1.魔物
目に映るのは蒼い満月と黒い海、淡く光る星と波。
世界に漂うのは潮騒の音と砂を踏む音、鎖の音。
私は枷の嵌った足で夜の中をそぞろ歩く。
そして、いつも通り過去を想うのだ。
王女だった私のことを。
『そなたの嫁ぎ先が決まったぞ』
父王が重々しくそう告げたのは、私が十二歳のとき。
『君の縁談が決まったよ』
上の兄が優しくそう言ったのは、私が十六歳のとき。
『お前の結婚が決まった』
下の兄が冷たくそう囁いたのは、私が二十歳のとき。
目を閉じればいつでも思い出せる。金の髪の北の公子、黒い髪の東の領主、南の国の少年王。永久に忘れることない、三人の私の夫たち。一人目は暗殺され、二人目は謀反の罪で首を切られ、三人目はある日病気で死んでしまった。
ひどく短い結婚生活。
私だけがいつも国へ連れ戻され、生き残って。だから。
『西の帝国との縁組が決まったわ』
継母である王妃が相手の肖像画を持ってそう知らせに来たとき、二十五になった私はもう、どうしようもないほど疲れ切っていたのだった。
惑乱の王女、喪服姫、運命の女……。
海の向こうの帝国に行く途中の船の上、私は水中に飛び込んだ。帝国には代わりに異母妹が嫁いだのだろうか。
――海に沈んだ私は死んでしまいはしなかった。
「ずっと僕といてくれるなら、不幸な目にはあわせないよ」
死ぬはずだった私の命を繋ぎ止め、海の底に連れて行った妖しい海の魔物は、少女のようにも少年のようにも見える、けれど決して人ではありえない美しい顔に、頽廃的で艶かしいまでの笑みを浮かべてそう言った。
深い深い海の底の魔物の世界。
炎の赤や葉の緑、空の青や雪の白、様々な色が融合し踊り回る不思議な石で建てられた宮殿。人間の子供の姿をした魔性のものは、私を新しい人形か愛玩動物のようにそこに迎えた。
食べる必要も寝る必要も、水に濡れることも無い、時が止まったような静かな世界。
不自由など何ひとつなく。
美しい魔物は長い時間を私を眺めて過ごした。ずっと話しも、ほとんど動きもせずに、ただぼんやりとまどろんでいた私を。
やがて私は動き、目で物を見、話し、生きることをゆっくりと思い出していった。食事をすることも。私が何かを食べたいと言えば、魔物はどこからか立派な食事を用意した。祖国の料理、北の、東の、南の料理……。
なんでも知っている魔物は、私が何かを聞けば、その蠱惑的な唇からしたたる蜜のような声で答えをくれた。
「なぜ海の底で息ができるの?」
「君がここで息をしようとするからさ」
「あの向こうで泳いでいるのは何?」
「知らないのかい、あれは海の人魚だよ」
「どうして私を死なせてくれなかったの?」
「君が不幸で、あんまり綺麗で、君だからさ」
海色の髪に幼い顔を囲まれた魔物は、私が鍵盤楽器や竪琴を弾けば目を閉じて聴き入り、窓の外の夢のように変化する景色に見入れば笑い、宮殿内を散歩すれば、少し後ろをゆったりとした足取りでついてきた。
そうしてどのくらいの時が経っただろうか。
ある日、私はふと「外」に行きたいと思った。外……。
「浜辺へ行って波打ち際を歩きたいけれど、無理かしら」
魔物は虹色に輝く瞳で嘲笑するように私を見上げた。
「おやおや、行ってしまおうというのかい」
嘲り、それは自嘲に似た表情だった。人間じみた。
「僕のそばにはいたくない?」
私はこの妖麗な魔物が私にしてくれたことを想った。
「いいえ、あなたのもとを離れたりしないわ。約束する」
「……それが永遠の約束なら、君の望みを叶えてあげよう」
「永遠を信じているの」
「さあね」
人間に似た嘲りの色はかき消え、十にもならないような幼い顔に淫靡なまでの魔性の微笑みがにじんだ。人間などとは比べ物にならないほど永遠に近い生きもの。
「いいだろう、満月の夜になったら外に出してあげる。――枷はつけるけどね……」
