河原の少女
その場所で貴方を待つ。ずっとずっと、何年経とうとも――。
* * *
時は西暦1853年の夏。
試衛館道場。京の都のはるか東の土地にそういう名の道場がある。武士や名の知れた道場の者達からは芋道場と罵られる道場である。
江戸市中にあるボロ道場。その道場の門下である沖田宗次郎と山南敬助は夕暮れ時の道を並んで歩いていた。
「早く、早く!山南さん。夕餉を食べ損ねちゃいます。」
「こらこら、宗次郎。心配ないよ。それより前見ないとこけるよ。」
「大丈夫です!」
ニコリと笑う宗次郎。笑うと目がきゅっと細くなって、それをよく道場に入り浸っている土方歳三にひらめのようだと馬鹿にされてしまうのが悩みらしい。
だが敬助にとっては剣を握れば人が変わる宗次郎のそのような姿はかわいらしくおもえて仕方ない。弟のように可愛がっている宗次郎が。
ふっと目を空に移した。
真っ赤な太陽が西の空に沈んでいく。
近くを流れる川の水面にその光が反射してきらめいている。その様子がとても美しく、目を細めた。
すると視界に妙なものが飛び込んできた。川の辺、橋の下の辺りだ。小さな人影が見える。誰かが倒れている。
敬助は思わず足を止めた。
「山南さん?」
前を歩いていた宗次郎もそんな敬助の様子に気がついて戻ってきた。
「なあ、宗次郎。あれ・・・。」
「え?」
敬助の視線の先を宗次郎も目で追った。
「あれは・・・!」
二人は急いでその人影の元に走った。堤防の坂を駆け下り、その者に駆け寄った。
「あ・・・。」
その人物はなんと幼い子どもであった。
やせ細り顔には大きな痣がある。髪の毛は短く肩に触れるくらい。細く小柄の身体から見るに、年は七つくらいだろうか。
「大丈夫かい?」
声を掛けそっと肩に手を置き身体をゆすると
「うっ・・・。」
微かなうめきが聞こえる。細い、骨と皮だけという言葉がぴったりなその腕も僅かな動きを見せた。敬助そのことにほっと息をついて
「よかった。息はあるようだ。」
「はい。」
「だがすぐ医者に見せたほうがよさそうだな。行こう、宗次郎。」
「はい!」
山南はその子を抱えると再び帰路に着いた。今度は山南が宗次郎の前を急ぎ足で。
――――
「山南さん・・・。あなたご自身の立場を理解なさってるんですか?」
「・・・はい。」
「はい、じゃありません!何ですかあの子どもは!」
「倒れていたので。」
「そういうこと聞いてるんじゃありません!」
日のすっかり暮れた試衛館の一室で道場主の近藤周助の妻、フデは正座する敬助を睨みつけ声を荒げた。
「貴方はここの食客でしょう!それなのに勝手に子どもを拾ってくるなんて!」
「まあまあ、母上。落ち着いてください。」
よこからその義理の息子の勝太がなだめると、フデはきっと勝太を睨みつけ
「何ですか勝太さん。なにか私、間違っていますか?」
「いや、そういうわけでは・・・。」
勝太は元々農家の出である。近藤家には跡取りがいなかったため、門弟の中でも腕が立ち機転もきいた勝太が養子に迎えられたのだが、フデはそのことが気に入らないらしく、勝太を目の敵にしているようであった。その事実もある為、勝太はこの義母には余り強く言えないのだ。
勝太がフデの強い言いようにたじろいでいると、襖が勢い良く開いた。
「なあにがみがみ言ってんだおフデ。まあいいじゃねえか。怪我して倒れてるガキをほっとけつうほうが無理な話だ。特に敬助にはな。」
この道場の主人、周助が顔を出した。
「ですがお前さん!医者に掛かるのだってタダじゃないんですよ。この道場の厳しい状況を理解してるんですか?」
「だがよお、人の命には代えられまい。」
「あの、医者代は私が払います。ですからどうかご勘弁を。」
激しくなりそうな二人のやり取りに敬助が口を挟んだ。
「ほら、これなら文句はあるまい?」
「あ、あります!!あんな珍妙奇天烈ななりをした子ども。どこか身分の怪しいものに違いありません!」
フデの言う珍妙奇天烈ななりというのは恐らくあの子どもの着ていた着物のことであろう。下は袴のようだが、皆が着ているような物ではなくもっと脚の形に添っていたし、素材も固い濃い青色をした布であった。上は見たことも無いもので前で合わせる着物とは全く別物に見えた。それにとてもボロボロで、汚れが目立った。
――特に血の。
「それに、あの子ども、女子とのことではないですか!あんな短い髪の女子など!どこかで粗相をおかして放り出されたのでは!?」
そうなのだ。あの子どもは実は娘だった。医者にそう聞いたときは皆心底驚いた。実際抱き上げた敬助と宗次郎以外は。
女の不ぞろいの短い髪の毛はこの時代では何かの仕置きで切られたものとしか思えなかったのだ。
「まあいいじゃねえか、そんなこと。」
「よくありません!」
