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その場所で貴方を待つ  作者: 水無月とおる
19/30

約束

一部虐待表現を含みます


「私は父から受け取っていたお金を使い、女の要求する額の金を払い続けました。何とか大学に入り、自分自身で働けるようになってからは女に払う為に働きづめでした。父にばれたくない、その一心でした。私にとって自分と血を分けた娘は自身にとって煩わしいだけの存在になりました。会おう何て思わなかった。」



 では何故このように会うようになったのだと私が尋ねると


「きっかけは、父の死でした。」


 二年たった頃、男の父の容態が悪化し、何とか落ち着いたもののもう何日もつかわからぬ状態に陥った。男は父の希望で病室に呼び出され、二人きりで会話した。



――すまなかったなあ。


 父の第一声は謝罪だった。



――何が?


――父親らしいことを何も出来なかったな。栄子たちからも守ってやれなかった。


――別に気にしてないよ。


 男が答えると、父親は少し笑った。そして


――わからなかったんだよ、どうすればいいのか。栄子たちにも悪いことをした。自分の血をわけた子どもなのに、酷いことばかりしていたな。


「これは私に対する父の遺言なのかも知れない。そう思って心して聞こうと体を前に乗り出しました。」




――金の遺産は兄弟に平等に配分する、だがお前に家は継がせない。わが社が所有する物件もだ。大学卒業するまでの学費、アパート代はお前の名義の口座で用意しておいたし、その説明も弁護士に頼んだ。これが私に出来る最後のことだ。



 それは父なりの気遣いだったのだろう。もし家を継がせる、金以外の遺産を与えれば兄弟間に更なる軋轢が生じることを懸念したのだろう。


――わかった。・・・ありがとう。


 素直に出た感謝の気持ちだった。


 父親は驚いたように目を見開き、


――お前にそんなこと言われるときが来るとはな。


 そう言って笑ったのだ。そして、


――お前は、私と同じ轍は踏むなよ、実。お前にとって大事なものを大事にできるような人間になれ。幸せになれよ・・・。




「それが父の最期の言葉でした。そして次の日には静かに息を引き取りました。」


 男は一度そこで言葉を切った。そしてゆっくりと再び口を開いた。


「父の死から、ずっと考えていました。大事なものって、何だろうって。

父にとっての大事なものってなんだったんだろうって。父が大事にしたくても出来なかったのは、きっと母を含めた家族だったのではと思い、そう思い至ったとき、自分の娘が頭の片隅でちらつきました。

それに、何より父の“私と父とは違う”という言葉。それが父が全てを、私の過ちを知っていたような気がしたんです。

会ったことのない、出来ればいないことにしたい存在。そんな娘に、大きくなっいたなら二歳になるはずだ。保育所にでも通っているのだろうか。

会ってみよう、会いに行ってみよう。そう素直に思えました。」



 会いに行く。


 ただそれだけのことだが男にとっては困難な課題であった。まず何処に住んでいるのか、男は知らなかったのだ。



 人を雇い、なんとか突き止め訪ねたのは父の死から半年たった頃。娘はもう満三つになろうという季節は梅雨のころだった。女の家は安っぽい貸家の二階。しかし女は留守にしているようだった。女の住む部屋は明かりがついていない。


 暫く待ってみることにし、男は少し離れたところから様子を伺うと、正午を過ぎた頃、女が帰ってきた。その少し後ろに小さな影がたどたどしい動きでついている女の子――。



「ああ、あの子だと、直感し、じっとそこで見つめていました。


――ままあ!まあま!


