第一章 19 満月の下で
頭の中がぐるぐるとしていて、どこか気持ち悪さを感じる。
意識を浮上させて、やはり最初にきたものはそれだ。
霞がかった頭を軽く振ってみても、いまいち意識ははっきりしない。ノイズがかかっているような、ヴェールを通して世界を見ているような、そんなふわふわとした感覚。まだ夢の続きを見ているのかとすら思えるほどに。
窓から差し込む光はすでに紫がかった赤で染まっていて、もうほとんど夜の空気と言ってもいい。
――この時間なら、もう月も見えているな。
立ち上がってぐぅっと背中を伸ばす。横になっていたわけではないけれど、ある意味寝ていたようなものだからか、なんとなくだ。
普段は意識していない、狐の耳と尻尾が一緒にぴんと伸びるのを感じて、次いで体のあちこちから軽い音が聞こえてくる。思ったより長い間目を閉じていたのかと少しだけ驚いた。
思い返してみると……トールとハルと会話をしたあの辺りからすでに意識は半分ほど飛んでいたようだ。
改めて部屋を見渡してみると、見慣れた俺の部屋ではなく神社の一番奥に位置する部屋だ。姿見の前にはこのあと使うものがぴしっと置かれていて、準備も全て整っているように見える。さすが、手慣れている。
さて……と思ってみるものの、動き始める時間にはまだ早い。
数秒ほど迷ったあと、再び部屋の真ん中に正座をして瞳を閉じた。
◇
ふ、と意識を戻して顔を上げると、すでに部屋の中は大部分が闇に閉ざされていた。
さっきまではまだ夜になりつつあるという時間だと思ったのだけれど……時間の感覚が少しおかしくなっているらしい。
まぁおかしくなっているのは時間だけでなくて――狐の耳がぴこぴこと動く。すると、みんなが各自の部屋にいるということがわかった。
とりあえずもうみんな寝ている時間なのだろう。ハルは間違いなく寝ているとして、トールとトーコに関しては睡眠が必須ではないために不明である。ただ部屋で寛いでいるだけなのかもしれない。
窓から差し込む月の光を見る限り、空に雲はほとんどかかっていないように思えた。自分が座っている位置からは月はおろか空もほとんど見えないけれど、ちりちりと尻尾の毛がざわめく感覚は月の影響だ。
自然と気分も高揚してくる。狼ではないのに遠吠えみたいなことがしたくてうずうずする。早く体を動かせと、心身ともに逸らせてくる。
そうこうしているうちに、着替えも済んだ。思考をいろいろ回している一方で、体は自然な流れで着付けをしていたらしい。
身につけているものはいつもの巫女装束。さらにその上に千早を着用している。一枚増えてはいるもののなんとも非常にしっくりきた。あの服はこの二日間着ていたけれど、百五十年間にはとても敵わないものだ。
姿見の前で背筋を伸ばし、くるりと静かに一回転。一拍遅れてりんと鈴の音がした。
さらに遅れて、後ろでひとつに束ねた髪がぽすっと背中を叩く。花をかたどった簪と和紙で飾り付けられた髪はいつも以上にボリュームがあるように感じられる。
全体的に、装飾はさほど多くない。けれども千早にはイナリを模したらしい狐の絵がそのままの色で刺繍されているし、飾り紐だって狐色のものが追加されているから十分に華やかに見える。
乱れているところがないことを確認したあとは、外に出るだけだ。手ぶらのまま襖を開けて、裏手側から境内へ。
目を閉じて人気のない夜特有の張り詰めた空気をいっぱいに吸い込むと、高揚していた気分がいくらか鎮まった。
何度かそうしたあと顔を上げてみれば、見事なまでの満月が雲に邪魔されることなく輝いている。
落ち着いていた気分がまた昂る感覚と、ぐるぐるとかき混ぜられているような感覚。それらをすべて飲みこんで、そうして吐き出すように、俺はいつもの言葉と願いを口にする。
「――おいでませ」
伸ばした俺の手は宙を掴むことなく、力強く握られた神楽鈴が凛と透き通る音を奏でた。
◆
母親に呼ばれて振り向いたときのような、そんな感覚を覚えて彼――ハルは目を覚ましました。
布団から上半身を起こして、まだボーっとする頭で視線を彷徨わせますが、外はまだ真っ暗のようです。早起きなんてレベルではなく、このままでは寝ていた時間より起きている時間のほうが長くなってしまいそうなほどでした。
くぁ、と欠伸が浮かぶのも仕方のないことでしょう。
そのまま少年らしい欲求に身を任せて再び夢の世界に飛び立とうとしたときでした。
何かが聞こえた気がして、ハルは布団に横になることを止めて耳を澄ませます。虫の声、風の音、木々が揺れて葉っぱが擦れる音、りんという鈴の音。
「……鈴?」
どうしてこんな夜中に鈴の音が聞こえるのか、ハルにはわかりませんでした。
ですが、どうしてかハルはその音に呼ばれているような、そんな感覚を覚えたのです。
……そういえば、目が覚めた瞬間もそんな感じがしたような。
眠気もいつの間にかさっぱりとなくなってしまっていて、赤く見える瞳はぱっちりと開かれています。
立ち上がって再度耳を澄ませてみると、鈴の音は境内の方から聞こえてくるようです。この時間の屋外は、このままの服装では心許ない……というよりも、間違いなく肌寒いでしょう。
そう考えて上着を一枚羽織ると、ハルは音を立てないよう慎重に部屋から抜け出しました。
廊下の窓から差し込む月明かりはとても明るくて、ある程度なら灯りを持たなくても散歩ができそうなほどです。
その月明かりを見て、ハルはやっとトールに聞いたことを思い出しました。
そして、思い出すのと同時に、廊下から境内が見える位置に到着しました。
ハルの視界には、見事な満月に照らされた境内が映っています……が、ハルの目には、それはまったく見えていませんでした。
白と、赤と、金色。
ゆったりとした、静かな動きでそれらが棚引いていました。
パーティで見たことがあるダンスとは動き方が全然違います。動作そのものは、手や足を伸ばしたり、ターンしたりと似たことのように思えるのですが、何かがはっきりと違うのです。
手が動く度にりんと鈴の音が響きます。手の中には見たこともない道具が握られていて、鈴はそれに取り付けられているようです。よくよく見れば、衣装にも僅かに鈴が装飾されているようですが。
BGMはその鈴の音と、あとは虫の声などの環境音だけです。それらに合わせているように、歌うような、語りかけるような不思議な声がハルの耳には聞こえていました。不思議、としか表現できないその声は、今までまったく聞いたことのないものです。なんと言っているのか、どういう意味なのか、さっぱりわかりません。
ハルが知らないのも無理はなく、それはこの世界では使われていないもので、紛れもなく日本語でした。それも彼が使っていたような現代のものではなく、古い言い回しを多く含むものです。
「……ホム、ラ……さん……?」
ハルは自分の心臓が強く跳ねるのを感じました。
やっとのことで絞り出されたその声も、完全に集中しているのか瞳は閉じられていて、反応は何一つありません。
しかし、そこで歌い、舞っていたのは間違えようもなく彼女だったのです。




