薬師と世毒
視点:ハージュ・ミ・クオン
Kha:j Mi-Kuon
親父とのうんざりする道中も、どうにか砂漠を越える辺りは過ぎ、遂に国境に着いた。
「そういえば嬢ちゃん、ミ・クオンから出た事はあるのか?」
親父が国境を前にしてそう聞いてきた。
「ある訳がないじゃない、こんな歳であの砂漠から出て生活した事があると思ってるの?」
私はこんなに緑にあふれた世界なんて見た事がない。今まで砂だらけの世界しか見た事がなかったのだから当然の話に決まっている。そもそも、あたしはちょっと火焔術が得意なだけの只の乙女なのだから。
「あったら驚くだろうな。只の確認だ」
「……そんな無駄な確認するだけの余裕はあったのね」
あたしは半ば呆れて返した。
「俺は旅には慣れている。少なくともこれくらい何もない旅であれば、もう少し余裕があっても問題ない」
「あっそ。でもあたしはそんな事情なんて知ったこっちゃないわよ、初めての旅なんだからさ」
「嬢ちゃんには、な」
親父の言い方が何だか癪に障る。年下の人間に対して舐めたような口を利いているとしか思えない。確かにティオ・ハーグリップの一件があるから私が強く出られる理屈なんてあるはずがないけれど、それでもこのイライラが収まるきっかけになる訳なんてないのだから。
「それより、国境の検査のやり方について説明しておかなければな」
「検査?」
しかし、旅慣れた親父が一緒であるから助かる事も、悔しいけれど少なくはない。
「この道を進むと、すぐにゲートがある。そこで一人一人機械で目と手を読み取る。それで個人を特定して、海外での活動時に問題を起こした時の対策にする」
「対策?」
「要するに、警察や軍が前科者として認識した者は、制限が解除されるまで国境を越える事が出来なくなる。自国に閉じ込められるようなものだな。又は、逆に外国に封じられて祖国に帰れない事もある」
「でも、親父は逃げてるんでしょ? だったらこのシステムを使ってティオ・ハーグリップに行方を知られる危険性はあると思うんだけど……」
あたしがそう指摘すると、親父は否定の仕草をした。
「連中はそんな事をせずとも行方を探せるさ。お前も能力者だが、向こうも能力者だ。無論俺達よりも優れた能力を持った奴がいてもおかしくはなかろう」
「……それもそうね。鼻の利く犬なんか差し向けられたらあり得るかもね」
「それに限らないが。少なくともシステムを管理するミ・ニケーラはまだ連中に屈していない。安全とは言い切れないが、だが危険というにも足りないだろうな」
言うと、親父は足を早めた。
「行くぞ、ハージュ。幾ら検査が危険でないとしても、のんびり待って相手を迎えるような馬鹿をする気はないだろう?」
「ええ、当たり前じゃない、親父?」
久々に名前で呼んでもらえて、あたしは気分を良くして親父に続いた。
「……ああ、きつかった。どうしてこんなのが平気なのよ?」
国境のゲートは特に困る事なく通過出来た。係員が示した機械に手を乗せ、カメラを覗いただけだったのだから。それでも、眼を撫でるように動く赤い光はお世辞にも快適ではなかったけれど。
「慣れだ」
一方の親父は、平気な顔でゲートから出てきた。
「そりゃまあ、親父みたいに何度も国境を越えているんなら話は違うけど、初体験で最初から慣れてたら化け物でしょ?」
「それに関しては何も言えないが……」
――誰も一般論なんか聞いてないんだけど。
あたしは文句を脳内でガーガー言ってやった。
それにしても、外国に来たのは初めてだから、その点では結構面白い体験をしたと言えなくもない。少なくともその点だけは親父に感謝できるかもしれない。
「ま、それにしたってこんな緑色の世界なんて、昔だったら信じられなかったわね」
「俺からすると、クオン砂漠のような環境の方が驚愕だったろうが、しかしまあ分からなくもないな」
