで繋がらないと思うんだが」

 心が楽になったからか、なんとなくそんな冗談を口にしていた。木倉はぱちぱちと瞬きをして、焦り始める。

「え? え、ええ、たしかにそうですけど、天都賀さんがいい人ではないというわけではなくてですね」

「そうか。女子の言ういい人って、都合のいい人かどうでもいい人らしいな」

「そ、そんなことないですよ!」

 真っ赤になって、木倉は腕を振り回す。

 なんとなく、野瀬が木倉のことを案じた理由がわかった気がした。あまりにも純粋すぎる。

「冗談だ」

「え?」

 そう言うと、木倉は目を見開いて固まる。

「冗談だったんですか? もう。天都賀さんはいじわるです」

 木倉は、いじけるように言って頬を膨らませたかと思ったら、すぐに笑顔に変わった。

 人間は、気が抜けると表情が緩むと言う。俺の内心の変化を木倉は感じ取ったのだろう。

「天都賀さんだけじゃありませんよ」

「何が?」

 言葉の意図がわからず聞き返すと、木倉は苦笑した。俺と同じようにグラウンドを見ようとし、窓から見えた外の風景に小さく息を吐く。

「わたしも、人生に点数を付けられません。天都賀さんが考え込んでいたのは、ひーちゃんが来てからですよね。わたしも同じです。頑張っているひーちゃんを見ると、わたしも何かしなくちゃいけないと感じますから」

 ああ、木倉もそうなのか。

 そうか。「異端であるのが自分一人だと感じるのは間違いだ」というのを忘れていたのだ、俺は。

 今は見えない野瀬の姿を窓の外に描いていたのだろう木倉は、頷きを一つして俺に顔を向けた。

「天都賀さんを見てもそう思うんですよ?」

 俺?

「俺は何もしてないぞ」

「いいえ。天都賀さんの考え方は、わたしには眩しかったです」

 考え方? お粗末な推理のことか? あんな、たまたま当たった推測が?

「わたしは、人のことを正しく見られているのかどうかなんて考えたこともありませんでしたから」

 なんだ、そのことか。

 それについては仕方がないだろう。相手を把握してから付き合いを始めることはできないし、そんなことをされたらたぶん、気持ち悪くてたまらない。人は秘密があるから上手く付き合えるのだと、どこかで聞いた覚えがある。

 だが、だから人を正しく見なくてもいいという話にはならないし、見てはいけないという話にもならない。木倉が思い至ったのは、きっとそういうことだろう。

「本当は、天都賀さんが一番遠くまで目を向けているのかもしれませんね。人の見方というのは一生のことですから」

「……そういう考え方もできるのか」

 なるほど。木倉は二週間後の中間テストを目標にしている。野瀬は高校三年間しか時間がない。

 だからって、それで俺の高校三年間がどうなるかは別の問題なんだが……。

 まずい。また気分が落ち込んできた。

「ところで、模擬試験は終わったか?」

「はい?」

 いきなりの話題替えに、木倉は首をかしげた。少し強引すぎたかと思ったが、そのまま話を続ける。

「だから、八教科終わったかって聞いたんだ」

 これ以上話したくないという俺の意図を感じ取ったのか、木倉からは頷きが返ってきた。

「はい、終わりました。さすがに疲れましたけど」

「そうだな。四日かけてやるのを一日でやるのは、やっぱり無理があったな」

 さすがにテストの時のような緊張感はなかったが、実力を測っているのは事実だ。気疲れしなかったと言えば嘘になる。体力的にも、少しばかりきつかった。

 しかし、ふとあることを思い出す。

「いや。よく考えれば、中学の時にも一日かけて実力テストをやったことはあったな」

「そうなんですか?」

「木倉は受けなかったか、統一模試」

 あれによって俺はこの高校に入れる可能性を判定されたわけだが、あのテスト群はたしか日曜一日を使って行われたはずだ。それも、全国的に。

 木倉も例外ではなかったらしく、思い出したように頷いた。

「まあ、今日血を吐いた分だけ楽できると考えるべきだ」

「そうですね」

 行きすぎた喩えだったが、木倉は否定しなかった。心の底で同じようなことは考えていたのかもしれない。その上であんな先の見通しを暗くするような話をして、これ以上疲れさせたくはない。

