消えた即妙筆
新しい登場人物の視点から始まります。
消えた即妙筆
少年は、朝から台所に立ち、鍋をことことと歌わせていた。
出来上がるのは朝食ではない。
日本画の材料の一つ、ドーサ液と呼ばれる物である。
画材屋に行けば入手出来るが、何分、今は時間が無い。
膠三分の一本を三分の一リットルの水で煮溶かし、粗熱を取ってから明礬一グラムを入れる。
これが現在、少年・玖藤月太が師事する日本画家・椿龍鳳に求められている物であった。
個展に出す絵の品数が足りず、龍鳳は焦っている。昨夜も三時間程寝ただけで、早くから起きてアトリエに籠り切りだ。
月太はコンロの火を止めた。
「出来ましたよ、椿先生!」
「おお、月太君。待っていたのだよ」
アトリエの畳には猫の絵が散乱している。
椿龍鳳は主に絵を描く方面で名の知られた日本画家なのだ。
それゆえ庭先に集まる野良猫の餌付けをし、月太はその世話にまで明け暮れている。
「ううーん。ドーサ液は出来たとして、私は困っているのだよ、月太君」
「どうしたんですか、先生?」
龍鳳は、「画家」らしいスタイルに拘り、画号から喋り方から渋い和服から全て「それらしさ」を旨としている。必ずしも的を射てはいないのだが、月太は看過している。
龍鳳の才能を敬するゆえだ。
その龍鳳が困っている。是非とも自分が何とかしなくてはならない。
「愛用の即妙筆が見当たらないのだよ!」
「あの螺鈿細工を使った特注の!?」
「そうなのだよそうなのだよ、どうしよう?」
龍鳳がおろおろと狼狽えている。
龍鳳は殊にその筆を気に入り、それで描けば実力以上の画力を出せる気がする、と普段から口にしていたのだ。無理も無い。
その上、螺鈿細工を施した特注品なので、決して安くもなかった。
「先日、サロンに招かれた折に持参してくれと好事家に頼まれて、持って行って見せびらかし、いや、見せたのだが、以来、杳として行方が知れない。と、先程になって気が付いたのだよ!」
「サロンと言うと、銀山邸で開かれたあれですね。解りました。僕、お伺いして来ます!」
「月太君…っ」
二人してがし、と両手を握り合う。
こんな光景をご近所の醜聞好きの奥様たちが見ればまた、「日本画家と弟子のBL」と騒いで喜ぶかもしれない。
古式ゆかしい趣ある和風邸宅に住まう二人は、彼女らの妄想を掻き立てるに格好の存在となっていた。
「でも月太君一人では、ちょっと心配なのだよ。銀山さんはあくの強い人だし。…あ、『空玩具探偵事務所』に依頼してはどうなのだろうかよう?心強いだろうよう?」
龍鳳は喋り方を意識し過ぎる余り、時々文法を間違える。
龍鳳の提案を聴いた月太の腕に鳥肌が走った。
「嫌ですっ、あんな変態所長と関わるのは!」
「月太君。愛に偏見は良くないのだよう…」
「無理無理、鈴子さんはともかく、向神清夜は生理的に受け付けません!」
龍鳳が細い肩を落とす。
「それでも私は…、猫が描きたい…のだようう」
果ては両手で顔を覆ってしまう。
「ぐ……っ」
少年・月太に、敬愛する師匠の懇願をはねのけることは出来なかった。
彼は『空玩具探偵事務所』に連絡した。
いずれ愛妹・鈴子の肖像画を龍鳳に描いて欲しいと望んでいる向神清夜は、月太を通しての依頼を二つ返事で承諾した。
銀山邸は知られた洋館で清夜も訪問したことがある。
月太と清夜は現地で直接落ち合うことになった。
ところが。
青く錆びの浮いた細い柱が何本も並ぶ作りの門を背に、月太は待ち遠しだった。銀山邸の門前で、月太が幾ら待っても清夜が来ない。約束の刻限はとうに過ぎている。
秋とは言え陽射しは暑く、頭頂から炙られているようだ。
こうしている間にも龍鳳は、一日千秋の思いでいるに違いないのに。
月太は意を決し、呼び鈴を鳴らした。
「螺鈿細工の即妙筆?知らんなあ」
勢い込んで事情を語った月太に返って来たのは、銀山剛蔵の白々しい返答だった。
「そんな筈はありません!あなたはあの筆を気に入り、譲って欲しいと椿先生に何度もねだられたそうじゃないですか?」
若草色の天鵞絨張りのソファにふんぞり返る剛蔵は、目の前を羽虫が飛んで不快だと言わんばかりに顔をしかめて言い放った。
「憶えていないと言っておる!!それとも小僧、お前は儂を盗人呼ばわりする気か!?」
声は恫喝の響きを帯びている。
「それは――――、」
言い差して月太ははっと息を呑んだ。
剛蔵の頬に浮かぶ薄ら笑い。
(…隠匿したのか!)
頭上には煌びやかで豪奢なシャンデリア。
応接間に並ぶ調度品の全ては高価な物と知れる。
それでも尚、剛蔵の欲は尽きるところを知らないのだ。
下手に追及すると名誉棄損だと喚くかもしれない。
自分は良いが龍鳳にまで害を及ばせるようなことは出来ない。
(どうしよう。椿先生――――――)
その時、応接間の扉が開く音がした。
「遅くなってすまないね、月太君」
「向神さん………」
純白のシャツに光るカフスボタンを弄りながら、漆黒のズボンを穿いた向神清夜が立っていた。ネクタイは黒に近い紫。絹の艶がある。
清夜は笑みを湛えて月太に歩み寄ると、その頭をぽんぽん、と労うように軽く叩いた。
そして剛蔵ににこりと笑いかける。温もりの無い空っぽの笑顔だ。
「子供相手の隠しっこは大人気ないですよ、銀山さん」
剛蔵が忌々しそうにこめかみを引き攣らせた。
「向神さんこそ…。盗み聞きははしたないですぞ」
「失礼。お声が大きかったもので、廊下にいた僕の耳にまで自然と入ってしまいました。厚い漆喰の壁も、存外音を通しますねえ」
「ふん」
彫像のような美貌の、清夜の瞳が冷たく眇められる。
赤い唇は三日月に。
「消えた即妙筆、僕が見つけ出してご覧に入れよう」
ドーサ液の作り方は漫画『花よりも花の如く』7巻
成田美名子・白泉社61頁扉書き参照。