月と陽と小夜啼鳥 五
夢を見た。
白い花びらが敷き詰められた一艘の小舟に、鈴子さんが横たわっている。
胸の上で手を組んだ彼女は、目を閉じて動かない。
長い睫はいつも通り実直に湾曲しているのに頬は薔薇色でなく、仄白く透き通っていた。
水晶のように蒼みを帯びてさえいて、僕は不安を掻き立てられる。
儚く美しく触れれば融ける雪のようで。
この手が彼の人に届いたのは真実であったろうか。
それこそが夢ではないかと。
童の如く所在ない心を嘲笑うように小舟は緩々、水面を滑り遠ざかってゆく。
僕の足は金縛りに遭ったように動かない。
魚さえ棲めぬのではないかと危ぶむ程に澄んだ水が、小舟を運び去ってしまおうとする。
鈴子さんが流刑に処せられるのではない。僕が打ち捨てられるのだ。
お前のこれまでこそが稀なる僥倖であったのだと処断されるのだ。
僕は神など信じていやしないが大いなる意思というものが実在するならば、僕を赦しはしないだろうと、それは疑いなく確信する。
あの純真無垢を貶めた、罪業に塗れた身なれば。
これは彼女が鳥籠から飛び立つ暗示だろうか。
籠と加護から、束縛から放たれる鳥を案じる人は知っているだろうか。
鳥籠もまた、鳥が在ってこそ成り立っていけたのだと。
鳥が去れば畢竟、瓦解する他に無いのだと。
今は瓦解するに相応しい季節だ。
夢も見ませんでした。
昨夜はにいさまの訪れとて無く。
寝具に守られていながらわたくしの心はひたひたと凍る一方。
一度だけ、足音が近づいた時は期待したのに。
それは部屋の扉の向こうで止まり、長い、長い時間しじまを保ったかと思うと、遠く去りました。
しじまと区別がつけ難いくらいに幽かな音を立てて。
にいさまに触れられない夜の長さは永久のようでした。
愛されない夜の長さは地獄のようでした。
暗涙を落とすとは、斯様な時にこそ用いるべき表現でしょう。
麻の布地が沢山、わたくしの涙を吸いました。
屹度、舐めたら海の味でしょう。
にいさまに舐めて、思い知って頂きたい。
麻布も、わたくしのことも。
つれなさへの悲嘆と恨みをぶつけるのです。
あの皓歯と舌と朱唇と指と、それから、それから…。
にいさまの綺麗な瞳が熱に潤んでわたくしだけを映して。
涼やかな肌がわたくしに触れる時には汗を含んで。
全てがすっかり浸透して虜となっているのです。
取り上げるなんて、酷いにいさま。
夜半過ぎ頃でしたでしょうか。
寝つけぬまま、ベッドから降りて金糸雀色のカーテンをふと開けたわたくしは、宙に浮く愛しい人の姿を見ました。
こちらに背を向け、月を仰いでおられます。
月光がにいさまに雲母のように綺羅と纏わりついていました。
かっ、と、わたくしの全身を燃やしたのは、月への嫉妬でした。
にいさまは、わたくしを訪ねる代わりに、月を訪ねていたのです。
カーテンを掴む手が震え、金糸雀色が歪みました。
〝貴女を解き放つから〟
何でもお出来になるにいさま。
完璧なにいさま。
月の女神にも愛されているであろう貴方。
もう、桜桃は、求められていないのかもしれません。