光の舟
人肌の触れ合いの大事さは存じておりました。
けれど、言葉にして想いを伝えることも、とても、とても大事なのだとわたくしは知りました。
一艘の舟に似たバスタブの中で、実の兄であるにいさまに、わたくしは生まれて初めて、明確な言葉で告白したのです。
愛を。
罪を。
にいさまがあんなに手放しで喜ぶところ、見たのは何時以来でしょうか。優しくて甘い笑みは生まれても、幸福であるとあからさまにするような表情を、人は容易に作れるものではないのだと学びました。
完璧に見えるにいさまにも不安や恐れはあるのです。
わたくしが気付きさえすれば、もっと早く、にいさまの満面の笑顔が見られた筈です。
行為に言葉を合致させるまで、わたくしは長くにいさまを待たせてしまいました。
にいさまは言霊を催促せず、欠落を指摘することなく。
苦しみ月光を仰いでおられたかと思うと、自分の浅はかさと嫉妬深さが恥ずかしくてなりません。
悔やんで泣けば優しく慰められ、次は幸せに泣きました。
これでわたくしも真実、共に背負えます。
同じ羊水で育まれた二人、愛し合う罪を。
無数の音が水分を含み浴室に反響します。
夢のような心地で愛されながら、けれどわたくしは長い微睡みから覚めた気が致しました。
困難に怯むまいと思います。
この愛は苛酷を超えて、光の至福をわたくしたちにもたらすのですから。
寒い冬にも花は咲きます。
シクラメン、デイジー、ビオラ。
春の花にも負けぬ程鮮やかに。
物言わぬ花々が、困難に怯まぬ開花でわたくしを励ますようです。
寒風に強い美もあるのだと、わたくしはシークレットガーデンに立ち、厚い羊毛のストールを巻き直しながら笑んだ唇から呼気を洩らします。
シークレットガーデンとは、にいさまの名付けです。
とうさまとかあさまが去って二人になってから、にいさまはわたくしと住み良いよう、屋内、屋外を整えました。
調度品を変え、新しく花を植え。
部屋や庭を命名したりしました。
にいさまは特にバーネットが著した『秘密の花園』をお好きではありません。ヒロインの従兄・コリンのような我が儘な子供は甘えている、とさえ言っておいででした。
名付けの所以は只、わたくしとの愛が守られるように、というお心からでした。
「鈴子さん」
少し、怖いお声に顔を向けると、眉間に皺を刻んだにいさまが立っておられます。
襟が黒いフェイクファーの、わたくしのコートがその手にあります。
「風邪をひくよ」
「大丈夫です、ほら、陽が」
「風邪をひく」
「にいさま」
「貴女が病床に伏すのは、僕は」
美しいわたくしの魔魅が悄然とするのに耐えられず、わたくしはにいさまに飛びつき、フェイクファーに頬を埋めました。
にいさまと違い、わたくしは昔から、蒲柳の性質でした。
サナトリウムなどには行かないでくれよ、と、にいさまはよく、冗談で仰いました。
そうして、自分で自分の発言に囚われ、昏いお顔をされるのです。
わたくしたちは常に、相手の心身の状態に対して、存亡の危機を抱き、生きてきました。
わたくしはにいさまでもあり、にいさまはわたくしでもあるのです。
おかしいでしょうか?