 そういいながら必死に母の後ろについていく娘の姿に感銘よりも衝撃を受けた。

 とても小柄なその子に見向きもせず階段を上る母親。はいはいするようにその後を追いかけ、母を呼ぶ女の子。

 自分の幼い頃によくいている。


 ああ、本当に――。


「自分の過ちが実際目の前に居る、それが衝撃的過ぎて・・・。勝手ですがね。罪悪感、とでもいえるような、こう・・・胎のなかが疼くかのような感覚がしました。本当、勝手ですね・・・。」




 それから何回か、男は休日のたび様子を覗く様になった。


 女は休日家にいるか何処かに出かけているかのどちらかで、出かけるときは大抵彩芽を何処かに預けていく。それに出る時間はいつも遅くだ。


 女は未だ男と会ったころのように夜の仕事を続けており、仕事のときは昼前に戻ってきてまた夕方彩芽を人に預けにいく。


 殴っているわけではない。自分が見ないときはちゃんと業者に預け照るじゃないか。ただ振り向かないだけ。

 そう言い聞かせながらも、安心していられないのは頭に響く言葉の所為か。 


“育児放棄”


 子の四文字がいつもちらついていた。気にかけながらも近づけないでいる男。

 ただ静かに見守るだけ。

 そのうち少しずつ、何かがくずれてくることになる。


 




「大学が夏休みに入って、それまでより頻繁に見に行くようになりました。その頃からでしょうか・・・。あの子、彩芽が一人で居る姿を見かけるようになったのは。

大きくなったからか、あの女性は彩芽を預けることが少なくなって、一人彩芽を残していくようになったみたいです。


夕方とは言えまだ暑いころで、心配になり何度か扉の前まで見に行き気配を辿る。


そうしているうち季節は秋になり、女はいよいよ娘を放って昼間も出かけるようになりました。


一方彩芽は好奇心を開花させ、時々部屋の外に出てくるようになりました。

アパートの一階の花壇に咲く花を眺めたり、喋々を追いかけたり――。



その姿が何だか寂しくて――私は遂に声をかけたのです。」




――何をしてるの?




 彩芽はびくりと体を震わし、男のほうを見た。



――何をしてるのかな?


――おはなさん!


 それだけ言うと彩芽は自身の手の中を男に見せた。


 その中には道の端に咲く桔梗の花があった。



 これがこの親子の最初の会話だった。


 


――綺麗な桔梗の花だね。


――き?きひょう?


――き・きょ・う。


――きひょう!


 そういって花をふっと宙に舞い上げた。そして驚くべき一言をかけたのだ。


――ママのパパ?


――え・・・。


 彩芽はじっとこちらを見ている。


――ち、違うよ。


 そう言った途端、彩芽は目を見開きすごい速さで逃げていった。

 一人取り残された男の足元には白い桔梗の花が落ちていた。



「暫く呆然としているとその様子を見ていたのか、中年の女性が声をかけてきたんです。」


――石川さんとこに何か用事?


――あの、いえ・・・。


――彼氏さんとか?


――いいえ、昔ちょっと知り合って。娘さんが居ると聞いたので。



 声をかけてきた女は訝しげな表情を見せつつ、


――ああ、あの子ね。ホント、最近の母親って何考えてんだかね。保育所にも通わせないでね?


――そう・・・ですね。本当に・・・。



 それから何度か男は彩芽に会いに行き少しずつ少しずつ遠くから見つめる回数を増やす。


 最初は警戒されていたがそのうち少しずつ話を交わすようになる。



 すると男は気がついたのだ。

 彩芽は三歳になったというのに語彙の量が少ないのだ。


 それにも関らず彼女は歳不相応の言葉を発することがあるのだ。


 煙草、酒などを鼻歌交じりに呟く。だがそれが何を示す言葉かは明確には理解していないのだ。

 男は子どもの発育関連の本を読み漁りその歳にあった絵物語を買ってきては近くの川原で読み聞かせる。


 彩芽が男を「お兄ちゃん」と呼び懐くようになったのは彼女が生まれ四年経った頃。

 沢山の言葉を覚え、石ころや木の枝を使ってままごとをしたりもした。少女は笑う。さも楽しそうに。



 そのうち男の胸のうちには、今まで抱いたことのない感情が芽生えだしていたのだ。

 ――この子が、愛おしいと。



「僕は大学を卒業し、それなりの企業で仕事を見つけ働き出しました。出来るだけ早く自立しようと、そしていつかあの子を・・・彩芽を迎えに行きたいと願うようになりました。

