第八十八話〜エルフの村に帰ってきました〜
23時にも更新!_(:3」∠)_
タイシです。
ペンギンの里――じゃなく鳥人族の集落で取引を終えて帰路の最中です。帰路の最中なんですが……なんかエルミナさんとリファナの様子がおかしいとです。
「何見てんのよ?」
「別に見てないし。ってかお前なんでそんなカリカリしてんの?」
「煩いわね! なんでもないわよ!」
ケットシーの集落に寄って今日は禁足地での野営を挟み、明日はハーピィの集落に夜予定なんですが、リファナの機嫌がどんどん悪くなっとるとです。ちょっと目が合っただけで噛み付いてくる有様。一体俺が何をした?
「リファナちゃん、そう噛みつかないの。そんなにカリカリしてちゃ怖がられちゃうわよ?」
エルミナさんが俺とリファナの間に入り、やんわりと仲裁する。というか、なんだろうこの微妙なボディタッチは。間に入ったエルミナさんの手が俺の胸から腹を撫でるようにさわさわと蠢く。なんでしょう? と視線を向けると何でもないわよ? というような視線を返してくる。
それを見たリファナが更に眉間に皺を寄せ、キリキリと歯ぎしりをした。やめなさい、女の子がそんな顔するんじゃありません。ブリーダ、ブリーダ助けて。うわ、あの野郎姿を眩ませてやがる。
一体何が起こってるんだ。何が原因だ?
『ボクジャナイヨー』
いや、お前だよね。間違いなくお前だよね。お前今度は何したの? 周りの人間にまで手を出すのは流石にちょっと俺としても見過ごせないよ? ましてや一人は義母で、もう一人は寧ろ俺を嫌ってた子だよ? ちょっとやり過ぎじゃないかね。
『いやいやほんと、ボクは彼女達に何もしてないよ? 誓っても良い』
うっそだろお前。明らかに二人の様子がおかしいぞ。
『嘘じゃないってば。ボクは二人に何もしてないよ』
じゃあなんだよこのプチ修羅場みたいな状況。ペンギンの里から帰ろうって段になってからあの二人明らかにおかしいぞ。
『なんでだろうねぇ? キミのフェロモン的な何かにヤられたんじゃないの?』
そんな不思議な事が起こってたまるかい。
『ヒトの心は複雑怪奇だしねぇ。キミに亡き夫の姿を見たのかもしれないし、我が身を顧みず危険な魔物に立ち向かう姿に心惹かれたのかもしれないし、無邪気なキミの姿にキュンと来たのかもしれないし、何かに夢中になって打ち込むキミの姿に魅入られたのかもしれない』
やだなんか具体的。
お前、でもそんな……そんなチョロいことなんて有り得る? 無いだろ? いや無い。無い、と思うなぁ……でも前例を見るとなぁ。マールとか一目惚れでビビッと来ましたってレベルだったしなぁ。フラムは……まぁアレとしても、ティナも……うーん。
『あり得ないなんてことはあり得ないんだよッ!(キリッ』
キリッて自分の口で言う? というかお前、二人には何もしてないって言ったけど俺に何もしてないとは言ってないよね? 何した?
『……ぴゅー、ひゅー』
口笛吹いてるつもりか? それ。おい何やった、吐け。
『大したことはしてないよ。キミのライブラリへのアクセス権限取得条件にちょっと細工しただけだし』
ライブラリ? アクセス権限取得条件? まるで意味がわからんぞ、説明しろ。
『ライブラリはスキルシステムの大元みたいなもんかな? ヒトの経験や知識を集積して統合、管理している場所だよ。実在する場所じゃなくて、位相というか次元というかまぁそういうのが違って人間が直接見たり認識したりはできないものだけど』
アカシックレコード的な?
『そうそう、そんな感じ。知識と経験の根源みたいなもの。スキルシステムはユーザーの経験や習熟度に応じてライブラリに蓄積された情報や経験への常時アクセスを可能にするものなんだ。行動や経験によって『スキル』というプログラムへのアクセス権限が開放されて、特に意識しなくても一定水準のアクションを起こせるようになるってわけさ。それがスキルを習得するってこと』
なるほど? 知識と経験のクラウドコンピューティングみたいなもんか。スキルポイントシステムはシステムに強制介入してサービスを無理矢理利用できるようにしてたわけだな?
