怯え
朝になった。
普段なら朝稽古に行くのだが敬助は未だ少女の眠る部屋にいた。深夜になって少女の熱が上がったのだ。
次第に容態は落ち着いてきたのだが用心して今日の稽古は休んだのだ。
少女は相変らず目を覚まさない。無理に起こすわけにもいかず、ただこうして見守るくらいしか出来ない。
昨日よりも随分と安らかな表情の少女の顔をのぞこんだ。長い睫、二重の瞳、日本人にしては少し高めの鼻。痣や傷が目立つが、良く整った顔をしている。
「山南さん、入りますよ。」
不意に外から声を掛けられた。あの声は
「源さん。どうぞ。」
門弟の一人、井上源三郎だ。
源三郎は手に二人分の膳を持っている。
「朝餉を持ってまいりました。どうですか、調子は。」
「まだ目を覚ましません。」
「そうですか・・・。心配ですね。」
源三郎は門弟の中でもしっかり者の兄貴分で物腰も柔らかな男である。その為敬助とも話が合った。
源三郎は本当に心配そうな顔をしている。
「一体何処の子なんでしょうか。確か河辺のあたりで見つけたんですよね?」
「はい。近くの店の奉公の子でしょうか。」
神妙な顔つきで少女を見下ろせばピクリと瞼が動いたのがわかった。
「う、動きましたよ。源さん!」
「ええ!」
突然の反応に珍しくうろたえてしまう。
「大丈夫かい?わかるかい?」
少女の耳元に口を寄せ呼びかけるとゆっくりと瞼が開いた。その瞳に敬助が映った。
そして次の瞬間――・・・
――――
―――――
「おう、目が覚めたってな!あの子。」
道場に入った敬助に周助がすぐに声を掛けてきた。
恐らく源三郎が教えたのであろう。
「ええ・・・。」
「どうした?」
少し目を伏せた敬助の様子に気がつき声を低くして尋ねてきた。
「それが・・・。」
少女は目を覚ました途端その細い身体からは想像もつかない速さで身を動かし部屋の隅に身体を寄せぶるぶると震えだしたのだ。
顔を庇うように腕で頭を抱えその隙間から見える灰色がかった茶色の瞳には恐怖の色が浮かんでいた。
大丈夫だと呼びかけながら敬助が近づくと益々怯える。
源三郎に水を取ってきてもらい差し出すが近づこうともしない。
「結局一言も喋ってくれませんでしたよ。」
今は一人、部屋の中に居る。ガタガタ震えて周りを拒絶するように身を小さくしている。
「そうか・・・。まあ目が覚めて知らないとこにいりゃそうなるかもな。落ち着いたらまた話を聞こう。」
「はい。一応医者の先生もお呼びしようかと。」
「そうだな。問題ないか診てもらわんと。」
だがこの計画は思った通りには動くことは無かったのだ。
* * *
「あのこは、唖ですね。」
「唖ってつまり・・・。」
「口が利けないってことです。」
それから数刻後、昨日の医者を呼びもう一度診察をしてもらい、その結果を居間で聞いているところだ。
敬助、勝太、周助は呆然とその話を聞いていた。
「本当ですか?」
敬助が恐る恐るたずねれば医者の善庵はしっかり首を縦に振った。
「ええ、最初は怯えているから喋らないのかと思ったのですが、喚いたりすらしないですし、喋ろうと口を開けたときもあるのですがね、息を食むようにするだげで。喉も殆ど動いてません。」
「てえっとなんだ。耳が聞こえねえってことかい?」
周助が渋い顔で訊くと医者はゆっくりと首を横に振った。
「いえ、聞こえていると思います。風の音に怯えている様子でしたから。聞こえているかと尋ねればうなずくくらいはしてくれましたから。」
彼女の診察に余程体力を要したのだろう、少し疲れたような表情だ。
無理もない、先生が部屋に入って少女に近づいた途端彼女は怯えた顔で全身を震わし逃げ出そうとしたのだ。何とか腕や足の傷の手当をし、熱を測るまでに半刻も要したのだ。
「ただ、喉に怪我をしている様子でもないですから心の問題かも知れませんね。」
「心?心を病んでいるのですか?」
人の良い勝太がまるで自分のことのように苦悶の表情を浮かべる。心を病んで話せなくなることがあるというのは聞いたことがある。何かよほどの経験をして言葉を失うことは不可解でない。
「まあ詳しくはわかりませんが。私はそっち方面には疎いので。兎にも角にも出来るだけ活力の出そうな食べ物を食べさせゆっくりさせることですな。」
「わかりました。」
「すまねえな先生。手間掛けた。」
「いえ、では私はこれで。」
物腰の柔らかな老医師はにこりと微笑むと帰っていった。
門の外に出てその後ろ姿を見送りながら周助がぼそりと呟いた。
「まさかあの娘が唖者だとはね・・・。」
敬助も予想だにしない結果に息をついた。
「やはり何か酷い目に遭ってあそこに・・・。」
敬助の言葉に勝太も頷いた。
この時代、奉公先で酷い目に遭って逃げてくるものも多い。あの娘もその類だろうとそこにいた皆が思った。理不尽な暴力にさらされるもの、何かと仕事にケチをつけられ給金を奪われるもの、そして肉欲を満たすことを強要されるもの…。
「父上…。」
勝太は眉をハの字にして心配げな表情を見せた。
「あの子、今日身元を確認しそこに帰すということでしたが…。」
勝太が何を言いたいかは周助にもすぐにわかった。渋い顔で頷き、
「ああ、そういうわけにもいかなくなっちまったな。おフデは俺が説得するから安心しろ。まあどういっても納得はしねえだろうがな。」