哀れみや罪悪感ばかり抱いていたのに、あの子の笑顔を見るたびに心の重荷が一つ軽くなり、ささくれた心が和らぐ心地がしたのです。あの子の傍にいたいと・・・。」


 男は彩芽の母と数年ぶりに会う約束を取り付けようとした。しかし女は話し合いには応じようとしない。恐らく男が娘を引き取りたいと思っていることを察したのだろう。




 だが男は諦めきれない。


 あのままあの母娘を放っておくことは出来ない。

 育児放棄したまま学校にも行かせない可能性もある。

 外に男を作り、最悪彩芽を捨ててしまうだろう。

 だが彩芽本人は母を愛していて、男が実の父であることなど知らない。無理に引き離せないもどかしさに男は苦しんだ。


 この時代にも奉行所のようなところはある。そこに訴えかければ娘と母を引き離すこともできたろうが、それでも自分が彩芽を引き取ることはできまい。

 認知していない上、未成年の頃の子どもだ。

 実質何も出来ぬまま時ばかりが過ぎていく。

 女は相変らず娘の面倒はみないで遊び歩く。


 夜遅くに帰って来るくせ、娘に外出を禁じているようで、彩芽はいつも母の帰りを気にして男に会いに来る。


 男は例の川原に来て娘と過ごす。

 決して充実しているわけではない。普通の子どもならもっと親と触れあい、様々なことを学ぶ。


 年月が経ち、次第に焦りが大きくなる。このまま小学校に入れるのか?他の同年代の子たちと一緒に遊ぶ経験も殆どないままで?


 その穴を埋めるように読み書きを教えた。娘のために書物を買い、会う機会のたびにそれを持っていった。だが娘は男以外に話す相手も特に無いまま。

 このままではいけない。


 娘をあの母親から引き離したい。


 だが第三者に取られたくない、自分の手で育てたい。


 遅く芽生えた親心は男の行動を鈍らせ、結果最悪な事態を招くことになるのだが――。





――――――


――――



「彩芽を愛してますよ。あの子の笑顔を見るたび、罪悪感と、それ以上の愛情が沸き起こる。だが親と名乗ることもできない僕は臆病者です。」


 男は話を終えると苦しげにうつむいた。

 なんと身勝手な親か。自分の血を分けた娘を生き地獄に叩き落し、まるで被害者のような顔をするのだから。


 そう思っていた。あの時はな。



 それからも男は何度も娘に会いに来る。そのうち娘は“小学校”というところに入った。この時代で言う寺子屋だが、その世話は男が行なった。必要な金は払うと言い、間接的な連絡手段を行使し何とか実行に移せたのだ。


 彩芽はそこで初めて同年代の子らと出会い、世界を広げる。

 幸せそうに笑って、男と会うたび、それまでにあった出来事を嬉しそうに話す。


 たどたどしい話し方だが、必死に男に嬉しかったこと、楽しかったことを伝えて・・・。

 今思えば、あのころ彩芽は最も幸せだったかもしれないな。




 人の幸せとはなんと儚く、脆いものか。


 必死で人は「幸せ」を築き上げ、それをそ知らぬ他人に一瞬で壊され、恨み、嫉み――悲しむ。


 彩芽は幸せがくずれた時、一体どうしたと思う?


 あの子の母はどうしたと思う?