『そゆこと。で、今回やったのはライブラリへのアクセス権限獲得条件が緩くなるような細工で、要はより少ない行動や経験でスキルを取得できるようにしたってこと。ごく簡単に表現すると『才能』に細工してきたってところかな』
ふーん。そんなことしてあいつらにバレないのか?
『大丈夫大丈夫、これくらいの才能の持ち主はそこそこいるしね。というか、才能が異常に高い人、キミのすぐ近くにいたでしょ? 異常なスキル習得速度の人がさ』
ああ……マールだな。あいつのスキル習得速度は異常だったわ。俺と初めて会った時はへっぴり腰で剣なんて振るのもやっとみたいな感じだったのに、ちょっと訓練しただけで二刀流までマスターしてたからな。風魔法も錬金術もすごい速度で上達したし。
『あの子はちょっとアレだね。本物の勇者だね。本気で鍛えたら多分キミより強くなるんじゃないかな?』
なにそれ怖い。何が怖いってそれで野獣化したら為す術もなく吸い尽くされるしかないじゃないですか。こわい。
ところでリアルさんや?
『はい、貴方の永遠の恋人リアルちゃんです☆』
今までの話と今の状況、どういう因果関係があるのかそろそろ吐いてくれない?
「ぐぎぎぎぎ」
「うふふふふ」
俺が脳内で駄神を尋問している間もリファナはエルミナさんから俺を引き剥がそうと必死になって俺の腕を引っ張り、エルミナさんは微動だにせず俺の身体を保持し続ける。結果として俺の腕がとても痛い。
もうやめて! 腕が抜けそうになって泣いてる子もいるんですよ!
『エルフって生き物としての完成度が高いんだよね。寿命も長いから、基本的にあまり子供を作る必要がない』
ふむ、それで?
『でまぁ、自然に任せた繁殖だと不意の事故とかで個体数が減った場合になかなか個体数が回復しづらくなる。だから発情期が設定してあるんだ』
なるほど。
『でもその発情期は結構スパンが長い。優秀な個体と出会った時に発情期じゃないから子供を作れません、というのはそれはそれで困るわけよ』
ああ、そう。
『だから自分より優秀な個体と出会うと発情期が強制的に訪れるようになってるんだ。もしかしたらボクがタイシの『才能』をいじったせいでそういうのが刺激されたのかも?』
戻せ。今すぐ戻せ。ハリー! ハリー!! ハリー!!!
『えー、あいつらに気づかれないように細工するの結構苦労したんだよ? スキル習得の面でもすごく便利だよ?』
それでもだ! お前ほんとこういうのやめろよ! 色々と気まずくなるじゃねぇか!
『というか今更戻しても発情期が収まるわけじゃないしね。まぁ楽しみなよ』
このクソ邪神が……覚えてろよ。
『もう忘れたよ☆』
駄神はそれきり黙り込んでしまった。きっとニヤニヤしながら今の状況を楽しんでいるんだろう。とことん趣味の悪いやつだ。
「あー……とりあえず、作業進めません?」
ぐりん、と二人の顔が俺の方を向く。
「……そうね、遊んでいる場合じゃないわね」
「……ふん」
二人が俺から離れ、それぞれ野営の準備を始める。俺はひっそりと溜息を吐いた。あの人数で仲良くやってた嫁達はほんとによくできた嫁達だったんだな。
☆★☆
今日の見張りはブリーダと一緒にすることになった。女性二人の話し合いによるものである。男達に発言権は一切無かった。
夕食を済ませ、女性二人が寝静まった頃合いを見計らってブリーダに話を振る。
「エルフ的にこう、未亡人が別の男とまた家庭を築くとか一夫多妻とかはどうなん?」
「無い話ではないな。我々の生はそれなりに長いから、死別せずともお互いにパートナー関係を解消して別のパートナーを見つける場合もある。それに男の数のほうが少ないから、稀に一人で同時に複数のパートナーを持つ場合もある」
「なるほど」
「それでも娘と義母を同時にというのは聞いたことが無いがな」
「マズいかな」
「直接的な血縁関係があるわけではないし、そう言う意味では問題無いな。他の種族をパートナーにすることもそれなりにあるし、そういった意味でも問題はないだろう。大森林の外で暮らしていた頃は人間とパートナーになるエルフも多かったようだし」
そう言いながらブリーダは小枝を焚き火に放り込んだ。パチパチと焚き火の爆ぜる音が聞こえる。焚き火の灯りと漂う燐光が幻想的な光景を作り出す。
「まぁ、二人がお前に惹かれるのも無理はない。お前は……言葉を選ばずに言うのならそう、可愛らしい」
「はぁ? か、可愛らしい?」
真顔でブリーダにそんなことを言われてもどんな反応をすればいいのかわからないよ……一体どういうことだブリーダ! 説明しろ!
