戯曲 光と闇のエスプレッシーヴォ 後編 6
「どうしてフォル先輩が来ないんですか?」
本番を目前に控えた舞台裏には、フォルを除いたすべての生徒会メンバーが集まっている。
その状況下でソフィアお嬢様が疑問を口にするが、それに答える者はいない。それは誰もが共有する疑問で、誰一人としてその答えを持っていないからだ。
――いや、違う。
誰もが一つの可能性を思い浮かべているからこそ、憶測を口にすることが出来ないでいる。
魔力過給症のソフィアお嬢様はもちろん、他の者達もパニックに陥りかねない。それを避けるために、俺はパチンと指を鳴らして皆の注目を集めた。
「みなさん、この指が何本に見えますか?」
「……シリル、いまはそのような戯れ言に興じる気分にはなれません」
「私もふざけてなどいません。お答えください、お嬢様。この指が何本か分かりますか?」
俺は指を一本だけ立てた手を指し示す。
「……一本です」
ソフィアお嬢様の答えに俺は頷かない。皆の顔を見回した後、もう一度ソフィアお嬢様に視線を戻した。
「本当にそうですか?」
「どう見ても一本……いえ、立てている指は一本ですが、右手の指は五本ですね」
「正解です」
本当は答えなんてなんでも良かった。最初に五本だと答えれば、立てている指の数へと誘導するつもりだった。俺の目的は、ソフィアお嬢様達の気を逸らすことだ。
パニックを避けるのにもっとも有効な手段は、その原因から遠ざけること。同時に、焦って意識が拡散しているときは、一つのことに集中させるのが良いとも言われている。
それらを同時に実行しながら、これからどうするかを考える。
フォルが連絡もなくリハーサルに姿を見せない理由なんて一つしかない。おそらくは、また倒れてしまったのだろう。だから問題は、どう対処するか。
誤魔化すことが出来るのならそれが一番だが、彼女がヒロイン役である以上は不可能だ。
「フォル先輩がどうしてこないのか、ルーシェを確認に走らせていますが……帰ってくるのを待つまでもありません。彼女はまた倒れたのでしょう」
あえて憶測ではなく、事実としてその可能性を口にする。一度は落ち着きを取り戻しかけていたお嬢様方に焦りが浮かぶ――直前、俺は更に言葉を続ける。
「ですが、不安に思う必要はありません。彼女が倒れたのだとしても、また数日も休めば元気な姿を見せてくれるはずです。彼女の教育係がそう言ってましたから」
今度は倒れたことを仮定として、それがもしも事実だったとしても心配ないと断言する。
そのうえで――
「問題はこのタイミングで倒れたこと。フォル先輩はおそらく演劇に出られないでしょう」
復帰できることを事実と仮定して、それが今日明日ではないことが問題で、心配するべきなのは演劇をどうするかと言うことだと論点をすり替える。
むろん、それで皆が心から納得や、安堵するわけじゃない。そもそも、自分の出した憶測が正解だという確信はあるが、正しいという確証はない。
だが、フォルが倒れたのだとしても、ソフィアお嬢様達に出来ることはない。俺は唯一例外ではあるが、俺が必要なら迎えが来るはずだ。
ゆえに、迎えがないと言うことは、俺の憶測が正解であるという証明でもある。
「もう一度いいます。問題は、フォル先輩が演劇には出られないことです。もちろん、次の瞬間にも飛び込んでくる可能性はありますが……」
その可能性は限りなく低い。
演劇を中止するか否か、いまここで決めなくてはいけない。
「ヒロインのフォル姉さんが出られない以上、演劇は中止にするしかないんじゃないかい?」
アルフォース殿下がそう口にする。それは予想通りの、そして普通に考えれば真っ当な意見。だけど、ソフィアお嬢様が否を唱えた。
「演劇はやるべきです。フォル先輩がここにいれば、必ずそう願うはずですから」
それもまた事実だ。
最期の思い出作りに演劇をしたいと、フォルが口にしていたことは誰もが知っている。彼女自身が舞台に上がれないのだとしても、演劇を成功させる意味は大きい。
「たしかにフォル姉さんならそう言いそうですけど……ヒロインはどうするんですか?」
アルフォース殿下が周囲を見回した。アリシアの役であるメイドくらいなら、ナレーションでもなんとかなる。だが、ヒロインがナレーションなんて問題外だ。