「今日はもう終わりにしよう。あまり根を詰めても仕方ない」

「はい」

 木倉の笑顔には、少し力がない気がした。その理由がテスト勉強からだけなのかは、俺にはわからない。

 勉強道具を片付けて鞄を持ち上げ、ふと思う。

「野球部に顔でも出していくか」

 なんとなく、野瀬をねぎらうべきかと思った。忙しい中でわざわざ顔を見せてくれたのだ。こっちからも顔を見せたところで罰は当たらないだろう。

「そうですね。そうしましょう」

 木倉も、特に異存はないらしい。

 昇降口で靴を履き替え、それぞれ特別教室棟である1号館と4号館の間を抜けてグラウンドへ。そこでは野球部員が白球を追っていた。そのさらに向こうでは、サッカー部や陸上部が練習を行っている。加えて、テニスコートやハンドボールのコートにもそれぞれの部員がいるようだ。明日までしか活動できないからだろうか。どこも動きが激しいように見える。

「ひーちゃん」

 ぼけっと運動部の活動を眺めていると、木倉が野瀬に声をかけていた。

 野球部には四人もマネージャーがいるらしい。四人共が振り返ったが、そのうちの一人が笑顔を浮かべる。

「あ、みー。それに天都賀」

 野瀬は他のマネージャーに頭を下げ、こっちに歩み寄ってくる。他の三人はじっと野瀬の方を見て、俺の視線で慌てたように首を戻す。睨んでいるように見えたのは気のせいだろうか?

「よう。悪いな、手ぶらで」

「あはは、何に気を遣ってんの?」

 そうだな。この大所帯で野瀬だけに土産を持ってくるわけにはいかないか。

「皆さん、頑張ってますね」

 木倉はそう言って、眩しそうに眼を細める。日差しだけが理由ではないだろう。

 野球部員は二〇人ほどだろうか。ノックやボール回しに遠投など、一通りの練習をこなしているようだ。時折声を掛け合い、何かを確認している。白球や白いユニフォームの人影と、グラウンドの土の色が強いコントラストを描いている。

 彼らは頑張っている……のだろうか。血を吐くまでやれと言うつもりはないが、よくわからない。

「ていうか、もう帰り? まだおやつの時間じゃん」

「ずっとテスト問題解いてたからね。さすがに疲れちゃったよ」

「あー。なるほどね。あたしにはそんな根性無いわ」

 テストの言葉が出た瞬間、他のマネージャーもまたこっちを見たような気がした。時期的に誰でも気になるか。

 というか、休みを丸々一日マネージャー業に充てている野瀬に根性がないとは、どうやっても思えないんだが。ともかく、テストの話題は現在タブーのようだ。

「夏の大会もあるし、テストだけにかまけてられないってのも本音なんだけどね」

「それは他の学校も同じだろ……たぶん」

「そうだよ」

 木倉は疑うことなくそう思っているようだが、俺にはよくわからない。常連校のその辺りがゆるいのかどうかはわからないが、偏差値が高いとされる高校が甲子園に出場してきていないというのもまた事実としてあるからだ。決してそういう高校が弱いというわけではないのだろうが、なんとなく疑問を持ってしまう。実際は、部員の実力の差なのだとしても。