魔物は細く優美だが丈夫な枷と鎖をつくり、私の両手首と両足首につけた。そして私は不思議な扉を通って夜の浜辺へ出ていったのだ。扉は私が通ったあとは消えてしまうので、帰りたいときには枷に向かって「月が陰ったわ」とささやくように取り決めて。
そうするか夜が明けかけるかすれば、魔物が海の底で鎖の端を引いて、私を連れ戻すようになっていた。どうやってか海底まで続いているらしい、軽く長い魔法の鎖。海の魔物は海から出ない。
私は満月のたびに外に出るようになった。
いつも出る浜辺が同じなのかも、どこなのかもわからなかったが、いつだって海は暗く黒く大きかったし、月は丸く明るく冷たかった。遠い過去も現在も、未来すら漂っている気がする、波と鎖の音と限りない静寂。
けれど私が思いを馳せるのはいつだって過去にだけだった。――今までは。
「そこにいるのはどなたですか」
無限のような静寂を破り、夜の中で声がした。柔らかな優しい声。背後からいきなり聞こえたそれは人間の声だった。久々に聞く。これが冷たい声だったら私は逃げ出していただろう。妖しい魔物のもとに。
しかし、そうではなかったから、私はつい振り向いてしまった。逃げるのはそれからでも遅くはない。
「……あっ」
後悔した。月光にぼんやりと浮かび上がるのは、記憶にある顔、肖像画に描かれたままの顔だった。濃い色の髪、涼やかな目、気品のある口元……西の皇帝。四人目の夫になるはずだった人。私はとっさに右手首の枷を口元に近付け、合言葉をささやこうとした。
「お待ちなさい」
五歩分は離れていたはずの皇帝がひと呼吸のうちに距離を詰め、私の右腕を掴んで口から離させた。近くで見ると、吸い込まれそうなほどよく澄んだ瞳だった。肖像画の目はこんなだったかしら。
同い年だと聞いたような気がするが、いくつか歳下に見える。
「フルール姫?」
私の名前。それを聞いて、私は自分が長いあいだ名前を呼ばれていなかったことに気がついた。魔物に私の名前は必要ない。
「皇帝陛下……」
「それは俺の兄ですよ、姫。七つも年上の異母兄です」
「では、あなたは」
「ジュールとお呼びください、俺の義姉になり損なった姫」
皇弟、ジュール殿下は私の手に温かい唇を落とした。冷たい冷たい冷え切った魔物とは違う、人の温度。……魔物が私に触れるなど、めったにないことだけれど。
「これは夢でしょうか。満月の海辺の夢? 五年も前に海に沈んでしまった東の王女様、肖像画と何も変わらぬあなた。あまりにあなたの肖像画ばかり見て過ごしていたから、海の魔物が哀れな俺に夢を見せたのでしょうか」
ジュール殿下は初めて会った私を、まるで離れ離れになっていた恋人を見るような目で見つめた。五年と殿下は仰ったけれど、本当にそんな時間が経ったのだろうか。
海の底で?
「……ええ、きっと夢ですわ。わたくしか、殿下の」
「では、夢のあなたはなぜ鎖につながれているのです」
彼は私の両手両足首につけられた枷と、海の底まで続く長い長い鎖を順番に、遠慮がちに見た。
「これは海の魔物の鎖ですわ」
「人魚や水精霊達の王、伝説の海の悪魔の? あなたはそれに捕まっているのですか、まるで奴隷のように」
私はジュール殿下の悲しげで、魔物に対する怒りを湛えた目を眺めた。人間らしい瞳、純粋な双眸。魔物の妖しく輝いているのに冷え切った目とは全く違う。
「フルール姫、あなたは」
なんだか私は急に怖くなった。そうだ、彼は人間だ。海に飛び込んだ私が捨てた、地上で生きるもの。思わず殿下の言葉を遮った。「帰ります、戻らなくては」。
「海の底へ?」
「ええ」
「またお会いできますか」
「わかりません」
ジュール殿下の強い視線が刺さる。私はそれから逃げるように腰を落としてお辞儀をし、枷に合言葉をささやいた。