消えた即妙筆 三
消えた即妙筆 三
豪壮な銀山邸の威容が、出る時にはくすんで見えるのだから人の心とは不思議だ。
多少、釈然としない点は残るものの、龍鳳の即妙筆を持ち帰るという大役を無事に果たせる喜びに、月太の足取りは軽かった。
横を歩く清夜が日頃程に不快ではなく、寧ろ頼もしくも感じられた。
例え眉をひそめる性癖があれ、強く賢い男に憧れるのは世の少年の常だ。
銀山邸の長い煉瓦塀を曲がると、そこに彼らを待ち受けるように立つ人影があった。
「あ」
「おや、わっさん君」
さくりさくり、と油に光る右手に持ったクロワッサンを食みながら、糸目の青年が愛想笑いをした。
「向神先生。首尾は如何でしたか?まあ、訊くまでもありやせんわな」
清夜も不敵な笑みを返す。
「上々だよ。ちょっと俗物に急接近しなければならなかった胸の痛手は残っているが…」
「そのあたりは、妹君に?」
糸目がちらりと光る。
「無論、僕を慰められ得る女性はこの世にただ一人だからね」
「………」
クロワッサンの香りと会話の内容の濃厚さに月太は酔いそうだった。
わっさんは名字不詳の情報屋だ。
和正と言う名前とクロワッサンをいつも貪っていることから、この業界では「わっさん」の通り名で知られている。
清夜がしばしば彼を使っていることを、月太も知っていた。銀山邸に向かう前、予め、わっさんから捜査に役立ちそうな情報を入手していたとしても不思議ではない。
(―――――ん?)
「…向神さん。もしかして、わざと待ち合わせに遅刻しました?」
「月太君。探偵も社会人の端くれなら時間厳守が鉄則だ。うっかりやへまであんなに遅れると思うかい?」
「悪びれろよっ、待ってる間に日焼けしましたよ僕!?」
「ははは。精悍になってモテるかもしれないね」
「おいっ」
「――――――時に先生、葡萄酒も結構ですが…」
するりとわっさんが会話に割り込んで来る。
茶髪にヘアピンをたくさん着けた柔和な顔立ちのわっさんは一見中性的で、柔らかな声もそよ風のように違和感なく話に混じり入る。
「うん?」
「いや、俺は甘党なんで。蜂蜜やシロップなんかも良いように思うんですよ」
「ほう…」
清夜の目が見開かれる。
「んぎゃ――――!!変態いいいっ」
月太が吼えた。
今が満月であれば空に向かって吼えたかもしれない。
清夜を見直そうとしたことを月太は激しく後悔した。
自分が偏見を持っているのではない。
清夜が紛う方なき変態なだけなのだ。
「んぎゃ――――!!」
月太は吼えながら、しかし龍鳳の即妙筆だけはしっかと抱いて、脱兎の如く清夜たちから遠ざかって行った。
月太の姿が小さくなってから、清夜が微苦笑する。
「遊び過ぎだよ、わっさん君」
「先生こそ合わせられたじゃあないですか」
「まあね。あのままだったら時間の駆け引き云々の説明まで、彼にしなければならなかっただろうから。…彼はまだ若い。一度に得る知識はそこそこでないと、容量を超えてしまうよ」
「先達ですねえ…」
わっさんは清夜の言葉に感心したように頷き、またさくり、とクロワッサンを齧る。
「で、蜂蜜やシロップは矢張り却下で?」
「いや?考え中だよ?」
椿龍鳳の家に帰り着いた月太は半べそ状態だった。
龍鳳が慌ただしく彼を迎え入れる。
「おお、月太君。大丈夫だっただろうかよう?銀山さんに苛められてしまったのかよう?」
「椿先生ぃ~。あの、変態があ、変態があぁぁ、」
「あ、あああ。そっちだったのかい…」
龍鳳は何となく察した。
「でも!即妙筆はこの通り!持ち帰りましたっ」
アトリエに招き入れられてから、それだけは意気揚々と掲げ見せる。
燦然と輝く螺鈿細工の筆を見て、龍鳳が眩しそうに目を細め、唇を綻ばせる。
「おお、月太君。ありがとう、ありがとう。私がうっかり忘れ物したばっかりに苦労を掛けたのだよう……」
「いえ、先生。それがですね…、」
月太は龍鳳の出した冷たい麦茶を飲んでから、事の顛末を説明した。
龍鳳は目を丸くしてそれに聴き入った。
ついでに言えば龍鳳のモデルになるべくアトリエに集まっていた猫たちも、付き合い良く目を丸くしていた。
目のどれか一つや二つ、落っこちそうな具合であった。
「何とまあ…。銀山さんは欲張りさんだったのだねえ」
「はい!それで、向神清夜はド変態でした!」
いきり立ち、振られる月太の拳を猫の視線が右に左にと追う。尻尾も一緒に揺れている。
「ま、まあ、月太君の奮闘もさることながら、向神さんのお蔭もあってこうして筆が無事に戻ったのだからね。謝礼お支払いの件も含めてお電話しておこう。それで、私は今から画業に専念するとして、個展に出す絵が仕上がったら、夜はおでんでお祝いしようじゃないか!私が腕を振るうのだよう!」
おでんは月太と龍鳳の好物だ。
まだ季節的にはやや早いが、月太の目は喜色に輝いた。
「わあ、先生のおでん!じゃあ僕、午後は具材の買い出しに行って来ますね」
「うんうん。私は合間を見て出汁を作るよ。これでも女子力は高いのだよう!」
龍鳳は左手で猫の丸めた背中を撫でながら、右手でガッツポーズを作る。
いずれも華奢な作りの手は、成人女性然としている。
身体の凹凸を隠す渋い和装をしていなければ、彼女がご近所の奥様たちに男性と勘違いされることもなかったかもしれない。
BLどころか、龍鳳と月太は女性と男性であり、更に言うなら叔母と甥だった。
向神家の兄妹と違って極めてノーマルな関係である。
女性となると未だ軽んじられやすい閉鎖的な日本画の世界で、龍鳳は敢えて厳めしく、男らしく振る舞うことで、侮られまいとした。月太も進んでそれに協力している。
しかし日本画家・椿龍鳳が女性であることは、実は公然の秘密で、同業の画家たちも本当は知っている。
知ってはいるが、龍鳳と月太の空回りの努力を無にするのも気が咎めて、皆で気付いていない振りをしているのだ。
そして龍鳳と月太だけが気付いていない振りをされていることに気付いていない。
「おでんの主役と言えば大根なのだよ!」
「いえ、牛筋ですよ!」
「月太君は若いのだよう、ふふふ」
なー、と猫が鳴く。毛繕いをしたり、月太や龍鳳の身体に擦り寄ったりしている。
平和なおでん論を、猫たちと即妙筆が聴いていた。