月と陽と小夜啼鳥 四
情報屋は縁の下の力持ちであると和正は自負しているし、働くのであれば、同じく彼の信念を支持する人間の意向に沿いたいと考えている。
清夜は理想的な依頼主で、長年に亘り信頼関係を築き上げてきた。
彼の人柄は知っている。
温情を知る清夜だが、鈴子との領域を侵そうとする相手には微塵も容赦しない。付き合いの深さ長さに因らず、すっぱり切り捨てられる。
だけならまだしもだが。
「神聖にして侵すべからず…」
ぐぴりと酒を飲んで呟く。
「なあに黴臭いこと言ってんだ?わっさん」
情報屋仲間の一人が赤ら顔で笑う。
その顔の、向こう斜め下。居酒屋の床をちょろりと走る色鮮やかな蜥蜴が見えた。
野卑な喧噪。
飲み過ぎれば悪酔い必至な安酒。
埃だらけの蛍光灯には寒気から逃げてきた蛾や小さな羽虫が集い、和正の周囲も先程から蠅がぶんぶんと煩い。衛生環境は劣悪だ。保健所は何をしている、など、叫ぶも虚しい。
清夜であれば平然と、悠然と居座るであろう此処も、鳥籠の中の鈴子には縁の無い世界だ。
知る必要は無いと、和正も思ってきた。
この世の表と裏、光と闇。遍く把握せねばならない義務が何処にあるだろう。
就く職務によってはその義務も生じるだろうが、汚水を見よ、と強要することには和正は疑問を抱く。
〝―――――瓶詰めの地獄よりはましかもしれない―――――〟
「…俺が死んだら母ちゃん泣くだろなあ」
「おいおい、わっさん。さっきから言うことが奇天烈だぜ。悪酔いかよ」
鳥籠でも離島でも瓶の中でも。
自分を取り巻く環境を鈴子が知っても尚、彼女には笑って欲しいと和正は願う。
どぶを徘徊するような人間だからこそ、光は光であってもらいたいと望みもするのだ。
空を仰ぎ、目を細めるようにして。
レオから渡された名刺を、和正は摘まんだ。
今朝は天から粉雪が散り、お客様もお見えでした。
以前にもいらした政治家の方です。上等であることを露骨に見せつけるようなスーツがその方の肉ではち切れそうで、わたくしは心配でつい凝視しそうになります。
するとお茶をお出ししたあと、その方がにたり、と笑われました。
「ありがとう、お嬢さん」
わたくしはなぜか声を出す気になれず、ただ会釈だけを返します。
「お美しい秘書さんがいらして、向神先生が羨ましいですな」
はははは、という笑いに、脂が滲み出ているように感じるのはなぜでしょう。
にいさまが目線で、早く行きなさい、と示されたので、わたくしはそのまま下がろうとしました。
ところが、トレイを持たない右の手首をその方に掴まれてしまいます。ぎょっとしました。
「お嬢さんもお座りなさいな。ほら、此処に。貴女が聴いたって拙い話じゃない」
「黒島さん。執政される方が率先してセクハラされてはいけませんよ」
にいさまは笑顔でお客様を窘めます。
けれど切れ長の瞳の、中央の眼球はまるで雪原のよう。
わたくしは思い切って右手をその方から取り返しました。不快な温もりが手首に残っています。
ち、と舌打ちする音が聴こえました。
「お高く留まって売り惜しみか。お宅の秘書は可愛げがありませんなあ!こんな女ばかりだから少子化に拍車が掛かるんだ」
わたくしは息を止めて、凍りつきました。
もっと凍り、凍てついたのはにいさまでした。
どん、とにいさまに蹴られたスパイダー・コーヒー・テーブルが、熱い緑茶の入った茶碗と一緒にお客様のほうにひっくり返りました。
けたたましい音。
「お引き取りください。黒島さん」
「な、何を、誰にむか、て、」
すう、とにいさまの目がより細く、より低温になりました。
粉雪さえ温かいと感じるくらい。
「失せろ俗物」
お客様が逃げるように立ち去ったあと、わたくしは居間の惨状に呆然と立ち尽くしていました。テーブルは無事ですが、茶碗は粉々です。
小さな可愛いクリスマスツリーと、飾りつけられたオブジェの一つである聖母子像が目に入ります。
〝少子化に拍車が〟
「鈴子さん」
「にいさま、ごめんなさい」
気遣う声に顔を上げると、その弾みで熱い雫が頬を滑り落ちました。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「違う、貴女が謝ることは無いんだ。あの男が人を使わず、直接うちに足を運ぶのは鈴子さん目当てだと薄々気付いていた。あそこまでの恥知らずとは思わなかった、僕の落ち度だ。泣かないで」
「――――――にいさま。鳥籠はいけないのですか?」
レオさんもにいさまも、いけない物のように言う。
「…鈴子さん」
「万人に、正当性を認められないのはいけませんか。幸せであってもいけませんか。とうさまたちには見放されたけれど、誰も傷つけてはおりません。それでも、陽光のもとにいられないというだけで、わたくしたちは責められなければならないのですか?」
すすり泣きながら訴えるわたくしの両肩を、にいさまは掴んでいます。
綺麗な眉が寄っているのが、涙で曇った視界に映ります。
「僕は、そうは思わない。少数派でも異端でも、さっきのような奴よりよっぽど人間が出来ている人はいる。…でもね。生き辛いのは、事実だ。僕は貴女にウェディングドレスも白無垢も着せてやれない。後ろめたさの無い平凡な幸福を約束出来ない。だから………」
にいさまが少し言い淀み、わたくしを引き寄せられました。きつく。
「外から鈴子さんを呼ぶ声があり。貴女がそれを慕わしいと思うのなら。…僕に言って。その時は貴女を解き放つから」
わたくしが振り向くと見開いた双眸に、にいさまの真摯で苦しそうで悲しそうな顔が飛び込みます。
どうして?
どうして?
死の淵に立つ人のような。
死神に呼ばれた人のような。
吐血しているのではと疑うような、そんな声で。
貴方からそんなことを言われなくてはならないの。
にいさまに、泣かされなくてはならないの。
貴方の言葉は呪いのようで。
言われる程にわたくしは凍えて。
羽が折られる心地がします。
――――――――――愛しているのに寒い。