ピアノと桜桃
わたくしは夢を見ております。
まだ、にいさまもわたくしも、幼い子供であった頃。
わたくしは、数えの六歳六月六日に、ピアノを習い始めました。
お稽古事を始めるに良いとされる日の、習わしの通りに。
とうさまとかあさまが奮発して買ったピアノはグランドピアノ。
大きな黒い艶やかさが、家の一部屋を占領しました。
鍵盤の前に座る小さなわたくしは、さながらピアノの小間使いのように見えたのではないでしょうか。
美しく響く音色。深い余韻が、子供の耳にもピアノを上質な物と知らしめました。
バッハのメヌエット、ガボット、ロンド。
わたくしは夢中になって、先生から出された課題曲を練習しました。新しいお友達が出来てはしゃいでいるような状態だったかもしれません。
にいさまは、そんなわたくしを醒めた目で見ておられました。
ピアノがうちに来て、わたくしが鍵盤に触るようになってから、にいさまがわたくしを見る目は大抵、そんな風でございました。
わたくしは大好きなにいさまに嫌われたかと、悲しい思いを致しておりました。
ピアノを習い始めて半年程が経った冬の夕暮れ。
わたくしはモーツァルトのアングレーズを弾いておりました。
物憂く、哀愁を帯びた美しい旋律は、どこかにいさまを思わせて。
わたくしの大好きな曲でした。
自分の生む音色にうっとりと浸っていたわたくし。
大好きなにいさまに浸っていたわたくし。
ピアノ室にいつの間にかにいさまがいらしていたことにも気づきませんでした。
心ゆくまで弾いて満足したわたくしに、にいさまが声をおかけになりました。
〝鈴子は、ピアノが好き?〟
〝はい。好きです、にいさま〟
そう答えたら、またにいさまの目が、冬の空気に近付きました。わたくし、胸のあたりがすう、と冷えたように感じました。
〝僕よりも?〟
質問の意味が解りませんでした。
わたくしは誰より何よりにいさまが好きでしたから。
解り切ったことを尋ねられ、当惑したのです。
〝にいさまのほうが、ずっと好きです〟
そう答えると、にいさまの目は春になりました。
歩み寄り、まだ鍵盤に置かれていたわたくしの手を取って、はあ、と息を吹きかけます。
―――――――温かい。
とうさまにもかあさまにも鬼子と罵られるにいさまは、いつもわたくしにはとびっきり優しくしてくれるのです。
〝唇が、赤いね。鈴子〟
ピアノを弾き続けて、血色が良くなっていたのでしょうか。指がかじかんでは弾きにくいこともあり、ピアノ室の暖房も強めに入れてありました。
〝桜桃みたいだ〟
〝桜桃は、好きです〟
夏に、透明の切子硝子の鉢に盛られた赤い果実の贅沢は、幼かったわたくしの心を躍らせるものでした。
妙な間がありました。
〝鈴子の桜桃を食べても良い?〟
ああ、夏になればそうしよう、とわたくしは思いました。
大好きなにいさまになら、桜桃を譲っても惜しくはありません。
〝はい。鈴子の桜桃を、にいさまに差し上げます〟
するとにいさまは目を細め、睫を微細に震わせて、どこか切なそうに笑われました。
温かい息が唇にかかって塞がれた時、わたくしは忘我の心地でした。
触れる時は慎重だったそれが、重なり合った途端、しっかりと吸いつきました。
にいさまの綺麗なお顔が間近にあります。
ちゅく、と音を残して、お顔が遠くなりました。
後ろめたそうなお顔で、にいさまがわたくしを見つめています。
〝にいさま?〟
〝ごめんね、鈴子〟
謝罪の意味が、まだわたくしには解っておりませんでした。
唇。わたくしの。にいさまのと、重なった―――――――。
桜桃。
〝にいさま〟
〝…何だい?〟
〝次はいつ、食べてくださるのですか?鈴子の、桜桃を〟
にいさまが目を見開きました。
〝いつでも。――――――鈴子が望むのなら、いつでも〟
わたくしの中で赤い熱が芽吹いたあの時。
「鈴子さん」
呼ばれて、わたくしは目を覚ましました。
にいさまの腕の中で目覚めるたび、幸福を感じます。
「寒くない?」
この上もなく優しい声は、あの頃と少しも変わりません。
わたくしは答える代わりに、身体をにいさまに摺り寄せました。肩の尖りがにいさまの胸に当たります。
「夢を、見ていましたわ…桜桃の……」
まだ寝惚けながら、にいさまに話します。
にいさまはすぐ、思い当たったようでした。
「…後悔しているかい?」
桜桃の日から、わたくしたちは少しずつ、兄妹の垣根を超えてゆきました。
恐らくはとうさまとかあさまが、わたくしを兄離れさせる為に買ったグランドピアノの下で、数年後の月の綺麗な晩、わたくしたちは結ばれました。
「後悔したことなど一度もございません。にいさま」
にいさまの顔に、柔らかな微笑が波のように広がります。
何も身に着けていない身体を、同じく裸身のにいさまが抱き締めます。
肌と肌が余すところなく密着して。
呆気なく、また火照り始める。
わたくしだけではございませんわよね、にいさま。
にいさまがわたくしを抱く腕の力強さに、陶然としてしまいます。
どうぞいつまでも離さないでくださいませ。
「もう、朝なのにね」
「ええ、朝日が、綺麗ですわ…」
「ああ、綺麗だ」
口では褒めながら、互いに、朝を恨めしく思っているのは解っております。
「朝だけど。鈴子さんの桜桃を食べても良い?」
「はい。にいさまに差し上げます」
この日は結局、昼近くまで、わたくしたちは桜桃を食べ合って過ごしたのでございます。