女流奇術師の見た光景
視点:ハーピス・ミ・ピンタ
Ha:pis Mi-Pinta
天の国、ミ・キーヴォム。かつてこの地には鳥から進化した人類が住んでいたらしいと聞く。今この国に住む人々はその子孫だから飛行能力を有するのだ、と伝説では言われているけれども、その真偽は私にはわからない。
でも、そんなことは別に気にしない。私も自由に空中散歩が出来るなら、とは時折思うのだけれども。
そんな人々の住むミ・キーヴォムに、今私はいる。未舗装の道を、向かう町に向かって歩いているのだ。
「……それにしても、ね?」
ガイドの青年一人と一緒に来たのだけれど、ミ・キーヴォムという国は全くもって私の想像より遥か遠い国だった。といっても、地理的には母国からそう離れてはいない。北海のポミア島に掛かるこのミ・キーヴォムと、私の生まれたミ・ピンタがあるクラージュ島ではむしろ近い方だろう。
「ええ、初めての人はそう言いますね」
青年はまたかと言いたげに、半ば投げやりな感じに答えた。
この国が遠いのは地理的にではない。精神的に、だ。私は今までそこかしこの国を渡り歩いてきたけれど、ここまで予想外の国なんて初めてだった。
「私も初めてその言葉が理解出来たわ……」
せめて、この時代のミ・キーヴォムの人間が祖であるその“鳥人間”の能力を受け継いでいるのかもしれない、と気付いてさえいれば、こんな大変な目に遭いはしなかっただろう。でも、もう過ぎた事。今更悔やんで今がましになるならば別だけれど、それは天地がひっくり返る事を願うようなもの。
「でも……」
「でも、何なんですか?」
ふと呟いた声を青年に聞かれ、訝しげに尋ねられてしまった。
「あら、何でもないわよ。ただちょっと、ね……」
「はぁ……?」
私は咄嗟に誤魔化した。つい相手に対して酷い事を言いそうになってしまったのだから。自分達の常識と化した日常にけちを付けられる程不愉快な事はそう多くない。もしも口を滑らせてしまったならば、きっと後々大変な目に遭わされただろう。
とはいえ、思うだけならば別にどうって事もない。これまでの経験が通用しないような世界、というのも悪くない。私はこんな経験もまた旅の醍醐味だと思っている。常識を崩し、新たな価値観を創るという事が……
「それよりも、先を急ぎませんか? 早めに向こうに着いて街の中を見て回ろうかとも思いますので」
「え、ああ……それもそうですね。では行きましょうか」
「ええ、そうして下さるならば」
私は一人笑いを忍ばせ、青年とともに長年ただの一人も使っていなかったという廃道のような街道を歩いて行ったのだった。
「さて、着きました。ここがクビラ・ヒューズリの街です」
ガイドの青年に言われてちょっと目線を上げてみた。
「……え、これが街……ですか?」
言われてみても、私には少し理解しづらかった。そこはどう見ても私には断崖絶壁の渓谷地帯にしか見えなかったのだから。私の認識では、建物が一軒もないような街はなかなか考え難い。数百軒くらいは見えそうなのだが、住居はおろか、小屋すら見えない。一体どういう事なのだろうか?
