名残の色 四
にいさまがおられない中、ぎこちない空気を意地でも許すまいとするかのように、かあさまが頻りにお話しされ、場を盛り上げようとされます。それでもやはり、どこか言葉は上滑りして、わたくしの耳にただ入り、出てゆくのです。大好きないくらの軍艦巻きも、うにも、味がよく感じられませんでした。とうさまは、何と申しましょう、全てを穏やかな諦観で受け容れる菩薩のような顔で、かあさまの空回りを見つめておいででした。そこに、まるで娘に注ぐかのような慈愛があることに気付いたわたくしは、かあさまの話になるべく耳を傾ける徒労に等しい努力をしました。かあさまは満足そうでした。矛盾するようですが、欠けたものの感じられる満足でした。
かあさまは満ちておられない。
喋れば喋る程にすうすうと冷える空虚さを、かあさまもまた、感じておいでなのです。わたくしはかあさまを哀しいと感じました。
ちぐはぐな晩餐の終わり頃、とうさまが吐息のように洩らされました。
「清夜もいれば家族揃ったのにな」
わたくしはその言葉に思わず目を潤ませ、かあさまは、不快な面持ちになられました。けれど次の瞬間、そんな自分を取り繕うように、憂いの仮面を被られたのです。
「本当にそうね」
その言葉が、頬に手を当てる仕草の演技が、堂に入っているだけに、わたくしの心は冷水に浸されたようになるのでした。
にいさまがおられない。
わたくしは此処で何をしているのでしょう。余命僅かなとうさまの為に、かあさまの望む家族という虚像の為に、愛する人を疎かにしています。にいさまは独りで眠られるのでしょう。わたくしは葡萄酒を受けられません。
葡萄酒を恋うていた時、鳴った呼び鈴に、わたくしは腰を浮かせました。かあさまを制して玄関に向かいます。ドアスコープを覗いてわたくしは目を丸くしました。すぐに扉を開けます。
「鈴子さん」
「にいさま」
おいでにならないとばかり思っていたにいさまが、闇夜の中、夜を従えるように立っておられます。気配を察してとうさまとかあさまも出てこられました。かあさまは、複雑な面持ちで。とうさまは、微笑を湛えて。にいさまを迎えられました。
「父さん、母さん。ご無沙汰しております」
「元気だったか? 清夜」
「はい。お蔭様で」
やや硬い口調のにいさまに、とうさまがやんわり話し掛けられます。かあさまは、にいさまから目を逸らしていました。かと言って、追い返すことも出来ないのでしょう。にいさまは招き入れられ、わたくしたちはそれぞれ、別室を与えられました。にいさまはお食事を済ませてこられたそうです。わたくしは入浴がまだでしたので、お風呂を頂きました。
わたくしに供された部屋は南に面した、穏やかな色合いの家具が置かれた部屋でした。如何にも女性的な内装に、かあさまがわたくしの来訪を心待ちにしていた様子が窺えます。軽いノックの音がして、応じるとにいさまが入ってこられました。わたくしはもうずっとにいさまに逢いたかったので、にいさまが部屋に入られるなり、その胸に飛び込みました。にいさまの匂い。微かに甘くて、ほんの少しだけ渋い。葡萄酒のよう。
その晩、わたくしとにいさまは互いにくるまり合うようにしてベッドで眠りました。にいさまはわたくしを緩く抱いただけで、それ以上のことはしようとなさいませんでした。きっとこの行為はかあさまに見られていると思いながら、それでもわたくしはにいさまの温もりに安らいだのでございます。




