2.姫君
瞬きのうちに海の底に戻った私を、魔物はいつも通り魔物らしい微笑みで迎えた。鎖と枷が消える。
「おかえり」
「……ええ」
「何かあった?」
すべてを見透かすような魔物の、虹色の瞳。艷やめいているのに冷え切っていて、ひと雫の半分だけ真剣。このとき、私はどうしてか質問に別の質問で返すという愚かなことをした。なにか小難しいことを考えたのではないのは確か。
「あなたにも名前はあるの」
少年にも少女にも見える魔物は、かすかに面食らったような顔をした。かぶった仮面の向こうに気付かれてしまった子供のように。その優美な指を完璧な形の唇に当てる。かすかな沈黙。ややあって。
「……………リュイエ」
指の隙間から転げ落ちた言葉。私はそれをすくい上げた。
「リュイエというの?」
「……そう、だったかもね」
驚いたように自分の唇を撫でるリュイエ。しかし眉をしかめ、自信なさげな表情から一転して、また魔物の頽廃的な笑顔に戻る。
「どうしたんだい、お姫様。この僕に興味がわいたのかな」
「いけないかしら」
「いいや、悪くはないさ」
魔物はくすくす笑った。
「他に聞きたいことはあるかい」
「あなたが私を出してくれる浜辺はいつも一緒?」
「一緒だよ、お姫様。景色が素晴らしいだろう」
「そうね……」
私は寝室に行くと言った。食べる必要がなくとも食べられるのと同じように、寝る必要がなくとも寝ることはできる。私はできるだけ人間的な生活を送ることにしていた。魔物の世界の底で。
「おやすみ、綺麗な綺麗なお姫様」
白い小さな手がひらりと振られた。
「良い夢を……」
墓のように暗い夜空に氷のような満月、潮のにおい。
私はまた浜辺に来ていた。
「フルール姫」
夜の精さながらにジュール殿下はそこにいた。手燭は持たず、けれどろうそくの火のように優しい笑みを浮かべ、警戒心の強い獣に近付くかのように数歩ゆっくり私に歩み寄って。
「あなたは満月の浜辺にしかいないのでしょう、夢の姫君。だから俺は今晩も来たのです。やはりお会いできました」
「どうして」
「ここは俺に与えられた領地にある浜辺なのですよ。古き地、遠い昔に滅びた国の都のあった場所です。……フルール姫、どうか逃げないで」
シャラ、と足もとで鎖がなった。逃げないで。私と殿下の距離は三歩ぶん。私は一歩だけ下がって、そこで止まった。
「わたくしに何かご用がおありですか」
「いいえ、ただあなたと共にここを歩きたいだけです」
「なぜですの」
「ずっとそうしたいと思っていたので。いけませんか」
私は少し悩んでから答えた。
「そのくらいなら構いませんわ」
月の晩……鎖の音と砂を踏む音。海潮音。
満月が来るたびに、私はジュール殿下と並んで歩くようになった。殿下の色々な話を聞きながら、海のささやきを聴きながら。鎖をひいて。
海の魔物は帰って来た私を、ときどき一瞬だけ物言いたげな瞳で見つめる。
「何かあった?」
私の答えはいつも同じ。「いいえ、何も」なんにも。
魔物はそれ以上何も聞かない。
何度満月は空にかかり、何度砂浜を歩いただろう。
ジュール殿下がいないことも何度かあった。それでも彼は次の満月には大抵夜の砂浜に戻ってきたし、そうすればまた変わらず色々な話をしながら私の隣を歩いた。
そして今夜。初めて三度も続いて姿を見せなかった殿下が、夜の中、闇に溶ける黒い服を着て私を待っていた。
「久方ぶりですね、王女」
「ええ、もういらっしゃらないかと思いましたわ」
「俺に会うことは姫にとって少しでも喜びになりますか」
少し疲れているような声。私は殿下の澄み切った美しい目を見た。どこか悲しげな、一途な瞳。何があったのかは分からないが、この友人をなぐさめて差し上げたくて、私は彼の望んでいる言葉を言った。