 さて。

「そろそろ行こうか、木倉。邪魔になっても悪い」

 さっきから、ちらちらと他のマネージャーがこっちを見ている。その視線にどんな意図があるのか、彼女たちを知らない俺には読み取り切れない。

「そうですね。じゃあまたね、ひーちゃん」

「うん」

 木倉は頷いて手をかざす。野瀬はその手にタッチして、元いた場所に戻っていった。

 またしばらく、野球部の練習風景を眺める。眺め続けて、

「帰るか」

 自然と、そんな言葉が出た。

 木倉の返事は聞かなかった。そのまま、機械的に足を動かす。

「頑張ってましたね、野球部の皆さん」

「……そうだな」

 木倉がかけてくれた言葉に、生返事しかできなかった。理由はわからないが、俺は野球部の練習風景を見ても何も思わなかったのだ。

「木倉、これ」

 本当にどうでもよかったので、制服のポケットから付箋を取り出す。午前中、何気なく書いたものだ。

 3桁。ハイフン。4桁。木倉なら、言わなくてもそれが何かわかると思う。

「もしかして、天都賀さんの家の電話番号ですか?」

「ああ。もうやることもなさそうだったからな。明日わざわざ学校まで来る必要はないだろうと思って」

 答え合わせを覗いた感じでは、木倉は十分に自学自習ができている。下手をすれば俺よりも優秀なくらいだ。家でも問題なく机に向かえるだろう。

 それと、今日学校に来て思い出したのだが、土日は図書館が開いていない。今日一日利用することはなかったが、調べ物をすることになった場合には効率が悪い。

「そうですね」

 木倉は、どこか寂しそうに笑った。

「天都賀さんと勉強するの、楽しかったんですけど」

 楽しい? 会話も特になかった気がするが。

 でも、よく考えてみると俺はいつの間にか木倉を呼び捨てにしている。思ったより疲れていたことや野瀬の当初の態度に辟易していたのもあるだろうが、案外、俺にとっては気安い相手なのかもしれない。本当に嫌なら、黙っているのすら苦痛だろうしな。

「誰も楽しくなかったとは言ってないし、ムダだとも思ってない」

 駐輪場まで歩きながら、呟く。

「そう思ってるなら、休日にここまで来るわけないだろ」

 上手く言葉が出てこない。いろいろと推測していた時の方が、よほど上手く喋れている気がする。昨日もたしかこんな感じじゃなかったか。

 論理的じゃないんだろうな、いろいろと。

「ただな。何か勉強以外のことをしないと、それこそ人生の点数がテストとイコールになる」

 もっとも、テストの点数とイコールになったところで、満点はテストのそれとイコールではないだろう。

 どう考えたって上手い切り返しや言い訳でもなかったのだろうが、木倉はぽかんとした表情をしたあと、小さく笑った。

「天都賀さんの言うとおりですね」

 どうもさっきの俺の言い回しは、木倉にとって虚から出た実になったようだった。このまま普遍的な事実になってしまわないことを祈らなければならない。

「だからまあ、なんだ。野瀬にも言ったが時間はあるし、上限が見えてるならそう無理する必要もないだろ。明後日からだって会えないわけじゃない。全教科満点を取らなきゃならないのなら、もっと別の対策を打つ必要があるが」

 まさか、木倉の親も携帯の所持を満点と引き替えにしてはいないだろう。まともな親であれば社会情勢くらいわかっているはずだ。何か、交換条件が欲しかっただけなのかもしれない。