「うむ。なんと言えば良いのかな……我々エルフは瞳を通して心根が見えるのだよ。邪な心根の者の瞳は汚く見えるし、逆に素直な心根の者の瞳は綺麗に見える。お前の瞳は……そうだな、わざと汚さを装って綺麗なところを隠そうとしているように見える。そんなところが我々エルフにはたまらなく可愛らしく感じられるのだ」
「まるで意味がわからんぞ」
「これは言葉で説明するのは難しい。心で感じるものだからな」
肩を竦め、ブリーダはそれきり口を閉ざしてしまった。
まぁ、俺がエルミナさんにせよリファナにせよ関係を築いたとしてエルフ的に後ろ指を指されるような状態にならないことは良かった。あとは俺の対応次第だろう。拒絶するのか、受け入れるのか。受け入れるとするなら今後どうしていくつもりなのか。嫁達にはどう説明するのか。
どんな選択肢を取ったにせよ、考えるだけで気が滅入る。いっその事何も選ばずにそっと消えるべきだろうか? いや、それは最低だな。どんな選択をするにせよ、正面から向き合うべきだ。しかし、でも、ううむ。
『You! 深く考えずヤっちゃいなYO! 刹那の快楽を追求していこう』
お前、最近邪神らしさを隠さなくなってきたね? 何が狙いだ?
『ボクとキミは文字通り一心同体なわけじゃない? 全て曝け出して信頼関係を構築しようかなって』
なんか嘘くせぇなぁ。お前なんか俺に隠してない?
『カクシテナイヨー』
くっそ、わざとらしすぎて逆に真偽の判別がつかねぇ。
「はぁ……」
深い深いため息が出る。うだうだ悩んでも仕方ないな。どこかでタイミングを見計らって二人とじっくり話をするとしよう。
しかし……どうだろう。どうしよう? 受け入れるべきなのか、拒むべきなのか。いや、ウジウジ考えるのは良くない。なるようになれの精神で行こう。据え膳食わぬは男の恥って言葉もあるしね。俺もそろそろこの世界に慣れるべきだ、うん。
ただ、帰るべき場所だけは見失わない。それだけは心に誓ってひたすら突き進もう。俺は必ず大森林を去る。必ずだ。俺の居場所は一つだけなんだからな。
夜番を交代し、目覚めたらハーピィの集落を経由して獣人の村を通り、エルフの樹上村へと帰還する。ハーピィの集落ではピルルの家族と出会うことができた。ピルルの母と姉からは大層感謝され、手紙と彼女達の羽を預かった。これで帰るべき理由がまた一つ増えたな。
ちなみに今回はハーピィさんと同衾することはなかった。うん、残念じゃないよ? 本当だよ?
