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その場所で貴方を待つ  作者: 水無月とおる
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菖蒲の花



「山南さん。」


 敬助は少女と自分の寝泊りする部屋へと足を運んでいた。そこに後ろから声をかけられたのだ。

 振り返るとそこにはいかにも不機嫌な顔をしたフデが立っていた。


「夫から聞きました。あの女子、身元が分からないままらしいじゃないですか。」

「え、ええ。」

「ええ、じゃありません!いい加減、早く身元をはっきりさせてしまってください。あの子に与えている食事だって沸いて出てくるわけじゃあないんです!!分かっていますか?」

「おフデさん、声を抑えてください。あの子に聞こえでもしたら・・・。」


 ここはアヤメの部屋に近い。こんな大声では聞こえる可能性が高い。


「だからなんなのです?早く身元をはっきりさせて、引き取ってもらってください。」


 それだけ言うと、フデはすぐに踵を返した。


「・・・。」


 敬助は黙ってその後ろ姿を見送ることしか出来なかった。

 その後方にある部屋の戸のすぐ傍で小さな影が身を震わせている事にも気がつかず―――。




 事件はその日の夕暮れに起こった。



「アヤメ?」


 敬助が稽古を終え、部屋に帰るといつもそこに居るはずの姿が確認できない。

 試しに押し入れの襖を開けるが、そこにも居ない。もぬけの殻である。


「アヤメ!」


 心がざわめく。まるで背に冷水を流し込まれたような寒気に似た感覚に襲われた。

 部屋を出て名前を呼んだ。

 庭先、厠、風呂場――あちこち探し回ったが何処にも居ない。


「敬助?どうした?」

「周助先生・・・。」


 敬助の声を聴きつけたのか、周助が顔をのぞかせる。

 周助は敬助の顔色からただ事ではないと感じ取ったのか、駆け寄ってきた。

 

「何だ?」

「その、アヤメが部屋に居なくって・・・。」

「何だと?厠じゃねえのか?」

「いえ、一応いきそうなところは一通り探したのですが、どこにも姿が見えなくて。」


 そもそもあの子が興味本位でこの部屋を出るとは考えにくい。となると・・・。


「出て行ったのかも知れません・・・。」


「何だと?」


 昼間にフデと交わした会話を思い出す。



『あの子に与えている食事だって沸いて出てくるわけじゃあないんです!!分かっていますか?』

『おフデさん、声を抑えてください。あの子に聞こえでもしたら・・・。』



 もしも、あの会話が聞こえていたとしたら?


 その言葉で、自分がここに居てはいけないと思ったとしたら?

 出て行ったとしても不思議はない。


「私、ちょっと外に出てみます!」

「お、おいっ!」


 後ろから聞こえる周助の声を無視して敬助は外へと出て行った。








 アヤメは裸足で外をとぼとぼ歩いていた。


 知らない道。


 知らない人。


 ここは一体何処だろう?あんな見た目の人は知らない。

 こんな石ころだらけの道なんて知らない。

 目に映る景色が、通り過ぎる人々のひそひそ声がまるで自分を追い立てているようで。

 あの女性の声が耳に響く。敬助という人に詰め寄っていた、自分に対する嫌悪がこもった声。

 あそこに居ちゃいけない。



『お前なんか、産まなきゃ良かった。』

『目障り。』



 でも何処に行けばいいのかもわからない。

 何処ならいいの?


 * * *



 敬助は夕暮れ時の朱色に染まる道を駆けた。

 きょろきょろとあたりを見渡しながら走る彼の姿は周りには奇怪に見えたろうが、敬助にはそんなことを気にする余裕は無かった。


 あの頼りなさげな小さな後姿を捜す。少女は試衛館に来てから外に出ていない。もしこのあたりの地理に明るくなければ、目的もなくさ迷い、道に迷っている可能性が高い。

 


 ――日が暮れる前に見つけ出さなければ。


 焦れば焦るほど、思考は鈍くなる。

 とりあえず道行く人に片っ端から声を掛け、少女が一人ここを通らなかったかと尋ねまくる。

 だが誰も見ていないという。


――こっちの道じゃないのか?