役を動かせるという意味で考えれば、アリシアがヒロインを演じるのが無難だ。そんな空気を感じ取ったのだろう。アリシアが口を開く。
「わ、私、ヒロイン役なんて無理ですよ!?」
「心配いりません。オレリアはわたくしが演じます」
宣言したのはソフィアお嬢様だった。
たしかに、ソフィアお嬢様ならヒロインだって上手く演じられるだろう。けれど、ソフィアお嬢様がヒロインを演じるには重大な問題がある。
ソフィアお嬢様がヒロインを演じた場合、悪役令嬢を演じる者がいなくなる。
ヒロインよりは出番が少なめとはいえ、重要な役であることには変わりない。やはりナレーションで対応するには苦しいだろう。
どうするつもりかと注視していると、お嬢様はアリシアに視線を向けた。
「アリシアさん、あなたがエルヴィールを演じてください」
「わっ、私がエルヴィールですか!?」
「そうです。何度かエルヴィールの役を演じていましたよね?」
「あ、あれは、その場のノリというか、なんというか……」
「でも、真に迫った演技でした。あなたなら、上手く演じられるのではありませんか?」
……たしかに、アリシアはメイドの役よりも悪役令嬢の方が上手く演じられていた。
だがそれは、感情移入ができる、役と本人の性質が合っているだけの話。本番が一週間後だったのならともかく、もうすぐ本番のこの状況では無謀すぎる。
そう思ったのだが、アリシアはヒロインの役を提案されたときとは違い、即座に否定はせずに考え込んでしまった。
可能なら理想のキャスト配分ではあるが……とメリッサに視線を向ける。それに気付いた彼女はこくりと頷いた。
「アリシアお嬢様は悪役令嬢がお気に入りなので、練習の合間に演技をなさっていました。おそらく、問題なく演じることができるはずです」
「わ、私が……出来るでしょうか?」
「もちろんです。私は、お嬢様が毎日練習なさっている姿を見ていましたから」
王子との逢瀬を躊躇うヒロインのように、一歩を踏み出せずにいたアリシアが、メリッサの言葉に後押しされて顔を上げた。
彼女はゲームのヒロインのごとく、凜とした表情で自分の胸に手を添えた。
「私が、エルヴィールの役を演じます」
どうやら、覚悟は決まったようだ。
普通に考えて無謀。
だが、ソフィアお嬢様が提案して、アリシアがそれに応じた。であれば、俺がやることは反対することではなく、どうすればそれが実現するかを考えることだ。
衣装は問題ない。制服は基本的に同じで、パーティーの場面で身に付けるドレスは各々のドレスを着用することになっている。
問題は、アリシアがやる予定だったメイドの役だ。
ナレーションで出来なくはないが、出来れば役者がいた方がいい。ということでメリッサに視線を向けると、ぶんぶんと首を横に振られた。
「メイドの役なら、あたしが演じてあげましょうか?」
名乗りを上げたのはイザベラだ。
彼女なら問題なく演じられるだろう。だが、彼女は学生ではない。どうしたものかと考えていると、「俺が許可をする」という声が響いた。
見れば、ルーシェを伴ったトリスタン先生がいた。
詰め寄ろうとして、けれど侯爵令嬢としての立場を思い出したのだろう。ぐっと踏みとどまったソフィアお嬢様の横で、アルフォース殿下が一歩前に出た。
「トリスタン、フォル姉さんが来ないんだけど……なにか知らないかい?」
「フォルお嬢様は先ほど体調を崩されて休んでいます。ですが心配する必要はありません。今日ゆっくり休めば、明日、明後日には元気になるでしょう」
ホッと息を吐いたのが誰だったのか、話を聞いていた者達が安堵する。だが同時に、今日の舞台にはやはり、フォル先輩が上がれないことも思い知らされる。
「フォルお嬢様からの伝言だ。一緒に舞台に上がれなくてごめんなさい。でも、貴方達ならきっと、私の分まで舞台を盛り上げてくれると信じています――だそうだ」
その伝言で皆の心は決まった。
誰がなにを言う訳でもなく、各々が必要なことを始める。
アリシアが舞台で身に付ける、悪役令嬢らしいドレスの準備にメリッサが走り、ルーシェはソフィアお嬢様の清楚なドレスの用意に走る。
イザベラは、他のメイドから予備のメイド服を借りていた。
以前、リベルトの右腕であるニコラが執事の恰好をしていたときは、俺は即座に執事の恰好をしているだけの一般人だと見破った。だが、イザベラは本当にメイドのように見える。さすがは王都でも有名な劇団の花形スターだ。