ミ・ミン、草の国。農業が発達していて、世界各地に輸出していると聞いている。あたしも市場でミ・ミン産の野菜をよく買ってきたから知っていたけど、改めて見ると驚きを隠せない程の緑だ。
今まで緑といえば空の色とばかり思っていたけど、こっちじゃむしろ空が青く見える。不思議だ。
「さて、検問が終わったなら、また進むとしよう。そろそろ町に着くはずだ。国境のイスカ・アプティロミはそれなりに治安のいい場所だ。少しであれば奴等に遭遇する事もないはずだ」
「だといいんだけどね。あの連中、どこから現れるんだか分からないから厄介なんじゃないの?」
実際、ここに着くまでに三回はティオ・ハーグリップの奴らと遭遇している。一回は只の諜報員だった――それでもあたし達の動きを察知されたら困る――から大した事はなかったけど、あと二回はそれなりに実力のある火焔使いのごろつき共だった。あたしでも渡り合うのがやっとで、親父と二人掛かりでどうにかこうにか黙らせる事ができた。もしもう一度来られていたら、絶対向こうにやられていただろう、と考えてみるだけでも恐ろしい。
「少なくとも、この国は政府の権限がとても強い国だ。それだけに行政の働きが著しく鋭い」
「分かりにくいから、もっと簡単に言って頂戴」
「要するに、警察が早く動く。少なくとも、ティオ・ハーグリップがはびころうとしている今、軍国以外に最も連中を抑止出来ているのがこのミ・ミンだとは言われている」
「それだったら最初からそう言えばいいのに」
「仮に分かっていたならば、そんな説明なんかまどろっこしくて聞いていられるものか」
「だからって、分からなきゃ意味がないでしょ?」
親父は肝心な所で気が利かない。あたしはまた溜息を吐いた。もうそろそろ一年分は消費している事になるのではないだろうか?
「まあ、下らない話は切り上げておこう。このまま言い合っても日が暮れるだけだろうからな」
「……そこは同意するわ」
「さて、この坂を下ればじきにイスカ・アプティロミだ」
峠のてっぺんにある検問所からでは岩壁で何も見えていなかったけれど、坂を下るにつれて、段々と視界が開けてきた。
「へえ……不思議な光景ね」
「川沿いの町は大体これに近いものだがな」
カーブを曲がった先、開けた眼下にあったのは、広大な畑と、その中に点在する木の家。道の周りには木の壁と藁と焼き物の屋根が並ぶ町が広がっていた。その奥には、空に負けない済んだ青緑の湖が優雅に身を構えていた。
イスカ・アプティロミ――青き湖の町という名は、確かにこの町にぴったりだった。
集落に着いた頃、町は夕暮れの中にあった。
「結局日は暮れたわよ」
あたしは、さっきの親父の言葉に当てつけるように言ってやったが、それに対する答えはそっけないものだった。
「極地でもないのに日が暮れない訳がないだろう。ここでは日が昇って沈んで、それで一日が過ぎるのが日常だろう」
「そんな理屈、聞いてないわよ」
「ああ、分かって言っている。あくまで冗談だ」
「……親父の冗談は、冗談だと分かるまでが長過ぎるのよ」
あたしには、生憎只の理論たらしにしか聞こえない。本当に面倒な親父だ。
「ところで、宿に着いてからはどうするつもりだ?」
「どうするつもり、って?」
あたしは、親父の言っている意味が分からなかった。てっきり宿でも行動が制限されるだろうと思っていたから、その発言の意図がちっとも見えなかったのだ。だからこそ、次の親父の発言には心底驚いた。
「ここならばあいつ等からの脅威もないはずだ。常識的な時間であれば、暫くここの町を散策するといい。俺はその間、連中への対抗がどうにか出来ないものか心当たりを当たっておく。幸い俺はここに何回か来ている。知り合いもいるからどうにかなると思いたいが……」
「何だ、親父結構ここに来てるんだ」
「一応な。俺のもと住んでいたミ・ロクーネからミ・ソランに通じる街道が、この町も通っているからな」
「そういえば、親父にも出身地の一つはあったわね。うっかり忘れてたわ」