「と、言うことは・・・。」
「暫くここに置くぞ。」
「はい!ありがとうございます。先生。」
「父上、ありがとうございます。」
敬助と勝太がそれぞれ礼を述べれば、おう、っと軽く手を挙げ周助は中へと入っていった。
「よかった・・・。流石にあの状態のあの子を元のところに戻すなんて酷な事はできないからな。」
勝太の言葉に敬助も同意した。
「そうですね。兎も角もう一度様子を見に行ってきます。」
「ああ、頼む。私は出稽古に行かなくては・・・。」
「毎日お疲れ様です。」
勝太に会釈すると敬助は少女のいる部屋へと足を向けた。
それにしても周助はどのようにフデを説得するつもりであろうか。
フデは付き合いの短い敬助の目から見ても中々の頑固者である。たとえ旦那のもの言うことであってもすぐには聞き入れないだろう。何しろ勝太を養子に迎えると周助が決めたとき最後までごねたということだ。
そんな不安を抱きながら歩いていると少女に与えた部屋の前まで来ていた。
襖を開くと、少女は隅の方で膝を抱えて縮こまっていた。そっと声を掛けてみる。
「こんにちは。」
柔らかな笑顔を向けると少女の方がピクリと動いた。
「はじめまして、私は山南敬助。この試衛館道場に身をよせさせてもらっているんだ。君は昨日この近くの河辺に倒れていたんだ。それでここに連れてきたんだ。」
まずは自己紹介をした。不安を少しでも和らげねばと思ってのことだ。だが返答は返ってこない。しかし敬助は言葉を続けた。
「君の家がわかればすぐ帰すつもりだったんだ。でも無体なことはできないからね、ここでしばらく生活してほしい」
敬助の言葉を耳にした途端、少女の瞳が一気に恐怖の色に染まった。
「?どうかしたのかい?」
ぶるぶると震える彼女の身体。思わず近づくとその震えは益々酷くなった。
何かに怯えている――敬助の目には見えない何かに。
一体何に?
「大丈夫だよ。ここには怖いものは何もないから。ね?」
何とか落ち着かせようと出来るだけ声音を柔らかにして声を掛ければ
「ふ、はう・・・。」
空気が喉を通る音だけがする。少女の息が荒い。
「落ち着いて。大丈夫だよ。」
声をかけるが少女の状態は悪くなる一方だ。それどころか敬助が近づけばその分呼吸が荒くなるようである。
このままではいけない。
そう思った敬助は一定の距離を保ち、少女の脇に朝餉の置かれた膳を置いてその場を立ち去った。
このままここにいれば彼女はきっと怯えたままだろうと思ったからだ。
――――
―――――
午前の稽古を終えた敬助は膳を二つ重ね少女に与えた部屋へと急いだ。
あの少女の怯えた様子では男所帯のなかで食事を取るのは無理だろうと判断し、こうして膳を持ってきたのだ。
「入るよ。」
襖の前で一声かける。返事はないと分かってはいたのでそのまま襖を開けた。少女は先ほどと殆ど同じ体勢で座っていた。
その脇には朝方敬助が置いていった朝餉が手付かずのまま置かれていた。 味噌汁も麦飯もすっかり冷めてしまっている。
敬助は驚きを隠せなかった。あの細い身体で昨日の夜から何も食べていないというのに彼女は目の前に置かれた食事に一切手をつけなかったのだ。
「お腹空いてない?」
敬介が尋ねると少女はその声に肩をびくりと震わしただけでそれ以上の反応は見せない。
だが敬介は聞き逃さなかった。彼女の腹の虫が鳴く声が。ほんの僅かな音ではあったが確かに聞こえた。
やはり腹は空いているようだ。
「ほらお腹空いているなら、ね?」
冷え切った朝餉ののった膳を引き寄せ代わりに昼餉を脇に置いた。
だが少女はこちらに顔を向けることもなくただじっとしている。
微かに荒くなった息が聞こえる。僅かだが腕が震えている。
「ここに置いておくよ?」
それだけ言うと敬助は部屋の外へ出た。
「・・・どうしたものか。」
「どうしたんだ、山南さん?」
自分が寝泊りさせてもらっている部屋の前の縁側に腰掛けながら溜息混じりにそう呟くと、その声に思わぬ返事が返ってきた。
そこには勝太が立っている。
「あ、勝太さん。お帰りですか?」
「ええ。元気が無いようだが。」
「はは、ご心配なく。ただあの子が心配で。」
「ああ・・・。」
敬助が何を言いたいのかわかったのか勝太も眉をしかめた。敬助の横に腰掛ける。
「余程恐ろしい目にあったのでしょう、全く心を開いてくれる気配がありません。それどころかご飯も全く食べてくれないんです。」
「そうですか…。一体何処の子なんでしょうな。ちょっとトシにでも頼んで調べてもらいましょうか。」
「歳三君に?」
出てきた名前に敬助が訝しげにたずねると、
「ええ、トシならあちこちに顔が利くからね。薬売りの行商もしてるし、女性にも知り合いが多いようだし・・・。」
最後のほうは苦笑交じりで言う勝太に敬助は頷いた。
確かに勝太の言うとおりだ。ここによく出入りしている勝太の幼馴染の土方歳三は頭がよくまわり口も上手い。
彼ならさりげなく彼女の身元を探れるだろう。
「そうですね、彼がまた来たら頼んでみましょう。」
「おい、かっちゃん、山南さん。」
敬助の言葉に被るように聞き慣れた声が聞こえた。
声のしたほうにいたのは容姿の整った青年だ。美男子という言葉がよく似合うきりりとした眉にはっきりとした目鼻立ち。
土方歳三がそこに立っていた。