坂本という人
夕刻になり、アヤメは善庵の元を出た。まだ肌寒い空気に吐息が真っ白になる。
いつもより少し遅くなってしまったが大丈夫だ、あそこによって帰ろう。
アヤメはまっすぐに帰るのではなく途中で寄り道をすることにした。かつて何度も通った道、自分が通っていた寺子屋への道だった。
寺の境内を抜け、本堂の裏手に抜けるとそこには小さな墓がある。小さな小さな子犬の墓だ。
「来たよ、惟成。」
きっとアヤメたち以外には気にもかけない小さな命。でも確かに存在していた命。アヤメにはあの子犬が忘れられなかった。近づいてみると墓には新しい花が供えられていた。きっと和尚様だ。掃除しようにもきれいに保たれた墓は他にできることはなさそうだ。墓の正面にかがんで手を合わせる。
しばらくそうしていると不意に後に人の気配を感じた。
後ろを振り返るとそこには敬助が少し悲しげな面で佇んでいた。
「敬助お兄ちゃん…。」
「アヤメ。」
それだけ言うと敬助はアヤメに近寄り隣にかがみこんで同じように手を合わせた。
「町に出る用事があってついでだからと善庵殿のところに寄ったんだが入れ違いになったようだな。きっとここだろうと来たんだよ。」
それだけ言ってただ隣に並ぶ敬助にアヤメは何も言えなかった。
「…。」
「アヤメ、行こう。あまり遅くなってもいけないだろう。」
「はい…。」
二人で立ち上がり帰り道を歩む。かつては手をつないだあの道は今は並んで歩くだけだ。敬助の半歩後ろを、彼の様子を伺い見るかのように歩くアヤメ。その瞳を敬助は全く見てはくれないのだ。それは自分を拒絶しているわけではないことは理解していても少し寂しい気持ちになるのは止められない。
そっとその揺れる袖にアヤメが手を伸ばそうと逡巡して、結局手を下げたその時だった。
「おう?おまんさん、山南さんかの?」
すでに暗くなってきた道を抜けようというとき、後ろからアヤメには聞き覚えのない声が敬助を呼び止めた。
敬助がそちらに顔を向ける。アヤメもそれに倣うとそこには貧相ななりの若僧が立っていた。しかしかなりの大柄だ。六尺近くあるのではないだろうか。
彼は敬助の顔を確認するように目を細め、思った通りの人物だとわかると破顔した。
「やっぱりじゃあ!いんやあ!久しぶりじゃのし。」
「君は、確か千葉先生のところで会った…。」
「坂本!坂本龍馬じゃ。山南さんのおかげでええ道場を紹介してもろうてお礼をずっと言いたかったんじゃ。よかった。」
「ああ、そうだった。坂本君か。」
敬助にも覚えがあるらしく二人は互いに近寄っていく。自然アヤメもそれにならって敬助の後ろについて謎の大男に近寄らねばならない。色黒で、髪もぼさぼさなその青年の粗野な雰囲気に少し怖気づく。
思わず敬助に隠れるようにしているとそれに気が付いた敬助がこちらを振り返る。
「アヤメ、こちらは坂本さん。私が昔平助に連れられて一度千葉先生の道場に行ったことを覚えているかな?」
アヤメはゆっくりとうなずいた。よく覚えている。自分が言葉を取り戻す前のことだった。
「その時にあったんだ。あの時はもっと小柄だったように思ったが…。」
「ああ、あれからいろんなこと学んだからのう。」
そういって歯を見せて笑う。よく焼けた肌の色の所為か、歯の白さがやたらと目立った。この訛り口調といい、野性味を帯びた顔つきといい、敬助と関係があるとは意外だ。
「こん娘は?妹さんかえ?」
「いいや、でもまあ近いかな…。今お世話になっている道場で預かっている子だよ。アヤメ。」
敬助がアヤメに挨拶を促す。それに応じようと一歩前に出た。
「アヤメと申します。」
「ほう、えろう可愛らしいこじゃあ。わしは坂本いうて、昔山南さんに千葉周作先生の弟さんの道場を紹介してもらった恩があるんじゃ。」
「そうなんですか。えっと…どちらのお生まれでしょう?」
「わしは土佐の出での。」
坂本は再び敬助に目を向けるとにんまりと笑った。
「山南さんよう、わし佐久間象山先生んとこにお世話になっとたんじゃ。知っとるかいの?」
「ああ、聞いたことはあるな。投獄されたときいたが…。」
「うん、まああの先生のすごさがわかっとらん阿呆につかまってしもうたんじゃ。」
そういう彼の眉間には皺が刻まれている。
「確か彼は蘭学に造詣の深い学者と聞いている。君が蘭学に興味があるとは知らなかったな。」
その敬助の言葉に坂本は
「新しかもんは試してみんとわからん。黒船もそうじゃ。」
「君は開国論者かい?」
「しかしそう思わんか?こん国は狭い!もっとひろくの!」
そうやって坂本は大きく手を広げ演技がかった動きでそう声をあげる。
アヤメは正直この男になんだか嫌なものを感じた。アヤメの苦手な人間だ。そう確信めいたものを感じたのだ。ちらりと敬助の様子を伺うと普段通りの穏やかな笑みを浮かべるばかりだ。
「そうか、きみも血気盛んだな。」
「血気盛んで野蛮なんはむしろ尊王攘夷論者じゃ。全く大義っちゅうんがわかっとらん!新しいことを恐れちょる。こん国がためには一時的にでも諸国に頭を垂れるも大儀のため。それをあんなことばあかいいよって。」
「…そうかもしれないね。」
それだけ言うと敬助は話を切り上げようと口調を変えた。
「会えてよかった。しばらくは千葉先生のところにも行けてないから。」
「わしもじゃ。実はもう少ししたら土佐に戻ろうかとおもっとったからの。」
「へえ、土佐に。そうだったのか。」
「まあまだ先じゃ。」
「そうか、残念だ。また君と手合せしたかったのだが。」
「わしもぜひやりたいきに。そんときは今度こそ負けんぞ?」
そうして別れの言葉を交わして再びアヤメと敬助とで歩き出す。敬助は後ろを歩く彼女の様子が少しおかしいことに敏感に感づいて振り返る。
「アヤメ?」
「あの人と、親しいの?」
「坂本君か?」
アヤメの言葉に敬助は腕を組んでわずかな間逡巡して
「いや、実際数えるほどしか会ってないな…。」
「そう…。」
「どうした?」
敬助の問いかけにアヤメは戸惑うように目を泳がせ小さな声でこう言った。
「私、あの人、なんか苦手。」
アヤメの告白に敬助は虚を突かれたような顔をしたがすぐに取り繕った。
「なぜ?」
「だって、大義とか。そういうこというの独善的よ…。」
敬助は平然を装っていたが正直驚いていた。アヤメは人の好き嫌いはそんなにひどくない。粗暴な人間には恐怖するがそうでなければめったと人のことを苦手だとは言わない。そんな彼女が坂本のような人たらしをそう断じるのは意外だったのだ。
「彼は悪い人ではないよ。」
「そうかもしれないけど…。」
アヤメ自身、なぜ自分がそう思うのかうまく説明できないようだ。益々珍しいことだ。
「アヤメ、そう気負うな。大丈夫だ。長い人生、苦手な人ができるのは仕方がないことだ。それにそう頻繁に会う人でもないだろう。」
敬助の言葉にアヤメは曖昧に頷いた。
このときアヤメの胸に宿ったほの暗い予感をアヤメはこの先も消すことができなかったのだが――。




