流神
それは、例えば水。
例えば時間。
例えば命。
この世界における大きなうねりの一つ。
“ねえ、ねえ。”
“こっちにきて。”
“私は・・・ここに居るよ。”
『・・・・・・様。・・・・ん様。』
ぼやけた幻想の中から響く声に、男はそっとその瞼を開けた。持っていた傘をわずかにあげて声を掛けてきた者を確認する。
「蛍かい。」
『はい、私はもう眠ります。最後の一匹がいってしまってもう随分経ちましたし。』
「そうかい・・・。ここもまた寂しくなるな。」
『ふふふ。』
声を掛けてきたのは体から不思議なヒカリを放つ、紙面をつけた年のころは十五位の少女だ。
『また、会えればよいのですが。』
そういって口元に微笑を浮かべた。紙面に隠され目は見えなかったが、その微笑はどこか寂しげだ。
『ここも、もうすぐ穢れてしまう・・・。』
「そうだな・・・。」
『!申し訳ありません。このような口の利き方・・・。』
「気にするな、事実は枉げられまいて。」
男はそういって、笑った。
* * *
1853年、旧暦神無月の始め,冬がその気配を覗かせる頃。試衛館に客人がやってきた。
「こんにちはあ!」
「また来たよ・・・。」
母屋に響く元気な声は道場にまで届いてきた。道場にいた歳三は顔を顰めた。ちょうど稽古が一通り終わって皆で休憩していたころだった。
「おミツさんは相変らず元気だねえ。」
傍にいた源三郎が微笑んでアヤメが持ってきたお茶を啜った。あの事件で切られた髪の毛も半月以上経って多少は伸びてきた。
敬助もアヤメの煎れたお茶を啜るとアヤメの頭をポンポンと撫でると
「迎えに行ってきます。」
「お願いします、山南さん。」
「敬助頼む。」
勝太と周助に笑みで返すと声のするほうへと向かう。アヤメは黙って敬助を見送った。賑やかな声はよく通る。
「おミツさん。いらっしゃい。」
「ああ、山南さん!!お久しぶりね。」
「以前アヤメの秋物の着物を頂いて以来ですか。」
「そうねえ。皆さん元気?」
「ええ。」
いつもの変わらぬ屈託のない笑顔を浮かべるとミツは首を伸ばして敬助の後ろに視線を送る。
「宗ちゃんたちは?」
「道場です。」
「そう!じゃあ早速向かいましょう。」
そういうと敬助の横をすり抜け一人でさっさと先に行ってしまった。
そうして奥に行き道場の中に入る。神棚に礼をして今まさに試合を始めようとする二人に目を向ける。すぐにそのうちの一人が愛弟であるとわかった。
そして途端、
「宗ちゃあん!」
「あ!姉上だ!」
「こらあ、宗次郎、俺の相手途中でやめるな!」
道場に響く歳三の怒声など完全に無視して宗次郎はミツに飛びついた。
ミツと宗次郎は久しぶりの再会を喜び合う。
「・・・まったく、五月蝿いのがまた来たよ。」
「なあんか言った?歳三さん。」
「別に。」
歳三に笑顔で問いかけるミツを一蹴し、歳三はやる気を失ったのか、胴着を脱いだ。
そんなことを微塵にも気にかけずミツは皆が使い終わった湯飲みを片付けるアヤメに目を向けた。
「あら!アヤメちゃんじゃないの!久しぶりねえ。髪が短くなってない?」
そう言ってアヤメにとに掛かるような勢いで話しかける。アヤメはミツの勢いに押され、うろたえた様子だ。
後ろからやってきた敬助はその様子に苦笑いを浮かべ、そっと間に入った。
「おミツさん、お疲れでしょう。まず荷を解かれたらいかがですか?」
「あら、そうねえ。ごめんね、アヤメちゃん。」
そう言ってアヤメの頭を撫でると宗次郎に連れられて出て行くミツ。
「はあ、また来やがった。」
「こらこらトシ、そんな口の利き方するもんじゃないぞ。」
溜息を吐く歳三を嗜め、勝太が笑う。
「アヤメ、お茶ありがとうな。」
その勝太の言葉に頷くとそそくさと湯飲みや急須を盆に一まとめにして出て行く。
あの事件があってから、アヤメは敬助に引っ付いていることが以前より多くなった。普通に笑ったりすることは少ないがそれでも以前より感情が読み取りやすくなったような気がする。