「さすがに満点を取れとまでは言われていないです。そうですね。理解できなかったところもわかりましたし、明日は自分でやってみます」

 気合を入れるように、木倉は胸の前で拳を握りしめた。癖なのだろうか。

「それでは天都賀さん。また月曜日に」

「ああ。またな」

 今日は国道まで行くことはなかった。校門を出てすぐ、私鉄の線路を越えたところで木倉は向きを変える。

 消えていく背中を見送って、俺も自転車にまたがる。しばらく進んで国道に出たところで、少し無碍にしすぎたかと後悔してしまった。


 風呂を出て部屋に戻ろうとしたところで、妹のまどかに呼び止められた。その手には電話の子機が握られている。

 相手が誰かはわかっている。いや、逆か。かけてくるだろうと予測していた。

 バスタオルを首にかけ、子機を受け取ってリビングに入る。なぜか、まどかも後をついてきた。ソファーに座ると隣に座られる。

 ……まあ、聞かれて困るような話はないはずだ。

 耳に当てる直前に通話時間を見ると、五分ほど過ぎていた。何を話していたのか聞く時間も無いし、聞いたところでまどかは口を割らないだろう。

「待たせて悪いな」

『こちらこそ突然すみません』

 思った通り、木倉だ。

『お時間、大丈夫ですか?』

「特に何があるわけでもないが、なんでだ?」

『いえ。天都賀さんは、二十一時からの二時間ドラマを見るだろうと思いまして』

 木倉はいったい俺をなんだと思っているのだろう。俺はミステリーマニアではない。

 とは言え、それとこれとは別に言われたとおりになるとは思うが。

『今日はありがとうございました』

「礼を言われるほどのことはしてない」

『そう言うだろうと思いました』

 電話の向こうから、小さな笑い声が聞こえた。どうも、俺の行動は木倉が想像できるレベルらしい。喜べばいいのか、悲しめばいいのか。

「むしろこっちが礼を言わないといけないな。テスト問題、役に立った。ありがとう」

『い、いいえ、そんな。それに、元々わたしのものではありませんし』

「それじゃあ、その先輩にも礼を言っておいてくれ」

『はい。伝えておきます』

 会話が途切れる。俺はそんなに口が回る方じゃないし、木倉も何を話せばいいのかわからないのだろう。学校でも、何か色のある話をした覚えがない。

 しばらくすると、電話の向こうから「ほう」と息を吐く音がした。

『本当に、今日はありがとうございました。ではまた、月曜日に学校で』

「ああ、お休み。……と、そうだ。今風邪を引いても本番までには治ると思うが、体調は万全にな」

『はい、気をつけます。天都賀さんも。お休みなさい』

 電話を切って、バスタオルを頭に被り直す。髪はまだ乾いていない。

 子機を戻すために立ち上がろうとしたところで、隣から盛大な溜息が吐かれた。おかげで、半分浮かせた腰を元に戻してしまう。

「女の子のことがわかってませんね、兄さん」

 溜息の主であるまどかは呆れたようにそう言ったが、当たり前だろう。俺は男なのだから。

「それを魅力と感じる女の子もいないではないでしょうけど。いえ、いませんかね。少なくともそんな人はゲテモノ好きですから、木倉さんのようにまともな人間ではないでしょうねえ」

「おまえは俺を貶めたいのか? それとも、期待させて突き落としたいのか?」

 大体どっちかはわかるし、その二つに大して違いはない。

 慇懃無礼。いや、無礼と言うより腹の中が真っ黒なのだ、うちの妹は。いつからこうだったのかはわからないが、少なくともこの数年は俺に対して隠そうともしていない。

 その妹様はじっとこっちを見つめ、口を開いた。

「まず、女の子は無駄なことが好きです」

 まず、と来た。つまり後がある。この話は聞かなければならないのだろうか。

 損得はともかく、聞かなければそれはそれで何か言われそうだし、一応聞く振りはしておこう。小指の先ほど役に立つかもしれない。

 ……俺も、大概無礼なのかもしれない。真面目に聞こう。

「話すことがなくても電話やメールをしますし、ウィンドウショッピングもするんです。兄さん、そういうことしませんよね」

「しないな。結果的にウィンドウショッピングになることはあっても、目的にはしない」

 よくまどかの買い物に付き合わされるが、まったくもって意味が見いだせない。

 なるほど。たしかに、女子は無駄が好きなのかもしれない。だから、同じような行動をする男子が好かれるのかもしれない。

 事実、この時間が一番無駄な気がする。天都賀まどかによるダメ兄改造計画は、おそらく成功しない。

「ですから、木倉さんともっとちゃんとたくさん話をしてください。話題はなんでもいいです」

 まどかは気づいているのだろうか。努力してそれをしろと言っている時点で、天都賀直人にはその能力がないと言っているのと同義であり、実際できないのだということに。

「兄さん。できないのとやらないのは同義ではないです」

「ぐ」

 考えていることを読まれたのか、それとも当てずっぽうなのか。

 いや、家族だからこその長い付き合いだ。俺がどんな人間かは嫌と言うほど知っているだろう。

「そもそも、私だって女の子です。話ができないわけではないでしょう」

「……そうだな」

 これを会話と呼ぶのなら、という前提が抜けているが。説教か?