「……冗談だと思おう」
思われるまでもない。これは確かに冗談なのだから。親父への鬱憤を晴らすためにわざわざ言ったのだから間違いはない。
「まあ、ありがたい申し出だから、遠慮なく従わせてもらうわね」
「何だか急に上機嫌になったじゃないか、嬢ちゃん」
「……今の一言を聞くまではね」
忘れた頃に言われ、一気に折角の上機嫌が沈んでしまった。ああもう……
翌日、あたしは早速宿から一人で外に出ていた。あんな奴と何でこんな同じ部屋の中で二人っきりにならなきゃいけないのか。あたしとしてはあんなむさ苦しい親父とちょっとでも別々になれるんだから嬉しい限り。正直なところ、故郷を出てから一番自由を感じたのは今かもしれない。
――それにしても、こんなに空気が澄んで瑞々しいだなんてね。
砂漠育ちだから当然ではあるのだけれど、ずっと乾いた砂埃だらけの空気を吸って生活してきた私にとって、こんなに綺麗な息を吸えるのは初めてだった。心なしか、肺がいつもより大きくなったような気がする。
そんな風に思いながら石畳の通りを歩いていると、向こうから緑の短い髪をした、不思議な服を着た女の人が歩いてくるのが見えた。
「こんにちは。見たところ、砂漠の人だね?」
「ええ、その通りよ。どうして分かったのよ?」
「あたしら国境の人間をなめないでおくれよ。毎日南から茶色い肌をした人が来れば、それが砂漠の人間だ、ってくらい簡単に分かるじゃないか」
女の人は、さも当然そうに言った。
「そういえばそうだったわね。考えてみれば当たり前だわ」
「おやまあ、当たり前じゃなかったらどうするんだい? あたしらの方が薄い色なのに、どうして理に適わないのさ?」
女の人の話し方はテンポがよく、何だか元気のいい、好印象な人に思える。
「あたし、実はミ・クオンから出てきたのは初めてなの」
「へえ、そりゃ大変だね。その服の傷み具合からして、歩いてきたんだろ? このご時世に歩いてくるなんて、悪党団は平気だったのかい?」
「そんなの、あたしに掛かればちょちょいのちょいでケチョンケチョンよ」
あたしは、火焔術の仕草を交え、笑いながら答えた。
「そりゃまた豪儀だね。こんな可愛い嬢ちゃんが格闘の心得を持ってるだなんて、あたしゃ仰天だね」
そう返す女の人。不思議なのは、親父と同じ『嬢ちゃん』という呼び方であたしを呼んでいるはずなのに、ちっとも嫌な気がしないのだ。言葉も人によって感じが違うのかもしれない。
「あたしなんか、旅に出るなら車にでも乗らないと体が持たないだろうね。たまにはこの町を出て都会の方に足を延ばしたりする事もあるけど、でも流石に砂漠や荒野を突っ切る度胸はちっともないよ」
「普通はそんなものなんじゃないの?」
「じゃあ、嬢ちゃんは普通じゃないのかい?」
「……まあ、否定はしないわ」
そう答えると、女の人はちょっと驚いた顔をして、それからすぐに表情を戻してあたしに尋ねた。
「……ねえ、嬢ちゃんは本当に一人で来たのかい?」
「まさか。いくらあたしが砂漠の民だからって、一人であんなだだっ広い砂漠を越えられる訳がないわよ」
「そりゃそうだ。これでもし『はい、一人です』だなんて答えられた日には、あたしゃ腰を抜かすね」
さすがにそれはないんじゃ、と思ったけれど、口に出すのはやめておいた。
「それで、お連れさんは?」
「知り合いの親父よ。こんな暑い中でコートを着たまま歩いてるような変人だけどね」
そこでまた女の人は驚いた。一体何だっていうのか、あたしには理解が追い付いていなかった。
「いや、驚いたね。まさかあの……」
「え?」
あたしが聞き返すと、女の人は慌てて驚きの表情を顔の下にしまい込んだ。
「ああ、いや、何でもないよ。でも、ひょっとして……その親父って、眼の青い、角刈りの医者じゃないだろうね?」
「……え?」
――ちょ、ちょっと待って、何でこの人が親父の外見と職業をぴったり当ててるのよ?
