宝物
出向いた先には和風の、どっしりとした立派な構えのお屋敷が建っておりました。
二階建てで、近年に建て替えられたばかりか築年数も新しそうな。
庭に植えられた桜の大樹が、爛漫と花を咲かせています。松の艶々とした深緑もそれを引き立たせ、この家の繁栄を象徴しているかのようです。
わっさんさんもわたくしも、時折こうしてにいさまの依頼先に同行します。
わっさんさんはにいさまの情報屋さんですし、わたくしは秘書ですから。
それでわっさんさんから車中で、訪問先である咲洲家の内情を伺いました。
「咲洲の主人が先頃、後妻を迎えたそうで」
「ほう。確かやり手の会社役員だったな。迎えたのは後妻一人か?」
「いえ。十歳になる女の子の連れ子も一緒に」
「彼らの関係は?」
わっさんさんはハンドルを握りながら器用に肩を竦めます。
「円満ってことになってますよ。傍から見た限りじゃね」
「成る程。家族の関係性など外部からではそう解るものではない」
にいさまがうっすら微笑を浮かべ、どこか皮肉にそう仰います。わたくしは我が家を顧みて、やや悄然としてしまいました。
わたくしのとうさまとかあさま。にいさまのとうさまとかあさまでもあるお二人があの家にいらした頃は、仮初めにも円満の家族と見えていたことでしょう。
「怪盗の予告状が届いたのは?」
「一週間前。郵便受けに新聞の文字を切り貼りした物が入っていたそうです」
「古風なやり方だな。内容は?」
「〝近日中、お宅の貴い宝物を頂戴する〟と。それだけ。咲洲家は資産家ですからね。蔵には唸る程の古美術品が収蔵されています」
「ふうん…」
にいさまはそこまで聴くとふあ、と欠伸をされました。
凡人には理解出来ぬ難事をいとも容易く解いてみせるにいさまには、今の遣り取りだけで何か得られるものがおありだったのかもしれません。
咲洲家に着き、立派な和室に通されました。
欄間彫刻には流水が象られ、床の間には鮮やかにも和やかさを醸し出す菜の花が、灰色のひっそりした花器に活けられています。
程なくして一組の男女が見えられました。
「向神先生のご高名はかねがね伺っております。この度は依頼を引き受けてくださってありがとうございました。申し遅れました、私は咲洲哲男と申します。こっちは家内です」
「咲洲郁と申します。この度は主人共々、御礼申し上げます」
旧家の主と言うよりは、学者のように見える温厚そうな三十絡みの男性と、健康で善良そうな奥様です。今日は日曜日なので哲男さんも明るい時間帯からご自宅におられるのでしょう。
「いいえ。僕が『空玩具探偵事務所』所長の向神清夜です。こちらが秘書兼、妹の鈴子。彼は助手の和正君です。事のあらましは伺いました。今回は災難なことでしたね」
「災難が、起こらなければ、と思っているのですが…。何せうちの蔵にある物は代々受け継いできた由緒ある名宝ばかりで、一つでも盗まれると私は先祖に顔向け出来ません。予告状だけでは警察も動いてくれず。ここ数日は心細くて蔵の鍵も金庫に入れて保管しております」
「…つまり予告状で言う宝物とはお宅の蔵にある古美術品であるとお思いなのですね?」
「え?ええ。それは勿論。予告状をご覧になりますか?」
「では失礼」
にいさまはあからさまに興味のない様子で差し出された予告状に目を通されました。
ごくり、と唾を呑む音が聴こえそうな表情でにいさまを見守るご夫婦。
にいさまはしばらくその予告状を矯めつ眇めつしておられましたが、それをぱたりと卓上に置くとにっこり笑ってこう訊かれたのでございます。
それは凡そ事件とは関わりのないことでした。
「ところで僕たちの宿泊させていただく部屋はどちらでしょうか?僕と妹は同室で一向に構わないのですが」
翡翠色で楕円形のカフスボタンのついた袖をいじりながら。翡翠色には一粒、透明の金剛石のように光る石がついています。にいさまはカフスボタンに凝られます。
咲洲ご夫婦に驚かれてしまいました。
幾ら兄妹とは言え、妙齢の男女が同室を希望するというのに奇異の念を抱かれたのでしょう。わたくしは真っ赤になってしまいましたが、それを咲洲さんたちに勘繰られはしなかったかと、それが心配でした。
咲洲家の家屋は二つに大別されており、その間に渡り廊下がございます。
青い外の空気を吸いながらその渡り廊下を通る時、植えられた低木の間、大きなおはじきで遊んでいるおさげ髪の女の子を見掛けました。
屹度、あれがお子さんに違いありません。
そこまで思い至り、わたくしは、そのお名前を存じ上げないことに気付きました。
「あの…」
ところがこちらが何かを言う前に、彼女がぱっと振り向き、わたくしたちに問うたのです。
「お姉さんたち、探偵さん!?」
活発そうで、明晰そうな瞳が印象的な女の子です。
「そうだよ、お嬢さん」
「お嬢さんじゃない、律子よ。あたしは、律子」
「そうか、律子ちゃん」
にいさまに言い返す様も元気そのものです。
風に流された桜の花びらがひらと、律子さんの真っ黒なおさげ髪に落ちました。
「あ……」
わたくしはつい、律子さんの髪についた花びらを摘まみました。
律子さんは驚くでも気分を害するでもなく、わたくしを見ます。その視線は何かを観察するようでもありました。
「お姉さんも探偵の人?ねえ、お父さんたち、今度の予告状について何て言ってた?」
「とても心配していらっしゃいましたわ」
「……蔵の宝物のことを?」
「はい」
「そう」
律子さんは急に醒めた口調になると、わたくしたちに背を向け、またおはじき遊びに戻られました。
わたくしは何かいけないことを言ったのでしょうか。
「ぁあ………」
わたくしは借り物の浴衣で夜の帳の中におります。
宙にはやはり浴衣姿のにいさまが。
夜。紫紺の宵闇に浮く魔魅が。
しゅる、とわたくしの帯を引かれます。
「にいさま。いけないことですわ。余所のお宅でこのような……」
羞恥にわたくしは顔を赤らめました。
けれどわたくしの愛しい魔魅は聴いてくれません。
「知っているかい、鈴子さん。『いけないこと』程、人間の原初の欲求に訴えかけるものはないんだよ」
薄い赤の帯の向こうに透けて見えるは紫紺色。
紫紺色の向こうにはいけない企みを秘めた微笑。
どこかで遠い鳥の鳴き声がします。
もう夜だと言うのに。
もう夜だと言うのに。
にいさまとわたくしには夜の帳は恰好の隠れ蓑なのでございます。
いえ、この帳こそがわたくしたちの踊る舞台。
互いのみを映し酔い痴れる―――――――――。
只、今宵は鳴けますまい。