01
この小説に登場する人物や地名、団体などはすべて架空の存在であり実在しません。
しかし、この小説に載せられた社会的問題は現実に存在するため、本問題を社会に対して周知および問題提起させるため、行政に対しては改善を求めるため、そして多くの有識者や有識団体から二十年以上にわたって再三指摘されているのにも関わらず、まったく改善を試みないのはおろか、問題の認識すらしようとしない、ある省庁を批判するために筆者はこの告発を書いた。
「古田さんってムカつきません?」
中学校へ入学してから三日目。だれもがスタートに失敗しないように、だれもが慎重に行動している。どぎまぎしながら声を掛け合っている生徒もいれば、すでにグループを作っている連中もいる。
当然だ。中学からは競争が始まるのだ。小学校とは違うのだ。生徒の能力が具体的な数字で出るのだ。相対評価というものが存在するのだ。だれもが評価されていた年頃は終わったのだ。
だれだって人生のウォーミングアップの段階で脱落したくはない。私だって、そのうちのひとりだ。最低限の人間関係は構築しておきたいし、問題も起こしたくない。
そんな放課後の教室。
帰宅の準備をしていると、突然、同級生が話しかけてきた。
声がした方向には、泉ケイがいた。
いったいなんの用だろうか?
泉ケイは、呆けている私を見ると口を開いた。
「古田さんってムカつきません?」
古田さんってだれだっけ、と思っていると、泉ケイは教室の隅に目配せをした。彼女に釣られて教室の隅を見て、ようやく思い出せた。
古田さん。眼鏡をかけて、三つ編みで、おとなしそうで、そして地味な子だ。入学初日の自己紹介のときも、自分の名前を言うだけの簡単な挨拶をしただけ。私が思い出せなかったのも無理はない。なにしろ古田さんは目立たない。現にいまも、教室の隅で文庫版の小説を読んでいる。カバーからすると岩波の小説のようだ。読書に没頭しているのだろうか? ページを繰らないで、本を凝視している。
「古田さんってムカつきません?」と泉ケイがまた訊いてきた。
唐突に言われても困る。泉ケイと古田さんのあいだでトラブルでもあったのだろうか? そもそも、なんで私に訊ねるのだろうか? とりあえず、話だけは伺うことにした。
「どこがかしら?」
泉ケイは、あらかじめ考えていた文章でも読むかのように言った。
「あんなのがいると教室が暗くなると思いませんか? 教室の隅で本ばっかり読んでいるし、貧乏くさいし、みんなに迷惑だと思いませんか?」
どうだろうか? 私は古田さんを観察してみた。
彼女は小動物系の人物で、人畜無害だと断言できる人間だ。いまも黙々と読書している。
泉ケイのいう、古田さんが貧乏ということには一理ある。あまり経済的には芳しくないのだろう、彼女が読んでいる本は貸本だ。本の裏には、貸し出しのためのバーコードがついている。
しかし、古田さんの貧乏が教室の暗さと結びつくとは思えない。彼女自身の問題ではないのだ。
経済力を自慢する行為は問題ないと私は思う。勉強をして、努力をして、その結果が金という形で結実するのだ。当人の人生の結果なのだ。
ただし、経済力自慢は自力でまっとうに稼いだ金でするべきだ。他人の金で自慢するべきではない。ましてや、親の経済力で自慢など、もってのほかだ。
すでに私は、いま私に話しかけてきている泉ケイのことを小耳に挟んでいた。
泉ケイ。自己紹介のとき、お寒いギャグをやらかして、クラスを失笑の渦に巻き込んだ。経済的には非常に裕福なのだろう。実家が金持ちだとか、豪邸に住んでいるとかいう噂が流れていた。持っているアクセサリーや小物も高そうなものばかり。彼女の財布の中には、万札がぎっしり詰まっていたという噂も流れていた。
私が思考を巡らしているあいだも、泉ケイは古田さんの悪口を続けている。
しゃべり方が暗いとか、髪型がダサいとか、眼鏡のセンスが悪いとか、本を読んでいるのもカッコつけるため、方言をしゃべるのは人気取りのため、などなど。
よくもまあこれだけ思いつくものだと、違う意味で感心できる。なにがこのバカをここまで必死にさせるのか、果てしなく謎だ。
ここまで言われれば、泉ケイがなにをしたいのかが、私にだって理解できた。
泉ケイは中学生になっても、こんな愚かな行為をしようというのだ。なんと幼稚なのだろうか。本当に頭が悪いとしかいいようがない。