獣人の村では物資を下ろしただけだけで特に特筆するような出来事はなかった。前回と同じようにティガの家でブリーダと一緒に雑魚寝しただけだ。エルミナさんとリファナの様子も禁足地での野営以来落ち着いている気がする。俺が寝ている間に何か話し合いでもあったのだろうか。
「あー……着いたなぁ」
「そうね」
「今回の買い出しは楽だったわねぇ」
「重い荷物を運ばなくても良かったからな」
真下から樹上村を見上げる。もうあちらも俺達が帰ってきたのに気づいているようで、何人かのエルフがこちらを見下ろしてきていた。エルミナさんを先頭にして各々樹上村へと飛び上がる。俺もエルフの三人と同じように飛び上がった。
ハーピィさんと一夜過ごしてからは風魔法の扱いにも慣れて、他の三人と遜色ないフワッとした上昇ができるようになった。そんな俺の様子を見たエルフ達が感心したような視線を向けてくる。ふふふ、俺も進歩しているのですよ。
「おかえり」
「よく戻った」
「無事で何より」
労いの言葉を聞きながら交換してきた塩や物資を広場に吐き出していく。エルミナさん曰く、今回は相応の量の塩と物資を確保できたそうだ。他に頼まれた品も八割方は手に入り、手に入らなかった分は塩にしてきたらしい。
欲しいものが絶対に手に入るとは限らないのはまぁ、モノの少ない大森林では仕方のないことなんだろうな。依頼者もそれならば仕方がないと納得してくれたようだ。というか、手に入れば幸運くらいに思っていたらしいので問題ないらしい。
「ではな」
ブリーダはそう言って出迎えに来ていたエルフの女性と一緒に歩いていった。妻帯者だったのか。リファナはこちらを暫くじーっと見つめてから無言で何処かに歩き去ってしまった。あ、いや、戻ってきた。
戻ってきたリファナがツカツカと一直線に俺のもとに歩いてくる。うわぁお顔が怖い。ぐいっと胸ぐらを掴まれた。
「ちょっとツラ貸しなさいよ」
「はい」
なんか断ったら殴られそうなので素直に頷く。なんでエルミナさんは笑顔で手を降って俺を見送っているのでしょうか? なんかこういう流れは覚えがあるなぁ。
リファナに連れてこられたのは一件の住居だった。見た感じ、間取りはエルミナさん達の家よりも一回り小さそうである。中へと招き入れられたので先に中に入る。
この家も巨木をくり抜いて作られていて、家の中は濃厚な木の香りがする。それに混じって香るの花の香りだろうか? 爽やかな方向が俺の鼻孔をくすぐる。何か背後でガタガタしているが、どうしたのだろうか?
振り向いてみるが、そこにはむっつりとした表情で俺を睨んでいるリファナがいるだけだった。足元に塩や旅の道具が入った道具袋、弓矢が置いてあるからそれを置いた音かな。
「座りなさい」
「はい」
ぎろりと俺を睨みつけて正に有無を言わさぬ迫力である。俺は借りてきた猫のように大人しくする他無い。大人しく丸太に背もたれをつけた不思議な椅子に座ると、リファナをそれを見守ってからキッチンへと向かった。どうやらお茶か何かを淹れてくれるらしい。一応お客様として遇してくれるようだ。
待っている間暇なので、不躾なことは自覚しつつも室内を見回す。なんというか、割と質素な室内だ。家具はどれも実用性重視って感じのシンプルな品が多い。
ただ、ドライフラワーを作ることが趣味なのか様々なドライフラワーがあちこちに飾られているのが印象的だ。木の香りの中に仄かに感じられる爽やかな香りはきっとドライフラワー由来のものだろう。
少ししてお盆にお茶らしきものを載せてリファナがテーブルに近づいてきた。ガラス製のグラスには濃い紅色の液体が並々と注がれている。湯気が立っていないところを見ると、どうやら冷たいお茶らしい。
「どうぞ」
「これはどうも」
目の前に置かれた紅色の液体を見つめる。窓から差し込む陽の光でお茶が煌めいて非常に美しい。
「何よ、別に毒じゃないわよ」
「いや、綺麗だなと思って見てただけだ。頂きます」
紅色の液体を口に含む。ふわりと爽やかな花の香が鼻を抜けていった。味の方は特に甘くもなく、渋くもなく、サッパリとしている。しかしこの香りは素晴らしいな。味よりも香りを楽しむお茶なんだろう。
「いい香りだな」
「そ、そう」
何故かリファナは俺がお茶を飲むのをガン見していた。俺の視線に気がつくと自分も慌てたようにお茶に口をつける。
「それで、これはどういう?」
「別に……ちょっと話をしようと思っただけよ。ねぇ、あんたメルキナとは普段どういう風に過ごしてたの?」
「んー、俺は結構仕事で忙しいこともあったけど、二人で過ごす時は森を一緒に歩いたりとか、部屋で一緒にごろごろしたりとか、何か美味しいものがないか食べ歩きに行ったりとかかな」
ベッドの上やお風呂でくんずほぐれつな運動をすることも多かったけど、それを言ったら怒られそうなので黙っておく。
「その、他にもいたんでしょ? どんな感じだったの?」
そこ聞いてくるのか。まぁいいけど。
「関係は概ね良好だったと思うぞ。相性が悪い子もいたけど、それも本気でやりあうってよりはじゃれあってるみたいなもんだったしな」
マールとは若干反りが合わなかったけど、別に本気で憎み合ってたわけじゃないし。クスハが間に入ってよくコントロールしてくれてたからな。
「そ、そう……」
それきりリファナはうつむいて押し黙ってしまった。こちらから話題を振るべきかどうか迷いつつ、お茶を再び口に運ぶ。うーん、この香りは病み付きになるな。
しかしこの状況はどうしたものか。このなんとも言えずもじもじしてるリファナの様子から察せられるものはあるのだが、俺からガツガツ行くべきかどうか踏ん切りがつかない。いや、むしろここは先手を打つべきか?
