この想い
日に日に暑さを増す気候。最近続いていた雨も降らなくなり、梅雨もすっかり終わったようだ。敬助は庭に出て日の高さを確かめるように空を見上げた。そんな彼の様子をアヤメは部屋の中からそっと伺っている。敬助が振り返ればふっと顔を背けてしまう。そんなアヤメの様子に思わず笑みがこぼれた。
「アヤメ。」
そう名前を呼んで手招きすればトタトタとこちらに歩みよってくる。相変らず喋る気配は無いがここに来たばかりのときのように部屋の隅で膝を抱えて座っていることは少なくなった気がする。
「よいしょっと。」
縁側からアヤメの身体を抱え込んで庭先を歩く。薄暗い部屋の中から急に外に出たからか、アヤメは眩しそうに目を瞬かせた。
「最近暑くなってきているね。」
そう話しかけるとアヤメは小さく頷いた。こうして反応を返してくれるようになったことが嬉しくて、敬助はアヤメの髪を優しく撫でた。錦糸のように細く黒い髪の毛がするりと指の間を流れる。
アヤメは嫌がるでもなく、敬助になされるがままになっている。ただ時々こちらの顔色を伺うように、ちらりらとこっちに顔を向ける。
「山南さん!」
不意に名前を呼ばれ振り返るとそこには源三郎がたっている。
「ああ、源さん。」
源三郎の姿を確認したアヤメはふと顔を伏せ、目をそらせてしまう。まだ敬助以外の人間にはなれない様子である。
「山南さん、アヤメちゃん。いい天気ですね。」
「ええ、暑いくらいですね。」
「・・・。」
アヤメはきゅっと敬助の着物の襟を掴み顔を胸に埋めた。
「ははは、中々好いてはくれぬようですね。」
少し困ったように笑う源三郎はそっとアヤメの前に何かを差し出した。
「菖蒲の花ですね。」
そこには白い菖蒲の花が一輪握られていた。
「ええ、遅咲きのが咲いてたので。ほらアヤメちゃん。」
「アヤメ、もらいな。」
敬助の言葉にアヤメは恐る恐る手を伸ばし躊躇いがちにその花を手に取った。
「お礼は?」
そう促せば微かに口を動かし礼の言葉を表した。
「いいえ、どういたしまして。」
源三郎は目尻をさげ、嬉しそうに顔を緩ませた。
「ああ!源さん、ずるいですよ!」
そんな源三郎とアヤメのすぐ横から響いた声に三人は一斉に顔を上げる。
「勝太さん?」
そこに立っていたのは勝太。
酷く残念そうに、それでいて悔しそうにしながらこちらに近づいてくる。その途端に敬助は腕の中でアヤメが身体をこわばらせるのがわかった。
アヤメが道場を抜け出したあの日から敬助はアヤメを他の試衛館の仲間とも触れあわせるよう心がけた。
何時までも部屋の中にこもっているより、自分以外の人間と喋ったりしたほうが気休めにもなるし、自分が邪険にされていないということがわかると思ったからだ。
だがその甲斐もなく、アヤメは他の人間に怯えてばかりいる。
勝太はその厳つい顔つきも手伝って特に怖がられているようである。
「そうやって抜け駆けしてずるいじゃないですか!私だってアヤメになついて欲しいのに!」
「勝太さん・・・。」
もういい年なのに子供のように拗ねる勝太の様子に源三郎も敬助も少々呆れ気味に苦笑いした。
勝太は面倒見がいいし、子ども好きだ。なんとかしてこの幼い少女になついてもらいたいのだろう。
「何か菓子でもあればいいんだがな・・・。」
真剣に考える様子を見せ、何か思いついたようにはっとする勝太。
「そうだ、アヤメ!面白いものを見せてやろうか。」
ニコリと笑ってアヤメにそう言ったのだった。
勝太の言う面白いもの・・・敬助がその言葉から連想するものはただ一つ。いつも門下の者たちや近所の子どもに見せているあの芸だ。
「あの、勝太さん・・・。」
それは止めといたほうが――そう敬助が止める間もなく勝太は握りこぶしを口の中に収めた。
それを見た瞬間、アヤメの身体が固くなったのがわかる。
目を丸くし、その光景を見つめると、はっとした様に身体をびくりと震わせ、すぐに顔を勝太から背けてしまった。