 思えば、木倉とも同じようなやりとりだったかもしれない。特に、電話ではそうだっただろう。こっちの言葉足らずで、同じように気分を害していただろうか。話さなければ伝わらないし、それでもすべてが伝わるわけではないってことはわかっているはずなのに。

「まったく。明日も予定があるのなら、朝とお弁当を作ってあげようと思っていたのに。兄さんは空気が読めませんね、本当に」

「それはどうも。すみませんね」

 話の流れから、素直に感謝できない。棄却された予定なので、礼を言う義理もないのだろうが。

 ついでに、その行為が花嫁修業だろうと、家族愛の結果だろうと、毒を吐くためだろうと、俺にはあまり関係がない。

 あと、野瀬からは空気を読めるとの評をもらっているのだが、とツッコミどころが多すぎる。言いはしないが。

「話した感じだと、木倉さんも兄さんのことを悪く思ってないと思います。わざわざ電話をかけてきたんですから、あとは会って話をすればすぐにいい人間関係が築けると思いますよ」

 得意げな顔でまどかは言うが、それだけは違うと断言できる。ちなみに、いい人間関係というのは男女の仲のことに違いない。下世話な。

 というか。木倉さん「も」? 他には誰が……まあいいか。

「世の中には、人に迷惑をかけることを良しとしない人間もいるんだよ。そういう人間なら礼の一本くらい入れるだろ」

「私がそういう人間ではないという意味ですか、兄さん?」

 満面の笑顔でそう問われて、何を返せと言うのだろう。

 そういう意図がなかったと言えば嘘になる。ただ、そういう人間が多数派だと言えばそれこそ嘘だ。大抵が社交辞令や社会的義務として行っているのだから。

 ともかく、話を戻すことにする。

「悪くは思われていないというのなら、俺にも同意はできる。あいつはたぶん、人を嫌わない」

「いつもの推論ですか」

 まどかの言葉は短いが、呆れた様子はない。だから、こちらも真面目に返す。

「そこまで木倉のことは知らない。単純な感想だ」

 いや、感想にだってなにかしらの理由はある。第一印象に理由があるように。木倉が俺のことを「悪い人だと思わない」と感じたのと同じように。

 印象か。自分に対する印象を操作できるのなら、俺は明日も学校へ足を運んでいただろう。それすら考慮して俺の意志を否定しなかったのだとすれば、何がわかったところで俺にどうこうすることはできない。それでも、木倉がそんな風に頭を回すとはどうも思えない。

 ……やっぱり悪癖だな、人のいないところで人の分析をしようだなんて。それも、今考えたことは木倉を貶めるものばかりだ。悪い人だと言わないだけマシだというくらいか。

 こっちが苦虫を噛み潰したような顔をしていたのか、まどかは優しく笑った。

「私も同じ感想ですけどね。木倉さんは、本来なら一番女子に嫌われるタイプでしょう」

 女子に嫌われる? そんな馬鹿な。

「好かれてると思うぞ。いや、実際に好かれてる。当然のように俺が悪者にされるくらいには」

「兄さんのことはともかく、マスコットとしてではないですか?」

「マスコット……」

 返答に困る。野瀬を見ていてもそうは思わなかったが、そうだと言われればそうなのではないかと思えてしまうような性格を木倉美空はしている。というか、俺のことはどうでもいいのか。