今度はあたしが驚く番だった。女の人の方も、あたしの驚きは見逃さなかった。
「へえ、やっぱりあの人がね。それにしても、よくツゲフマ先生についていこうと思ったもんだね」
「……別についていこうと思った訳じゃないわよ。ただ単に、あたしと親父の目的と行き先が重なってただけ。それより、どうして親父の事を知ってるのよ。あんた、一体何者?」
問うと、女の人は頷きながら答えた。
「やっぱりツゲフマ先生の連れだったんだね。いいわ、嬢ちゃんが名乗ってくれたらあたしも自分の事を教えるわよ」
「……分かったわ。あたしはハージュ・ミ・クオン、砂漠の町に住む火焔使いよ。あたしの事は教えたんだから、さっさとそっちの事も教えて」
「はいはい、慌てなさんなって。あたしはコルス、ここで薬を作って生活してる薬師のコルス・ミ・ミン。一応ツゲフマ先生とは前々からの知り合いだよ」
「へえ、親父の知り合いって、あんたの事だったの」
そう言うと、コルスの表情がまた変わった。
「ん? 道中あたしの話でも聞いていたのかい?」
「そんな訳じゃないけど、親父が知り合いに心当たりを当たってみる、だとか何とか言ってたから」
それを聞いたコルスは、納得したように頷いた。
「なるほど、それで事情が呑み込めたよ。まあ、こんな道の真ん中で立ち話もなんだから、あたしの家にでも上がりなさいな。ここからちょっと行ったところだから、もし何か聞きたかったりするなら、ついてくるといいよ」
あたしは、そんなコルスの提案に乗った。
「ええ、どうせ暇だったから、折角だしお邪魔させてもらうわね」
着いてみると、そこは質素な部屋だった。土で塗り固められた白い壁に、木と紙を使った間仕切り、それに草で編まれた床。どれを見ても新鮮で、思わずきょろきょろ見回してしまう。
特に驚いたのが床だった。なにしろ、玄関と部屋の間に段差があって、コルスは靴を脱いで上がったのだから。
「何ぼさっと突っ立ってんだい。ハージュもさっさと靴を脱いでお上がりよ」
「……え、ええ、分かったわ」
コルスに促されて、私は我に返って部屋に上がった。当然、足に履いた靴は脱いで。
「ああ、うちは椅子がないから、そこの座布団に座って」
言われた場所を見ると、やけに足の短い机にクッションが並んでいた。これがコルスの言う座布団なのだろう。あたしも地元ではよくござの上に座っていたから、その要領でべた座りした。
「さて、取りあえずこんなもんしかないけど、ほら」
台所からだろうか、戻ってきたコルスが机の上に出したのは、緑色の水だった。
「……これは?」
「あたしらの所のお茶だよ。こっちじゃ、他の国と違って生のお茶っ葉を干したので淹れてるからね」
「なるほどね。あたしたちの所だと、お茶は赤茶色のばっかりだったわ」
「それがほとんどだよ。こういう緑色のを好んで飲んでるのは、大体うちの国か隣のミ・ロクーネの人間くらいだからね」
「随分詳しいのね……」
「お茶も昔は薬だったからね。あたしの専門範囲だよ」
コルスは笑いながら答え、焼き物の杯で緑色のお茶を飲んでいた。あたしも真似して飲んでみたけれど、青臭さと渋みが口の中に広がって、正直なところ好きな味じゃない。
「……確かにこの味は薬だわ」
「百薬は効き目良くても味悪い、なんて言うけど、普段飲むあたしらにとっては落ち着く味よ。寧ろ山羊乳を飲んでるあんたらの方があたし個人としては理解できないけどね」
「へ、へえ……」
そう言われては、返す言葉もない。あたしも黙って頷くしかなかった。
「まあ、そんな事はどうでもいいね」
コルスは茶の杯を置いて、あたしの方を向き直った。
「さて、と。ハージュも何か言いたい事があるかもしれないけど、先にあたしに質問させてくれないかい?」
「ええ。そんな事、拒否する理由なんかないわ」
「そうかい、ありがとう。じゃあ聞かせてもらうけど、どうしてハージュみたいな若いのがあのツゲフマ先生と一緒に旅をしてるんだい?」
「……若い? あたしが?」
「あたしが見る限り、まだ16歳くらいだろ?」
「……まあそんなとこね。一応17にはなってるんだけどね。でもコルスもあたしと変わらないくらいじゃないの?」
そうなのだ。コルスは口調こそ年長者らしいものだったけれど、実のところ、その顔はあたしと同じか、もう少し年上かくらいにしか見えなかったのだから。薬師だったらもしかしたら若返りや不老不死の秘薬なんかを使っているかもしれない、と思えるかもしれないけれど、そんなファンタジーのような事はなかなかある事でもない。