「俺な、近いうちにこの集落から出ていくつもりだ」
「……えっ?」
「今回大森林を歩き回って色々と勝手もわかったしな。旅立つ準備を整えたら大森林を歩き回って探しものをするつもりなんだよ。鍛錬も兼ねてな」
リファナが口元に手をやり、目を見開いて震える。その様子を見ながら俺はリファナの淹れてくれた赤いお茶をまた一口飲む。鼻をくすぐる爽やかな香りが心を落ち着かせてくれる気がした。
「まぁ、ちょくちょくこの集落には戻ってくると思うけどな。食料や物資の補充とか、情報収集のためとか、単に休むためとかでな。他の集落にも多分足を運ぶだろう」
地魔法のシェルターを使えば休むには問題ないだろうし、食料に関しては森で獲物を獲ればある程度は補えるだろう。しかし俺は食える野草とか果物の見分けは全然つかないし、何より地魔法のシェルターじゃ完全に気を抜いて休むことはできない。装備の整備もある程度安全が確保された場所でする必要があるだろうし、やはり完全に独りで大森林で生き抜くのは難しいだろう。
「探しものにどれだけ時間がかかるかはわからないが、目的を果たせば俺は大森林から出ていくよ。嫁達の元に帰らなきゃならないからな」
しっかりとリファナの目を見据えてそう宣言する。これは絶対だ。俺はマール達の元に帰る。そこが俺のいるべき場所だからだ。
「……ずっとここに居ればいいじゃない」
リファナがポツリと呟いた。
「あんたがどんな理由でここに来たのか知らないけど、ずっとここに居ればいいのよ。ここで獲物を狩って、森を駆けて、塩を運んでゆっくりのんびり生きればいいじゃない」
「そんな生活もまぁ、良いのかもしれないな。そこに可愛い嫁さんでも居れば十分幸せな人生かもしれない」
「なら、そうしなさいよ」
「駄目だ。それじゃ俺は俺じゃなくなっちまうよ。背負うって決めた奴らがいっぱいいるんだ。俺はあいつらの元に戻らなきゃならないし、戻りたいんだ」
俺とリファナの視線が交錯し、張り詰めた空気が流れる。
「あんた、そうやって何もかも背負い込んでいたらそのうち死ぬわよ」
「自分で背負い込んで自滅するなら俺はそれまでの人間だったってことだな。でもまぁ、そうかもな」
手の届く範囲、目に見える範囲、耳に聞こえる範囲のやつらはなんとかしてやりたい。そんな一心で力をつけた結果が今の状況なのだとすれば、それは確かにリファナの言う通りなのかもしれない。
「良いじゃないの、別に逃げたって。自分の幸せだけを追求したって誰もあんたを責めたりしないわ」
「そうなのかもなぁ」
いざとなったら嫁達を連れて逃げ出す。そんな決心を胸に抱いてた筈だったんだが、いつの間にか身一つで背負いきれないくらいのものを背負ってしまっていたな。三人くらいまでならともかく、十人も嫁が居てはそうもいかない。嫁以外にも守るべき奴らが多くなったし、守るべき場所もできた。退路は既に無く、戦う以外の選択肢は有り得なかった。
「自由に生きたいと思っていたのにな。いつの間にかしがらみで雁字搦めだ」
この世界に来た時は自由気ままに異世界をエンジョイしようってつもりだったのにな。一体どこで何を間違えたんだか。思えばマールに出会ったのがすべての始まりかね。後悔する気には全くならんが。これもまた運命だったのか。
