第一章 21 トーコの瞳
りん、という一際澄み渡る鈴の音が闇の向こうから聞こえてきて、私は読んでいた本から顔を上げた。
どうやら舞が終わったらしい。あの最後の鈴の音だけはどこにいても私たちの耳に届く。
終わったということはそろそろ――と思った瞬間には。
「終わった」
いつの間にかそこにいるのが我が相棒なわけだ。
両方の目を閉じたトーコの姿は日常的に見慣れたものである。いつもと違うのは、今回は確実に寝たフリではないということだが。
「ああ、聞こえている。それで様子は?」
「今は、縁側」
「む、部屋に戻ったのではないのか」
「ハルと話してる」
ほう、と口角が上がるのを抑えられなかった。
これは期待以上なのかもしれない。
「起きていたのか」
「始まりと同時に目覚めた」
「……なに? それは――」
「……いちいち説明するのは面倒」
私の言葉を遮って、トーコは不機嫌そうに片目だけ開いてこちらを睨み付ける。
一瞬だけ、その赤い瞳の奥が炎のように揺らめいた。
「あなたも覚えるべき」
「何度も言っているが、私は細かい技術は苦手なのだ。わかりやすくまとめてコツを教えてくれ」
「いつなんどきでも見守っているという堅く強い意志」
「ストーカーの話をしていたつもりはないが」
「しているつもりもない」
これもよくあるやり取りだ。
「お前が見て、私が戦う。バランスは取れているからいいだろう」
「私も戦える。不公平」
「それは私に一度でも勝ってから言うんだな」
くつくつと笑ってみせると、あまり変わらないトーコの顔が目に見えて不機嫌色に染まった。
なんだ? やるか? いいだろう今宵はおあつらえ向きに満月だ。何年ぶりかは知らんが本気で相手をしてやろう。
……しかし、そんな気合を入れる私を尻目にトーコの耳はぴくんと跳ねた。開いていた方の目も閉じられて、不機嫌とは違う表情で眉間に皺が寄っている。
「……何かあったのか?」
「主様の様子が変わった。ハルとの会話で、なにか」
「主は――話したのか?」
だとしたら、想定よりもはるかに早い。
困惑する私の質問に、トーコは首を振って答えた。
「おそらく、違う。今日の主様はいつも以上に混ざってたから、反動も大きかったのかもしれない」
「それをハルに指摘されたのか」
「あくまでも、憶測」
トーコはそう言うが、私の勘はそれで間違いないと告げていた。
朝、私たちが外出する直前に声をかけてきた主の様子を思い出す。
あれは、意識まで彰常ではなく巫女そのものだった。
ハルと四人で暮らすようになってからの主は、あの外見に相応しい振る舞いが目立つようになっていた。少々言葉遣いが乱暴なだけで、言われなければ女の子にしか思えないだろう。事実、交流が増えても央の街の人々は主のことを女性としてしか見ていない。
それは、本来なら主が隠居生活を決めた理由であったはずなのに。
私たちが何もしなくても、ハルの存在で主は変わっていった……変わってしまったのだ。
あまりにも急激な変化に若干の不安を覚えた私はあの日、主に進言したのだが……やはり、今日の神事にも少なくない影響があったようだ。
「確認させてくれ。まず、主の身体能力」
「耳が動いていて、あれは確実に私たちの居場所を認識していた。おそらく、少しでも動いたら感知できるレベル」
「いつもと違う様子は?」
「淡々と神事の支度を進める一方で、表情は完全に獣のそれ。意識は巫女、体はイナリ様」
「……本人に彰常の認識がどれほどあったのか気になるな」
「表に出ない部分はさすがにわからない」
ふぅと一息吐いて、トーコはそれまで閉じていた目を両方とも開いた。その顔からは先程の微妙な表情は消えていて、逆にどこか嬉しそうな色にも見えた。
……まぁ、そうは言っても私と主くらいにしか判別できない程度の差でしかないのだが。
「……なにか、動きでもあったのか?」
「二人で一緒に寝るらしい」
なんだと!?
「今は彰常の意識が強く出ているのではなかったのか!?」
「様子を見る限りは、そう。だけどハルからしたら大事なのは主様が落ち込んでるってことだけ」
「そ、そうか……」
……二人がそれでいいなら、いいのか?
「あー、話が逸れたが、トーコのその目から見て、他には?」
「舞の最中の主様は、完全に巫女に見えた。終わってハルと目があった瞬間元に戻ったけど、違和感が酷い」
「そこまで言われると私も見たくなるな」
「れっつとらい」
「何度でも言うが、細かい技術は苦手だ……というよりも、目を閉じている間且つ主の周辺だけという条件で距離と時間無制限に視界を飛ばせるお前がおかしいんだと思う」
「主様の精霊魔術ほど理不尽じゃない」
「否定はしないが神は比較対象にするものじゃないだろう」
そんな話をしているうちに、二人は本格的に眠りについたらしい。トーコも自分の部屋へ戻っていった。
私はどうしようかと迷ったが、読んでいた本が途中だったことを思い出して手を伸ばす。この本も百五十年で何度読んだか覚えていないが、本を読んでいる間は集中できる。
展開も台詞も覚えている本を読みながら思うのは主のことだ。
神の分霊の体に、巫女の魂に、男性の意識。三つが合わさっているらしいその存在は、当人からしたらひどく不安定だ。そのなかでも最後の一つ、意識は非常に曖昧なもので、消えてしまってもわからない。ゆえにここに来た当初の主は錯乱した。
満月の日はイナリ様が活性化する。それは妖狐だった頃の名残だそうだ。
その活性化したイナリ様の体に引っ張られるように、巫女の魂も表に出てくる。イナリ様とともにあるのが巫女の使命だと、当時の彼女はすべてを捧げていた。
では彰常の意識はどうかというと、何もない。
活性化した二人に飲み込まれて、表に出てこられない。この一日は、神事が終わってイナリ様の体が満足するまでは、彰常の意識はそこにない。
私は、そこに疑問を抱く。
彰常の意識がそこにないのなら、記憶はどうなっているのかということだ。
体に蓄えられた記憶を読み取って行動できるのは知っている。だが、彰常の意識がない最中の出来事でも、彼はそれを実際に見聞きしているかのように話す。記憶を読み取っているようには見えないのだ。
意識がないと言っているのに、その間のことを知っている。
彰常の意識とは何か。
巫女の意識で動いているとき、彰常の意識はないのではなくてそれに混ざっていると考えるのが妥当ではある。
もしかしたら、と思うことはある。あるのだが、それは私が言っていいことではない。
関係は良好なようだし、ハルにはぜひとも頑張ってもらいたいものである。
……ハル? そうだ、ハルだ。
ハルは、主の神事が始まると同時に目覚めたと、トーコはそう言っていた。その詳細を聞くのを忘れていた。
忘れていたが、肝心のトーコはもう部屋に戻ってしまっている。間違いなくその目は閉じられているだろう。寝たふりではないのは先程と同じだが。
今から聞くのは大人しく諦めることにして、私は本を閉じた。
布団に横になりながらハルのことを考える。
思えば、不思議な子だ。
主は最初からハルのことを守る気でいたように思える。孤児と出会うのは百五十年で何度かあったが、ハルに対してだけが特別だった。
どうやら特殊な家柄のようだし、何か秘密があるのかもしれない。
私は、秘密だらけの二人のことを思いながら目を閉じた。
……やはり、これで遠くを見ることができるトーコはおかしいのだと再認識した。




