その名
少女の膳を下げ、廊下を歩いているとバタバタという足音が角から聞こえてきた。そしてその角を曲がってやってきたのは
「ああ、宗次郎。そんなに音を立てて廊下を走っちゃ駄目だよ。」
「あ!山南さん!」
柔らかに注意する敬助の言葉にかぶせるように声を上げ宗次郎が足を速めた。
「遅いからみんなもうご飯食べちゃってますよ!」
そういいながら敬助の着物の袖を引っ張った。
「あ、ああ。悪かったね。すぐに行くよ。」
「あれ?でもお膳・・・。」
宗次郎は敬助の手にある膳に目をやってそう呟いた。
「ああ、あの女の子のところにね。」
「あ・・・。」
敬助の言葉を聞いた途端、顔色を変え、笑顔を引っ込めた。
「どう、なんですか?あの子の様子は。」
「ああ、まあ・・・。相変らずだよ。」
「相変らずって?」
きょとんとした顔で首を傾げる宗次郎。
「ああ、そうか。宗次郎はあの子が目を覚ましてからまだ会ってないし、私も話してなかったね。あの子唖者のようで、その上酷く人に怯えているようだし・・・。」
「口がきけないってことは若先生にも聞きました。喋れなかったら名前も何も聞けませんね・・・。」
「そうなんだよ。」
あの子が字を書ければ話は別だが、あの様子では寺子屋などで読み書きを習える程の身分であったとは考えにくい。
あの子が声を取り戻すか文字を憶えるまでは名前を聞き出すのは難しいだろう。
「でも怯えてるってのは聞かなかったです…。」
「ああ、そうなんだ。ひどく怯えていて、こちらに近寄ってこないんだ。」
「どうしてだろう?」
「それはわからない。まだ今は状況に混乱してるみたいだけど、もう少し落ち着いたら宗次郎もあってみようか。歳も近いし、あの子ももしかしたら心を開くかもしれない。」
「あ、はい!」
宗次郎の元気の良い返事に微笑みながら敬助は夕餉を取りに廊下を進んでいった。
夕餉を終えると、敬助はお湯の入った桶を片手に少女のいる客間に足を運んだ。
一言声をかけ中に入る。締め切られた室内は酷く暗い。月明かりを頼りに行灯に灯を灯すと闇の中にぼんやりと少女の姿が浮かんだ。隅で膝を抱えて怯えている。
「そっちは暗いだろう?こっちにおいで。」
そう言うと、少女はおずおずとこちらの様子を伺う。目を見てもう一度声を掛けると、びくっと肩を揺らして逡巡する様子をみせるとおずおずとこちらに寄ってきた。
「風呂に入ったほうがいいだろうけど、多分身体の傷に沁みるだろうから、この手拭きで身体を拭きな。」
軽く手拭をお湯に浸し、それをしぼる。少女はそれを不思議そうに見つめている。
だが敬助が顔を上げるとすぐに元のような体勢に戻る。
暗闇の中では沈黙がやけに強調されている気がする。お湯を絞るときの水音が部屋に響く。
「はい。」
生ぬるい手拭を少女に手渡すと、少女はその手拭と敬助の顔を代わる代わる見つめたが手を伸ばそうとはしなかった。
「ほら。これを使いな。」
手拭を持った手を揺らして促すと、おずおずと手を伸ばし、それを受け取る。
そのとき、少女の体格にしては少し大きな着物の袖がずれて、痛々しい傷跡が覗いた。火傷のような赤い痕が。細い腕にその痕は妙に大きく見えた。
どうして、どうしてこんなことが出来る?