 終わりの始まりは、彩芽が生まれて七年と三月がたった頃。ぬしらの歳の数え方だとあの子が数えの八つのとき。

 全ては男が事故で死んでから――。


 突然だった。

 男は突然あの川原に来なくなった。

 否、正確にはアヤメの眼に映る形ではこれなくなった、というべきか。




 男は死んだ。娘に知られずに、突然に。

 娘に父と名乗ることも出来ぬまま。


 あっけないものだ、人の死とは。哀れなものよ・・・。どんな善人だろうと死ぬときは死ぬ。絵物語と事実は違うのだ。


 勿論彩芽はそんなこと知る由も無く、突然慕っていた男が来なくなったことに戸惑いながらも待った。その場所で待ち続けたのだ。男の仕事が休みであるはずの日だけでなく、毎日毎日夕暮れ時まで待った。

 そのすぐ後ろに男が居ることに気がつかず。


『寂しいものですね・・・。』


 毎日毎日自分に気がつかぬ娘が家に帰っていく後姿を見つめていた男はそういって私を見た。


『貴方が近くに居ると、貴方の気配を感じている様子ですが・・・。』



 彩芽は人ならず者を感ずる力はあったが男ほど強くない。ただの人の魂を感じることは毛頭無理なのだ。

 彩芽と母親との関係はよじれるばかり。

 そんななか、男は結局自身の娘に何も伝えられないまま、静かに昇天した。



『あの母親のこともある。未練はありますが、行かねばならない・・・。無情なものですね。神様、あの子を頼みます。』


 その言葉を私に残して――。






 それから暫くして、状況は大きく動き出す。


 男の死により彩芽は、否彩芽の母である女は大いに困り果てたのだ。何しろ自分の家に定期的に金を入れていた男が突然居なくなったのだ。勿論金が止まる。自分は高価な着物を身にまとい、贅沢な着物を着て生活してきた。それが出来なくなる。関係を持っていた男とも別れることになって。母親は当然怒った。そして男の実家に怒鳴り込んだ。だが実家はもう奴とは縁を切ったの一点張り。今更隠し子に払う金は無いと――。ならば男の遺産をと動くが男は遺産管理は彩芽名義にしてあの子が成人してから使えるようにしていた。




 母親は次第に情緒が不安定になる。娘の世話を完全に放棄し、次第に酒の量が増え、娘に暴言を吐く。


 彩芽は次第に川原に来なくなり、外出自体極端に減り、張り付いたような笑顔を見せる。


 始終笑顔なのだ。だれも近くに居ないのに。


 彼女なりの戦略だったのだろう。笑って母の機嫌を伺うことで自らの身を守ろうと。だがそれも長くはもたないのだが――。






 次第に女は言葉だけでなく、拳で娘を傷つけるようになる。 


「お前なんか・・・産まなきゃよかった!なんで・・・。」


 食べ物もろくに与えられず、殴られ――。最悪なときには家から追い出された。

 夜遅く、あの娘がいつもの川原に来たことがあった。


 橋の下で、膝を抱え込み。季節は冬で、雪は降っていなかったが逆にそのせいで寒さが増していた。

 そんな中娘は薄着で寒さに震えていた。

 思わず近くに寄り添い、外気に晒された腕を撫でようとすると彩芽は顔を上げこちらを見た。


「だれえ?」


 見えているのかとも思ったが目は私を捉えていない。


「おにいちゃあん?」


 張り付いたような作り笑いであたりを見渡す。


「お兄ちゃん?どこ?どこにいるの?」



 少し表情が歪んで立ち上がる。


「どこ?私はここにいるよ――。」




 哀れな声――。私がその声を聴いたのはこれが最後になった。







 それからは、殴られ、罵倒される日々。


「お前なんか産まなきゃ良かった・・・!」


 笑って機嫌をとることも逆に母の神経を逆なでしたようで、彩芽は徐々に表情を失っていった。

 そうすれば母の暴力がそんなに長引かない。


 心を殺して奥に奥にしまいこんで――。


 母に逆らえば母の機嫌が悪くなる。だから母の命令は全て聞いたのだ。

 口答えすれば


「五月蝿い!黙れ!」


 そう言うから、いつか話すことを辞めるようになった。

 言葉も心とともに胸の奥底にしまいこんだのだ。



 耐えて耐えて耐え抜いて、いつか母が自分に笑いかけてくれるのではないかと信じ続けて。




 だが親娘が住む家の近所の住人はこの異常な環境を心配し、ついにお上の手がはいった。


 冬も終わりに近づく頃。

 