私は競争社会というものを否定はしない。競争がないと進歩がないし、発展もない。社会主義国家の凋落を見れば、最低限の競争は必要だ。
だが、あくまでも競争とは正々堂々としているべきだ。自分の実力で、同じスタートラインに立って勝負するのだ。それが本当の競争なのだ。
他人の足を引っ張る行為は、断じて許される行為ではない。そんなものは社会の癌でしかないのだ。即座に排除されるべきなのだ。
私の憤激をよそに、泉ケイは台本を読み終えたようだ。
「だから、古田さんってムカつきません?」
私は言ってやることにした。
「あなたみたいなのが一番ムカつくのよ」
泉ケイは私の返答を予想していなかったようだ。いままでの長広舌はどこへ消えたのだろう、急にムッツリと黙り込んでしまった。おどおどしながら左右を見渡すと、そのままなにも言わずに去っていた。いや、逃げていったの間違いか。まあ、どちらでもいい。私の知ったことではない。
泉ケイが少しでも更正されますようにと、泉ケイが少しでも社会の役に立てる人間になりますようにと願うと、私は苦笑しながら帰り支度を終えた。
翌日の朝。無人の教室。
所用で朝早く投稿した私は、自分の机になにかが書かれているのを見つけた。
ペンで書かれた落書きだった。非常にくだらなくて、陰湿で、なにより下劣な落書きだった。
おまんことか、ちんことか、バカだの、アホだの、その他愉快なイラストが添えられている。無駄に達筆だ。
幸いにも水性ペンで書かれていたようで、雑巾で拭くだけで簡単に消せた。油性ペンを使わないあたり、犯人は悲惨な脳ミソの持ち主らしい。
落書きを消しているあいだ、笑いを抑えられなかった。これを書くのにどれだけの時間と手間がかかったのだろうかと考えると止めようがない。
くだらない落書きを書く時間があるならば、己の人生を充実させるべきである。悲惨な脳ミソを改善するために勉強をするなり、落書きする労力を部活動に費やすなり、することがいっぱいある。
なによりもまず、面と向かって相手に直接物事を言うだけの根性をつけるべきである。
だれにも見られることなく落書きを消し終えると、泉ケイの机を一度だけ殴りつけた。
その後の授業中や休み時間、泉ケイを睨み付けたが、彼女からはなんの反応もなかった。まるで何事もなかったかのようだ。視線すら合わせてこない。
そうだ。泉ケイはなにもしていないのだ。
かなりいい性格しているな、と思った。そして、泉ケイの素晴らしい性格だけは認めることにした。
下校時の玄関。
ああいうバカは奇妙なまでにしつこいというのが、万人だれもが認めるところである。こちらが折れない限り、何度でもやらかしてくるのだ。延々と、延々と。
靴にイタズラをするのは全国共通のやり方である。卑怯者は正面切って戦うことができないのだ。
自分の下駄箱をチェックすることにした。案の定、靴を持ち上げただけで、イタズラされていたことがわかった。靴が重かったのだ。異様な重さだった。
靴のなかを見ると、画鋲がギッシリと詰まっていた。無数の金色のトゲが私の方を向いている。
犯人は可哀想な頭脳の持ち主だと断言できる。なにしろ、こんなにギッシリと画鋲を詰めたら、そもそも靴に足を入れることが出来ないのである。仕掛けの意味がないのである。
私は一笑に付すと、画鋲を図工室へと戻しておいた。
戻すときに指を軽く刺してしまった。痛かった。出血もした。
怪我した指を吸いながら考えた。靴に画鋲を仕込むのは単純なイタズラだ。だが、仕掛けられた側は、非常に痛い思いをするのだ。指に刺さっただけでも痛いのに、あんなトゲが食い込むまで刺さったら激痛は必至だ。危険極まりないのだ。
他人の痛みを理解できないから、こんな愚かな行為をするのだ。自分のする行為が、どれだけ他人に苦痛を与えるかを理解できないのだ。
バンドエイドで応急処置を終えると、壁を殴りたくなってきた。
冷静にならねばと、自分自身に言い聞かせた。ここで反撃したり、八つ当たりしたりすれば、犯人と同レベルになってしまう。そう、同レベルだ。相手と同じ低レベルになってはいけないのだ。
一度深呼吸をすると、安全になった靴を履いた。
校舎を出た直後、後頭部に軽い衝撃を受けた。そして、そのまま軽い重さが髪にひっついた。なんだ、これは?