 まどかは、何かを示すように指を振った。

「いい感じに謙虚で、いい感じに可愛く、いい感じに人当たりがいい。いわゆる、いい子ちゃんというやつです」

「いいだのいい感じだのがいくつも続いて、何がいいのかわからん」

「では、ぶりっ子とか、あざといとか」

「……そうか?」

 別にそんな印象は抱かなかったが。ぶりっ子というと、もっとこう……。

 いや、マンガじゃないんだ。自分のことを名前で呼んだりするやつはそういない。

「少なくとも、兄さんは木倉さんのことを嫌いではない。いえ、好意的でしょう。そういう男受けするタイプというのは、女子には嫌われるんですよ」

「それこそ下世話だろ」

「下世話ですよ。人間ですから。加えて、兄さんは女子を甘く見すぎです。たいていの子は腹黒いのに」

 元も子もないが、たしかに事実だ。ぐうの音も出ない。

 最後のは聞かなかったことにしておくとして。

「木倉さんが兄さんと勉強会をすることにした理由はなんだったんですか?」

「頭が良さそうに見えたからだとさ」

「ふーん。では、テストでいい点を取ろうとする理由は?」

 即答しようとして、それは木倉のプライバシーなのではないかと思い直す。

 だが、よくよく考えてみると別にプライバシーでもなかった。個人情報ではあるが。

「携帯を買ってもらえるんだと」

「携帯? あはははははは! 本気ですか!」

 まどかは、笑いながら腹を抱えていた。大爆笑するほどのことだったろうか。

 感情が落ち着くのを待って、疑問を口にする。

「何かおかしいか?」

「ええ、おかしいです。兄さんが話したこともない誰かと一緒に勉強しようとするなら、どんな理由で頼みます?」

 理由ねえ。そんなことはしたことないからわからないが、たとえば、

「そいつが飛び抜けて頭良かったとか」

「まだ二ヶ月ですよ? 他人の成績なんて把握してますか?」

 ああ、無いな。それを測るテストもまだだし、木倉だって勉強が「できそうだから」と言った。

 それ以外で何か理由があるとすれば、なんだろう。話のとっかかりとか、か?

 なるほど。単純なことか。

「仲良くなりたいから。いや、お近づきになりたいからと言った方がお気に召すのか?」

「はい」

 俺の皮肉に、まどかは過剰反応しなかった。実際、お気に召したのかもしれない。

「人間は打算的ですから。何かを返して欲しいから何かを与えるものですが、人間関係を構築する気のない相手には話しかけようと思いません」

 ……俺は、中三でその考え方ができるおまえに何を返したらいいんだ?

「兄さん、人当たり悪いですから。進んでお近づきになりたいと思わないでしょう。ですが、木倉さんの場合はそうではないようですね」

 どういう理由で何を推測しているんだ、俺の妹は。事実かもしれないと考えてしまう俺も俺なのかもしれないが……。

「あるいは、そういう人間性を超えた部分を木倉さんは見ているのかもしれませんけど」

「人間性を超えた部分ねえ」

 人間の本質のようなものだろうか。いや、何か違う。違わないのかもしれないが、まどかの言い方だと表層のことにしか聞こえない。

 それがわかっているのかいないのか、まどかは笑った。嘲笑とも不敵とも違っていながら、どちらともとれそうな笑顔で。

「なんて、そんな人間はいません。でもこれだけは言えます。いい人であるのといい人であろうとするのは、まったくもって別次元のことです。どちらがいいかと問われると、私はどちらも嫌ですけど」

 まどかはそれだけ言い残すと、立ち上がって部屋を出て行く。

 しばらくソファーに身を預けたままぼーっとし、時計の短針が9の位置を越えていたのを見て、テレビのリモコンに手を伸ばす。当然のように、ミステリードラマは始まっていた。

 朝からブラックな会話ばかりしている気がする。木倉や野瀬との話は多少なりとも実入りのある話だったが、まどかとの話は毒々しく意味深長だ。薬も過ぎれば毒となるとは言うが、明らかに致死量を超えている。

 本当に中三なのだろうか、うちの妹は。とは言いつつもまあ、俺が心配する必要性は皆無だ。あいつは今、なんの問題もなさすぎるほどに上手く中学三年女子をやっているのだから。

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