――信頼されてきてるってことかな。
敬助はこの前怪我をした足をまだ少し引きずるように歩くアヤメの姿に目を細めた。
「・・・お医者様には次何時行くので?」
その様子を一緒に見ていた源三郎が問いかける。
「とりあえず薬だけ今日貰ってきます。お医者の先生にはまた今度見ていただこうと。」
そう言うと敬助は腰を上げた。
「稽古も終わりの様子ですし、早速取ってきますね。」
「ああ、敬助。行くのか。」
「はい、周助先生。」
気をつけろよと声をかける周助に敬助が笑いかけ、胴着を脱ぐ為出ていった。
その頃敬助は医者の善庵のところにいた。
善庵は敬助に薬を渡すと冷めた茶を啜った。
「それを塗って綺麗な布で巻いてあげてください。」
「はい。」
塗り薬の入ったつぼを包むと敬助はほっと息を吐いた。
「ちゃんと治りますかね。歩き方がまだ妙なんですが。」
「まあ、骨は折れてなかったし大丈夫かと思いますよ。」
善庵は苦笑を浮かべ続けた。
「来た頃についていた傷のほうが重いですよ。あれは酷かった。ちゃんと治療を受けていない古傷もあったのであちらは痕が残るやもしれません。」
「そう・・・ですか。」
「まあ重症なのは身体より“ここ”の傷ですよ。」
そういって善庵は自身の胸をぽんぽんと叩いた。
「こればかりはどんな腕のいい医者でも簡単には治せない。しっかり看ててあげてくださいな。」
「はい。心得ております、先生。」
敬助は深く頷いた。あの子の心に、あの事件はさらに深い傷を残したに違いない。
善庵のところから帰る途中、あの橋を渡った。
アヤメが倒れていた橋だ。夕日のなかでぼんやりとした光が敬助の目の前をゆらゆら揺れて飛んでいく。
「蛍?こんな季節に?」
思わず目でその光を追いかける。
光は橋をまっすぐ渡っていく。
すると光は突然消えて、代わりに橋の向こう側に人影が見えた。
夕暮れ時の日差しに逆光になって顔はよく見えないが、敬助にはその男を知っていると直感した。
その男がこんなに晴れているにも関らず、ぼろぼろの番傘を差していたから。
「・・・。」
敬助は思わずその足を止め、男をじっと見つめた。
すると男は顔をくるりとこちらに向けた。
男と目が合う。
――やはり、あの時の男。
以前平助に連れられ千葉先生のもとへ帰ったとき見た男だった。
男はニコリと微笑むと、傘を畳み、ゆっくりとこちらにやってきた。
「人の子。何時振りか。」
そう言って敬助に近寄る。
敬助は何も言えずただそこに根を張ったように立っていた。
「・・・あなたは?」
身構える。そっと腰に挿していた刀に手を添えた。
こちらは刀を持っている。大丈夫だ。間合いに入ってくれば――。
「刀は抜くな、人の子よ。ぬしは阿呆ではあるまい?」
まるで自分の心の中を覗いたかのような男の言葉に敬助は一層警戒を強めた。
「案ずるな、取って食いやしないさ。ただお前と話がしたくてこちらに呼んだ。」
「こちら?呼んだ?」
「蛍の光を見たろう?」
敬助の手は未だ刀を握っているのに男は全く臆していない様子だ。
「あの光は私の友の最後の灯さ。」
「友?蛍がですか?」
「ただの蛍がこんな季節に飛ぶと思うか?」
「・・・。」
「お前が見たのは妖の灯さ。」
「何を仰る。生まれの遅い蛍が飛んだだけのこと。」
男は敬助の言葉に口の端をあげて応えた。
「ところでやや子は元気かな?この前は酷い目に遭ったようだが。」
刹那、敬助の脳裏に以前この男とすれ違った瞬間のこと、アヤメの泪が思い浮かんだ。
「貴方は一体・・・!?アヤメをご存知なのですか?」
「よく知っているさ。よーくね。」
含みを持たせたその表現に敬助は眉間に皴を寄せ、警戒を顕にした。
まさかこの男はアヤメを虐待していた――。
「そう警戒するな。私はあの子を知っているがあの子は私を知らぬ。」
「貴方は何者なのです?」
敬助の間合いぎりぎりのところに立つ男は殺気も闘気も感じられない。
なんなのだ?