「では、こうしましょう。」
周助とフデの言い合いに勝太が口を挟んだ。皆一斉に勝太に目を向ける。
「ともかく今日はここに留まらせ目を覚ましたら身の上を聞く、ということで。」
「ああ、それでいいじゃねえか。な?おフデ。」
「・・・仕方ありませんね、今日だけですよ!」
そう言うとフデは自室に戻ってしまった。
「ふう、これでこの場は収まったな。」
周助はやれやれという風に頭を振った。
「では私はあの娘の様子を見てきます。」
そろそろと腰を上げる山敬助に、周助が声をかけ引き止めた。
「ちょっと待て敬助、そういや宗次郎はどうした。」
「あの子もあの娘の寝ている部屋ですよ。ずっと付いていてくれるようです。」
「ほう!なんだ珍しいじゃねえか。惚れたか!」
何か悪いことでも企んでいるかのようなニマニマした笑顔を見せる周助に敬助と勝太は思わず苦笑いを浮かべた。
――――
「先生、入ります。」
一言中に断ってから少女の眠る部屋の襖を開けると、そこには近所に住む医者の善庵と宗次郎が座って少女の傍らに構えていた。
「ああ、一応処置は終わらせましたよ。」
敬助が顔をのぞかせると、善庵が柔和な笑みを浮かべ答えた。
「ありがとうございます。それで、どうでしょうか?」
「さっきこの子にも説明したんだが、体中に傷がありましたよ。新しいものや古いものもあった。新しいものはとりあえず止血して布を巻いておきました。傷が元で少し熱がでてる。目は未だ覚めていないですね。」
「そうですか・・・。」
「まあ今のところ落ち着いているけど。打ち身の薬を置いていくから。明日、目を覚ましてから何かあったらまた言ってくださいな。」
「はい。お願いします。」
敬助は医者に丁寧に頭を下げ、礼金を渡し玄関先まで彼を見送り、再びもとの部屋に戻った。
「宗次郎?」
襖を開けると、宗次郎が少女の顔を覗き込んでいる。
「どうかしたかい?」
「あ、いいえ。」
敬助が声を掛けると宗次郎は慌てて顔を上げ飛びのくように少女から離れた。
「ふふ、そんなに慌てる必要はないよ。」
「あ、はい。」
敬助も少女の顔を覗き込んだ。痩せこけてとがった顎、左眼の上は赤くはれ上がり、口の端が切れている。痛々しい姿だ。体つきから七つくらいかと思ったが顔立ちはもう少し大人びている。恐らく十歳くらいだろうか。
「こんなに痩せこけて・・・。」
着替えさせた宗次郎の着物の袖からのぞく白く細い腕には血管と骨が浮かび上がっている。
一体この少女の身に何が起こったのであろうか。尋常ならざることであるということは容易に想像できるが――。
「ねえ、山南さん。」
そんな考えに思考を埋もれさせていると正面に座っていた宗次郎がおずおずと口を開いた。
「なんだい、宗次郎?」
「この子、今日ここに泊めるの?」
「ああ、勝太さんがおフデさんに話を通してくれて、とりあえず今日のところはここに泊めることになったよ。」
「そう・・・。」
それだけ言うと、宗次郎はまた黙り込んでしまった。
「不満かい、宗次郎?」
「そ、そんなわけ無いじゃないですか!!」
「そうか、ならそれでいいじゃないか。何か問題があるかい?」
「い、いいえ全く。だから、あの、その・・・。」
わざと追い詰めるような言い方をするとしどろもどろになる宗次郎の様子に思わず笑みが漏れた。
「すまない、意地悪な言い方だったね。」
「もう!山南さん!」
頬を膨らませる宗次郎から未だ眠る少女に視線を移せば少し苦しそうに眉をしかめて額にはじわりと汗がにじんでいる。枕元に置かれた水桶の水を手ぬぐいに含ませそれで汗を拭いてやる。
そうすると気のせいかほんの少し表情が穏やかになったように思える。
その表情にふと胸の奥である思いがわきあがってきた。
フデとの約束で明日まで置くといったが、果たしてこのままでいいものか。もし彼女の帰る場所がわかったとしても、そこに彼女を戻してしまっていいのだろうか―――。
***
暗い世界で少女は一人だった。
酷く寒いところだ。
全身が重く、まるで泥の中に埋もれているかのような感覚だ。
誰かの声がする。
誰かが叫んでる。
『・・・え、なんか・・・ない。」
だれ、誰なの・・・。
『お前なんか、要らない!』
耳を劈くような叫び。
その声がはっきり耳に届いた途端、暗闇は掻き切れ、目の前には―――。
「ごめんなさい、ごめんなさい!許してください!おかあさん!」
「五月蝿い!勝手に喋るな!」
手を振り上げて、喚く母親の姿。
その後ろには蛍光灯。
狭い畳の部屋。
母の後ろのドアからドンドンという鈍い音が響いた。
「奥さん、奥さん!止めてあげてよ!警察呼ぶよ!」
「五月蝿い!躾よ!」
ドアの向こうから響く知らない男の人の声。それに怒鳴って返す母。
怖い。
恐い。
コワイ。
誰か――。
タ ス ケ テ。