07
私はなにも口にだすことができなかった。
古田さんも私と同様のようだ。黙ったまま突っ立っている。
中年女は自重気味に笑うと、携帯灰皿を開き、さきほど消したタバコを可能な限り元に戻し、百円ライターで火を付けようと思ったようだが、私たちの存在を思い出したらしく、音を立てずにドアを閉めた。
閉じられたドアの向こうからライターの着火音が二、三回した。
これが、私たちの最初の調査の終わりだった。
アパートからの帰り道。
「ウチには信じられへん。名前すら知らんなんて、ありえんやろ」
古田さんに同意だった。名前すら知らないなど、信じられる話ではない。
あり得るだろうか? 自問してみた。
試しに、自宅の隣家の住民を思い出してみる。その一家の名字は知っている。近藤だ。標札に近藤と書かれているのだ。そうだ、隣人の名前を知った経緯は標札だ。日常会話から知ったわけではないのだ。それに、隣人の名字は知っていても、下の名前は知らない。標札には、近藤としか書かれていないのだ。当然、家族構成も知らない。
いま私のとなりを歩いている古田さんにも当てはまる話だ。古田さんの名字は知っているが、下の名前は知らない。学生生活を数年間ともにした同級生ですら、この有様なのだ。
あり得る。つながりの薄いアパートだと、隣人の名前を知らなかったとしても不思議ではない。ネームプレートが空白ならば、なおさらだ。
あの中年女が嘘をついていたとは思えない。女の話は筋が通っていた。彼女の証言の通り、アパートに住んでいたのは中年女だけだった。中年女のほかには、だれも住んでいなかったのだ。女の話が真実であったことの証左だ。
「私たち、これからどうしようかしら? 隣の住民ですら、なにも知らなかったという有様よ。聞き込み調査は無理じゃないかしら?」
「まだ調べ先はある。泉さんの実家や」
「家族だったら、泉さんがひとり暮しをしていた経緯くらいは知ってるはずね」
「ウチは、泉さんの実家が裕福だったと聞いとる。豪邸に住んどるという噂が流れとった」
「泉さんの実家の住所はどこかしら? 私は知らないわ」
「ウチも知らん。そやけど、中学のときの連絡網があるやろ。ちょっと調べれば、すぐに判明するやろ」