1-3 素手で熊を倒す少女
「わあああああああ!」
熊から逃げながら、フィリクスは少し後悔していた。
――こんな森、入るんじゃなかった。
街の先々で手配書を見かけるようになったのは、魔法管理局から逃走して三日たった頃だった。
『フィリクス=ラウレント。十八歳。身長178センチ。
髪と瞳の色は深紅。
罪名:誑惑罪
見かけた者は魔法管理局まで通報すべし』
こんなものが出回るのだ。やはり金髪女は公爵家の出だったらしい。
過去に貴族から受けた拷問を思い出し、身が震える。
鞭打ち。水責め。あの爪をはがされていく恐怖も、まだ覚えている。
ろくにご飯も食べずに逃走していたフィリクスを、ティルフォレの森にはあたたかく迎えてくれた。
すぐに見つかった、桃の果実。きれいな湖。
ただ、獣や魔物の気配がえげつないのが気になった。
とりあえず目の前の桃を急いで捥ごうとした、その矢先――そこに、熊が現れたのだった。
「うわああああああ!」
逃げながら、どうして俺はこう運が悪いんだろうと泣きそうになる。
攻撃魔法を使えば、こんな熊ごとき一発だ。普段なら跡形残さず灰にしている。
しかし、こんな静かな森で攻撃魔法なんて使えば、付近の街までも爆発音が届くだろう。
追手がいる可能性を考えると、あまり目立つ魔法は使いたくなかった。
とはいえ、このままじゃ熊に食べられてしまう。
攻撃魔法以外もちゃんと勉強しとくんだったなー、と後悔していた、その時――
「っ!」
木の枝に足をひっかけ、体の重心が傾いだ。
――やばい。
振り返る間もなく、熊の咆哮が背後で聞こえる。
獣の荒い息遣い。
落ち葉を蹴る重たい足音。
躊躇している暇はもうなかった。
――使うしかないか。
意を決し、熊へ手のひらを向けた、その時だった。
「――どいて」
透き通るような可愛らしい少女の声が、後ろから聞こえた。
「え?」
ふいに、目の前に長い黒髪が揺れる。
現れたのは自分より小さな背中の少女だった。
武器は――持っていない。
魔法を使うのか?
いや、その足元に魔法陣はない。
混乱している間に熊の咆哮が轟き、巨大な前足が少女へ振り降ろされる。
「危……っ!」
制止は間に合わない。
そして――次に目にしたのは、熊の腕をばしぃっと受け止める少女の姿だった。
「え……」
受け止めた?
素手で?
驚いている間に、少女は熊の腕をねじり上げ、そのまま腹を蹴り上げる。
茶色い巨体は宙に浮き、どっ、と鈍い音を立てて木にぶつかった。
よろめきながら体勢を整える熊に、少女が冷たく言い放つ。
「――行け」
熊は低く唸ったが、数歩後ずさりすると身をひるがえし、森の奥へ逃げていった。
「………」
え。
魔法でもない、武器でもない、素手。
素手で、熊を撃退?
ありえないでしょ。
額に汗して考えている内に、ふう、と少女がため息をつく。
「うん、今日もよく効いてる」と、何やらよく分からないこと呟いて、ぱんぱんっと手を払った。
そして、くるり、とフィリクスへと体を向ける。
夜空のように深い藍色の瞳と目が合った。
赤い髪、と呟いたのが聞こえて、ぎくりとする。
手配書に髪の色のことは書いてあった。
――ばれたか?
しかし、彼女の反応はそれ以上ない。
「あの、助けれくれて……ありがとう」
言ってみると、彼女は首を振った。
「いえ。
でも、熊も倒せないなら、この森に入ったら危ないですよ」
呆れ交じりに言われて、いやいやいや、素手で戦うとかもないでしょ、と心の中で呟く。
しかし、少女にそれ以上の反応はない。手配書は見ていないのかもしれない。
「そうだよねー」
と、愛想笑い――フィリクスの意識が遠のいたのは、その時だった。
……あれ?
ぐぅらり、と歪む視界。
足がふらつく。
次の瞬間、柔らかい土の上にフィリクスは倒れていた。
「ちょ……っ」
少女の慌てた声。
彼女が近づいてくる気配に、思わず身をよじる。
通報される可能性はなさそうだが、フィリクスにはもう一つ懸念があった。
《香り》だ。
魔法管理局には魔力量の多い者しかいないが、外は違う。
彼女がフィリクスの《香り》に魅了されてしまう可能性は多いにあった。
逃げなければ、と思うが力が入らない。
魔法管理局から逃げ出して三日間、まともに食べていないから限界がきたのだろうか。
フィリクスの横に、とうとう少女が膝まづく。
凛とした、しかし幼さが残ったその顔は、フィリクスより少し年下に見えた。
「だ、大丈夫ですか?」
大丈夫、と彼女から遠ざかろうとしても、体は動かない。
手を伸ばせば触れられる少女との距離に、焦燥感が増した。
この子まで魅了されたらどうしよう。
とりあえず少女の魔力量の強さを《香り》で測ろうと感覚を研ぎ澄ませ――思わず眉根が寄る。
《香り》が、しない……?
フィリクスは魔力の《香り》に敏感だ。
普通は感じ取れない微細な魔力の《香り》さえ、感覚を研ぎ澄ませれば感じとれる。
それなのに……
いや、今深く考えている時間はなかった。
《香り》がしないなら、彼女の魔力量は限りなく少ないはずだ。
ああもう、まずいまずい。
遠のいていく意識の中で、フィリクスはなんとか口を開く。
「何?」
少女が気遣って耳を近づける。
お願いします神様、どうか今回だけは。
そう心の中で懇願し、フィリクスは声を絞り出す。
「……お願い、俺を好きにならないで……」
「馬鹿なの?」
「ぎゃっ」
ばしっ、と強めの平手打ちが頬に飛ぶ
フィリクスの意識は、静かに沈んでいった。