人によっては眉をひそめられるかもしれません。
そのように、個の境界線を曖昧にすることは感心出来ない、と。
けれど。
ああ、純白の牡丹雪がにいさまの漆黒の髪に掛かる。
やがてにいさまの温もりに融ける雪。
屹度、幸せであろうと思うのです。
「ココアを作ったよ」
「はい」
「飲んで?」
「はい」
ほら、幸せ。
貴方の愛情に融けるのがわたくしの人生。
暖房の効いた居間の畳にぺたりと座り、白磁の中に息を吹きかけるわたくしを、にいさまが見つめておられます。
臙脂色を帯びた円やかな茶色の液体に、マシュマロを浮かべるのがわたくしは昔から好きでした。
じゅわじゅわと甘く沈む。
「美味しい?」
「はい」
わたくしの隣に胡坐を掻き、右手で頬杖を突いたにいさまの微笑にわたくしの胸が鳴ります。ココアのせいだけでなく頬が熱くなり、視線を彷徨わせてしまいます。
「今度、レストランを予約するから」
変わらぬ微笑でにいさまが告げます。
わたくしは白磁を両手で包んだまま、にいさまの動く唇を見ていました。
わたくしの。
「レストランですか?」
「うん。バレンタインの夜にしよう。僕は、聖人は好きじゃないけどね。恋人同士に特別感を演出することも必要だという風潮に、逆らう積りも無い。商戦の醜さには辟易するけど。フレンチとイタリアンなら、鈴子さんはどちらが良い?」
「にいさまと一緒なら、どちらでも」
「言うと思った」
微笑が、破顔に変わります。頬杖をやめて前髪を掻き上げ、にいさまは肩を揺らして笑っています。
「店を厳選して予約するよ。フレンチならレオの領分かな。…明日は、強く冷え込んでいなければ、散歩しよう。手を繋いだり、腕を組んだりして」
どうされたのでしょう。
今まで、にいさまはわたくしの外出をとても嫌がられていました。
時に二人で出掛ける際も、密やかな歩みだったと思います。
にいさまは、わたくしの当惑を見透かす瞳です。
「貴女は、喧噪は嫌いだろうし似合わないから、優しい場所に出掛けよう、これからは。外界に出よう。偶になら娯楽施設に行くのも良い。当たり前のカップルがするみたいに、夜の公園の木陰で、鈴子さんの唇を盗んだり」
「…宜しいのでしょうか」
「〝宜しい〟のさ。愛しているから」
さら、と気負わぬ口調の底。
揺るがぬにいさまの心が見えます。
「でも、」
「でも?」
「…心配です」
「何が?」
「にいさまは、…美しいから」
「――――――え?」
虚を突かれることの殆ど無いにいさまが、目をしばたたかせています。
にいさまはご自分の容姿が秀でていることを、ご存じないのでしょうか。
わたくしが、どれだけ気を揉んでいるか。
「沢山の、女性の方が、にいさまをご覧になるでしょう?それを見たら、わたくしは心配になるし、嫉妬してしまいます。そんなわたくしの醜さを、にいさまが目の当りにされると思うと」
冷めてきたココアに目を落とすと、髪を一房、掬われました。
「解っていないね。前からそんな気はしていたけど」
「何を、ですか?」
「人格を差し置いて顔立ちの美醜だけを論じるのは頂けないが。鈴子さんは美しいよ。恋人と身内の欲目を抜きに、客観的に見てもね。心配して嫉妬して醜さを露呈するのは、僕のほうだ」
「………」
「椿先生が言えば信じられる?」
「椿先生は、お優しいから」
「月太君が言えば信じられる?」
「月太さんは、お若いから」
「わっさん君が言えば?」
「わっさんさんは、お友達だから」
「…レオならどうだい?」
「レオさんは、紳士だから」
「お手上げだな」
とうとう、にいさまが噴き出しました。
わたくしの髪をくるくる、指に絡ませて。
「愛しい小夜啼鳥。実際のところ、僕は貴女の容貌より、心根の清さと美しさを愛している。清濁を知る僕には眩しい純真だ。だが、貴女はもう少し、世界を知ったが良いだろう。羽を動かしてみると良い。僕は隣で、案内人を務めよう。泥にレースのハンカチを被せ、隠すような真似はすまい。辛い思いもするだろう。…痛みを感じたら泣いて。僕は何時までも傍らにいるから」
世界とは、そんなに恐ろしいものなのでしょうか。
甘いココアにも一つまみの塩は入っています。
長く鳥籠にいたわたくしには、解りません。
先日の、政治家の方の言動は、確かにわたくしに打撃を与えました。
詰まる所、あれが世界の泥の一端でしょうか。
そうであるなら、にいさまが仰る通り、辛いです。
でもわたくしは、光の舟に乗っているから。
ハンカチで隠されなくても、もう大丈夫です。
「にいさま」
慈しむ双眸が無言で微動します。
「例えヒースしか咲かない荒野でも、わたくしは幸せを見出すでしょう」
貴方に逢えた世界だから。
今回はマシュマロのお題を、向上冴香さんと、にゃん椿3号さんから頂きました。
ありがとうございます。