大体にして何にも縛られず自由気ままに生きるなんて、それこそ誰とも縁を結ばずに孤独に生きるしか無いんだよな。そんな生き方は、ゾッとする。
「でも、やっぱり俺は皆の元に戻るよ」
幸せそうににへら、と笑うマールの顔が、静かに微笑むフラムの顔が、上品な笑みを浮かべるティナの顔が、余裕たっぷりの笑みを浮かべるクスハの顔が、朗らかに笑うデボラの顔が、眠たげなカレンの顔が、はにかんだ笑みを浮かべるシェリーの顔が、尻尾を振って全身で喜びを表すシータンの顔が、口元に手を当てて高笑いするネーラの顔が、それだけでなくクローバーに住む皆の笑顔が脳裏に過る。
「あそこが俺の居場所なんだ」
皆の笑顔を思い出して寂寥感が胸にこみ上げてくる。早く帰りたいな、皆の元に。
「そう」
リファナはそうポツリと呟いて赤い液体の入ったグラスに視線を落とした。
正解も不正解も無いだろうが、これが俺に言える全てだ。
「でも、それはあんたの都合よ。私には私の都合があるの」
グラスに視線を落としたままリファナはそう言ってぐいっとその中身を呷った。そして叩きつけるようにグラスをテーブルに置き、音を立てて席を立つ。
「くっ! なんでよりによって人間のこいつに……ッ!」
凄まじい速度でリファナの手が伸びてきて俺の胸ぐらを掴み上げる。すごい剣幕だ。これは殴られるかな、思ったより力強いな、なんてぼんやり思ってたらリファナの顔がもう目の前にあった。
「んぶっ!?」
「痛っ!」
ガツン、と唇と唇がぶつかった、というか歯がだね! 痛いよ! そりゃ真正面からそんな勢いでぶつかったら痛いよ!
「痛いんですけど」
「うるさいわね! 黙って――んんっ!?」
顔を真っ赤にして叫ぼうとするリファナの頭を押さえ、口を唇で塞ぐ。キスの経験値は自然と高くなってるよ、そりゃ嫁といっぱいちゅっちゅしたからね。
リファナが暴れるのをやめ、目がトロンとしてきた辺りでキスをやめる。俺とリファナの唇が離れ、唾液の橋がかかる。リファナの唾液は爽やかな花のような香りがした。
「キスってのはこうするんだ」
俺の言葉に正気づいたのか、リファナがハッとした顔をして後退り、自分が座っていた椅子に引っかかって派手に転けた。何やってんだ、こいつは。意外とポンコツなのだろうか。
頭を掻きながらテーブルを迂回して真っ赤な顔のまますっ転んでいるリファナの元に移動し、抱き起こす。見たところ怪我はしていないようだ。
「あ、あ、あぅ……」
「もう何がなんだかわかんないって顔だなぁ」
呼吸を荒くして今にも目を回しそうなリファナを胸に抱いて背中をポンポンと叩いてやる。そのうちに落ち着いてきたのか、リファナの呼吸が静かになってきた。恐る恐る俺の背中に手を回し、キュッと抱きついてくる。
「さっきも言ったが、俺はそのうち森を出ていくぞ」
「どうしても?」
「どうしてもだ」
リファナが俺を抱きしめる力が増す。少し苦しいくらいだ。
暫く俺を強く抱きしめた後、リファナの腕からフッと力が抜けた。そして俺の背中を何度か撫で回し、もう一度キュッと抱きついてくる。
「じゃあ、いい。私がついてく」
「どうしても?」
「どうしてもよ」
「お前がそれで良いなら」
「うん」