思案していると、青年が気を利かせて私に教えてくれた。
「ちょっとこっちの谷間の方に来て頂ければ分かりますよ」
言われるがまま、私は谷に入ってまわりを見渡してみた。するとなるほど、確かに街が私には見えた。とはいっても、今まで見たのとは全く違う世界だった。
「……なるほど、これじゃあ私が気付かないはずですね」
私の目線の先には、崖に規則正しく横穴を開けた光景があった。天然の躯体を持ったマンションやデパート、そんな印象を私は受けた。つまり、渓谷そのものが一つの街区を作っている、と言うのがいいのかもしれない。
「我々ペント・キーヴォムは空を飛ぶ事が一種の必須技能と化していますからね……」
「となると、それに不都合のない人々にとっては、階段など要らないでしょうから……」
「この通り、崖に直接穴を掘れば、そのまま住居に出来るんですよ」
私は感心してしまった。私達ペント・ピンタは光を操って目の錯覚を呼び起こすくらいしか出来ない人が多い。それを奇術に活かしている私は例外として、実生活で役に立つとは、どうにも思えない。その点、彼らのように触れるものに作用させられる属性や能力を持った人々が私には羨ましくて仕方ない。
「……それにしても」
ただ、それでも全てを羨望の眼差しで見る訳にはいかない。
「私はどちらで寝泊りすればよろしいのでしょうね……」
生活に関わりを持ちうる属性、その裏を返してみれば、その能力がなければ不便極まりない生活しか待っていないのではないか。
「ご安心を」
思案していたら、先程の青年が気を利かせてくれた。
「ハーピスさんみたいに時折外から来る方も居ますし、ちゃんと平地に建てた家もありますよ。安心して下さい」
そこで私はようやく肩を撫で下ろせたのだった。
その夜、私は案内された宿で、一人考え事をしていた。上着を脱いで、寝台に横になりながら。
――世界は広い。私の知らない世界だってまだまだあるのね。
今日の昼間に痛感した事だ。固定観念だけで世界を暮らせるのではないが、それにしても私は知らない事が多すぎる。旅芸人として、各地の特色を知っておいた方がいいのかもしれない。
――とはいっても、行ってみないと分からないものよね……
書物でも情報は手に入る。ガイドブックは今や旅の手引だ。でも私はそれに頼らず生の空気を味わいたい。どうせこの世界の言葉は一つしかないのだから、意志疎通には事足りる。
――……でも、そんな違いに翻弄されるのも面白いのよね。だから飽きないのかもしれない。
こんな事を考えている私はかなりのひねくれ者なのかもしれない。でも、これが私の心なのだから。楽しむのに一々理由が要るというのならば、そんな楽しみは苦しみでしかない。
確かに、慣れない習慣に苦労し悩む事がない、とは言わない。でも、それを乗り越えた先に知る喜びはまた格別のものではないか。
微睡みの入り口で、私はそんな事を思っていた。窓の外では、クロムグリーンの夜空に星屑がまたたいていたのだった。
その時だった。爆音とともに街の時間が静止した。静かな夜は断ち切られ、穏やかな空気は振動に押し崩された。
「……ん、何が起こったのかしら」
今にも寝ようとしていた私も、これには眠気を吹き飛ばされた。半分寝呆けながらも、とにかく状況を把握しようとした私。しかし、睡眠に片足を挿し入れかけた頭はちっとも働いてくれない。私には何とも判断がつかなかったのだ。
そこに、宿の女将さんが慌てて走り込んできた。慌てた様子を見て、よいやくこれは只事ではない、と私にも分かった。
「大変だよ、奇術師さん!」
「大変って、さっきの爆発ですか?」
「そうそう、それそれ。あいつらがここに攻めてきたんだよ、爆弾持って!」
「あいつら……?」
この頃になって、ようやく私の頭もはっきりしてきた。さっきのは爆弾テロだったのだろう。
「……という事は、まさか?」
嫌な予感がした。まさか、まさか私の身にもあの忌まわしい集団の脅威が牙を剥くとは。
「もちろんティオ・ハーグリップだよ!」
