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祭囃子  作者: axia000
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後編

 空気が唸る。その何かに導かれている。

 洞窟に反響して満ちる無数の唸り声。地響きのように洞窟を揺らし、水のように重く空間に満ちる。

 唸り声が、耳から、体の中にまで染みこんでくる。悲鳴を上げて蹲る。耳から、脳に滲んで、体をじわじわと犯す。全身をしわがれた手で愛撫されているかのようだった。

「あいつが怨の気の全てを集めている。自分で殺した人たちの怨念が渦を巻いているんだ」

 青年が私の肩を抱いて背中をさする。気分がすうっと楽になる。彼の手から怨念が吸い上げられているかのように。

「あいつは僕が倒す。君はここで見ていて」

 青年が私からはなれ、数歩前に出る。

 寒い。全身を犯す恐怖は消えたけれど、体は温度をなくして凍えきっている。

 青年の姿が震えて見える。分かる。彼は怒っている。怒りに震える肩が、腰を屈めたたち姿勢が、釣りあがった瞳が、全身で怒りを表し、奥にいる何かに向けて放たれている。

 空間を満たす声がそれに呼応するかのように強くなる。闇の中、黒い影が無数に宙を走る。私には分かった。それは強さを増した怨の気が実体化した姿だった。

 けれど私には向かってこない。全て、青年の中に吸い込まれている。なにかが青年を攻撃しているのではない。自分で吸収している。それが私には何故か分かった。


 青年の姿が霞む。そこに、獣の姿が現れた。

 狼の姿をして、2本足で経つ人狼。低い天井に届くほどの巨体。青年と同じ姿で唸りを上げ、敵を見ている。

「飲み込まれないで……! 君が僕をどう見るかは、君次第だ……!」

 人狼のほうから声がする。口を動かさずに喋っている。そこにいるのは青年なのだ。そして私はいま彼に、狼を見ている。

「僕の姿は……こうであってはいけないはずだ……」

 狼の唸りに、青年の声が呑まれていく。増え続ける闇。闇を吸収して怒りを蓄積していく人狼……青年。

 怖い。私は自分の肩を抱いた。青年は負けている。負けたらどうなるの? そして私は?

 全てが未知の世界で、なにひとつ理性で片付けられはしない。4方を壁に囲まれたかのような息苦しさ。そしてその壁は迫り、私を押しつぶそうとしている。

 心が溢れる。疑問と恐怖の板ばさみ。どうしてこんなに怖いの。それにどうして私は、これまで怖いと思えなかったの。

 私は誰なの? そして、どうしてそれを、これまでの一生で一度も考えたことがなかったの……


 「きみは」

 不意の青年の声。

 眼を開くと、闇が消えている。人狼の姿もない。いるのは、少年になった彼と、その前に浮かぶ小さなひとつの闇。

 その闇は、いつのまにか小さな女の子の姿になっていた。熊の人形を抱き、落ち窪み、くまのある黒い瞳が青年をじっと見つめている。

「そんな……君まで犠牲になっていたなんて」

 青年の手がそっと少女の頬に触れる。少女が涙を流す。少女は喉の奥から枯れた声をあげると、また黒い影となって少年の中に吸い込まれていった。

 立ち尽くす少年。悲しげに潤んだ瞳が、私を見る。

「ありがとう。この姿なら、あいつを消せる」

 振り返り、すっと洞窟の奥を指差す。それで終わりだった。嵐はもう起こらない。怨念が私を犯すこともない。そこは、ただの洞窟だった。少年は、再び青年に戻っていた。さっきよりも、少しだけ幼い青年に。




 いつの間にか、外に出ている。あれっと辺りを見回しても、あの火葬場はない。そこにあったはずの石造りの建物は消えている。なにもない草っ原になっていた。

 囃子の音が遠くから聞こえる。まだ祭りも中盤だ。今から戻れば神輿にも間に合う。あの少女の顔を思い出すと、無性に綿飴が食べたくなった。

「さっきの場所は……」

「全部消したよ」

 青年の声。松の木に寄りかかって私を見ている。柔らかな微笑み。その後ろから、祭りの薄明かり。

「生き返らせることはできない。だから、消した。せめて全部なかったことにした。あそこにいた殺された人たちのことはもう誰も覚えていない。……そのほうが悲しいかもしれないけれど」

 青年は目を細め、意味ありげな瞳で私を見た。

「忘れなければやっていけないことのほうが、世の中には多いからね」

「あなたは、誰なの」

「僕が誰かより、君は君自身が誰なのかを考えたほうが良くないかい」

 その言葉に、深く沈む。私は、誰。ずっと考えてこなかった。たぶん、逃げてきた。ここへ逃げてきたのも、何かから逃げていたからだ。それが何だったのかすらもう思い出せない。そうやって生きていたから、こんな簡単な疑問ももう頭に浮かぶことすらなかった。

 けれど、違う。私が落ち込んだ理由は。青年が応えてくれなかったら。私の、誰なの、という問いかけに。

 私は、彼のことが知りたい。私は、彼のことを知っている。たぶん、知っているというよりも深く、知っている。恋焦がれるくらいに。けれど彼が私のことを知っているのかどうか、それは分からない。


「いこうか」

 彼が言う。下のほう、祭りを見つめながら。

いこうか。どういう意味だろう。共に、という意味でいいのだろうか。ふっと手を伸ばしそうになる。彼は首を横に振る。

「君は、君の道を。僕は僕の世界を」

 青年が木から身を放す。それだけでもう見えなくなる。けれど、そこにいる。私のお別れのひと言を待ってくれている。

「……元気でね……」

 やっと絞り出した声。青年の「君も」という声が風に紛れる。

 私が登ってきた道を見下ろす。長い長い下り坂。途中で右に折れれば祭り。ずっと下っていくと深い闇。

 歩き出す。すっすっと足を進め、ちょっとの間だけ祭りを見つめる。親の手を引く子供。浴衣姿の老夫婦。友達と出店であそぶ少年たち、少女たち。みんな楽しそうだ。私とは無縁の楽しさだ。

 坂を下り、闇に足を踏み込む。私は、この闇から逃げてきた。この闇のようなものから、ずっとずっと逃げてきた。

 一度だけ、自分から足を入れてみようと思う。先になにがあるのか。それを見てからまた踏み入れるかどうかを決める。自分で選んだ道。もう後戻りはできない。


 あの青年に会いたいと思った。けれど予感がした。もう、2度とは会えない。けれども進むしかない。それが、望んだ道だから。

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