ファンディスクの海 1
第一王子の誕生パーティーが終わってから一週間ほどが過ぎた。そんなある日の今日は、いつもの役員メンバーが生徒会室に集合することになっている。
既に集まっているのはソフィアお嬢様、それにアリシアとアルフォース殿下の三人。あとは同じ生徒会メンバーである俺を含めた使用人が若干名、つまりは気心が知れたメンバーである。
だが、別の見方をすると途端に緊張感が増す。
ソフィアお嬢様と、その親公認の婚約者候補となった俺。
それに、抱いている好意を隠すことなく俺に示し、ついには親を通して俺に婚約を打診した子爵令嬢のアリシアと、ソフィアお嬢様に惚れているこの国の第二王子。
つまりは四角関係である。
政略結婚と恋心が絡み合った微妙な関係。
だが、アリシアは原作よりもずっと成長していてしたたかだし、アルフォース殿下も原作同様に立派な王子になりつつある。その内心を曝け出して空気を悪くするようなことはない。
ゆえに、表面上は普通だ。
だが――いや、だからこそと言うべきだろうか? 誰もが言葉を選んでいて、それがゆえに空気が張り詰めてしまっている。彼らの押し殺した内心を読み取れる者にとっては、この場の空気は耐え難いものがある。そして非常に残念なことに、彼らの内心を推し量れないような使用人はこの場に一人もいない。
そんな訳で――
「ソフィア様」
アリシアがソフィアお嬢様に呼びかけた。なんてことのない口調で、アリシアの顔には穏やかな笑顔すら浮かんでいる。だが、俺を含めた使用人達が一斉に身をこわばらせる。
そんな中、アリシアが穏やかな口調で続けた。
「えっと、きょ、今日は良い天気ですね」――と。
今日“は”良い天気。
貴族はその言葉に二重三重に意味を含ませることも珍しくない。そこを読み違えると、後でとんでもない失態を晒すことも珍しくない。
ゆえに、答える方にも慎重さが問われることとなる。
たとえば――ここでアリシアの言葉に同意する。
次の瞬間『あら、貴方もそう思いますか? 私も、今日は良い天気だけど、明日は血の雨が降ると思ったんですよ』などと、思ってもないことに同意したことにさせられてしまう。
なんてケースがないとも言えない。
だが、安易に否定も出来ない。
ここで、そのようなことはないと思いますと否定する。
次の瞬間『あら、やはり天気がよいのは見せかけだけ。シリルさんとの婚約も見せかけだと貴方も思うのですね』などと、思ってもないことに同意したことにさせられてしまう。
なんてケースだってないとも言えない。
もちろん、アリシアにそのつもりはないだろう。
だが、揚げ足を取るのがアリシアだけとは限らない。そして口に出さずとも、この場にいる使用人の誰かが、さきほど上げたような意味だと誤解する可能性も零ではない。
貴族の世界はとても面倒くさくて、とてもとても怖いのである。
むろん、おそらくは考えすぎだろう。だが、どこに地雷があるか分からない。天気が良いと同意するだけで、予期せぬ対立を生むかもしれない可能性は否定できない。
それほどに、この場は妙な緊張感に包まれている。
結果――
「アリシアさんは良い天気がお好きなのですか?」
ソフィアお嬢様が口にしたのは、答えをはぐらかして質問を返すという手法。これによってソフィアお嬢様は難を逃れたが、今度は逆にアリシアが同じ危機にさらされる。
自分の主が失言をしないか、彼女の専属メイドであるメリッサが青ざめた。
しかし、アリシアもこの一年ほどで大きく成長した。
自分で対処できないような問題は対処が可能な者に振る。むろん、処理能力を疑われることにもなりかねないが、自分の能力を把握した潔い手法。
つまりは――
「シ、シリルさんはどう思いますか?」――と。
って、俺かよ!
表面上は天気のこと――で、たぶんその裏もなくてただ天気のこと。だが、ソフィアお嬢様の婚約者候補が俺で、アリシアは俺に婚約を打診している現状を示唆してるように見える。
この状況で俺に振るとか最悪だよ!