油断していた。方々に飛び回っている私だったら、もしかしたらティオ・ハーグリップの悪業など身に降り掛かりはしないだろう、と高をくくっていたのだから。
でも現実は違った。結局どこに行っても彼らはいたのだ。危険が減るどころか、むしろ危険に自分から飛び込んでいるようなものではないか。
「あの、女将さん。外の様子はどうなっているんです?」
「爆発が街外れだったおかげで、大事にはなっちゃいないよ。けど、みんなパニック起こして……」
女将さんも声を荒げている。冗談と言っていられないような状況なのだ、と分からなかったら変だ。
「……まずいですよね」
「ああ。こりゃさっさと逃げなきゃあたし達も危ないよ」
「待てよ」
そこに、ナイフのように鋭い声が響いた。
「今逃げたって、こんな町のど真ん中じゃ、混乱で逃げるのもままならねぇだろ?」
「あ、アヒーグ。いつ帰ってきたんだい!?」
女将さんの驚いた声は、先の青年らしき声に向けられていた。
「そんな事より、いいのか? お袋はともかく、そこの客の姉ちゃんは飛べないんだろ?」
「……ええ」
私はただ一言そう返した。
「だったら、こっから逃げるのは自殺行為だ。もみくちゃにされたくなきゃ、ちょっとばかり待ちな」
「分かりました……ですが、あなたは一体何者なんですか?」
そう尋ねると、青年の声はふっと笑った。
「確かに声だけの得体もしれねぇ野郎にああだこうだ指図されるのはよくねぇな」
そして、目の前の扉の窓に、鷹のような鋭い目をした若者が顔を覗かせた。
「あなたが……?」
「応、俺がアヒーグ・ミ・キーヴォムだ」
格好よく言い放った青年に、女将さんは呆れ混じりに言う。
「アヒーグ、馬鹿な事やってる暇があるんだったら……」
「馬鹿な事? こいつがかい?」
「そうだよ。こんな英雄気取りのおふざけが馬鹿な事じゃなかったら、一体何だって言うんだい?」
「英雄気取りなもんか。俺は出来る事をやってるだけだっての!」
どうやらアヒーグさんはここの女将さんの子のようだ。会話を聞く限りならば、どこに行っていたのか分からなかったのが、今になってひょっこり現われたという所だろうか。
――それにしても、こんな状況で口喧嘩?
聞いていて一気に拍子抜けした私。今までの緊張感が弛んでしまった。
「……っと、こんな事をしてる暇なんかなかったな。とにかく、外にいるよりゃこの中にいた方が安全だからよ、俺が様子を見て大丈夫になったらまたここに来る。それまで待っててくれよ」
再びきりっと引き締まった表情に戻ったアヒーグさんの言葉に、私はただただ頷くだけだった。
「よし。それじゃあお袋、あとは任しといてくれ!」
「ちょっと、待ちなアヒーグ!」
しかし、女将さんの声が響いた頃にはアヒーグさんは廊下の窓から飛び出していた。
「……はあ、何でうちの馬鹿はあんな風に育っちまったのかね?」
「でも、正義感の強そうな息子さんじゃありませんか」
私が正直な感想を述べると、それに女将さんは首を横に振って答えた。
「まさか。あいつは只の道楽者さ。いつもどこやらで遊び回ってたんだ。そのどこに正義感があったもんかい?」
「まあ、私は今のアヒーグさんしか知りませんから何とも言いようがありませんけれど、でもあの忠告を私にしてくれた時の言葉の力強さは本物でしたよ」
「本物、ねぇ。あたしにゃよく分からないよ……」
結局、その後は何事もなく、もちろん私にも女将さんにも実害はなかった。けれど、“大丈夫になったらまたここに来る”と言ったはずのアヒーグさんは、それから戻ってこなかった。
アヒーグ・ミ・キーヴォム、天の国のアヒーグ。自由業らしき何かのレカ・ペント・キーヴォムです。
跳ね上がった青い髪をした、蒼眼の青年。羽織とさらし、それにラッパズボンという服装です。
宿屋の一人息子でありながら家業を継ぐ気は更々なく、始終どこかを巡り回っています。その性格は嵐のような鋭さと雲海のような包容力を兼ね備え、大空に似たものと例えられましょうか。
名前は青く広がり、かつ気流が高速で突き抜ける天空のイメージをア行のような開放音とハ行のような鋭い息音で表現しています。