「石川さん?いるんでしょう?児童相談所のものです。」


 アヤメが“小学校”に行っているはずの時間帯にやってきた男二人と女一人。

 安い貸家の古い戸を何度も何度も叩いていた。そのうち女が部屋から出て、


「なんの用よ?他人んちのドアドンドンドンドン!」

「石川さんですね。」


 三人は母親に自分たちがここに来た理由を簡単に説明し、娘の所在を尋ねた。


「本当なら小学校に行ってるはずの時間ですよね。」

「・・・。」

「ここ数日行ってませんよね?前々から休みがちでしたが。」

「風邪で休んでいるだけです。」

「担任の先生からも報告を受けてるんですが・・・。」



 押し問答が繰り返され、遂に母親は


「わかりました、無事だってわかればいいんでしょう?」


 そう言って無理矢理扉を閉めた。


 三人は娘を出す気になったのかと力を抜いた。

 だがその一瞬の隙に女は彩芽を連れ部屋を飛び出した。

 三人はすぐに気づいて追ってくる。ふっと後ろを振り返る小柄な少女。その顔には大きな青あざ。



 女は川原まで橋って逃げた。彩芽がよく蹲って父を待ったあの橋まで差し掛かる。

 欄干を乗り越え、彩芽を抱きしめ、そのまま川に身を投げた――。

 後ろから追いかけていた三人が顔色を変えた。女の体が傾ぐ。彩芽は何の抵抗も見せなかった・・・。


 川の中でその光景を見つめていた私のほうへ。

 冷たい冷たい水の中、身を沈める。

 水の中漂う細い腕。



『あの子を頼みます。』



 脳裏によぎる男の言葉。

 私は思わず手を伸ばし、そのか細い腕を掴み痩せた体を抱いた。

 母親の腕からするりと抜け出し、流れに逆らって娘を運んだ。


 長い永いときを越え――。



―――――――


――――


「・・・。」


 敬助はただただ黙って男の話を聞いていた。

 否、なにも言えなかったというのが正しい。


「驚いたか?まあ無理もない。」

「というか・・・。私の想像の域を超えているというか・・・。」



 茫然自失状態の敬助は流神から目を逸らし、川の流れに視線をやった。


「見つけた時に着ていた着物は・・・。」


「ああ、あれはあの子の時代の一般的な着物さ。袴みたいなのは確か・・・“じいぱん”とかいったか。」


 拾ったばかりのころ、食事すらこちらが許可しないと取らなかった。

 大人の指示は何でもきいて、逆らおうとしない。

 泣くどころか、笑うこともしない。

 頭を撫でれば驚いて――。

 布団の中で一人うなされることもある。

 

 不思議に思っていた少女の行動などが一つ一つ繋がって、なるほどと納得する冷静な自分と、まさかそこまでという驚愕。


 そんな敬助の横に並ぶように流神は橋の欄干にもたれかかる。

 そんな流神の横顔を敬助はそっと伺い、


「あの・・・、アヤメの母はその後――?」

「・・・。」


 敬助の問いかけに対し、流神は静かに瞳を閉じふうっと息を吐き


「――死んだ。」



 それだけを敬助に告げた。重い沈黙が二人を包む。どちらも何も言わない。

 流神が作り出した世界だからか、敬助が流神と話し出してから随分な時間経っているのに日は一向に沈まない。


 鳥一匹飛ばぬ空が広すぎる――。


「・・・あの娘の母は、心を病んでいたのかもしれぬ。それなりに苦労してきたのかもな。金を信じ、そうして生きてきた。その歪んだ人生ゆえ、狂った。・・・否、もしかしたらあの女なりにあの男――アヤメの父に好意を持っていて、それゆえに苦しんだのかもしれぬ。私には人間の心など理解できないのではっきりい言えぬがな・・・。勿論だからあの子を傷つけていいわけではない・・・。一度閉じた心の扉は中々に開かぬものだ。あの女の罪は重い。」