ぐぬぅ……絶対、アリシアはただこの空気をなんとかしたくて天気の話をしただけだ。それが分かっていても、下手な返答はいらぬ誤解を生みかねない。
だが、俺はソフィアお嬢様の専属執事であり、彼女の婚約者候補だ。
それも、ただの政略結婚などではない。ソフィアお嬢様が望み、そして俺もまた彼女の婚約者でありたいと願った。そんな立場を失うような発言は決して出来ない。
そのうえで、この場を修羅場に陥らせない、そんな決断が必要だ。
「……天気といえば、みなさんご存じですか? フレイムフィールドはちょうどこの時期、海で泳げるほどに暖かい気候だそうですよ」
奥の手の一つ、思い切って話題を変える――である。
またよけいな誤解を生まぬよう、言い回しや話題にも細心の注意を払った。
「え、そうなのですか?」
ソフィアお嬢様が一番に興味を示した。それに続いて、アリシアやアルフォース殿下が身を乗り出して興味がある素振りを見せる、露骨なまでの食いつきである。
みんな、この空気をなんとかしたいと思っているのだろう。
もっとも、ソフィアお嬢様は本当に興味があるのだろう。生徒会で合宿をおこなったとき、海で泳いでみたいと言っていたからな。
なんて思っていたら、ソフィアお嬢様がちらりと俺と目を合わせて微笑んだ。覚えていてくれたのですね――と、その目が語っているような気がした。
俺も無言で微笑み返し、それからみんなに向かってフレイムフィールドの話題を再開する。
フレイムフィールド国。
先日留学してきたハロルド皇子殿下とシャルロッテ皇女殿下の国。
魔術先進国である反面、一般的な技術は少し遅れている。魔術よりも一般的な技術の方が発展しているエフェニア国にとって、有益な交易が出来る友好国である。
ちなみに、魔導飛行船の定期便が王都を繋いでおり、それに乗ることが出来れば数日で行き来することが出来る。定期便は月に一度で、よほどの身分でなければ使えない、という問題もあるが。
そんなフレイムフィールドだが、気候がエフェニアとまったく違う。その名称からも分かるとおり、非常に温暖な土地となっている。
「――という訳で、フレイムフィールド国では今頃、海辺で泳ぐ人もいるそうですよ」
「以前シリルが言っていた水着だよね? だけどそれは平民の話だろう?」
アルフォース殿下が首を傾げた。それに対して俺は「この国の貴族は肌を晒すことをあまり良しとしませんからね」と同意しつつ「ですが――」と続けた。
「フレイムフィールドはさきほど申したとおり、一年を通してとても暖かい気候なんです。だから、彼らの正装は比較的露出が高めなので、水着にも抵抗がありません」
「あぁ……そういえばハロルド殿下やシャルロッテ殿下もかなり……薄着だったね」
アルフォース殿下がわずかに視線を彷徨わせた。
薄着という表現は、かなり言葉を選んだ結果なのだろう。この国の貴族にとっては、ハレンチという言葉が出てきてもおかしくはない。
この国はずいぶんと涼しいので、二人は普段より厚着気味、だったはずなんだけどな。
なんてことを話していると、ちょうどそこへフォル先輩が姿を現した。彼女は俺達の世間話を聞きながら自分の席の前に立って――
「という訳で、合宿をしましょう!」
唐突なことを言いだした。
「合宿……ですか?」
ソフィアお嬢様がみなを代表するように質問を返す。
「そうよ。シリルがソフィアの婚約者候補になって、アリシアは親が貴方とシリルの婚約をローゼンベルク家に打診して、アルだって片思い継続中っぽいし、みんなギクシャクしてるでしょ?」
この人、全部ぶちまけた! みんなが口に出せなくて、物凄くピリピリした空気の中で言葉を選んでいたのに全部ぶちまけた。さすがすぎる。
無論、驚いているのは俺だけじゃなく、その場にいた全員が言葉を失っている。
「なによ、驚いた顔をして。あなた達、みんな同じ情報を持っているでしょ? なのに、相手を気遣ってその話題に触れないようにして、その結果がピリピリした空気、逆効果でしょ」
今度は別の意味でみんな黙り込んだ。
結局のところ、フォル先輩の言葉が正しいと気付いたからだ。
少なくとも、俺は全員の想いに気付いていた。多少の違いはあれど、ソフィアお嬢様もアリシアも、そしておそらくはアルフォース殿下も、誰が誰を想っているか気付いていたはずだ。
それが婚約の打診などで可視化されただけ。
「……たしかに、フォル先輩のおっしゃる通りですね。ご存じの通り、シリルはわたくしの婚約者候補となりましたが、わたくしはみなさんと疎遠になることを望んではいません」
最初にそう切り出したのはソフィアお嬢様だ。
そして俺は、その言葉に感動を覚えた。
ソフィアお嬢様はこう言ったのだ。アルフォース殿下やアリシアの気持ちは知っている。シリルが自分の婚約者候補になったが、それに遠慮する必要はない、と。
ある意味では、弱気だと取られてもおかしくはない。人によっては、俺が婚約者候補であることを重要視していないと取ることもあるだろう。
だけど違う。
ソフィアお嬢様は俺を婚約者候補にするために並々ならぬ努力をしてきた。
だから、お嬢様が俺との関係をどれだけ大切にしているのか良く知っている。お嬢様はそのうえで、友人達との関係も大切にしたいと、そう望んでいるのだ。
俺がアリシアと踊っただけで闇堕ちしそうになったお嬢様が、である。
お嬢様、成長したなぁ……と、いつかも思ったことを改めて思う。そして俺が感動しているあいだにも、アリシアとアルフォース殿下がソフィアお嬢様に続く。
それから、全員の視線が俺に集まった。
「私も同意見です。みなさんとの友情も大切にしたいと、心から思っております」
友情を――ではなく、友情も。
なにが一番なのかを間違えるつもりはないが、いまの言葉も偽らざる本心だ。
そうしてみなが頷きあったところで、
「そういう訳で合宿をしましょう」
――と、フォル先輩が繰り返す。
みなが一斉に、そういう訳ってどういう訳? と言いたげに首を傾げる。
「だから、今のままだとなんだかんだで気を使うでしょ? それを乗り越えるために、みんなで合宿をするのよ。あなた達がさっき言ってたフレイムフィールド国へ泳ぎに行くわよ!」
それは、フォル先輩が泳ぎたいだけなのでは? とは、誰も突っ込まなかった。