恋する少年 二
聞くところによりますと、月太さんは師である椿龍鳳先生が漂泊の旅に出られた後、その家で猫の面倒を見ながら、他の日本画家の方の助手などをして、画業の研鑽を積んでおられたそうです。中には表具師さんに遣いに出たり、画材を購入するなどの雑用もあるとか。雑用と申しましても、おしなべてその道に詳しくなければ出来ないことであり、つまり月太さんは師に置いて行かれたあとも、立派に一人で絵の道に邁進しておられたのです。月太さんは十七歳におなりです。その年齢で自分の目標に向かい、独立独歩で歩んでおられる人は、そう多くはないのではないでしょうか。
「お相手は画材屋の娘さんか」
こくり、と月太さんが顎を引きます。
レオさんがコーヒーを一口飲んで、ふむ、とおもむろに頷かれました。
にいさまがげんなりしたお顔です。
そうなのです。
いざ、月太さんが相談を始めようとしたところで、測ったようにレオさんがお出でになったのです。いつものように呼び鈴の猛攻を受け、扉を開けたわたくしに、恐らく先だってのお花屋さんで仕入れたのでしょう、とりどりの花束を差し出して、「ボンジュール」と太陽のような笑顔をお見せになりました。そう言えば今日は土曜日。お仕事もお休みなのでしょう。にいさまが、さも嫌そうな顔でレオさんをご覧になった目は、月太さんがにいさまを、普段ご覧になる目にも似ています。
並べば太陽と月のように見目麗しいレオさんとにいさまなのに、にいさまはレオさんを疎んじておいでなのです。
そうしてレオさんはそんなことにはお構いなしで、居間に堂々と居座ってしまわれました。本来であれば依頼の会談中に第三者が同席することは許されないのですが、レオさんは月太さんと面識があり、月太さんはレオさんの同席を受け容れられたので、もうにいさまがとやかく言うことは出来なくなってしまいました。
わっさんさんが、口許を押さえて笑いを堪えておられます。
「名前は園枝宮子。月太君より年少の今年で十六歳。私立四案高校に通いながら家の手伝いをしている、と」
にいさまが事務的な口調で念を押すと、月太さんもこくりと頷かれます。
「園枝さんは僕より年少と思えないほど大人びていて、その、綺麗なんです。日本画の画材にもとても詳しくて、時々、僕と話が弾む時はお茶も出してくれます」
「何だ、両想いじゃないか。アムールだよ、ムッシュ月太」
「黙っていてくれないか、レオ。そう簡単に行かないから、月太君もうちに来たんだろう」
アムール。フランス人が好まれる愛。
とかく大らかにそれを表現するレオさんを、にいさまがじろりと睨まれました。
「ん? はっはーん」
「何だ」
「今、君の中の鈴子が見えたよ。二人がそう、恋人になる前の――――」
「黙っていたまえ」
にいさまが宙を飛ぶお力をお持ちなら、レオさんは人の心に浮かぶものを見るお力をお持ちです。にいさまは月太さんのお話から、わたくしと、まだ真実、普通の兄妹であった頃の、内に秘めていた懊悩を思い出されたのかもしれません。
「向神さんの仰る通りです。ある日僕は、胡粉と岩絵具を買いに、夕方過ぎに店を訪れました。そしたら、店の裏手に園枝さんの姿が見えて、誰か、男性と逢っていました。人目を忍んだ、親しい様子で。僕は見てはいけないものを見た気持ちで急いで引き返しました」
「ほう。それは気になるね。月太君が思い悩む気持ちも解る」
「調べてみましょうか」
「頼むよ、わっさん君」
「あの、依頼料は」
「出来高払いで。ちなみに言うと、出世払いで良い。……君の描く絵が僕は好きでね。椿先生とはまた違った趣がある。きっと大成するだろう」
にいさまが月太さんをご覧になる目には温かなものが宿っていました。
そしてそんなにいさまを、日頃は毛嫌いしている月太さんが、深く頭を下げたのです。
「お願いします。向神さん」
わたくしは思い出します。
月太さんに頼まれて絵のモデルになった時のことを。
月太さんは恐ろしいくらいに真剣に絵と向かい合っておられました。
わたくしは薔薇の模様が染め抜かれた紺の浴衣を着て横座りになっていました。
出来上がった絵は、当初、月太さんにわたくしを描かせることを渋っておられたにいさまが、沈黙するものでした。にいさまは沈黙のあと、ようやく月太さんにありがとう、と一言仰いました。思えばそれが、にいさまが月太さんを認めた瞬間だったのやもしれません。
絵の中のわたくしは、わたくしと思えないほど淑やかな婦人でした。
真珠のような肌は薄青みがかって、軽く開けた唇の間からは今しも言葉がこぼれ落ちそうでした。目はどこか遠いところを見るようで潤み、恋する風情が全体から感じられました。
わたくしはそこにわたくしの真実を見たのでございます。