幼い少女の腕にこんな傷跡をつけるなんて――。
傷をつけたもののことは知らないが、胸の中にその顔もわからぬ者に対する怒りが湧き上がってくるのを感じた。
そのとき少女の手が微かに震えているのがわかった。その瞳には怯えの感情が見えた。
「あ・・・。」
どうやら敬助の胸の中に燻りだした怒りの感情を敏感にも感じ取ったようだ。
「ごめん。ごめんね。何も無いから。大丈夫だから。」
慌てて宥めるが、それでも少女の中にある恐怖は中々収まらない。息が荒くなる。
「ごめん。怖がらせて。大丈夫だから。君を傷つけたりしないから。」
出来るだけ声音を優しくして、そっと背中に手を当てた。その途端少女の背が激しく跳ねた。それに構わずそっとその背中を左手で撫でる。そして声をかけ続けた。暫くすると少女の振るえは納まりそっと顔を上げる。その目がまっすぐこちらをのぞきこんだ。綺麗な黒い瞳に行灯の光が反射し、敬助自信の姿が映る。
「ごめんね、驚かして。」
最後にそれだけ言うと一旦少女に渡した手拭をもう一度お湯に浸し強く絞った。
「じゃあ、これで自分の身体を拭きなさい。終わったら・・・ええっと、私は縁側にいるから、合図してくれるかな?」
少女はゆっくり首を縦に振った。
「いい子だ。」
そして敬助は少女の頭を優しく撫で、縁側に出た。
むせ返るような昼の暑さに反比例して夜の空気は肌寒い。
ブルリとひとつ震える身体を押さえ込み敬助は縁側に座った。空を見上げれば大きな上弦の月が夜空を煌々と照らしている。
雲も少ない。こういう日は夜は冷え込む。少女の寝床は温かくしておかなければ。ぼんやりとそんなことを考えていると。後ろの障子戸がわずかに動く音がした。
はっと振り返ると例の少女がわずかに開いた戸の隙間から顔をのぞかせている。
「終わった?」
敬助の問いかけに微かな動きで頷く少女に微笑みかけると中に戻る。そのとき気がついた。少女の着物が酷くはだけていることに。
「着物、ちゃんと着なさい。夜は冷える風をひくよ。」
そう声をかけると少女は戸惑うような様子を見せた。おろおろしていて明らかに不自然だ。
もしや――。
「着物の着方、知らないの?」
そう敬助が尋ねた途端、少女の肩が大きく跳ねた。そして下を向いて着物の袖を掴んだまま身体全体を大きく震わしている。
まるで怒られると怯えている幼子のように――・・・。
「大丈夫、怒ったりしないから。こっちにおいで。着方を教えるから。」
少し渋る気配を見せながらも少女は素直に従った。自分の着物を使って一旦軽く着方を見せる。少女はその様子をじっと見つめそのやり方の通りに自分の着物を着て見せた。未だなれぬ手つきだが初めてにしては手付きがいい。一度みただけで出来るのだ。物の憶えは良いようである。
敬助は少女の着付けを少しだけ手直しすると部屋の隅に畳んで置かれた布団を部屋の中央に布いた。
「ほらおいで。」
ポンポンと布団を叩いて促すとおぼつかない足取りで近寄ってきた。
「ここに寝な。」
その言葉に素直に布団に横たわる。そして物珍しそうに布団の感触を手で確かめている。
「ふかふかだろう?」
ふふ、と笑って少女の身体の上に掛け布団をかけてその上からポンポンと優しく身体を叩いた。まるで家族にするように。
「ゆっくりお休み。」
* * *
「周助先生、一つ提案があるのですが。」
次の日の早朝稽古の後敬助は周助に声を掛けた。
「なんだあ、敬助。」
「あの少女のことなんですが、一人にしておくのは少々気がかりなので、これから食事をあの子の部屋で私も一緒に取ろうかと思うのですが・・・。」
「ああ、かまわねえよ。それよりあの娘ちゃんと飯食ってんのか?」
二つ返事でそう返すと、周助は心配そうな顔でそう尋ねてきた。
「はい。どうやら、命じられたりするとその通りに動くみたいです。あとこちらが“食べていい”とか許可を出すと・・・。」
「なんだそりゃ。まるで飼いならされた犬だな。」
「そういう風にしつけられたのでしょうか。余程酷い目に遭ってきたのでしょうな。かわいそうに・・・。」
勝太が顔を歪める。
「ええ、だから出来るだけ一緒に居てここは危険な場所ではないとわかってもらいたいんです。」
「そうか、なら一緒に飯食うっていうのは名案かもな。どうせなら部屋を一緒にするか?」
「ええ!?」
その周助の言葉に反応を見せたのは敬助ではなく井戸の水で顔を洗っていた宗次郎だった。
「なんだ?宗次郎。でけえ声出しやがって。」
「・・・えっと、いえ。なんでもないです。」
「はっはあん。宗次郎、敬助に妬いてんのか。いっちょ前に。」
「違います!ぜったい違う!」
激しく否定する宗次郎をからかう周助の様子に苦笑しつつ、敬助は頭を下げその場を後にした。
「山南さん、よろしく頼みましたよ。」
勝太がニコニコ顔で見送る中、厨房に向かった。
――――
朝餉を二人分とって少女のいる部屋に入ると少女は慌てて布団から跳ね起き立ち上がろうとした。
「ああ、そんなに慌てなくても大丈夫だから。」
敬助は少女の前に朝餉を置いた。飯と味噌汁、小さな鮭の切り身と香の物という至ってあっさりした内容である。
「朝ご飯、一緒に食べようか。ここに座りなさい。」
座布団を取り出し、自分の向かい側においてそこを指さした。
