悪役令嬢の執事様 1/3
「シリルさんに婚約を申し込んだというのは本当なのですか!?」
リンドベル子爵家のお屋敷。
両親をまえに声を荒らげたのは、知らぬ間に婚約を打診されたアリシアである。その剣幕に子爵夫人は戸惑いの表情を浮かべる。だが、視線の先にいる子爵は落ち着いた口調で話し始めた。
「彼は平民だが、侯爵令嬢の覚えもめでたく、王族にすら目を掛けられている。将来有望なのは間違いないが、いまならこちらの方が身分は上だ。婚約を打診することに問題はないと判断した」
「そうではなくて、婚約を打診した理由を訊いているんです!」
「アリシア、さっきからなにをそんなに怒っているのだ? おまえはあの執事に密かな想いを寄せていたのであろう? この婚約を喜ぶと思ったのだが……」
リンドベル子爵がその顔に浮かべるのは困惑。決して、自分の意に沿わぬ反応を見せる娘に対する苛立ちなどではない。
それは彼が子爵家の利益だけではなく、娘のことを思っているからこそに他ならない。
そして――
「アリシア、貴方は彼のことが好きじゃなかったの?」
母親に優しく問い掛けられ、アリシアはなにも言えなくなってしまった。こうして会話は途切れ、アリシアは両親のいる部屋を退出、とぼとぼと重い足取りで自分の部屋へと戻った。
そうしてベッドの上で膝を抱える。
「……アリシアお嬢様、どうしてそのように落ち込んでいらっしゃるのですか?」
問い掛けたのは、彼女に仕えるメイドのメリッサだ。彼女はアリシアがシリルに想いを寄せていることを知っていた。だからこそ、彼女がこんな風に落ち込むとは思っていなかった。
「シリルさんへの想いが冷めたのですか?」
メリッサの問い掛けに、膝を抱えたアリシアはぶんぶんと首を横に振る。
「では、断られると思っているのですか……?」
続けられた問い掛けに、アリシアは長い沈黙の末に一度だけ首肯した。
「お嬢様らしくもない。少し弱気なのではありませんか? おそらくソフィア様のことを意識しているのだと思いますが、彼女とシリルさんではさすがに身分が違いすぎます」
「そう、ね。身分差を考えれば私の方がずっと有利よ。でも、知ってる……? シリルさんはどんな不可能だって可能にしてきたのよ。それに、ソフィアさんも……」
派閥争いや、死病を患ったフォルの救済。
そして、他国の王族に仕掛けられた罠の回避。
どれか一つだって、アリシアには無理なことだ。
それをあの二人はこともなげに成し遂げた。本当は大変だったのかも知れないけれど、二人はそんな苦労を少しも見せなかった。アリシアにとって二人は憧れの存在だ。
アリシアはずっと側で見ていたから知っている。
あの二人が誰よりも惹かれあっていることを。
二人のあいだに、自分が割って入る隙間なんてないということを。
本当はずっと知っていた。知っていたからこそ、好意は口にしながら、決定的な言葉は口にしなかった。口にした瞬間、いまの関係が終わってしまうと分かっていたから。
なのに、父が決定的な言葉――婚約の打診をしてしまった。
「アリシアお嬢様の胸中はお察しします。ですが、頃合いだったのではありませんか?」
「頃合い? どういうこと?」
「シリルさんの活躍を考えれば、他にも打診があってもおかしくはありません。だとすれば、アリシアお嬢様の件がなくとも、あのお二人は動かれるでしょう」
「そう、かもしれないわね」
婚約を打診しなければ、振られることすらせずにすべてが終わってしまったかもしれない。そう指摘されたアリシアは唇を固く結び、せめて後悔のないようにと顔を上げた。
翌日。
覚悟を決めたとはいえ、学業をおろそかには出来ない。学園に登校したアリシアは悶々とした想いを抱いたまま授業を受ける。そうして放課後になり、生徒会の時間がやってきた。
だがアリシアは生徒会室に直行せず、中庭へと足を運んだ。
約束があった訳じゃない。
だけど、予感があった。
そしてその予感の通り、アリシアはその中庭でシリルと出くわした。
「シリル、さん……」
「アリシアお嬢様、少しお時間よろしいでしょうか?」
「……はい。いえ、ダメです!」
とっさに捲し立てる。それにはさしものシリルも目を丸くした。そうして、シリルを驚かせたことに少しだけ満足しながら、アリシアは胸の前でぎゅっと拳を握り締めた。
「シリルさんが話すまえに、私の話を聞いてください」
「……かしこまりました」
シリルは既になんの話か分かっているのだろう。アリシアが怖じ気づきそうになって視線を彷徨わせるけれど、シリルは穏やかにたたずんでいる。
それをみてアリシアも勇気を振り絞った。
「――好きです。私はシリルさんが好きです。友達としてだけじゃなくて、その……異性としてお慕いしています。だから、どうかっ、私のことも見てください!」