取り除こうと思い、手で異物をつかむ。ネチャネチャした感触だ。これは、ガムだ。
振り返って、校舎を見上げた。
二階の窓から、私のことを見下ろしている女がいた。逆光で彼女の顔は暗く、表情は見えないが、泉ケイ本人に間違いない。
いますぐ、あのバカのところまで行って、ぶん殴ってやりたかったが、髪にひっついたガムへの対処が先決だった。
自宅。
走って帰ったので、息が上がった。
私はロングストレートの髪型を気に入っていた。小学校のころ、これといった理由もなくロングストレートにしたのだが、男子からの評判は上々だった。チラチラ見ていた男も少なくなかった。同性からも羨望の目で見られていた。「どんな手入れをしているのか」と、しばしば尋ねられた。
いまは腰のあたりまで伸びているその自慢の髪に、ガムをひっつけられたのだ。しかも、後頭部のあたりにだ。
まずは、櫛を使ってガムを取り除こうとした。が、失敗だった。ガムの除去どころか、逆に広げてしまったのだ。
次にネットで対応策を調べた。広大なネットならば、解決策のひとつやふたつは見つかるはずだ。
ムースを使う、チョコレートを使う、冷やす、エトセトラ。様々な解決策が見つかった。そのすべてを試してみた。
しかし、すべてがダメだった。無意味どころか、またしても、逆に悪化させてしまったのだ。
初動対応を間違えたと、後悔した。落ち着いて考えれば、ガムがひっついた部分の髪だけを切ればよかったのだ。軽度の被害で済んだのだ。
私の対応は完全に逆効果だったのだ。問題をこじらせただけだったのだ。
結局、だいぶ髪を切るハメになった。
深夜の美容室で、自慢の髪と別れることになった。髪を切っているあいだ、泉ケイをどうしてやろうかと考えた。
机の落書き、靴の画鋲、髪の毛のガム。どれもこれも許してやる必要はない。
理容師から終わったと告げられ、沈思黙考から気がついたときには、髪型がロングストレートから、ショートカットになっていた。
私は結論を下した。
泉ケイをぶっ殺す。死なない程度にぶっ殺す。
翌日の教室。
問答無用で放った握り拳は、泉ケイの顔面に吸い込まれるように直撃した。実にいい手応えだ。
泉ケイはもんどり打って倒れると、地面に這いつくばって顔面を両手で押さえた。何事かうめいている。
次に、無防備になった腹に蹴りを入れた。彼女の体が少し浮いた。これも直撃だ。彼女は苦痛に顔をゆがめて、腹を押さえた。
そのとき、異変に気づいた。彼女の服に、黒いシミが広がりはじめたのだ。彼女周りに、なにか液体が広がってゆくのだ。黄色くて、異臭がする。これは、小便だ。泉ケイは失禁してしまったのだ。
その場で泉ケイは泣き始めた。
実にいいざまだ。自業自得だ。
泉ケイは泣き止まず、小便の水たまりのうえで泣き続けた。
それにしても、泉ケイの泣き方は笑える。このバカは「えーん、えーん」と泣くのだ。「えーん、えーん」はないだろう。まるで小学校低学年のような泣き方だ。口を大きく広げて、「えーん、えーん」と両手で両目を擦るのだ。中学生なのだから、もっとマシな泣き方をしろ。
泉ケイの泣き方を見て、ようやく泉ケイを理解できた。泉ケイはガキなのだ。それも十歳未満のガキだ。頭のレベルが中学生になっていないのだ。脳ミソだけガキのまま、体だけだけでかくなったのだ。
騒ぎのせいで、同級生が何人か集まってきたようだ。どいつもこいつも、みな、一様に笑っている。
