何処より
「山南さあーん!」
夕暮れ時、町から帰った敬助を後ろから呼び止める聞き覚えのある、まだ声変わりしていない男児の声が響いた。
それに対し、振り向きながら声をかける。
「何だい、宗次郎。」
「あの!あの・・・あの子の名前がわかったって、本当ですか?先生たちがそう言ってたんですけど、教えてくれなくて。」
「ああ、本当だ。アヤメというそうだ。九つらしい。」
「アヤメ・・・。」
宗次郎はその名を咀嚼するように呟いた。
「可愛い名ですね。」
「そうだね。」
嬉しそうに微笑む宗次郎の様子に思わず頬が緩む。
「ところで、山南さん。町に行って来たんですか?」
「ああ。そうだよ。」
宗次郎は目聡く敬助の手の中にある包みに視線を送る。
「これ、前に一緒に行った甘味屋の包みじゃ?」
「はは、ばれてしまったね。実はあの子、アヤメにお土産を買ってきたんだ。宗次郎も一緒にどうだい?」
「え?いいんですか?」
目を丸くする宗次郎。まあそれも仕方ない。今までは少女を刺激しないようにと敬助以外の者達は極力あの部屋に近づかないようにしていたため、宗次郎もアヤメとは彼女を拾った日からまともに顔を合わせていないはずだ。
「ああ、彼女も大分落ち着いてきたし、時々宗次郎のことも話しているんだ。」
「僕のことを・・・?」
「ああ。いい機会だし。」
「じゃ、じゃあお邪魔します。」
少し緊張した面持ちの宗次郎に軟らかに微笑みかけると
「では行こうか。」
宗次郎の肩に手をかけ、敬助は少女の元に向かった。
「調子はどうだい?」
部屋に入るとアヤメは顔を上げ、こちらを見た。そして敬助の脇に居る宗次郎を確認すると、途端に目を大きく見開いた。
「ああ、前話したろう?門下の宗次郎だよ。」
宗次郎にこっちにおいで、と声をかけつつアヤメに近づく。アヤメは見慣れぬ少年の姿に怯えた様子で部屋の隅に身を寄せている。
「ほら、怯えなくていいから。大丈夫だから。こっちにおいで。一緒に団子でも食べよう。」
少女のほうに手を伸ばして促せば、ゆっくりとこっちに歩み寄ってきた。それでもやはり怖いのか、敬助の影に隠れている。
敬助は縁側の障子戸を開け、そこに腰掛けた。宗次郎はその隣に座った。
アヤメは出来るだけ宗次郎の視界に入らないようにしながら敬助を挟んで宗次郎の反対側に座った。。
その様子に苦笑いを浮かべながら敬助は団子の入った包みを解いた。
その中に入っていた団子のうち一本をアヤメに、もう一本を宗次郎に手渡した。
少女はその団子を不思議そうに眺めている。
「食べていいよ。」
そう声をかけるがじっと団子を見るばかりである。
「どうしたの?」
まるで見たことのないものを目にしているようだ。
「団子が珍しいのかい?」
「・・・。」
アヤメは静かに頷くと恐る恐る口に団子を含んだ。
「美味しい?」
顔を覗き込むようにして尋ねると、コクリと一つ頷くその様子に目を細める。
すると横から手が伸びてきた。
「?」
みると宗次郎が団子を持った手をアヤメに伸ばしている。
「あげる。」
そういって微笑む宗次郎に怯えた様子で、アヤメは敬助の影に隠れようとする。ためらいがちに敬助の着物の袖を握る小さな手がほんの少しでも自分に心を許してくれたように思えて、宗次郎には悪いが嬉しくなった。
「宗次郎がくれるって。せっかくだからもらったら?」
そう敬助が声をかけると敬助の顔をちらりと見た後、遠慮がちに宗次郎のもつ団子に手を伸ばし、受け取る。その時一瞬宗次郎の指に触れた。そんな些細なふれあいにも怯えつつも少女は宗次郎に一瞥をくれた。
「お礼は?」
そう促せばアヤメは胸元に手をやり、敬助の着物の袖を握る力を強めた。
そして
『ありがとう。』
確かに唇をそう動かしたのだった。
「そういえば、今君が着ている着物も宗次郎がもう少し幼い頃のものを貸してもらったんだ。」
敬助が思い出したようにそう教えると、アヤメは少し驚いたような表情を浮かべ、宗次郎にもう一度頭を下げ例の言葉を唇だけで紡いだ。
宗次郎はその様子ににっこりとして
「いいえ、どういたしまして。」
「ふふ。」