「ええ。あなたにお会いできないのは寂しいことですもの」
殿下は微笑んだ。どこまでも透明に。
「座りませんか、ここに来られなかった間のことをお話ししたいのです」
私達は夜の冷たい砂の上に座った。
丸い月、黒い海と光の粉を散らすような波、鎖。殿下は海へと続く、私の長い長い鎖を視線で辿りながら口を開いた。
「今、この帝国では病が流行っています。陛下はご壮健であられますが、多くの貴族、平民、俺の兄弟も何人かは死にました。……妻も」
私は彼を見た。では、その闇色の衣装は喪服。
「奥様がいらしたとは存じませんでした」
「あなたがこの国に嫁いでこられる途中に亡くなったと聞いた後、俺はずっと暗い顔をしていたようで、陛下が貴族の娘の中からあなたに似た者を紹介してくださったのですよ」
「わたくしに?」
「陛下は数多い弟妹の中でも、昔から特に俺に目をかけて下さっていますから。しかし……そうですね、妻は確かに姫に似ていました。思慮深く美しく、俺をひたむきに愛して。ただ本物のあなたに比べれば目立って見劣りした」
手首の枷から続く鎖に殿下の長い指が絡まる。兄である皇帝に贈られてきた東の王女の肖像画をひと目見てから、たった一人に心を捧げてしまった真摯な瞳。
亡くなったという奥様のことを想った。愛しても愛されず、どんなに見つめ続けても、自分自身が視界に入れられることはなく、他の女の代用品でしかない人生。
「惑乱の王女……」
「ああ、あなたがそう呼ばれているというのは聞きました。俺も惑わされたひとりなのでしょうが、別の呼び方のほうが好きですね」
「運命の女、男性を破滅に導く妖婦?」
少し口調が皮肉っぽくなってしまったかもしれない。過去にしかいない、死んでしまった三人の夫。いつ誰が言い出したのだろう。私は破滅を呼ぶ女。
「そう、運命などというつまらない名でも、あなたと繋がっていられるのなら、その声を聞け視線を向けてもらえるのなら、俺は破滅しても悔いはない」
悔いはない。三人目の夫、病没した南の少年王も私にそう言って微笑んで逝った。遺された私の心に悔いと深い傷を刻んで。誰もがそう。勝手に悔いなく死んでいく。
「愛しています、フルール姫。ご存知でしょう」
ひたむきな目だった。その熱さは崇拝に近いほど。
「鎖に繋がれた奴隷のようなあなたを救い出してあげたい。そしてどうか俺の妃になってください」
「ジュール殿下……」
私の中に、私を見上げる魔物の目が浮かんだ。冷たい海の底で凍えた瞳。永い孤独、孤高――。
『僕のそばにはいたくない?』
『あなたのもとを離れたりしないわ。約束する』
目を伏せた。そうだ、約束したのだ。私の誓い。
「いいえ、あなたの妃になることはできません」
「一国の姫であるあなたを捕らえ、こんな鎖でつなぐような悪魔に、魔法でもかけられたのですか」
「海の魔物は悪魔ではありませんわ」
私はジュール殿下の指をそっと鎖から外した。熱い指先。立ち上がり、口を開いた。「戻ります」と。
「ごきげんよう、殿下」
「またお会いできますか」
「わかりませんわ」
お辞儀した。
海の魔物は、戻って来た私を少し首を傾けて迎えた。
「やあ、今日は早かったね。おかえり」
「……ええ。ただいま帰りました、リュイエ」
リュイエの唇に浮かんでいた艷やかな笑みが消える。見開かれた大きな目、剥がれ落ちたすべての妖しさ。困惑。
私は自分がこの美しい魔物に与えた衝撃に満足した。
ただいま帰りました――それは外出から帰ったときの挨拶。存在は知っていたけれど、使ったのはたぶん今が生まれて初めて。きっと、リュイエもそれに気付いた。
「何か、あった? お姫様」
「リュイエが気にするようなことは、なんにも」
「ふぅん……」
じゃあ、おかえりフルール。と魔物はにっこり笑った。