「泉さんってムカつきません?」振り返ると、ニヤニヤ笑っている女がいた。「あんなのがいると教室が臭くなると思いませんか? 教室の真ん中でお漏らししちゃうし、親の金で自慢なんて恥ずかしくないですか、みんなに迷惑だと思いませんか」
私は肯定はしなかった。だが、否定もしなかった。
私が無言を通しているあいだも、ニヤニヤ女は泉ケイの悪口を続けている。
しゃべり方が臭いとか、息が臭いとか、髪が臭いとか、とにかく臭いとか、アクセサリのセンスが悪いとか、泣き方がキモいとか、などなど。
「だから、泉さんってムカつきません?」
それでも、私は無言を通した。
この日以降、泉ケイは盛大にイジメられることになった。中心的にイジメていたのは、ニヤニヤ女のグループだ。
泉ケイから金銭を巻き上げ、みんなで無視し、持ち物を隠すなどしていた。低能がする行為だ。
その光景を私は呆れて見ていた。
泉ケイはバカだ。彼女だけではなく、イジメている連中もバカだ。あいつら全員大バカ者だ。
私は知っている。イジメている連中も、内心はビクビクしているのだ。自分が脱落しないように、自分が泉ケイの境遇に陥らないように、全員必至なのだ。自分がやられないように、だれかをやるのだ。
いずれにせよ、私の知ったことではない。ああいった連中は好きにさせておけばいい。バカはバカどうし、足の引っ張り合いをさせて、潰しあって、そして勝手に消えていけばいいのだ。
そんな私でも、一度だけ気にかかることが起きた。いや、気にかけねばならない出来事だ。
泉ケイが謝ってきたのだ。彼女は言い訳をしなかった。頭を下げ、小さかったもののハッキリと聞こえる声で「ごめんなさい」とだけ私に言った。
急に謝られ、私としても少し戸惑った。どうしようかと一考した。
落書きは許せる。簡単に消せた。被害も少ない。
だが、画鋲はダメだ。非常に激痛を伴う。下手をすれば重傷だ。
髪の毛のガムは、もっとダメだ。髪の毛は簡単に伸ばすことはできない。だれがどうあがこうと、不可能なのだ。時間しか解決できないのだ。
私は決めた。
泉ケイを許さない。髪の毛が元の長さになるまでは、絶対に許さないと。
私は無言で泉ケイの前から去った。
彼女は頭を下げたまま、姿勢を崩さなかった。
一度、振り返ってみたが、彼女はそのままだった。頭を下げたまま、姿勢を崩さなかった。
ある日、泉ケイが学校に来なくなっていたことに気づいた。彼女は、いつの間にか登校しなくなっていた。短期的ではなく、長期にわたった。不登校になったということだ。
少し経ってから、彼女がどこかの施設に通っているという話や、高校には進学しなかったという噂を聞いたが、私にはどうでもいいことだった。泉ケイがどんな人生を送ろうと、彼女の勝手である。
泉ケイは競争社会から真っ先に脱落したのだ。それだけのことだ。
もう、泉ケイは私の人生には関わらないのだ。
月日は流た。
私は順調に中学を卒業し、無事高校生になった。
そして、高校三年生の四月。大学受験が近くなり、いままでは友人だと思っていた同級生が敵だと思えてくるころ、私の記憶から泉ケイの名前が綺麗さっぱりに消え失せたころ、髪が伸び再びロングストレートにまで戻ったころ、私は泉ケイの名前を聞くことになった。
朝の教室。授業の準備をしている私のところへ、古田さん――泉ケイがムカつくと言っていた――が駆け足でやってきたのだ。
「泉さんが死んだんや、殺されてしまったんや」




