友達③
それから数日は特に何事もなく平和に過ぎていった。アヤメはあの歌のことをなにも言わなかった。誰に教わった歌なのか。
そして宗次郎もあえて聞こうとはしなかった。
そんなある日のこと、アヤメは寺子屋に行って帰ってくると一人でおつかいに出かけた。以前武士に絡まれたため暫くは控えていた買い物も声が出てから出来るようになった。喋れることで店の人間とのやり取りも可能となったのだ。
フデに頼まれた墨を買いに行ったアヤメだったが、いつもならとっくに帰ってくるはずの時間になっても戻る気配はなかった。
心配したフデは敬助にそのことを伝えた。
「山南さん。少しいいですか?」
「はい、なんですか?」
稽古を終えて手拭で汗を拭う敬助はその手を止めフデに笑みを向けた。
「それが、アヤメがまだ戻っていなくて・・・。いつもは帰りに犬と戯れて少し遅くなってもここまでではないのに。また前のようなことになっているのではないかと心配でして。」
「それは本当ですか?」
驚いた表情を浮かべ、すぐに敬助は
「念のため迎えに行ってきます。どの店ですか?」
それだけ聞くと着替えもせずに出て行った。
「あれ?山南さん?」
廊下ですれ違った勝太や宗次郎の問いかけにも答えないで敬助は町へと走った。
町へ行き、フデに教わった店の店主にアヤメが来たかと尋ねると、店主は敬助の慌てた様子に目を丸くしながらも
「アヤちゃんなら確かに来たよ。一刻半ほど前だったかな。」
そう教えてくれた。
「そんなに前に…。じゃああの子は一体どこへ…。」
「帰ってないのかい?」
「ええ…。」
「そうか…。そりゃ心配だな…。俺も見かけたら早く帰るように言うよ。」
「お願いします。」
店主に頭を下げ敬助は今度は来た道を戻り始めた。どこかで寄り道しているのかとなじみの店をいくつか見回るがいない。
その時ふとフデの言葉が思い出された。
――いつもは帰りに犬と戯れて少し遅くなってもここまでではないのに。
犬ーー惟成だ!
すぐに寺へと向かう。寺に続く小路を入り走っているとふと視界の端で見覚えのある後姿が目に入った。袋小路になっている小さな一角だ。勢い余って通り過ぎてしまったため数歩戻りゆっくりとその後ろ姿に近づいた。すすり泣く声と細かに震える肩。荒れた息を整え、そっと声を掛けた。
「アヤメ。」
その小さな肩が一瞬びくりとはねた。そしてゆっくりと振り返る。真っ赤に腫れた瞳が痛々しい。
敬助は屈みこみながら
「どうしたんだ?まさかまた誰かに…。」
そこまで言ってから敬助は気が付いた。アヤメの前に横たわる血まみれのなにか。
毛の生えた小さな肉塊。
「アヤメ・・・。」
「敬助・・・お兄ちゃん・・・。」
アヤメはその大きな瞳に涙を一杯ためている。頬に流れた涙の後がくっきりついていることから永い間ここで泣いていたのだとわかった。
「これは一体・・・。何があったんだ。」
「あ・・・あの。」
アヤメは必死に何かを言おうとしているが嗚咽を繰り返し言葉にならない。だが小路の出口に転がった何かを指差した。見るとそれは太い棒きれだ。片方の先に黒ずんだ血がこびりついている。
「お・・・おと・・・このひ、とが・・・たっ、たいて。こ、こ、これ、な、りを…。やめ、やめてって…い、言ったけど…」
途切れ途切れに話すアヤメの言葉と血の付いた棒から想像するに、男が惟成を撲殺したと推測された。むごい様子をぐっとこらえて惟成の様子を見る。目も頭蓋もつぶれてひどい様だ。もう死んでいることは誰が見ても明らかだ。
今の時代、こういうことはよくある。野良犬が店のものを盗んだと殺したり、チンピラ気取りの野郎が酔った勢いで面白がって暴力をふるう。
犯人がだれかわからないしわかったところで、裁きはない。悲しいことだが。
「アヤメ…。」
泣いているアヤメをそっと抱き寄せて頭を撫で、背中を軽くたたく。
「ひっく、うっ…。」
敬助の着物の袖をそっとつかみしゃくりあげる。そのアヤメの手にはすでに乾いた血がこびりついている。きっと倒れている惟成を抱きしめたり身体を撫でたりしたのだろう。袖がまくれて左腕にはひどい痣があるのも見えた。惟成を殺した男にやられたのか。なんて奴だ。怒りが湧き上がったが、気持ちを圧し殺してアヤメを抱きしめ「お前の所為じゃないよ」と優しい声音で繰り返す。
二人はそうして日が半分ほど地平線に隠れるまで抱き合っていた。
* * *
二人はその後、遺体を親言和尚の寺に連れて行った。
親言は惟成の遺体を見ると驚いた表情をみせ悲しみぬくれた。そして寺の裏の敷地内に惟成の墓をつくることを許してくれた。
三人で穴を掘り遺体をその中に横たえまた土をかぶせる。
徐々に土の中に埋もれていく惟成の遺体をアヤメは目に涙をためたまま見つめていた。
線香をあげ、親言がお経をあげる声が日の沈みかけた空の下に響いた。
その後もしばらく二人は惟成の墓の前でじっとしていた。
アヤメはもう泣いていなかったがその瞳の奥に深い光を湛えていた。そしてふとこんなことを言い出した。
「敬助お兄ちゃん、人は…生きてる動物は死んだらどうなるの?」
敬助はその答え難い質問にすぐには答えられなかった。だからこんな逃げるような答えしかできなかったのかもしれない。
「…アヤメはどう思う?」
「わかんない。でも和尚様は浄土に行くって…。浄土って何?」
アヤメはそう返事をすると敬助とつないだ手にわずかに力を込めた。
「お兄ちゃん…。」
「うん?」
「私のお母さんも惟成と同じところにいるのかな…。」
「アヤメ?」
「お母さんはもう私に会いに来ない?いないから?死んじゃったの?」
矢継ぎ早にそう聞かれて敬助は驚きのあまり何も言えなくなった。最初はあっけにとられて、そしてアヤメが何を聞いているのかをわかり途端何を返せばいいかと考えるあまり言葉に詰まったのだ。
何故ってアヤメの母は流神の話ではもう死んでいる。それを今までアヤメが何も聞いてこなかったほうが不思議なのだが。
「アヤメの母上は…。おそらく…。」
なんと伝える?いつかこうして尋ねられる日が来るとわかっていたしどう答えるかをずっと考えてきたはずなのに。いざその時になると何と言っていいのかわからない。
どうする?
