第10話 ラインハート卿は愉快に笑う
父の執務室。
そういえば昨日もここを訪れた。
俺を前にした父が何やら思案顔だ。
めったにこの部屋を訪れない俺が、すすんで訪ねてきたので不思議に思っているようだ。
これまで父は、不甲斐ない俺を見捨てず、いろいろと尽力してくれた。
腑抜けた俺を立ち直らせようと懸命だったのが痛いほど分かっていた。
それにもかかわらず、ずっと俺は殻に閉じこもったままだった。
もうこれ以上、立ち止まっているわけにはいかない。
前に進まなくては――。
軽く息を吸い込み、俺はこれまで言えなかった言葉を口に出した。
「父上、次の競技会に出場いたします」
俺の申し出が意外だったのか、一瞬の沈黙があったあと、父は奇妙な声をあげた。
「お、おおおぉぉぉ、そ、そうか? そうなのか! 儂はその言葉をずっと待っておったぞ! さっそく明日にでも手続きしておこう」
父は驚きつつも、カッカッカッと豪快に笑った。
大げさなほどに喜んでくれているのを見て、俺はほっとした。
「それから、近いうちに練兵場の公開訓練に参加してみようかと思います」
「そ、そうか? ついに顔を出してみる気になったか!? いいだろう。お前の準備が整ったなら、声を掛けてくれ。儂の方から騎士団長へ話を通しておこう」
近衛騎士団の公開訓練は、普通ならばなかなか参加できるものではない。
だが、父は近衛騎士団の要職についている。そのうえ、団長とは旧知の間柄。
参加枠一つ空けるのはわりと容易だ。
「はい、ご厚情痛み入ります」
父がどこかほっとしたような表情を浮かべたのをみて、俺もうれしくなった。
「だがな、彼奴がまた出てくる。心してかかれ。決して油断するでないぞ」
「アヤツ……とは?」
父が忌々(いまいま)しそうに口にしたのは、前回の競技会で俺を打ち負かした男、辺境伯家の嫡男アルマン・ナウリッツの名だった。
「ですが、彼の者は、前回合格し、すでに騎士団に入団しているのではないですか?」
「それはちがうぞ。彼奴の素行が悪いのは知っておろう?」
どうやら、アルマンは騎士団入りの資格を取り消されたらしい。
詳細は分からないが、競技会で優勝したあとで、何か揉め事を起こしたという。
ということは、次回の競技会で再び相まみえることになるのか……。
知らなかった。そんなことになっていたとは……。
「ライナーよ。俗なことに惑わされず己の信じる道をゆくというのは、それはそれでお前の好ましいところではある。だがな、情勢判断も大事であるぞ。世情にもなるべく気を配れ」
「はい、ご忠告ありがたく存じます」
父の言葉はもっともだ。
俺は周りが見えていなかった。
騎士の家に生まれついたのだから、もっと政などにも目を配るべきだった。
「しかしな、お前、急にどうしたのだ? 昨日までは頑なに競技会出場を拒んでいたのに……」
「ちょっとした心境の変化がありまして――前を向けるようになったのだと思います。いままで迷惑をおかけしました」
俺はさんざん心配をかけたことを詫びた。
「そんなことはいいのだ。そういえば、随分とマシな面構えになったな、お前。何かいいことでもあったか? ああ、女か?」
「い、いえ、特にそういうわけでは……」
エリスにも勘繰られてしまっている。
俺はそんなに気分が顔に出やすいのだろうか?