そして怯えたように小さな身体を更に小さくしてしまう。
「はれ?」
口に拳を突っこんだまま首を傾げる勝太。
この口で握りこぶしを飲み込む芸は口の大きな勝太の得意ごとの一つである。近所の子ども達はこれを見ると大体がはしゃいできゃっきゃと声を上げる。
その反応をアヤメにも期待したのだろうが――。
「馬鹿野郎、勝太!そんなことしたらアヤメが怖がるだろうが!」
「ごふぁ!」
その様子を見ていた周助が後ろから勝太の頭をはたいた。
「ち、ちちふへ!」
もごもごと口を動かす勝太は息苦しさと頭の痛さで目に涙を浮かべている。
「・・・。」
アヤメはちらちらと二人のやり取りを見やりつつも身体を震わせる。
それを宥めようと背中を優しく摩れば、徐々に収まっていくのがわかる。
「う~ん。やはり山南さんは流石ですね。」
そんなアヤメの様子を見た源三郎が感心するように唸ると、他の二人もその言葉に頷いた。
そんな三人に敬助は笑むだけで反応を返した。
皆の目にはアヤメは敬助によくなついているように映っているのだろうが、敬助自身は自信をもってそうだと頷けないのだ。この子は確かに自分に心を開いてくれているほうだろう。少なくとも、この試衛館の面子のなかでは。
しかし、それはあくまでこの道場の中ではなのだ。
事実あの少女は一度も笑った顔を見せてはくれない。それに二人きりのとき、時々警戒心を増して近づいてこないこともある。
ただ、泣くこともしない。怯えた表情は見えるのだが、彼女は決して涙だけは見せなかった。
徐々に顔の傷や腫れも引き、あの子の顔立ちがはっきり見えるようになった。すっと通った鼻筋やくりっとした目は幼いながらに美しいと思わせるものがあった。まだあどけなさの残る丸い輪郭。もし同じ年ごろの子どものように笑いを浮かべればさぞかし可愛らしいだろうに。
何時か来るだろうか。この子が、心から笑える日が。
「勝太さん。」
不意にとげとげしい声が響いた。その声を聞くと、アヤメは途端に身体をびくりと震わせ、身体を丸くした。
「おう、おフデ。」
周助がいの一番にその声に反応した。
「母上。どうかされましたか?」
口から拳を出し、フデに向き直った勝太に、少々顔を歪ませながら、フデは勝太を手招きした。
そのときちらりとアヤメの方に目を向けた。途端、また身体をびくりと震わせるアヤメ。どうにもこの二人は相性が良くないようだ。
怯えるアヤメに更に顔をしかめ、フデは勝太を連れてその場を離れた。
フデの姿が見えなくなると腕の中でアヤメは身体の強張りを解いた。
そんな少女の様子を、敬助は神妙な面持ちで見つめていた。
* * *
「アヤメ、これあげる。」
夕暮れ時の敬助とアヤメの部屋。
そこに宗次郎がいつものように訪ねてきたのだ。
アヤメに差し出された掌の上には薄紙にのった小さな粒の金平糖。
「それ、どうしたんだい?宗次郎。」
「甘味屋のおリクさんがくれたんです。」
「ああ、あの女将さんか。でもなんでまた?」
「えっと、その・・・今日重い荷物持ってたおリクさんの手伝いしたらくれたんです。」
「へえ・・・。」
甘味屋のおリクさんは気のいいおばあさんである。いつもニコニコと笑っている、人当たりの良い人だ。
子ども好きで、宗次郎のことは特に大変気に入っているようだった。
だが宗次郎は無闇におリクさんに施しをもらったりしないのだが・・・。
少々いぶかしみながらも、宗次郎の説明に納得して頷いた。
「・・・。」
色とりどりの金平糖を物珍しそうに見つめるアヤメ。
そんな彼女に宗次郎はにこりと微笑みかけると、その手をそっととって手の上にそのうち桃色の粒を一つのせた。
「もらいな、アヤメ。甘くて美味しいよ。」
敬助の言葉にアヤメはおずおずと手の中にある金平糖を口に含んだ。たがそれを噛み砕くでもなくじっと口に含ませているだけだ。
「それ、噛み砕けるよ。」
