名残の色
気づけばはや盛夏も過ぎ、茜に透き通った夕景とすだく虫の音が耳に触れる夜が巡りくるようになりました。
夕焼け小焼けの赤蜻蛉
負われて見たのはいつの日か
居間の掃除を終えたわたくしは、小さく口ずさみました。赤い光が西より射して、居間を淡い茜に染めます。
こんな郷愁を誘う時間には、とりわけかあさまのことを思い出します。
かあさまはお優しい方でした。
かあさまは弱い方でした……。
にいさまの、浮遊のお力を、何より怯えられたのはとうさまよりかあさまでした。にいさまを鬼子と忌み嫌い、嫌悪し、疎外されました。わたくしにはあんなにお優しいかあさまでしたのに。
お優しくてお美しくて。
にいさまをさえ大事にしてくだされば、わたくしの自慢のかあさまでしたのに。
人の心は繊細な玻璃の細工にも似て、殊に自分以外のそれはいっかな思うように参りません。わたくしがどんなに言葉を尽しても、かあさまを変えるには至りませんでした。
グランドピアノの下で、わたくしが初めてにいさまと揺蕩ったことを知ったかあさまのお顔は、今でも忘れられません。あれは、わたくしまで堕ちたのかと言わんばかりの、糾弾の眼差しでした。かあさまはわたくしに触れようとして、思い留まり、それから歪な笑顔を作り、無理矢理わたくしに触れました。その硬直した手の重く、痛かったこと。石膏でもこうはあるまいとわたくしは思いました。
なぜでしょう。
わたくしには今までの過程に何ら不満はございませんのに、とうさまもかあさまも、それどころか時折、にいさまでさえ、わたくしを哀れんでおられることが解るのです。
わたくしはスパイダー・コーヒー・テーブルの上を執拗な程、念入りに吹き上げます。
そうしてその玻璃の表面を見つめて、そっと人差し指をつけました。わたくしがここにある証の指紋。にいさまは気付かれるでしょうか。
仕事で今日は少し遅くなると仰っていたにいさまの存在が、堪らなく恋しく、また恨めしくなるのはこんな時です。
にいさまはわたくしを独りにしてはいけないのです。
それはわたくしにとっての不文律でした。いえ、わたくしたちにとっての不文律の筈でした。
どこかにいさまを彷彿とさせる、玲瓏たる銀色の正三角形の時計に目を遣ると、午後の六時半を指していました。時計の微かな音を、今のわたくしの耳は鋭敏に拾い上げます。
わたくしはわたくしの唇をなぞります。にいさまが食される桜桃を。乾燥の為か少しかさついていて、わたくしはにいさまが帰られる前にリップクリームを塗ろうと思いました。
わたくしを阻むように鳴った呼び鈴に、わたくしは玄関へと足を向けました。
にいさまからは不用心に戸を開けないように厳重に言いつかっています。
インターフォンの映像を見たわたくしは、細く息を吸いました。
朽葉色のツーピースを上品に着こなした妙齢の女性。
かあさまが立っておられました。
写真提供:空乃千尋さん