剣士としては好ましくない。少し気をつけなければいけないと思う。
「そうか、まあ、何でもいい。お前が立ち直ってくれるなら、それでいい。儂はお前を誇りに思うぞ。昨日も言ったと思うが、おまえの剣技は一流なのだ」
「はい、ありがとうございます」
「儂を含め、多くの者がお前に期待しているぞ」
過剰な期待は困るのだが、とにかく、もう一度この腕で二刀を振るってみようと思う。
「はっ、ご期待に添えるよう精進します」
そう返答すると、父は満足そうな表情を浮かべた。
が、しばらくして、父は何か思い出したのか、一転して神妙な面持ちとなる。
「ああ、そうそう、ところでな……ライナーよ」
「は、はい?」
「このまま夕食の席に着いて杯をあげたいところなのだが、そうもいかぬ。保留になっていた例の件なのだが……」
「例の件……ですか?」
「お前の婚約のことだ。忘れていたのか?」
おお、いままですっかり忘れていた。
実は半年くらい前に縁談話が持ち上がり、俺は結婚の約束を交わしていた。
だが、本日、先方から書面が届いたそうだ。
正式に婚約が解消されたらしい。要するに俺は振られたのだ。
いうまでもなく、婚約解消の原因は、先の競技会での無残な敗北とその後の俺の凋落ぶりにある。
まあ、この話がどう決着するかは事前に予想できていた。
べつに驚いてはいない……。
相手は近衛騎士団長の遠縁。有力貴族のご令嬢。
少しだけ顔を合わせたことがある。
あまりはっきりとは覚えていないが、俺にはもったいないくらいの美人だった気がする。
それに家格はこちらよりもずっと上。またとない良縁のはずだった。
けれど、いまとなっては、そんなことはどうでもいい。
どちらかといえば、団長と父が勝手に盛り上がっていただけだ。
「わかりました」
「お、おう。そうか、ずいぶんとあっさりしたものだな。動揺はないのか?」
「ええ、特には……もともと俺には不釣り合いなほど高貴なお相手でしたから」
「そういうものか……」
俺は退室しようと、父に一礼する。
すると――
「ああ、それとな、ライナー。大事なことを言い忘れた」
「はい、なんでしょうか」
「やっぱり女か?」
「はっ? えっ?」
父が何を言っているのかすぐには分からなかった。
「つまりだな。婚約が解消され、お前はこれからある程度その方面では自由がきく。だから、女には気をつけろよ」
「は、はぁ」
「家令の話では、お前は屋敷のメイドたちにそこそこ人気があるそうだ。身を持ち崩すことのないようにしっかり頼むぞ」
見当外れな心配のような気もする。
だが、せっかくの忠告なので、ありがたく受け取ることにした。
「はい、肝に銘じておきます。それでは、夕食の席でお待ちしています。エリスの話では、今晩は父上の好物らしいですよ」
「ほう、それは楽しみだな」
父の執務室をあとにした俺は、身なりを少し整えようと自室に戻ろうとしていた。
その途中、廊下でまたしてもメイドのエリスと行き会う。
偶然だろうか?
俺の行動が読まれているような気がしないでもない。
「あ、あのな、エリス。さっきのお土産――黄色い花の件だが、」
「ふふ、そのような些事はもう割とどうでもいいのです」
どうでもいいとは……どういうことか?
エリスがにこやかに笑っている。
「それよりもライナー様! この度はご婚約が解消されましたようで、おめで――ゴホッ、ゴホン、お気の毒さまにございます」
いま「おめでとう」とか言いかけなかったか?
それに――
「なぜそれを知っているのだ? 随分と耳が早いな。当の本人がたった今聞いたばかりだというのに……」
「はい、全国に巡らされたメイドの情報網はすごいのでございます!」
「そ、そうか」
なんだろうか……
そのメイドの情報網とやら、とても恐ろし気な印象を受ける。
「ライナー様に相応しい女は、ほかにいくらでもおります。どうか気を落とさずに……」
「あ、ああ。まあ、別に気になどしていない。だが、こころ遣いありがとう」
「最大の敵が消えてくれてエリスは嬉しく思いますよ。ふふふ」
敵ってなんだ?
訝しがる俺をよそに、エリスは一礼して去る。
そして、廊下のつきあたりを曲がるあたりで、なぜかガッツポーズをしているのが見えた。