 敬助はくるりと身体の向きを変えると急いで元来た道を戻った。




 * * *


「はあ、はあ・・・。」


 先ほどとは反対側に道を辿ると、着いた先には川がある。アヤメを拾った場所の傍を流れている川だ。この先は農地になっていて、田畑ばかりのため見晴らしがいい。

 遠くのほうまでじっと目を凝らした。


「居た・・・!」


 川の辺、木の陰の辺りに人影が見えた。遠目ではあるが、アヤメに違いない。 再び足に力をこめ、敬助は走り出した。


 アヤメはぼんやりと座り込んで川を眺めていた。否、正確にはその傍に生えている何かの草を見ていた。先っぽになにやら蕾のようなものをつけた草である。あたりを見渡せば、似たような葉の形をした花が開きかけている。紫色の花。高さもアヤメの膝くらいあろうか。恐らくは同じ種類のものだろう。

 だがアヤメの前にあるその草は、日陰にあるせいか、小さく、花も咲いていない。アヤメは周りに咲く美しい花々には目もくれず、ただ弱々しいその草とそこについている蕾を見つめているばかりである。


 後ろから近づく人物にも気がつかずに――。


「アヤメ。」



 優しい声が聞こえる。はっと振り返ると、そこには額に汗を浮かべた、いつも世話を焼いてくれる男の人が立っていた。




「アヤメ。」


 敬助が声を掛けると、アヤメはびくりと肩を震わし、わずかに腰を浮かせた。

 アヤメの怯えた様子に、胸が締め付けられるような思いがした。

 ゆっくりと近づきアヤメの隣に腰掛けた。アヤメは怒られると思っていたのか、敬助の行動に驚きを隠せない様子である。

 敬助は柔らかく微笑み、首を傾げた。


「何を見てたの?」

「・・・。」


 アヤメの視線の先を追えば、小さな蕾をつけた弱弱しい草花がある。


「アヤメの花だね。」


 敬助の言葉に少女ははっと顔を上げた。


「木の花の名だよ。菖蒲という。この位の時期に咲くんだ。君とおそろいだ。」



 偶然にも、この女子と同じ名を持つ花。その花を敬助は慈しみのこもった瞳で見つめていた。



「でも、これは日陰にある所為か、育ちがよくないね。」


 アヤメが先ほどまで見つめていた花の茎をそっとなぞるようにしながら呟いた。


 アヤメはその敬助の繊細な動きをじっと見つめている。


 遠くで、烏の鳴く声が響く。


「…アヤメ。」


 暫しの沈黙の後、敬助は口を開いた。

 視線は目の前にある小さな花に向けたまま。


「この菖蒲という花は、本来ならもっと立派に咲けるんだ。あの日向にあるものように。」


 そういって、日向に生える立派な形の菖蒲を指した。


「だけど運悪く日陰にあるから、大きく育てなかった。」

「…。」

「アヤメ、人間だって同じだ。いつまでも日のあたらない所に居ては成長できない。外に出て、いろんな人と交わって成長していく。」


 花から少女に視線を向けると、じっとこちらの様子を伺っているくりんとした瞳と視線がぶつかった。


「草木は動くことができないけれど、君は動ける。」


 そういって、優しく少女の頭を撫でてやる。


「少しずつでいい。私や、宗次郎以外の人間とも関わっていこう。その中には君を傷つける人も居るかもしれない。でも、それでも――人を怖がらないで。人と関わりを持つことから逃げないで。君はきっとまだ蕾なんだ。立派に咲く準備をしなきゃいけない。」


 アヤメはただじっと、敬助の話に耳を傾けているようだった。考え込むように、朱色に染まる川の水面を見つめて。


「アヤメ、帰ろう。ここは涼し過ぎるから。」


 そういうと、敬助は立ち上がった。アヤメもそれに倣う。だが、まだ迷っているようである。機嫌を伺うようにこちらを見ている。


――やはり聞いていたのか。おフデさんの言葉を。


 そんなアヤメの様子に、敬助は再び体を屈ませた。

 そしてアヤメの脇に手を入れ、背中に腕を回して抱き上げる。見た目どおりの軽い体にわずかな切なさを感じながらも、敬助はしっかりとその細い体を抱きしめた。


「もっと、高いところからいろんなものを見ないといけないね。アヤメは。」


 そういって微笑みかけると、アヤメは不思議そうに首を傾げた。


「意味はわからなくてもいいよ。今はまだ。」


 そういうと、敬助はまだ不安げな少女をあやすように、背を優しくぽんぽんと叩き、もと来た道をゆっくりと戻っていった


 そんな二人の後姿を、菖蒲の花の小さな蕾が見守っていた。



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