付き合って欲しい――ではなく、見て欲しい。迂遠な言い回しで条件を緩和する。そうすることで、シリルが断れなくなると思ったからだ。
だけど――
「身に余る光栄です。……ですが、申し訳ありません」
シリルが口にしたのは他に解釈のしようがない拒絶の言葉だった。言葉に詰まるアリシアに対し、シリルは静かな口調で続ける。
「先日、私のもとに婚約の打診がいくつかございました。まだ非公式ではありますが、そのうちの一つをお受けすることになりましたので、アリシアお嬢様の想いには……応えられません」
きっぱりとした言葉。それでもわずかに言い淀んだのは、アリシアを気遣ってのことだろう。それが分かるからこそ、アリシアは胸が苦しくなって下を向いた。
「その婚約の相手は……ソフィアさんですか?」
「それは……」
「決してっ、決して口外しないと誓います。だから、教えてください!」
「……そうです」
そのとき、アリシアの胸中を支配したのは複雑な感情だった。
想い合う二人が結ばれてよかったと安堵する。そして、身分差がこれだけ開いていても結ばれることが出来るのなら、行動すれば自分にもチャンスはあったはずだと悔やむ。
「もし……もしも……」
そんな言葉が脳裏をよぎり、だけどアリシアはそれを飲み込んだ。そうして唇を噛むアリシアをまえに、シリルが「そうですね……」と応じた。
「最初に出会っていたのが貴方だったとしても結果は変わらなかった……とは申しません。ですが、もしもう一度生まれ変わったとしても、私の答えは変わらないと思います」
アリシアが思い浮かべたのは、もしもソフィアがいなければ――だった。だが、シリルが答えたのは、先にアリシアが出会っていれば――という趣旨の質問に対する答え。
もしも思ったことを口にしていたら、アリシアは一瞬でも友人の消滅を願った自分を許せなくなっていただろう。シリルがその疑問を前提に答えていても同じことだ。
シリルはきっと、そんなアリシアの胸中すら見透かして答えた。
だから、アリシアは羞恥や安堵、複雑な感情を抱いて下を向いた。それから、シリルはやっぱりすごいと感心して、自分が彼を好きになったことは間違っていなかったと確信した。
「答えてくれて、ありがとうございます。……二人の幸せを、心から願っています」
精一杯の気力を振り絞ってそう口にする。
シリルは軽く目を見張り、それからわずかに目を細めた。
「――ありがとう、アリシア」
執事ではなく、友人としての答え。アリシアが呆気にとられているあいだに、シリルは態度をあらためると、「それでは、私はこれで」と踵を返した。
アリシアはそんな彼の背中に手を伸ばして、だけどそれを反対の手で押さえ込んだ。そうして、シリルが立ち去ると同時、アリシアはその場に泣き崩れた。
◆◆◆
アリシアと別れ、廊下に戻るとソフィアお嬢様が待ち構えていた。
彼女は少しだけ複雑そうな顔で俺を出迎えた。
「……シリル、わたくしのお友達を泣かせましたね?」
「言い訳はいたしません。ですが……他に方法はありませんでした」
アリシアはソフィアお嬢様の友人で、俺にとっても大切な友達だ。俺への想いを胸に秘めながらも、ソフィアお嬢様を助けるようにと俺に進言してきたことすらある。
彼女が困っているのなら、どんなことをしても力になりたいと思う。
でも、いま彼女が苦しんでいるのは俺への想いがあるからだ。だけど俺はその想いに答えることは出来ない。それを曖昧にして期待させるのは彼女を傷付けるだけだ。
だから、いまの俺には正直に答えることしか出来なかった。
「そう、ですね。彼女を泣かせたのはわたくしも同じです」
ソフィアお嬢様がわずかに下を向く。
この世界の常識で考えれば、俺とソフィアお嬢様がその気になれば、アリシアを第二夫人にすることも不可能ではない。それでも、俺達はその方法を選択肢に入れなかった。
だから、アリシアを泣かせたのはソフィアお嬢様も同じ、という意味だろう。
その上で、ソフィアお嬢様がぽつりと呟く。
「彼女と、これからも友達でいられるでしょうか?」――と。
俺はとっさに答えることが出来なかった。
アリシアは‘自分も’見て欲しいと言った。‘自分だけを’ではなく、‘自分を’ですらない。二番目でもかまわないという彼女の望みを、俺達は拒絶した。
それなのに、友達ではいて欲しいと願うのはワガママだろう。
「彼女に友達でいて欲しいと強いることは出来ません」
「そう、ですよね……」
「――ですが、友達でいてもらえるようには努力することは可能です。私とソフィアお嬢様の二人で、アリシアさんに友達でいてもらえるように努力いたしましょう」
「はい! シリルとわたくし、二人一緒にがんばりましょう!」