ピンクの薔薇 二
すかさずレオさんの声が飛びました。
「そら、それが君のいけないところだ。他に関しては鷹揚な君が、鈴子のこととなると狭量になる。憶えているかい。昔、キャンパスでたまたま級友の兄弟・姉妹の話になって、話の矛先が清夜、君に向いた途端、春を思わせる微笑が一変、凍れる微笑となった。可哀そうに、何も知らない奴らは極寒の思いを味わわされたって訳さ」
「今はそんな話をしていないし、鈴子さんは物じゃない。うちはそんな商売をしてはいないよ」
にいさまがつんと顎をそびやかされると長い睫毛、通った鼻筋や赤い唇が強調され、あたかも高貴な女王、いえ、皇帝のような威厳が生まれます。大抵の方はそこですごすごと引き下がられるのですが…。
レオさんは怯みません。
にこやかに、月太さんに視線を向けます。
「こちらは?」
「日本画家志望の前途ある少年だ。玖藤月太君。生真面目だからちょっかいかけるんじゃないよ。月太君。こっちはレオ・リュシアン・ド・フォワ。僕とは腐れ縁の悪友、日本人とフランス人のハーフだ」
にいさまの悪意ある端的な紹介を気に留めず、レオさんは月太さんに手を差し出しました。
「ボンジュール、ムッシュ」
「ボ、ボンジュール」
月太さんがそっと手を握り返します。
「あの、鈴子さんを借りるってどういうことですか?」
にいさまの顔が苦味を増し、反対にレオさんの顔に喜色が浮かびました。
どうやらレオさんは、月太さんから陥落なさることに決めたようです。
「あの、ブティックが立ち並ぶ通りに花屋があるのを知っているかな」
「ああ、知ってます。お洒落な感じの」
「そう。実際、アレンジメントにもセンスがあって、顧客も上客が多い」
「もしかしてこの花束も…?」
わたくしが薔薇の香りに包まれながら尋ねると、得たり、とレオさんが頷かれました。
「ウィ。その通り。話の発端は、僕が母の誕生日にそこの花屋を利用したことから始まった――――――」
その花屋ならわたくしもにいさまもよく知っています。
妙齢の綺麗な女性店長が切り盛りしていることで評判でもありました。
「あそこの店長に惚れられでもしたかい?」
にいさまの言葉に、今度はレオさんが渋面になりました。大きな溜息。
「彼女の好みはワールドワイドらしい」
「それは良かった。お蔭で僕は秋波を送られずに済んだ」
「僕もイタリア人程ではないが情熱的なアプローチが嫌いじゃないんだけどね。かなり強引に迫られて困っているんだよ」
「お花屋さんを変えるとか、花を買わないという訳にはいかないのですか?」
レオさんの青灰色の瞳がちらりとわたくしに向かいます。
代わって口を開かれたのはにいさまでした。
「鈴子さん。外国人―――――特に欧州人にとって、花を贈る行為は日常茶飯事なんだよ」
「そう。そして僕は彼女のアレンジメントがとても気に入っている」
「……つまり、鈴子さんに恋人の振りをしろって依頼ですか?」
「却下だ」
月太さんの恐る恐るの問い掛けに、にいさまはにべもなく拒絶の言葉を述べられます。
するとレオさんが、目に見えて悄然とされました。
俯き、心なし金髪の輝きもくすんだようになり、彼を取り巻くいつもの圧するような華やかな空気が鳴りを潜めてしまいました。まるで日が陰ったようです。
わたくしは何だか可哀そうになり、にいさまを見ました。月太さんはレオさんを同情の眼差しで見ています。
にいさまはこうなることを見越していたという表情で、レオさんを睨みつけます。
「卑怯だぞ、レオ。月太君と鈴子さんの憐れみにつけ込もうなんて、せこい真似を。それがいやしくも貴族のすることか?」
「にいさま…」
わたくしがにいさまの純白のシャツに手をかけると、にいさまが困った顔でわたくしをご覧になります。
にいさまは昔から、わたくしの懇願を必ず聞き届けてくださるのです。
「セシボン!鈴子。とても美しいよ」
わたくしはピンクグレーのボウタイブラウスに、空色のフレアースカートを合わせました。ベルトは細いハラコの黒を選び、バロックパールのイヤリングを着け、腕時計は金鎖の華奢な物を選びました。その姿で、居間に出たわたくしを見たレオさんは、賛嘆の声を上げられました。
にいさまが複雑な顔をなさっています。
と、そのままツカツカツカとわたくしに歩み寄るといきなり抱擁されます。わたくしの目にはにいさましか映らなくなります。
活けられた薔薇の香りと慣れ親しんたにいさまの香りが混じり合い、鼻腔を支配します。
「…これは正式な依頼じゃないから。出来るだけ早く帰っておいで。今日は七夕だ。夜には天体望遠鏡で天の川を見よう。彦星と、織姫。僕と、貴女の逢瀬を楽しもう」
「見せつけてくれるなあ。そうか。今日は七夕か。清夜と鈴子は毎日会ってるんだから、どちらかと言うと彦星は僕じゃないのかい?」
そう言われるが早いか、レオさんはにいさまの腕からわたくしを奪うと、わたくしの片頬に口づけられました。
にいさまは殺気立ち、月太さんは先程から赤面のままです。
わたくしは嘘が苦手ですが、この頼みごとは是非とも早急に終わらせ、早くにいさまの元に戻らなくてはと思います。
レオさんがふふん、と鼻を鳴らしました。
「常に傍にいると慢心が生まれ、その内誰かに盗られるよ?清夜。その誰かが僕であったとしても、何ら不思議じゃないんだ」
そうして今度はわたくしの手の甲に口づけると、廊下へと誘われます。
「さあ、織姫。参りましょうか」