そんな彼女を交えて、新たな配役での役あわせが始まる。
「はぁん。フォルお嬢様から素晴らしい演技力だとは聞いていたが、さすがだな」
横で見学しているトリスタン先生が口を開いた。
「感心してくださって光栄ですが、フォル先輩のことは看ていなくて大丈夫なのですか?」
「さっき言ったことは気休めじゃないってことだ。さすがに舞台を観に来るのは厳しいだろうが、明日明後日には普通に出歩ける程度には回復できるはずだ」
「……なるほど。では、ささやかなお茶会も予定通りで問題ないのですか?」
「ああ、問題ない」
それならば大丈夫だと安堵した俺は、打ち合わせが行われている舞台へと視線を戻した。
いま合わせているのはラスト付近。王子によって悪役令嬢が断罪されている。そうして破滅する悪役令嬢をバックに、王子がヒロインに真実の愛を誓う。
アルフォース殿下がソフィアお嬢様の腰に手を回し、反対の手で顎をくいっと上げたところで演技は終わった。
本番ではここで照明が落ち、そのまま幕が下ろされる予定だ。
ソフィアお嬢様とアルフォース殿下のキスシーン。演劇とはいえ、光と闇のエスプレッシーヴォにおけるヒロインの座をソフィアお嬢様が射止めたことに変わりはない。
この世界に新たな生をうけた俺の最初の目標。それが叶ったはずなのに、俺の心はざわついていた。どうしてこんな気持ちになるのかは……まあ分かっている。
俺はその感情を心の隅に追いやる。
そうして見守っていると、今度は二人がなにか話し始めた。アルフォース殿下がなにかを問い掛けて、ソフィアお嬢様が笑顔で応じている。
「欲しいものを欲しいと言わなければ、手に入るものだって手に入らなくなるんだがな」
「……余計なお世話ですよ」
反射的に反論する――が、トリスタン先生は「おまえに言ったんじゃねぇよ」と笑った。それがどういう意味なのか、考えても分からない。
そもそも、考える暇もなかった。
二人が会話を終えて二手に分かれる。
その片割れ、アルフォース殿下が歩み寄って来たからだ。彼は俺の前に立つと、口を開いては閉じるという行為を繰り返す。
そして――
「シリル、キミに話がある」
彼は一呼吸おき、少し悔しそうな顔で、だけど迷いのない口調で言い放った。ソフィアさんが頼りにしているのは僕じゃなくてキミだ――と。
「全員の演技の相手役をしていた。シリルなら王子役だってすぐにこなせるはずだ」
王子役を演じるアルフォース殿下は、ヒロイン役をお嬢様が演じることを願っていた。その願いが叶ったのに、王子役を俺に譲ると言っている。
「……よろしいのですか?」
それは、せっかくのチャンスを手放しても良いのかという問いかけだ。けれど、アルフォース殿下は俺が思っていたよりもずっと真剣な顔で頷く。
「僕は……僕は、エルヴィールのようにはならない」
それは、王子をヒロインに奪われ、復讐に狂う悪役令嬢の名前。この状況において、彼女のようにならないという言葉の意味は一つしか考えられない。
アルフォース殿下は、ソフィアお嬢様の心が誰に向いているか気付いている。
新入生歓迎パーティーで、周囲の状況には目もくれずにソフィアお嬢様をダンスに誘った彼が、いまは自分の気持ちを抑え込んで、ソフィアお嬢様の気持ちを汲んでいる。
アルフォース殿下は、光と闇のエスプレッシーヴォの人気キャラである彼自身に限りなく近付いている。いまの彼なら、ソフィアお嬢様の婚約者に相応しいと言えるだろう。
なのに、せっかくのチャンスを譲るという。
「後悔することに……なるかも知れませんよ? それでも王子役を譲るというのですか?」
「以前の僕なら、キミに嫉妬して、エルヴィールのように闇堕ちしてしまっただろう。だが、いまの僕は違う。僕は――キミを越えたい」
それは明らかなるライバル宣言だった。
ただの執事である俺が、そのような言葉に応じるわけにはいかない。グレイブ様からもあまり目立ちすぎるなと忠告されている。
だけど、それでも――
「アルフォース殿下にそこまで言われたら、引き受けないわけにはいきませんね」
「なら……」
「受けて立ちましょう。――王子役、謹んでお受けいたします」
お読みいただきありがとうございます。
いつも誤字脱字報告ありがとうございます。投稿寸前の加筆修正で誤字脱字が発生することが多いようで、非常に助かっています。