「お父さんも死んじゃったの?」
「…アヤメ。」
父という単語が出た途端、敬助は冷静さを取り戻した。
この子は聡い子だ。おそらく以前から両親の死を感づいていたのだろう。だがそれを今まで言わなかったのは、この子なりに言葉にすることで親の死が現実味を帯びることを恐れたのだろうか。それにこの子の父はこの子に自分が父とは明かしていなかったはずなのに、アヤメは父の存在をわかっている様子だった。この子は、大人が思っているよりずっと勘がいいのだ、ならばごまかすのは無駄だ。
敬助はふっと息を吐いてアヤメに視線を合わせるようにかがみこんだ。
「アヤメ、私はお前の父上にも、母上にも会ったことはない。だからこれはお前を私のもとに託してくださった方から聞いた話だ。」
「うん…。」
「お前の父上は事故で亡くなったようだ。」
その言葉にアヤメが一瞬怯んだ。しかしそれでも言葉を吐くことをやめなかった。
「だから私に会いに来てくれなくなった?」
やはりあの子は知っていたのだ。自分の父が自分に会いに来てくれていた男だと。なんと敏いことだろう。
そしてなんて残酷なことだろう…。
「そうだよ。…アヤメは、父上のことを知っていたんだね。」
「…うん。お母さんと住んでたとき、一人でいると話しかけてくれた。お父さんはお父さんだってこと、隠してたけど、わかったよ。なんとなく。それに、河原で誰かと私の話をしてるの聞いたの。自分の子供だからって、その誰かに言ってた。」
「そうか…。父上は最期までお前を案じていたのだそうだ。そしてある方にお前を託された。その方が私のもとにお前を連れてきてくださった。」
「ここは、前のおうちより遠いところ?」
「そうだ。ずっと遠いところだ。」
「戻れない?」
「…戻りたいのか?」
「…わからない。でもお母さん…。お母さんはきっと一人だから…。お母さんは?」
アヤメは自分でも己の感情が整理つかないのだろうか、視線を敬助からそらして自分の足元を見つめる。
母を慕う幼い子ども。どんなに理不尽な暴力にさらされても頼れるものは母しかいなかったのだ。母を案ずる彼女の気持ちを思うと、胸が痛んだ。だが今嘘を言うことも間違っていると思われた。
「アヤメ、母上ももういないんだ。もう…死んでしまったんだ。」
「死んだあとの世界にいる?」
「そうだよ。」
「…。お母さんそこでは笑ってる?」
そういってアヤメは敬助の瞳をまっすぐ見つめた。その眼差しの強さに敬助は少し面食らった。この子はこんな目もするのか…。アヤメは続ける。
「お母さんはいつも私の前では怒ってた。いつも、私の所為で幸せになれないって言ってた。泣いてる時もあった。」
幼い子どもに対して、容赦なく投げつけられた言葉。なんと言うことだろう。この子は覚えているのだ。母が己を理不尽に憎んでいたことを。この子はそんな母を案じる、心優しい娘だというのに…。
「そうか…。だがアヤメ、それはお前の所為じゃないんだ。わかるか?お前の母上を悪く言いたくないが、少し欲が過ぎたんだ。」
「…。」
「アヤメ。」
黙ったまま動かないアヤメに対し少し語調を強めれば、ゆっくりとうなずいた。
「じゃあみんなどこにいるの?」
「それは…私にもわからない。浄土も極楽も私はいったことはないからね。」
「じゃあ、いいところじゃないかもしれない?」
「…。」
不安げに揺れる瞳。その瞳に己の姿が映っている。
「ならねアヤメ。こう考えてみるんだ。」
「?」
「どうせわからないならいいように想像するんだ。自分の望むように。そうしたほうが、死んだあと苦しい世界に行くんだって思うよりずっと楽だろう?」
本音を言えば、こんなにいい子を苦しめた親には天罰が下るべきと思うが、この子はそう思えないだろう。
「そう…だね。」
それだけアヤメはいうと眉をハの字に下げてはにかんだ。泣き出しそうなその顔をそっと自身の肩に寄せた。静かにこぼれる熱いアヤメの涙の滴が敬助の着物を濡らす。
この日のことを、この会話を、敬助は何年先にもなって思い出す。
何度も何度も――。
嫌になるほどに…。