宗次郎がそういえばゆっくりと噛み砕いた。そしてその味に少し驚いたような表情を浮かべる。
「甘いだろ?」
そうアヤメに微笑みかけながら自分も一粒口に入れる宗次郎。アヤメはコクリと首を縦に振り、ちらりと敬助のほうを見た。
「ん?どうしたんだい?」
敬助が呼びかけると、さりげなく視線をそらされる。
その様子をみた宗次郎が口を開いた。
「山南さんは食べないのかって気にしてるんじゃないですか?」
そう言って、ほら、と敬助のほうに和紙を差し出した。
「ああなるほど、ありがとう。」
敬助が金平糖を受け取り、口に含んだのを見て、アヤメは少し安心したような表情になった。
「気を遣ってくれてたのかい?優しいね。」
そういって敬助が目を細めるとアヤメは驚いたような表情を浮かべ、じっとこちらを見つめ、またはっとした様に目を逸らした。
「そういえば、あの花どうしたんです?」
そのなんともいえない雰囲気を断ち切るように、わざと明るい声で宗次郎が尋ねた。
その指差す先には少し大きめの一輪挿しに刺さった菖蒲の花。
「ああ、それは源さんがアヤメにあげた花だよ。可愛い花だろう。」
「へえ・・・。」
そうして宗次郎はアヤメに向き直ると、ニコリと微笑みかけて
「良かったね。」
そっと彼女の頭を撫でた。
アヤメは嫌がるでもなく、ただされるがままになっている。ただ、やはり少々不思議そうな表情を浮かべているが。
どうやらアヤメは、あまりこうして頭を撫でられるということが無かったらしく、敬助が同じようにしても、また不思議そうな顔をする。
この子は当たり前に優しくされたり、褒められたりすることに慣れていない。
だから戸惑い、不思議がるのだろう。普通の子どもなら当然与えられる愛情を、この子は知らない。だからこそ笑って欲しい。心の底からそう願う。
宗次郎が自室に戻って、敬助が寝間を整えているとアヤメはその横で自分の布団を敬助の真似をして整えている。
彼女はこうして時々敬助の手伝いをしてくれる。正直あまり綺麗には出来ていないが、一生懸命なところが可愛らしい。
そんなアヤメを見ていて、敬助はふと思いついたことがあった。
「アヤメ。」
敬助の声に顔を上げるアヤメ。
「おフデさんのことが苦手かい?」
その名を出した途端に、アヤメの肩がピクリと震えた。
「・・・なあ、アヤメ。」
そんな彼女の様子に敬助は優しく彼女の頭を撫でた。
「確かに、おフデさんは少々扱いづらいところがあるけれど決して悪い人じゃない。前にも言ったかもしれないが、こちらからも歩み寄ることが必要なんだ。」
「・・・。」
「難しいことかもしれないけど・・・。がんばろう」
アヤメは思案する表情を浮かべ、そしてゆっくりと頷いた。
「いい子だ。」
ポンポンと軽く頭をたたいて微笑みかければ、ちらりとこちらを見やってまた目を伏せる。
「よし、寝ようか。」
その敬助の言葉にアヤメは自分の布団に潜り込んだ。アヤメが掛け布団をしっかり被ったのを見ると、敬助は
「おやすみ、アヤメ。」
そう声をかけ行灯の火を消した。
* * *
夜の帳が下りた闇の中、アヤメはわずかに外から差す月明かりで浮かび上がる天井の木目を睨むように見つめていた。
先ほどすぐ隣で眠る男性の言った言葉を何度も頭の中で咀嚼した。
あの女性、おフデと呼ばれているひと。
いつも眉間に皴をよせこちらを睨む。
自分に対する嫌悪の念がこめられた瞳。
あれは――怖い。
あんな目で見られるのは。
思い出す。
あふれ出る記憶。
お母さん。
お母さん。
お母さん――。
恐怖のあまりアヤメは一つ身震いすると掛け布団をぎゅっと握り締めた。体を丸め、そっと横に目をやる。
規則的な寝息とともに動く敬助の布団。それを見ると、不思議な事に恐怖が柔らいだ。
この人は笑ってくれる。居てもいいよといってくれる。
このひとと居ると湧き上がる感情。
アヤメにはそれが何なのかわからなかった。