2 水の中で
「何だったの? 今のは」
ナナミは、何もなかったかのような顔をして、アンブレラをだいじそうにたたみながら、男の子のほうにふりむきました。
でも何だか、さっきとようすがちがいます。
すぐそこにあったはずの交差点もなく、あれほどたくさん走っていた自動車は、どこにもありませんでした。
そして、一番かわっていたのは、建物でした。
そびえ立つ背の高いマンションがないかわりに、そろいもそろって黄色いかべの小さな家々が、あちらこちらにならんでいます。
男の子のようすも、いつの間にか、かわっていました。
てかてかと赤く光る、おとぎ話の王子様みたいな、りっぱな服になった、男の子。腕や足元のところはぷっくりとふくらんでいて、ひらひらとなびいています。
しかし、そんなことより、はるかにふしぎなことがありました。
それは、ナナミの口から、あぶくが立ちのぼり、見えないほどはるか上のほうに、消えていくことでした。
(ここは、水の中?)
でも、ふしぎとくるしくはありませんでした。ほとんど空気みたいな水の世界です。
ナナミは、「きっと今、夢を見ているのね」と思いました。
男の子は、ナナミが考えていたことを見ぬいたのか、ナナミの目をじっと見て、
「いいや……これは夢ではないよ。君は今、金魚の『天国』にいるんだ」
と、言いました。
ナナミの頭の中が、ますます、ごちゃごちゃになりました。
(金魚の天国ですって? それこそ、夢みたいじゃないの)
きょとんとすまし、まるで石のようにかたまってしまったナナミ。その手を、男の子が引っぱります。
「とにかく、ここにいてはあぶない。さあ、こっちに来て。早く!」
男の子は、ナナミからピンクのアンブレラをとりあげて、走り出しました。
人目をさけて、町をぬうようにして進む、二人。やがて、目の前にあらわれたのは、とんがり屋根の、大きなお城でした。
二人は、お城の入り口、きらびやかで大きな門の前で、立ちどまりました。
「ここが、ぼくの家。さあ、中に入って!」
男の子にせきたてられるようにして、ナナミは、お城の門をとおりぬけました。
「そういえば、あなたの名前を聞いていなかった。あなた、だれ? もしかして、あなたも金魚なの?」
ナナミの口から、いきおいよく、あぶくが立ちのぼっていきました。
「ぼくの名前は……まあ、そんなこと、今はどうでもいいよ。とにかく君は、この天国のほかの人に、見られてはいけないんだ」
「それにしても、すごいお家――というか、お城ね」
「人間にかわいがられた金魚ほど、この天国では幸せな生活をおくれるのさ。そう、ぼくも、前は金魚だった」
「あなたは、よほどかわいがられたのね」
二人は、とてつもなく広くて赤や黄色の花でいっぱいの庭を、かけぬけていきました。
かたくて重いとびらを開いてお城の中に入ったナナミは、そのあまりのようすに、見とれてしまいました。
そこかしこにしきつめられた、赤いじゅうたん。
いくらでもはしゃぎまわれるような広い部屋に、ぴかぴかと光る白いかべ。
(もしかして、ほんとの王子様?)
二人は、ふかふかのじゅうたんや石の階段を、猫のように、音も立てずに上っていきました。
お城の二階にやって来た、二人。
男の子は、あたりをきょろきょろと見まわしたあと、すぐ目の前にある部屋のとびらを開けたのです。
「入って! ここが、ぼくの部屋だよ」
男の子が、ナナミの背中を、ぽん、と押しました。ナナミは、前につんのめるようにして、部屋の中へと入っていきました。
ふかふかのソファーにすわった、ナナミ。
男の子は、まだぬれたままのアンブレラを床に投げ出して、きゅうにそわそわしだしました。
「どうしたものかな」
広い部屋の中を、あっちへ行ったりこっちへ来たり。ナナミが、きょとんとした目で、男の子を見つめます。
「いったい、何がどうしたものなの? それに、『ここにいてはあぶない』と言ったけど、どういうこと?」
しつもんばかりのナナミに、男の子はこまったような顔をしました。
「ここは金魚の天国だよ。人間が、しかも生きている人間が、ここにいていいわけないだろ。だからどうやったら早く元の世界にもどれるか、考えていたのさ」
「かんたんよ! 私がここに来たのは……そう、そのピンクのアンブレラを、くるくるまわしたからでしょう? こんどはぎゃくにまわせば、元にもどれるんじゃない?」
男の子は、今度は自分の体よりも大きなためいきを、はあ、はき出しました。
「……そんなかんたんなことじゃないよ。ここから、ナナミちゃんの世界に行くには、たいへんな『魔力』がひつようなんだ。このアンブレラの魔力は、もうとうに、使いきってしまったからね」
男の子は、床にころがったアンブレラを、じっと見つめました。魔力を失ったせいか、ピンクの色がかすれたように見えます。
「えっ? ……どうして、私の名前を知ってるの? いったい、あなたはだれ?」
また、しつもんぜめの、ナナミ。
けれども、王子らしきその男の子は答えませんでした。ただ目をつぶり、だまったままです。
「ねえ、ちょっと、何とか言いなさいよ」
ナナミが、つめよります。
そのときでした。
男の子は、目をぱちりと開けると、自分の右手をナナミのおしゃべりな口に、そっとあてたのです。
「なっ、何する――」
「しっ……だれか来る。そのタンスにかくれて!」
耳をすますと、こつこつとろうかを歩く、くつ音が聞こえました。
それは、だんだんと近づいて来るようです。男の子は、アンブレラを、いそいでベッドの下にかくしました。




