蒼の失踪 六
水面がゆらゆらと揺れています。日光を弾きながら。
砂浜を歩くわたくしは、寄せては返す波を見て、それから波打ち際に視線を落としました。海より流れ着いた物を拾ってはいけないと、昔、にいさまから教わったことを思い出します。それは凶を運んでくるから、と。
それでは何処かへとにいさまが流れ着いたのだとしたら、にいさまもまた、凶だということになるのでしょうか。
粗略な扱いを受けていないことをわたくしは祈ります。
この蒼の果てまでにいさまが行ってしまっても、わたくしはにいさまの幸いを祈り続けるのです。
美紀は放課後、友人たちの遊びの誘いも断り、取るものも取りあえず急いで帰宅した。家に帰れば、あの人が、幻のように消え失せてしまっているのではないかと、そればかりを心配して。
彼のように浮世離れした美貌の持ち主を、美紀は見たことがない。そうして、浮世離れしているゆえに尚一層、憧れと、夢幻ではないかという不安が募るのだった。退屈な漁師町の田舎に、辟易していた思春期の少女にとって、彼の存在は唐突に現れた奇跡だった。坂道を転がるように駆け下りる。途中で糸目の、ヘアピンを髪に何本も着けた、この町には珍しく垢抜けた風貌の若い男とすれ違ったが、逸る美紀の目には留まらなかった。
「お母さん、ただいまあ。あの人は?」
息せき切って辿り着いた我が家の玄関の引き戸を開けるなり、美紀の上げた第一声はそれだった。背中にはすっかり汗を掻いてしまっている。夕食の準備をしている母の返事を待たず、美紀は居間に駆け込んだ。
漆黒の髪と目をした青年が、にこやかに美紀を出迎える。
「やあ、お帰り」
低い美声が美紀の耳を打ち、それだけで美紀は至福の気分になる。
「ただいま」
それまでの勢いはどこへやら、美紀はしおらしく声を返し、学生鞄を置くとさりげなく青年の隣に座る。波打ち際に倒れていた彼の身体からは、磯の匂いではなく、もっと芳しい香りがした。それは美紀の知らない世界の香りのようで、それがまた彼女の憧れを強くした。
母がお茶を淹れてお茶菓子と一緒に持って来てくれる。
「早くおうちの人と会えると良いわねえ」
警察には青年を拾った旨、届け出ている。けれど美紀は冗談ではないと思った。この人を、帰してしまうなんて有り得ない。彼はこれからもずっと此処で暮すのだ。
青年が微笑む。得も言われぬ色香に、美紀の鼓動が早くなる。
「待っている人がいると思うんです。……待たせてしまっている人が。彼女に、僕は逢わないといけない」
彼女?
今、彼は確かに彼女と言った。この青年は妻帯者なのだろうか。それとも恋人のことだろうか。いずれにせよそのたった一言に、美紀の心は暗雲に閉ざされたようになった。警察に届けるなど、いっそしなければ良かったのだ。記憶喪失の青年に、無意識に存在を想わせる相手がいるなど、美紀には許容し難いことだった。彼が惹かれる程だ。屹度、美しい人に違いないと美紀は思い、まだ見ぬその女性に思わず嫉妬の念を抱いた。
この港町にクロワッサンを置くような洒落たパン屋など望むべくもない。
よって和正は、昼食に好物を食べること適わず、素朴なうどん屋で昼を済ませた。レオや鈴子たちは園山家で優雅な昼食を摂っただろう。朝から歩き通しで、彼もかなり疲弊していた。労の割に清夜に関して得られた情報はなく、無駄足となるだろうが警察にでも行ってみるかと考えていた。
朝には登校途中の学生たちとすれ違ったが、今は下校途中の彼らとすれ違っていることが、彼に時間の経過を実感させた。
今日一日でだいぶ日に焼けたなと思いながら、和正は額の汗を拭った。盛夏の頃である。鈴子が自分も清夜捜索に加わるなどと言い出さないで良かった。か弱い彼女に、照りつく太陽の下、徒労に終わるかもしれない行為をさせるなど、途中で倒れられるのが落ちだ。清夜の不在中にそんなことになっては、彼に面目が立たない。
和正の足は、近くの交番に向いていた。
人々の思惑をはるか遠くに置き、清夜は己を清夜と知覚していなかった。彼は気が付けば波打ち際に倒れていたところを、この家の住人に見つけ、保護されたのだ。清夜の内には面には出ぬ焦燥と寂寞があった。彼の胸にはぽっかりと大きな空洞が空いていた。そこを夏だと言うのに冷たい海風が吹き抜けるようで、心持ちだけを鑑みるなら彼は雪山の遭難者だった。
埋めようのない虚しさ。
子供時分から馴染んでいたようにも思えるそれを、確かに癒してくれる人がいた筈なのだ。温かく柔らかな腕を、朧げながら憶えている。
白くて嫋やかで。華奢な。
母ではない、という確信があった。両親という単語を思い浮かべても、清夜の心は何ら波打たない。只、それ以上を思い出そうとするとずきりとした頭痛がする。
美紀の学生鞄についた、ストラップの鈴の音を聴いた時もそうだった。何かを思い出しかけたが、頭痛に阻まれた。
清夜は美紀の熱い視線を感じながらそれに気付かぬ振りで、砂浜に続く庭先に出た。潮風が吹き、彼の漆黒の髪をなぶる。ふと遠方を見れば、白っぽいワンピースを着た女性がいた。何を想っているのか、彼女は砂浜に長く佇んでいる様子だった。
(暑気に)
暑気に当たらなければ良いが、と清夜は心配し、そしてそんな自分を訝しんだ。
彼女は、自分とは縁もゆかりもない他人だと言うのに。




