幕末期福岡藩に於ける天誅事件について~天誅斬奸くそたわけ~
幕末はテロルの季節でもあった。
もはや刀が時代遅れの代物になったというのに、その刀が最後の輝きを放ったというのは、常々皮肉だと思っている。
さて、この時期の京都や江戸では天誅の嵐が吹き荒れたが、当然と言うべきか国政に積極介入していた福岡藩にも凶刃の一颯に晒されている。
福岡藩に於ける天誅第一号は、元治元年3月24日に起きた牧市内暗殺事件である。
牧は宗旨奉行であったが、撫育方(借財整理担当官)として活躍した財政テクノクラート。大坂では 鴻池・広岡と交渉して銀四千貫の借り入れに成功。更に藩内の通用金である筑前通宝を鋳造し、これを成功させている。また、彼の力量は財政だけでなく佐幕派の勤王派抑え込みにも発揮され、幕末期前半の佐幕派優勢の状況は、彼によるところもあったと思われる。
そんな牧が、元治元年3月24日の早朝、百道海岸への潮干狩りの帰り道に、今の地行の麦畑で襲われた。下手人は吉田太郎と中原出羽守(松田五六郎)。二人は突然斬りかかって殺害。その後黒門に斬奸状を貼りだし、現在の糸島方面から対馬領へ逃走している。
天誅の理由は、大奸賊だからという曖昧なものだった。
なお、吉田太郎は長州へと逃れ、禁門の変に参戦したのちに、薩摩藩の撃剣師範となっている。根っからの剣客だったのだろう。中原出羽守は、禁門の変に敗れたのち真木和泉と共に自刃している。
次に天誅第二号は同年7月20日、博多の米穀商である原惣右衛門が「奸商だから」という理由で、武士十余名に踏み込まれた上に、黒門に梟首されている。
更に天誅第三号は、喜多岡勇平。彼は勤王派でありながら佐幕派に変節したとして、慶応元年6月24日に深夜に伊丹真一郎ら勤王派に襲われて惨殺された。この暗殺については、隣家に住んでいた野村望東尼が当時の様子を書き残していて、かなりリアルに現在に伝わっている。
暗殺の真相は、伊丹が頑なに口を割らなかったので、今もって謎。確かに、勇平は上述した牧市内に引き立てられた人間だった。しかし、それは才能が豊かだっただけで、それが佐幕派との繋がる証拠にはならない。また、かの野村望東尼は彼を「心正しき勤王の志士」とまで評している。
勇平が、牧に目を付けられるほど有能だったのは確か。筑前・長州の世子会談を実現させ、何度も福岡藩を代表して政治交渉をしている。しかし、才能ゆえか性格に難があったようで、父親に「その性格では、いずれ犬死するぞ」言われていたそうだ。
変節か? 私怨か? それはわからないが、望東尼が聞いたという下手人の「こん畜生、畜生が」という声。僕はどうしても私怨ではないかと思ってならない。
最後になる天誅第四号は、慶応2年9月の太宰府で起きた。
写真屋を営む利右衛門が、夜間に来客があり、外に出た所で斬り殺された。
斬った理由は、「異国の奇術で衆をまどわし、神州の俗を乱した」のだそうだ。
以上の4件が、福岡藩で僕が知っている限りの天誅事件である。
僕が牧と喜多岡が好きだからかもしれないが、勤王派のテロルの理不尽なこと極まりない。
藩内を乱す勤王派の蛮行が、藩主・黒田長溥の心象を悪くしたのか、最終的には勤王派を尽く処刑するに至る、乙丑の獄へと繋がったのだろうと思う。
福岡では、兎角勤王派(筑前勤王党)だけが持ち上げられる。
しかし、そんな彼らにも触れられたくない暗部があり、福岡にもテロルの風が吹いたのだという事は覚えておく必要はあるだろう。
参考文献
新訂黒田家譜
物語福岡藩史/安川巌
筑前西郡史/由比章祐
悲劇の藩主黒田長溥/柳猛直
加藤司書の周辺―筑前藩・乙丑の獄始末/成松正隆
福岡地方史研究 とか色々