名残の色 三
その家は、わたくしとにいさまが暮らす家に比べて小さな、普通の民家でした。かあさまたちは、広い邸宅でにいさまと同居するより、慎ましい家に落ち着くことを良しとされたのです。
わたくしはかあさまたちの心情に胸を痛めました。
車で長く走ったあとです。
もう空は茜を紺色が上塗りしています。
小さな星を数えて、わたくしはかあさまに連れられ、家に入りました。家の扉は木製で、ドアスコープの下に真鍮の、飾りのノッカーがついておりました。ライオンの口から輪っかが下がっています。かあさまたちの変わらぬ美意識を見る思いでした。
わたくしには実家に帰ったという実感が湧きません。初めて訪れる家ですから、当然かもしれませんが、それ以上に、にいさまのおられない空間を、家と思うことはわたくしには困難だったのです。
スリッパを履いて廊下を進みます。
馴染みのない匂いの家。
やはり他人の家だと感じてしまうのです。
居間に行くと、とうさまが籐の揺り椅子に座り、庭を眺めておられました。膝には水色の薄い毛布。
足音に、こちらを振り向きます。
記憶の中のとうさまより、幾分かやつれたとうさまが、優しい目でわたくしを見られました。
「鈴子……。来てくれたのか。息災だったか?」
「はい、とうさま。とうさまは、」
その続きの言葉を上手く発することが出来ず、わたくしは息を吸って、吐きました。
とうさまが笑うと、目尻に皺が寄りました。
「見た通り。情けない体たらくだよ」
「そんな」
「今日はお寿司を取ったのよ。鈴子が帰ってくるから。貴方も、たくさん食べてくださいな」
かあさまが、湿っぽくなりそうな空気を振り払うように、明るい声を上げました。
にいさまがおられないのに、家族の団欒を演出されようとしているのでしょうか。わたくしはぼんやり、そんなことを思いました。置手紙を見たにいさまは、どう思われるでしょう。
「清夜は来なかったんだな」
とうさまのこのお言葉は意外でした。てっきり、とうさまもにいさまを歓迎しないと思っていたのに。かあさまから苛立ちのような気配が発せられました。
「あの子は来たがりませんよ。どうせ」
なぜそのように、吐き捨てるように仰るのでしょう。
にいさまを蔑ろにするかあさまの心が、わたくしを悲しくさせます。
かあさまは取り繕うように笑顔で、さあ、食卓の準備を手伝って頂戴、とわたくしに言われました。
とうさまの病んだ弱く優しい笑みが、わたくしを縛りつけます。
「先生、こんなところで呑んでて良いんですか」
和正の問いに清夜はすぐに答えず、ジントニックに口をつけた。
照明が淡く幽かなバーのカウンターに、二人は座っている。
「鈴子さんの、親への思慕を邪険にする訳にも行かない」
「鈴子さんはご両親より先生を想っておいでですよ」
「そう。その確信がまだ、僕に幾許かの余裕を持たせている」
和正はグレンターナー・ヘリテージの琥珀を口に含み、糸目で清夜を見遣る。
「お父上は脳に腫瘍があるそうです。切除不可だとか」
「……」
「俺なんかがこんなこと言うのも僭越ですが、鈴子さんのご両親は、先生のご両親でもある。後々、後悔されないようにしたが良いですよ」
「僕は彼らにとってモンスターだ」
「死を目前にした人間は、寛容にもなるもんです」
清夜は再びジントニックを呑み、沈黙した。
写真提供:空乃千尋さんより