「あたしがそんなに若く見えるのかい?」
「どう見たって、コルスが親父と同年代には見えないでしょ」
「まあ、先生と比べればね」
「で、本当のところは?」
「女性に歳を聞くのは失礼なんじゃないのかい?」
「コルスはあたしの事を男と思ってたの?」
「最近の人間は見た目だけで性別が分からないからね。時々雄々しい娘が来たと思えば、淑やかな男子が往くのを見たりしてりゃ、見て分かるとは思えないけどね」
「だったらコルスが女だ、って証拠もないんだから失礼かどうかも分からないじゃないのよ」
「……なるほど、随分機転が利くじゃないか。いや参ったね」
「それにしても、かなり話が脱線してるけど、コルスは何歳なのよ?」
冗談と冗句の応酬に少し飽きを感じつつ、あたしはコルスに聞き直した。
「そうだね、これでもまだ年も生きちゃいない、とだけは言っとくよ」
――って事は、19くらいが妥当かしらね。
「それに、脱線っていったらハージュも本筋から脱線してるじゃないか」
「……そうだっけ?」
「あたしの質問にまだ答えてないじゃないか。ほら、ツゲフマ先生と旅をしている理由だよ」
「……すっかり忘れてたわ」
「……忘れてたとは」
コルスの呆れ顔を見て、一瞬あたしの思考回路の根本を呪いたくなった。この思考を作っている奴を列火で叩き殴ってやりたいくらいに。
「理由ったって、そんな大仰な理由がある訳じゃないわ。ただ単に二人そろってティオ・ハーグリップに貸しがあった、ってだけ。要するに、たまたま行く方向が同じだっただけよ。あたしの行きたい方向にあの親父が行こうとしていたから、それに乗じて同行しているの。それ以上の理由なんてないわ」
「という事は、ハージュもあのならず者どもに度を越えて不快な目に遭わされた、って訳?」
「早い話が、そんなもんね」
「そりゃまた結構な話だこと。でもまあ、嬢ちゃんみたいな子が、あのむさ苦しい親父と一緒に旅をするんだ、そりゃ親子じゃなきゃそういったのっぴきならない理由だろう、って考えるのが当然か」
とコルス。あたしだって、出来れば関わりたいとは思わない。そりゃ、初対面の時はあの親父に助けられたけど、だからといってあたしがあの親父を尊敬しているとか、そんな感情は持ち合わせていない。
「でも、気を付けた方がいいよ。あたしも噂に聞く程度だから大したことは分からないんだけどさ、ティオ・ハーグリップの連中はそこらのギャングみたいに同じ格好をしていたりはっきりしたスローガン掲げて団結してる訳じゃないよ」
「……どういう事よ?」
「あいつらは自分達のやりたい事が同じ方向を向いているから同じ名前を名乗っているだけで、本当は個々別々の悪党が寄せ集まってるだけ。そうだね、言うならハージュと先生の関係みたいなもんだね。あくまで一致しているのは行きたい方向だけで、目的も手段もてんでバラバラなんだよ」
――ティオ・ハーグリップが、あたし達と一緒?
あたしはコルスの言葉に一瞬驚いてしまった。只の比喩だ、ってことは考えればすぐわかる。けれどもあまりに予想を外れた発言だったから、そこに至るまでがちょっと遠かったのだ。
「ま、連中に気をつけろ、なんて言っても、どうせどう気を付けるべきかなんてのはあたしの口からぱっぱと言えるもんでもないんだけどね」
「そりゃ、気を付けるったって、何に気を付ければいいのか分かったもんじゃないでしょ?」
「ハージュは勘がいいね。その通りさ。気を付けるべきが誰なんだか分からないんじゃ、気の抜き様だってありゃしないって」
言いながら手をひらひら振っているコルス。
「なら、コルスの言葉も信用できないって訳ね。だって、コルスがティオ・ハーグリップの人間なら、ここで嘘を吐いてあたしを騙したっておかしくないじゃない」
あたしがそう言うと、コルスは呆れたような顔をして答えた。
「そりゃそうさ。でも、その理屈だと、どこをどう転んでも嬢ちゃんは間違った道に転ぶんじゃないかい?」
「……へ?」
「冷静に考えてみな。あたしがもし嘘を吐いていたならば、『気を付けるべきが誰なんだか分かったもんじゃない』って言葉も嘘かもしれない。逆にあたしが本当のことを言っても、嬢ちゃんは信じられない。だったら、結局は間違った道に進む以外に手段なんてあるもんかい」
「ま、まあそうかもしれないけど……って、それじゃあ何を信じろっていうのよ?」
危うくあたしはコルスの詭弁だか何だかに丸め込まれるところだった。