男は敬助の問いかけに微笑むと
「私は水であり、時であり、命そのものでもある。お前達人間が妖とも、精霊とも、神とも呼ぶ存在。」
「か・・・神?」
上擦る敬助の声に男は頷いた。
「信じられないか?」
「当たり前ですよ。」
「じゃあお前が私を最初に見たとき、隣にいた童は何故私を見ることが出来なかった?何故こんな時間にお前以外通らない?」
その問いかけに敬助は周囲を見渡すが人の気配はない。それどころか、鳥すら一匹も飛んでいない。
「これでも信じられないか?」
そう言うと、男は欄干に足をかけるとそのまま川に飛び込んだ。驚いた敬助が慌てて身を乗り出し目でその先を見る。
すると男は川の上に立っていた。水面上に、地面に立つのと同じように
男は静かにかがみこむと川の水を掬い上げた。
水が男の手から零れ落ちる。だがその水は川面に戻る前にその動きを止め、輪を描き出した。
「なっ・・・。」
「まあ他にも色々があるが、これ以上必要か?」
「・・・。」
敬助は男の手元を凝視した。まるで水が意思を持ったように動いている。
「貴方・・・。本当に人じゃないのですか。
「そう、人ではない。お前達よりずっと長い時間を生きてきた。長い時を見てきた。」
男は傘を再びひらくとふわりと風に乗って敬助の前に舞い戻った。
「貴方は、この川の主ですか?」
「この川の主・・・。それは少し違うな。私が住まうのはこの川であってこの川ではない。言っただろう?私は水であり、時であり、命そのものでもある。」
男はふっと口元を緩め、
「私が住まうは川そのものではなくこの川の流れだ。」
「流れ?」
「そう、川は長い時の間も変わらぬもの。それは時の流れにも通ずる。ああ、ぬしをここに連れてきてくれた蛍は私を流れの神という意味で流神と言っていたな。」
「流神・・・。」
「まあ好きに呼んでくれればいい。肝心なのはそこではない。ぬしをこちらに呼んだのは話をしておきたかったからだ。」
「アヤメ・・・のことですか?」
「そう。あのやや子。」
「流神様は・・・あの子をご存知なのですね。では、あの子は・・・。」
「案ずるな。あの娘は人だ。ただ少し・・・敏感なだけのな。」
「・・・。」
「ただ、ぬしと生きる時間は違う。」
「え?」
流神は傘を玩びながら、欄干に腰掛けた。
「いったろう?私は流れそのものに宿るものだ。川の流れは長い時間流れを止めぬもの、それは時の流れにも通ずるのだ。私は時間の流れにも宿る。私は長い時間の流れを行き来することが出来る。そしてあの娘を見つけ、ここへ連れてきた。」
「・・・。」
敬助は言葉を挟まなかった。男はそのまま言葉を吐いた。
「あの娘は百六十年ほど先の時代からやってきた。」
しばしの間沈黙が流れた。敬助は震える唇を動かした。
「ひゃ、百・・・?」
「そんなに驚くことか?私の存在は認めたのに?」
「ですが・・・信じがたきことです。あの子は私達となにも違わない。」
「人間がたった百六十年ほどの時間でそこまで変わると思うのか?それにお前は見たはずだ。あの娘が最初に姿を現したとき…。」
敬助の脳裏にアヤメが川原で倒れていた時の様子が甦った。珍妙な着物。短く切られた髪の毛。
フデが最初アヤメを怪しがった理由でもある。
「あれは向の時代の格好さ。」
「・・・。」
「あの着物を見ておかしい、変だとは思わなかったのか?」
流神は目をすっと細めた。
「気にならないか?あのやや子がどんな風に育ってきたか。」
「・・・。」
流神の言葉に思わず黙りこくった。気にならなかったといえば嘘になる。
その沈黙を返答と取ったのか、流神は話を続けた。
「私があの娘を最初に見つけたのは、気まぐれに時をさ迷っていたときだ――。」
ついにアヤメの過去が明らかに!




