蒼の失踪 五
〝山のあなたの空遠く 「幸」住むと人のいふ〟
〝カアル・ブッセですか。にいさま〟
にいさまは薄い唇を微笑に形作り続きを諳んじられました。
〝噫、われひとゝ尋めゆきて、涙さしぐみかへりきぬ。山のあなたになほ遠く「幸」住むと人のいふ〟
その時のにいさまは、漆黒の双眸に青い空が映り、黒に空が溶けていました。にいさまは、塵界より放たれて、ゆきたいところがおありだったのでしょうか。
わたくしより放たれて、夢見る蒼がおありだったのでしょうか。
波涛の音が聴こえます。
目覚めたわたくしの目元は濡れていました。わたくしは緩慢な動作で起き上がり、生成のパフスリーブのワンピースに着替えると、カーテンを開けました。眼下には紺碧の海が広がっています。ユリカモメでしょうか、海鳥が舞うのも見えます。
「にいさま……」
滝川さんは、会社のお金を横領していたとレオさんは言われました。何でも賭け事で、暴力団に相当な借金を作った末の犯行だそうです。
レオさんの心には映像が浮かんだと仰います。
立食パーティーを抜け出して、海風に涼む振りをして滝川さんを誘い出し、真相を質されたにいさまのお姿。……崖下ににいさまを突き飛ばす滝川さん。にいさまのカフスボタンは、疑いを持たれていることを薄々察していた滝川さんが、予め盗んでおいたものだったということ。
今のところはっきりしているのは、滝川さんの罪科と、にいさまが行方不明だということだけです。レオさんにも目の前にいないにいさまのお考えまでは解りません。にいさまは滝川さんを警戒されていた筈です。安易に突き落とされる訳がない。転落したと見せかけて、どこかに身を潜めておられるのに相違ございません。けれど……、とわたくしは思います。わたくしに心配をさせると解っていて、未だににいさまが無事の便りなり何なりをくださらないことが解せないのです。
わっさんこと和正はその頃、海沿いの町を散策しながら清夜の手掛かりがないか探っていた。もし仮に、清夜が自発的に姿を消しているとするなら、どこかに潜伏している筈である。ぎゃあぎゃあと、海鳥の声が頭上でかますびしい。意図せずとも鼻腔は潮風を捉え、海町に来たのだという実感を色濃くする。
登校中の学生が白いヘルメットを被って自転車を漕いでいる。
思えば遠くに来たものだ、などと感慨深くそれらの光景を見遣りながら、和正は家々を見渡した。近隣の宿泊施設に清夜らしい人物がいる痕跡はなかった。あとは人家を残すのみだが、言うまでもなくこの家数である。木は森に隠せと言うが、本当に清夜が誰かの家に匿われているのだとしたら、その居所を突き止めるのは相当な難事である。鈴子たちが園山家に滞在するにも限界がある。和正はレオから、視たことの一部始終を聴いた。警察に協力を求められれば良いのだが、根拠が胡乱過ぎる。心を視ました、などと。
(鈴子さんが悲しんでますよ、先生)
清夜が消えてからの日数を思い、唇をきりりと噛んだ和正は、清夜の顔写真を手に訊き込みを開始した。地道に、虱潰しにでもこうする他、今出来ることは思い浮かばなかった。
数学の授業を受けながら、美紀の頭は数式など欠片も浮かんでいなかった。今、彼女の心を占めるものは唯一人。漆黒の髪に白皙の美貌。記憶を喪ったある男性だった。
木造家屋が海風を受け、どこからか隙間風の音を鳴らす。
ぴうぴうと。
庭先には魚の干物が並んでいる。
彼はその家の居間に座り込み、為すこともなくぼんやりしていた。何かすべきことが、会うべき人が、あったと思うのにそれは霞みの彼方のように遠く、思い出せない。
遠く……。
「山のあなたのそら遠く 幸住むと人のいふ」
口からこぼれ出たのは、詩の一節だろうと思われるものだった。おかしなものだ。自分は今、海町にいるというのに。遠く。遠くに自分は行ってしまいたかったのだろうか。だから記憶すら喪ったのだろうか。それでも彼は思った。この詩を口ずさんだ時、傍にいた人がいると。その人の面影が浮かばないことに、これ程に消沈しているのだから、屹度、とても大切な人なのだ。金で縁取られた、瑪瑙に曼珠沙華が彫られたカフスボタンの、片方だけがついたシャツを着て、彼は痛切にそう思った。
波涛は激しく、海風は鳴り止まない。