「信じるべきが何か、なんて、そんな事人に聞いてどうするのさ。信じるのは他じゃない、自分自身なんだからさ、だったら自分でこれが信じられてあれが信じられない、ってのを見極めなきゃ駄目じゃないかい?」
「そもそもその基準がどこにあるんだか分からない、って話じゃないの?」
いい加減あたしもうんざりしてきた。最早答えなんかどこにあるのか見えない。そんな時にコルスが発した言葉は、その気分を少しだけすっ飛ばしてくれた。
「信じられるのは自分の感覚さね。たまに嘘を吐く事だってなくはないけど、他人の言葉よりはよっぽど正確な事は少なくないよ。もし迷うんだったら、それこそ自分の勘に頼るのも一つの手さ」
「要するに、『自分を信じろ』って言いたい訳ね?」
「そういう事。物分かりのいい嬢ちゃんで嬉しいよ」
あたしの出した答えに、コルスはにっこり笑って頷いてくれた。
「さて、嬢ちゃんの話が確かなら、そろそろ先生がここに来る頃だね」
「そういえば、親父は『知り合いを当たる』って言ってたわね……」
「だったら、間違いなくあたしの所に来るはずさ。何てったって、先生はうちの爺様がミ・ニケーラの大学で教えていた生徒なんだから」
「え、そうなの?」
あたしは驚いた。それだけ昔からこの家は親父と関わりがあったのか、と。勿論、親父が大学生だった事に驚いた訳ではない。
「うちの爺様は名医でね、ニケーラ大学の医学部長をしていた事もあったくらいだよ。孫のあたしも製薬法から何から小さい頃から仕込まれてね、お陰でこの歳でベテランになっちまったんだよ」
言い切ってから小さく笑うコルス。
「コルスは幸せなのね。あたしなんか本当の両親からまだ何も教わりきらないうちに死別よ。精々火焔術の基礎をちょっと教わっただけ」
「ちょっと? そのちょっとがティオ・ハーグリップを撃退する術の根幹になっているんじゃなかったのかい?」
「それでもまだ親父に依存するしかないのよ」
言っていて悔しかった。もう少しあたしに実力があればより早く奴等を制圧できたかもしれないのに。
「なら依存してやればいいんだよ」
「……どういう事よ?」
「『いる者は使われるべくそこにいる』ってね、このあたりの諺さ。そこに人がいるんだったら、その人の力を借りるまで、って事さ。どうせ一人の人間が出来る事なんてたかが知れてるんだ。だったら他人の力を借りるだけ借りて何が悪い」
あたしは唖然とした。だって、あたしの故郷では逆に『一人で何もできない人間は死を待つだけが能』って教わっていたのだから。
「ま、場所が違えば考え方も違うのさ。どれが正しいか、なんて、そんなの絶対の答えなんかないんだからさ」
「そういう事にさせてもらうわ」
「あいよ、好きなようにそうして欲しいさね」
――なるほど、人を使うのも力のうち、って訳ね。その場の道具を使うのと同じじゃない。何だ、それだけの事を言っているだけなのね。
あたしはコルスの言葉を曲解してやった。必ずの正解がない、というのだったら、これもまたあたしにとっての正解。それがあたしの直観が正しいと告げる事なのだから。
「そうそう、先生が来る前に言っとかないと」
「何?」
「先にハージュに言っとくけど、あたしは連中を潰すんなら喜んで力を貸すよ。そりゃテロで怪我人が出るんだから商売にはいいけど、そもそも薬屋が怪我や病気を望むなんて、誇りも塵芥もあったもんじゃ、ね?」
そう言って、コルスは玄関の扉を開けた。
「さて、あたしはこれからちょっと外に用足しに行ってくるよ。多分すぐには戻れないと思うから。先生によろしく言ってくれないかい?」
「ちょ、ちょっとコルス、これから親父が来るのに外出する気?」
慌てるあたしの声に、コルスは冷静にこう言った。
「だから嬢ちゃんに言ったんじゃないか。それこそ先生への答えなんだからさ。じゃあね、どうせ入る泥棒なんていないから鍵は締めなくても構わないよ」
コルスは薬鞄を抱えて通りに出てしまった。呆然とそこに座り呆けるあたしを一人置いて。
――……何だったんだろう、あの人は?
人影が消えて土埃だけになった通りは、何も答えてくれなかった。
薬師のコルスは、若草色のショートボブの髪に黄褐色の瞳を持つ女性で、普段は越南のアオザイに似た桜色の服を着ています。
若くして薬学先進国ミ・ミンに伝わる生薬調合において天才的な能力を見せています。気は強く、まるで下町の女性の雰囲気です。
名前はミ・デア語で桜を意味する単語からそのまま引用しました。ミ・デア語語彙をこのまま命名したのは、コルスの例が最初となります。