 流神は持っていた番傘を差し、くるくると回した。その様子を映す足元の影を見つめながら敬助はもう一度問いかけた。


「何故、この時代に?貴方が時の流れをつかさどるならもっといい時代もあったでしょう?」

「生憎、人間の世はわからぬ。ぬしらの平和や平穏はこちらには理解できぬものだ。それに――。」

「それに?」

「お前なら――、あの子を拾ってそれなりに世話してくれるだろうと思った。ただそれだけだ。」

「・・・。私は、その期待に応えられたんでしょうか?」


 敬助の問いかけに、流神は・・・


「さあな・・・。」


 それだけ言って空を見上げた。


「あの子を気に入ったんなら、もう暫く傍に置いてやっておくれ・・・。」


 そういって悲しい顔をして微笑んだ。だがその姿は敬助が瞬きした間に消えてしまった。


 途端、雑音が戻ってくる。

 烏<カラス>の鳴き声、人のざわめき。まるで夢から覚めたかのような気持ちだ。あたりをきょろきょろ見渡すが、流神の姿は消えてしまっていた。


 * * *



「お帰りなさい、山南さん!遅かったのねえ。」


 試衛館に帰ると廊下でミツに見つかった。


「ああ、おミツさん・・・。久しぶりですね。」

「え?今日会ったじゃないですか!もう、ぼけちゃって。」

「そういえば、そうですね・・・。」


 今日一日会ったことがあまりに重厚で、まるでつい数刻前の出来事さえ、何日も前のことのように感じる。ともかく今はアヤメに会いたかった。


 ミツをかわして、部屋に急ぐ。あのときからともに時間を過ごした部屋。

 行灯の光が外に漏れているのを確認して襖を開ける。そこにはアヤメと宗次郎が縁側に腰かけている。二人は勢い良く開いた戸に驚いた様子でこちらを見ている。


「ど、どうしたんです?山南さん。」


 宗次郎が立ち上がり敬助を出迎える。


「いや、驚かせてすまなかったね・・・。アヤメ。」


 名前を呼べばアヤメは急いで立ち上がりこちらに寄ってきた。


「アヤメ、薬貰ってきたからね。」


 アヤメは相変らず無表情で頷く。その頭をそっと撫で、


「宗次郎、何時ごろ夕飯か聞いてきてくれるかい?」


 そう、宗次郎に頼むと宗次郎は少し不思議そうな顔をしながらも


「わかりました。」


 と頷き部屋から出た。


 アヤメと二人きりの部屋。行灯の燃えるジッという音がやけに大きく聞こえる。


「アヤメ・・・。薬塗ろうか。」


 アヤメの傷跡に塗り薬を塗り、包帯を巻きかえる。虫の鳴く音が季節を教えてくれるようだった。


「よし、できたよ。夕飯行こうか?」


 素直に立ち上がりこくんと頷くアヤメ。その頭を撫で、そのまま胸に抱き寄せた。



「アヤメ。お前は・・・本当にいい子だね。」

「・・・。」

「だから・・・怯えるな。もっと自由にしていいんだよ。駄目な事は教えてあげるから、もっと自由になりなさい。泣いたっていい、笑ったっていい・・・。自分らしくなりな・・・。私が、試衛館の皆が、ついているのだから――。」


 この子は、アヤメだ。石川彩芽としての人生は終えた。


 つらい過去を持っていても、今は試衛館道場のアヤメだ。

 だから私が、残酷な母の面影にこの子が怯えることがないように、守っていこう――。

 この子と一緒に居よう。

 心の傷が癒えるまでは、傍に寄り添い続けよう。そしてずっと、待ち続けよう。

 この子が頼ってくれるのを――。



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