少女は、言われた通りに大人しく座った。その様子に胸が痛む。今少女が動いたのは少女の意志によるものではない。“命じられた”から言われたとおりにしただけ。その事実が悲しい。
「さあ、食べようか。」
そんな思いを無理矢理断ち切るように少々大きな声でそう少女に言葉をかけ、合掌した。
「頂きます。」
「・・・。」
少女はそんな敬助をじっとみつめているだけで動こうとはしない。
「?食べていいんだよ。」
敬助がそう言うとようやく静かに手を合わせ箸を取った。
なるほど、“食べよう”では自分が食事を取っていいとは思わないらしい。
一人心中で納得しつつ、自分も箸をとって食事を始めた。
食事の途中も少女はちらりらとこちらの様子を伺っている。そして敬助と目が合うとびくりと肩を震わせるのだ。
まだ自分に対する恐怖心は拭いきれていないのかと少し寂しい気がする。
できるだけ少女がこちらを見ていないうちに様子を伺うと口の端に米粒がついている。その様子が普通の子どものようで思わず口元が緩んだ。
「米粒が口についているよ。」
少女の口元の米粒を指でそっととってそれを自分の口に運んだ。その様子を少女は目を丸めて見つめている。
そしてはっとしたように顔を下げた。
「ん?」
そっと顔を覗き込むと少女は身体を縮める。
「・・・。」
その表情は見えにくいが頬が微かに紅色に染まっているのがわかった。
怯え以外の彼女の表情に思わず頬が緩む。
胸の中に何か温かいものがじわりと溢れてくる。
穏やかな夏の朝だった。
* * *
それから、敬助は自身の荷物を門下生の大部屋から少女の部屋に移した。
少女に与えられた客間はいくつかある客間の中でもかなり小さめのものだ。
敬助の荷物が加わると益々手狭である。
少女は最初戸惑っていたが今はこちらをちらちら伺いながらも落ち着いている。
一緒にご飯を食べ、傷の手当をし、返答はないと分かりながらも懸命に離しかけ続ける。
最初は眠りも浅いようで夜中に何度も目を覚ますようだったが、その度に敬助が宥め、落ち着かせた。
それもあってか、少しずつではあるが少女は敬助に慣れてきたように感じる。同じ部屋で過ごすときは少し物珍しそうにこちらをちらちら伺っては目を逸らす。
そんな日々が五日ほど経った。
敬助は昔通っていた道場に文を記していた。その様子を少女は部屋の隅からじっと見つめている。そんな少女の視線に気がついて敬助は顔を上げ微笑みかける。
「こっちにおいで。」
少女は足を引きずるようにしてこちらに歩み寄ってきた。足の傷の為に巻いた包帯で歩きにくいのかも知れない。
「ここに座りなさい。」
自分の左横に座らせる。少女は静かに敬助が手紙を書く様子を見つめている。
「手紙だよ。昔世話になった道場に書いている。文字は読める?」
「・・・。」
少女は頷くでもなく、かぶりを振るでもなく困ったような表情を浮かべるばかりだ。
「君が文字が書ければ、色々話が出来るんだがね。名前とかもわかるし。」
ポツリと敬助が呟くと少女は目を瞬かせた。
しまった、これじゃあ責めてるみたいか?少々焦ったが少女は意外にも気にしている様子がない。ただ敬助の持つ筆を指差している。
「筆?使いたいの?」
そう敬助が尋ねると静かに頷いた。
「じゃあ、はい。」
筆に墨をつけ、いらぬ半紙とともに少女の前に差し出した。すると少女は静かにその筆を取り、ぎこちない手つきではあるがしっかり力をこめて紙の上に字を走らせ始めたのだ。
そして紙上に浮かんだ文字は――。
――――
「え?山南さん、今なんて?」
「ですから、あの子の名前がわかったと言ったんです。」
敬助は今まさに茶の入った湯飲みを口に運ぼうとしていた勝太と周助に向かってにこやかに告げた。
「な、喋ったのか!」
「良かったですね!いやあ、朗報だ。」
二人で盛り上がる親子の会話を慌てて引き止める。
「いや、あのですね!違うんですよ。」
「「え?」」
「あの子、実は字がかけたんですよ。それで自分で字を書いて名前を書いたんです。」
そして懐から先ほどの紙を取り出し二人の前に掲げた。そこにははっきりとした字体で『アヤメ』と書かれていた。
「アヤメだと?」
「花ショウブのことですね。」
「これがあいつの名前だってのか?」
「ええ。」
敬助の前で二人がほうっと感心するような声を上げる。
「へんな字体だな。行書か?」
「さあ?」
はっきり一文字一文字離して書いている。中々みれない書き方だ。
「なんにしても、字が書けるってことはやり取りが出来るじゃねえか。」
「そうですね。父上。」
嬉しそうに微笑む二人に、敬助も思わず頬が緩んだ。
「そういや、歳はいくつかわかったか?」
周助がくるりと首をまわして敬助に向き直ってそう尋ねた。
「ああ、聞けましたよ。九つだそうです。」
「ほう、思ってたよりも上だな・・・。」
「痩せてますからね。でも顔つきはしっかりしてますよ。」
「宗次郎とも歳が近いですね、いい遊び相手になるかも知れませんね。」
勝太がふふふと笑みを零した。
「そうですね。少しずつではありますが人の気配にも慣れてきたようですし。」
敬助が同意すれば周助も頷く。
「それにあんのマセガキ、あの娘を盛んに気にしてるからな。」
がははと豪快に笑う周助。口は悪いがその目には優しい光が宿っている。
この男が宗次郎を本当の息子のように思っているのがわかる。