そんな二人のほほえましい様に心の中が温かくなる。まるで家族が増えたようだ。ためらいながらも宗次郎からもらった団子を食べてる少女の姿を眺めながらそう思った。
それからはよく三人でお茶をするようになった。時々お菓子を買って食べたりもした。アヤメは徐々に宗次郎にも慣れてきたようだ。相変らずびくついてはいるが、前よりも平気になってきたようだ。
ただ、宗次郎が田んぼの近くで捕まえた蛙をみせてきたときだけは宗次郎に怯え切り、敬助の後ろで震えていたが。
そのあと宗次郎と二人で何とか宥めたのだが。
「・・・。」
「ご、ごめんね?」
びくびくと震え、その日一日宗次郎を全身で避けていた。
「山南さん、嫌われちゃったかな?」
「いや、びっくりしただけだろう大丈夫さ。」
実際アヤメはしょんぼりと肩を落とす宗次郎を、かなり距離をとりつつではあるが心配そうに見つめていた。
そして次の日にはまた一緒にお茶を飲むことも許した。
その様子を見て、宗次郎もほっとしたようだった。
相変らず笑顔を見せてはくれないが、それでも徐々にアヤメの表情の微妙な変化が見えてきた。怯えや恐怖以外の感情が。敬助が微笑みかければ少し恥ずかしそうな顔で目を逸らす。彼女は今の環境に戸惑いながらも、なんとか落ち着いてきた。
そんな穏やかな時が続いたある日、久しぶりに歳三が試衛館に現れた。
勝太と宗次郎、周助に源三郎も一緒に稽古をしていたときだ。
「おお、トシ。久しぶりじゃないか。」
勝太が声をかけると、フンと鼻を鳴らして
「頼まれた仕事をしてたんだよ。あのガキのことだ。」
「アヤメのこと何かわかったのですか?」
敬助が口を挟むと、歳三は綺麗な額に皴を寄せ
「アヤメ?」
「ああ、あの少女の名ですよ。」
ああなるほどと軽く頷くと歳三は説明を始めた。
「はっきり言えば、ここらで最近奉公人が逃げ出したりしたという事件はねえ。遊郭でも聞いてみたが女が一人行方知れずになったらしい。でもこの女はもう十八だ。明らかにあのガキと違うだろう。」
「つまり、手がかりなしか・・・。」
勝太が溜息と一緒にそう吐き出す。
「悪いな。力になれねえで。」
「いや、十分だ。ありがとうな、トシ。」
「だが、名前なんでわかったんだ?」
「字が書けたんです。」
敬助が答えれば
「じゃあ、あのガキに直接聞けばいいじゃねえか。」
「・・・。」
歳三の言葉に思わず口ごもる。敬助も何度もそうしようと思ったのだが、実行できずにいたのだ。あの少女が前にいた場所はどう考えても、帰りたいと思える場所ではなかったはずである。そんな場所のことを尋ねるのは何だか気が引けてしまう。
少なくとも今は無理だ。せっかく落ち着いてきたのだから――。
「・・・いまは、無理だよ。」
それだけ言うと、歳三も黙った。
「わかったよ。」
溜息混じりにそう呟くと、歳三は腰をあげた。
「あれ?もう帰るのか。」
「珍しいですね。いつもなら暫く稽古して帰るのに。」
勝太と宗次郎がそういえば
「ああ、今日は家業の手伝いだ。この前奉公先から追い出された所為で暫くは家の手伝いだ。」
「ははは!相変らずだな。お前の姉上殿も大変だな。」
「はん!余計なお世話ですよ。」
周助の言葉にそれだけ言うとわざとらしくドスドスと音を立てながら帰って行った。
「はあ。全く・・・。歳三はいつもいつも女の尻ばかり追いかけて。いつか足元を掬われるぞ・・・。」
勝太の科白に源三郎も苦笑を漏らした。
「まあ、彼ほどの容姿があれば、ね。」
歳三は幾度か奉公に出されたのだが、その先々で女関係の揉め事を起こしては追い返されていた。彼にはどうにも商売はあわないらしい。
「あいつも、あの女癖の悪さだけは中々治らんな。」
周助はくくっと面白そうに笑っている。
そんな中、敬助はぼんやりと外を眺めていた。
あの少女の身元は結局分からず終いだ。
商家の奉公人や、遊郭のものでないなら一体何処のものだろうか。少女が倒れていた河の近くの農家は殆どがよく見知ったものだ。少女に関係あるとは思えない。
「振り出しか・・・。」
その呟きは誰の耳にも入ることなく、他のものの会話の中消えていった。